サッカーボーイ、という馬は記録より記憶に残る馬であった。
レコード記録などは一切なく、G1は阪神三歳SとマイルCSの二勝と少ない。ただその末脚による大差は記録より価値ある記憶に昇華した。そしてその記憶は更にある馬————テンポイント————の記憶を蘇らせる程である。
“芦毛の怪物”オグリキャップと同世代、同じ距離適性、同じ脚質。もし二頭が万全の状態で戦えていたら一体どんな名試合が見れたことだろうか。
しかしその現役時代は瞬いた後にはゴールしていた。その馬体は貴公子を連想させるが、レースの振る舞いは荒々しい。そんなギャップに人の心を燃やしファンを付けたのだろう、かくいう自分もファンであった。
とはいっても現役の時にファンではなかったし、そもそも生まれてすらおらず現役時代から20〜30年後に競馬に嵌ってから知った馬であるが、初めて見た瞬間に脳裏に数々のレースを刻まれてファンになった。
恐らくその馬なのだろう、特徴的な見た目ですぐに分かってしまった。是非とも跨りたいという欲が抑えきれなくて、厩務員に話しかけた。
「この馬良いですね。乗ってみてもいいですか?」
「え、あぁ。ボーイですか?うーん、ちょっと先生が来るまではどうも言えないです。触るぐらいなら構わないんですけど。」
「ほ、本当ですか!!それなら触りますね。」
やはり近くから見ると馬として素晴らしい体つきをしていると感嘆してしまい、口から変な言葉が出てきてしまいそうになる。
あまりにもバランスが良すぎる、その馬体に背中が見たことのない化け物を見たかのような汗が出てくる。
一歩、一歩と近づいたら、サッカーボーイも同じように近づいてきた。そして僕との間の距離が無くなると、サッカーボーイは鼻を僕の服に擦り付けて何かを確認するかのごとく匂いを嗅いでいる。
そんな何を見定めている状態で、僕は動くこともできずただ、ぼーっと立ったままでいた。どうやら匂いを嗅ぎ終わったと思ったら、今度は僕の顔をゆったりと見ていた。
またもやそんな状況に僕の体は動けなくなっていた。苦手なテストの残り時間のごとく、時間が引き延ばされていた。瞳と瞳が横一直線に並ぶように見つめ合い、互いのことを分かち合おうとしていた。
だがそんな時間も終わりを迎える。
厩舎の隣の小屋から大野先生がやってきて非礼を詫びられた。先生に非礼などは一切なくただ僕が早くきただけだと言っても申し訳ない、申し訳ないとしか発しなかった。
そうやって僕と喋っていると後ろにサッカーボーイがいるのに気付いたのか大慌てになられた。
「ゆ、豊くん。申し訳ないんだけど、その子ちょっと気性が激しいから離れといた方がいいかな〜。」
「ん、そうですか?人懐っこい子だと思うんですけど。」
そうやってサッカーボーイの顎を撫でてやると、どうやら喜んでいるようでもっとしろ、もっとしろと顔を近づけるばっかで暴れる様子を見せなかった。僕の行動に危険を感じて腕を払い除けようと思ったのだろうが、サッカーボーイの様子に驚いて先生の腕はだらんと下がった。
先生は何かを考えるようにして僕たちを考えていたら、駆け足で先程までいた小屋に戻り、また僕のところへ戻りメモ用紙だけ渡し帰っていってしまった。
来週の水曜日の夕方5時に京都駅に来てくれ。
悪い話ではないから来て欲しい。
服装はスーツなり、ドレスコードに
引っかからない服で来て欲しい
大野幸治
その後も厩舎巡りをして5月10日は1レースも勝つことはなかったがその前日の9日には3勝をあげてデビューしてから合計9勝を挙げた。
全然大きい数字ではないが、こないだエビちゃんに聞いたら3勝というのでよく取れている方だとは思う。レースが終わったら、翌日にはまたもや厩舎巡りをしていった。
月曜、火曜と休憩を挟まずトレセンで色んな人たちと関わっていた。
そうこうしていると約束の水曜日の日になった。
まず目が覚めると、二ヶ月間ずっと見たことがある屋上が視界に入る。僕は騎手になった日から栗東の独身寮に住んでいた。部屋は狭くは感じられるが窮屈とは思わないサイズであった。とりあえずキッチンで昨日炊いていたご飯の残りをよそい、水道の蛇口のすぐ下にケトルを置いてヒンジを回して水がある程度溜まったのを見ると水道を止めてその水入りケトルをコンロに置き水を沸騰させる間に冷蔵庫にある、これまた昨日の残りの卵焼きを冷蔵庫から取り出してご飯と卵を食卓に置いて、競馬雑誌と新聞をじっくりと見ているとケトルから空気を切るような音が聞こえ、すぐにガスを止めて味噌とお湯をかき混ぜて少々刻みネギを一振りして質素ではあるが美味しい朝ごはんの完成である。
一人きりのリビングには味噌汁をすする音や、箸が茶碗に当たって鳴る高い音が鳴り響く。ご飯をゆっくりなるべく沢山の回数噛んで昼ごはんを食べ終わると、正午になるまで自宅で出来るトレーニングをしていく。
自分の体を鍛えても強くなるということはあまりない、ただ力の衰えさを感じなくなるだけである。
そうこうしているとそろそろ予定の時間が来たのでシャワーを浴びて、スーツを着用。鍵を閉めて栗東トレーニングセンターを立ち去った。流石に電車にのって向かうのはアレだったので、事前に予約しておいたタクシーに乗り遠くはなるが京都駅まで行ってもらった。降りる際は釣りは貰わずに出て、京都駅周辺を回ることにした。
