──片目が見えなくなってから、どれくらい経ったかな。
光の無い暗室で、小鳥遊ホシノは薄い呼吸の隙間に、そんなことを思った。線の薄い小さな体には大小様々な傷があり、至る所から流血している。汚れた研究室の床には、彼女を中心に薄く血の染みが残っていた。
「……ゴホッ、ゴホッ……」
背中側に両腕を拘束されたまま、激しく咳き込む。喉の奥に鉄の味がして、くらりと目が回った。もう何日、何も食べてないのか、ホシノは記憶を漁ってみる。だが、思い返せどもここでの記憶は苦痛に満ちた拷問ばかりで、結局答えは分からずじまいだった。
──一体、どこで間違えたんだろう。
キヴォトス1の神秘。正真正銘の『天才』。暁に翼を広げていたはずのホルスは、今や暗闇で死を待っていた。どこで選択を誤ったのか、とホシノは自問自答する。
黒服の契約を飲んだことだろうか。
皆に黙ってアビドスから離れたことだろうか。
あの日、『嫌な予感』を押し留めて、先生の後を追わなかったこと?
もっと早くノノミのカードに頼るべきだった?
やっぱりシロコの言う通り、銀行を襲うべきだった?
違う、違う、違う。もっと……もっと前だ。私がちゃんと、アビドスの借金問題を解決しなかったから。私がもっと、皆のことを引っ張ってあげられていたら。私が──私がちゃんと、『先輩』と向き合っていたら。
「ッ……! ゴホッ、ゴホッ!」
胸の奥が痛い。呼吸が苦しい。もしかしたら変な病気に罹ったのかもしれない。
「……わ、たし」
そうだ、と気付く。簡単な事だった。全部だ。きっと私は、全部の選択を間違ってしまった。私は、そばに居てくれた誰かを信じられなかった。手を伸ばしてくれた誰かを置いていってしまった。
だからこんな簡単に大人に騙されて、全部を失ってしまったんだ。全部私の失敗で私の責任だ。
──ピシリ、と何か硬いものが軋む音が実験室に響く。それはホシノの頭上……彼女のヘイローから響く音だった。
同時に、ホシノの目から涙が溢れる。涙なんて、もう捨てたと思っていた。あの日に全て流してしまったと思っていた。枯れたはずの涙が溢れて、止まらない。
「……っ、は……ぅ……ぁ……!」
流れた血の跡を涙で上書きしながら、小さな身体を震えさせる。脳裏に浮かぶのは、自責と謝罪ばかりだった。ごめんなさい、ごめんなさい、と頭の中に浮かぶユメ先輩に、ノノミに、シロコに、セリカに、アヤネに謝る。
全部、私のせいだ。そんな思いが胸を刺して……その狭間に、一人の大人の顔が浮かんだ。
「……せん、せい」
私の嫌いな大人。頼りないダメな大人。きっと冷やかしと憐れみでこのアビドスに来たのだろう。結局は自分の身ばかりが大事で、生徒のことなどどうでもいいんだろう。
けれど……アビドスの現状を知っても、先生は逃げなかった。銃弾一発で死んでしまう弱い身体で私達の隣に立って、私達が悩むと少しだけ前に立ってくれた。手を伸ばせば届く距離で、まるで私達を導くみたいに。
──もしかしたら、とホシノは思う。
もしかしたら……先生だけは、信じてもいい大人だったのかな。私達を見捨てて、裏切って、顔を背けて逃げた……そんな大人じゃなかったのかな。
けれども……結局、先生もアビドスから居なくなってしまった。生死を彷徨う重体では、私達を助けることなんて不可能だ。
でも……それでも。もし、叶わない思いだとしても。それを口に出して良いのならば──
「──助けて……先生」
また、ヘイローが軋む。小さな叫びは暗闇に響いて──それに呼応するように、暗闇に薄く光が差した。同時に、ホシノは目を閉じて頭を下げる。それはこの二十日間で染み付いた、反射的な動きだった。
黒服は、ホシノの神秘を反転させる為に、あらゆることをした。持ちうる全ての火器でホシノを傷付け、水以外の全てを絶ち、そして精神を壊すために悪辣な策を実行することもあった。