社会のマナーとして予定より少し早めの4時半に京都駅に着いた。そこで少しぶらぶら回ることにした。携帯などがあれば簡単に連絡ができるのになぁと前の世界への羨望をしていると、急に声をかけられた。
「竹豊様であっていますでしょうか?」
「あぁ、そうです。」
現れたのは、高級そうなスーツを着た自分よりは年上そうな人であった。
その人の丁寧な対応に感嘆し、言われるがままにこれまた高級そうな車に乗せられてどこか知らぬ目的地へと走り出した。
「そういやだけど、どこへ向かってるんですか?」
「京都市内の◯◯旅亭でございます。」
「そうなんですね、………お恥ずかしい限りなんですが私、調教師の大野先生に誘われてここに来て、実は詳細を知らないんですけど何をするんでしょうか。」
「ハハ、そうですねぇ。ちょっとした会食でしょうか。」
会食、と来たか。確かにそれだとそれ相応の服装をしておけという意味も分かるが、俺の為になるというのはどうゆうことなのだろうかと揺れが少ない静かな車の中考えに耽っていた。
暇なものだからポケットに入れたメモ帳を見ながら来週の騎乗のイメトレなどをしていた。
ふと窓に目をやると、少し自然豊かな雰囲気を感じる場所まで辿り着いていた様で、車内の窓からは大きな木造のお屋敷が見える。大きいせいか多分ではあるが門まで遠いのだろうか、いまだに降りる気配が感じないものである。
そうこうすると門がようやく見えたのでメモ帳を直して、運転手の人がドアを開けてくれたので降りるとそこには本当に大きな旅亭があった。自分が小さく感じそうになるほどで、心ここに在らずといった状況になってしまったがそのまま案内を受けながら移動していると、とある一つの部屋に着いた。どうやらここに入るのだろう。
腰を下ろし、静かに襖を開けると大野先生ともう一人誰か初老の人がいた。
「竹豊です、失礼します。」
「ささ、豊くん座りなさい……」
先生に言われた通りに座ろうかと思うと、奥の人が待ったをかけて席から立ちこちらに向かって片手を差し出し喋り出した。
「とりあえず竹豊くん、私の紹介をしよう。私は社大グループの吉野善哉だ、これからもよろしく頼むよ。」
「えっ?は、はい。よろしくお願いします。」
まさか、まさかの社大のオーナー吉野善哉ということにビックリしてしまった。
吉野善哉さんの何が凄いかというと、その相馬眼と決断力だ。かつてアメリカ三冠レースのうち2冠を勝ち取りBCクラシックを勝ったサンデーサイレンスは本来なら優雅な種牡馬生活を送るはずだった。しかし実際の種付頭数は一桁台であった。
その理由は父系、母系ともに当時活躍する血統ではなく同期のイージーゴアがその真逆で種付け依頼が殺到していた。そんな中、サンデーサイレンスをわざわざアメリカまでいって購入した。
当時日本ではサンデーサイレンスの種牡馬としての能力を疑問視している人が多かったが、実際はみんなが知っている通り種牡馬としては大大大成功したのだ。
そんな人に粗相をしてしまわない様にと気を付けながらもすぐにこちらも握手をし返し硬い握手をして頭を下げた途端スーツからあるものが落ちてしまった、見るとメモ帳であった。さっき、車から降りる時にきちんと胸ポケットに入らず変な形で入ったのか頭を下げた途端に落ちてしまった。
急いで取ろうと思ったがメモ帳は落ちた弾みに転んでしまい吉野さんの方にまで行ってしまった。
握手が終わった後、メモ帳を拾おうと思ったが吉野さんが先に拾い上げてしまった。
「良いメモ帳をしてるね………」
「あ、あの、すいません。わざわざ拾っていただいて。」
「いや………こんなに頑張ってるのは凄いことだよ。ねぇ、大野くん。」
「そ、そうですね。豊くんは新進気鋭のジョッキーですよ、目標はお父さんの竹邦彦を越えるんだよね。」
「ええ、そうです。僕、父を越えます。それが竹豊として生きていく為に必要なんです。」
そうしてメモ帳を返してもらい席に戻り、三人で料理を嗜みながら世間話をした。
料理が美味しいせいか、とても口が進み舌も回る。そして出てくる料理はカロリーが低めに作られていることが分かる内容だった。
そうこうしていると先生が少し息をためて喋り出した。
「サッカーボーイの鞍上に関してですが、竹豊くんを推薦します。」
「ぐほぉ、せっ、先生話ってっ!!」
まさかの話題に食べていた食べ物が喉に詰まってしまった。サッカーボーイの鞍上に自分を推薦したことにびっくりしてしまった。
先生が言っていた良いことというのは、吉野さんに合わしてもらうことじゃなくてサッカーボーイの鞍上に推薦するということだったのか。
「ええ、構いませんよ。ただし豊くん、サッカーボーイは将来有望な馬だ。G1のレースを走らせる為には31勝以上しなければいけないのだがいけるのかい?」
ただの問いかけであるのに答えづらくなる雰囲気のせいでハイ、と口から言うのが出来なかった。口を開け、息を吸い、腹の奥底から音を発するそれが出来なかった。
自分自身では決してはいと言えなかった。
「はい、それさえも出来なければ父は越えれません。」
「そうか、そうか、なら条件がある。豊くん君が今年の7月までに31勝しなさい。もし出来たのなら、サッカーボーイの主戦騎手にしよう。ただしこれが出来たからと言って終わりじゃない、サッカーボーイを三歳の内で一回でも負けさせたらすぐに降りてもらうよ。」
「はい、その挑戦受けて立ちます。」
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