あるときは極限まで再現されたノノミ達の声でホシノを責め立て、精巧なホログラムでアビドスの現状を見せつけ、そして時折、助けが来たと見せかけて絶望に叩き戻した。
もう、何も聞かない。何も見ない。何も信じない。涙で濡れた顔を血だらけの地面に向けて、ホシノは身体を固くする。
"……多分、ここで間違いないはずだけれど"
聞こえてきたのは、先生の声。そんなはずはない。あぁ、また黒服の趣味の悪い遊びだ。そうやって心を守りながらも、ホシノの膝は震えていた。もしもあの声で、先生の言葉で激しく責め立てられたら。断罪するように、酷い言葉を投げ掛けられたら。
私は……耐えられないかもしれない。
「確かに、座標は間違っていませんが……」
「……凄い血と火薬の匂い」
「っ……と、とにかく明かりを──」
耳を閉じて、目を閉じて。それでも差し込んだ光と声に……その懐かしさにホシノは少しだけ目を開けた。ぼやけた視界の向こうに、誰かが立っている。もうほとんど見えていない右目が、誰かの顔を見上げていた。
"──ホシノ"
「……ぁ」
目の焦点が合った。開いた扉の向こう側から、光が差し込んでいる。そしてそれらを背負った大人が……優しい笑顔を浮かべた先生が、床に片膝を着いてホシノの目を見つめていた。
─────────
呆けたように、ホシノは私の顔を見つめている。偽物か本物か……もしかしたら、幽霊か何かだと思っているのかもしれない。だが、私もホシノと同じで、言葉も出ずその顔を見続けていた。
ズタズタになった制服と身体。変色した爪や体の一部。そして、光を失った右目と、涙で濡れた顔。
私は……私は右手に自分の爪を食い込んで握りしめ、なんとか感情を押し留める。それを出すのは今じゃない。それを生徒達の……ホシノの前に出すわけにはいかない。
助け出したホシノを、ちゃんと笑顔で迎えてあげないと。暗闇で一人、苦しみに耐え続けた彼女に、もう大丈夫だと伝えてあげないと。
"……ホシノ"
「せん……せい?」
もう一度名前を呼ぶと、ホシノの瞳が揺れて、その表情が激しく移り変わった。安堵から恐怖へ、恐怖から喜びへ、喜びから疑いへ。次から次へとホシノは顔に感情を浮かべて……最後には、泣き始めてしまった。
「う……ぅ。先生、ごめ……ぁ、っ……!」
"大丈夫。大丈夫だよ、ホシノ。私とみんなが助けに来たから。もう誰にもホシノを苦しめさせたりしないから"
握りしめた右手から血が流れていくのを感じる。沸騰しそうな脳を無理矢理冷まして、私はポケットから一つの鍵を取り出した。このカイザーPMCの研究所内部に入るのにも使った、エンジニア部制作の『なんでも開けられるよ君2号』だ。
ウタハ曰く「物理的な鍵なら開けられないものは無い! ……理論上は!」ということで、最初は正直疑っていたけれども、どうやらそれは嘘じゃなかったみたいだ。
特殊なレーザーと強化合金で固められたホシノの手錠に鍵をかざすと、奇妙な音と共に鍵の先端がドロリと溶ける。銀色に輝く液体が鍵穴に近付くと、中で固まって持ち手が青く光った。慎重にそれを回すと、鈍い音と共に合金の手錠が半分に割れて、ホシノの体が自由になる。
呆然とホシノは自分の両手を見つめて──そこで、私の両隣をシロコとアヤネが通り抜けた。二人は地面に座り込んだままのホシノに向かって駆け寄って……左右から抱き着く。
「っ……!?」
「ホシノ先輩っ!」
「私達が助けに来たから、もう大丈夫」
ホシノは目を丸くして二人に抱きしめられる。一瞬、その目に涙が浮かんで……そっとホシノは顔を伏せた。そして傷だらけの両手でそっと二人を抱き締めて、「うへ〜」といつもの調子で言う。
「おじさん、人気者みたいだ〜。かわいい後輩二人に助けてもらえて、涙が出そうだよ」
「あっ、えっと……ホシノ先輩?」
「うん? おじさんの心配なら要らないよ。おじさん、こう見えてもかなり丈夫だから。アヤネちゃんもシロコちゃんも、そんなに心配しなくて大丈夫だよ」
顔を伏せたホシノの表情は見えない。垂れた前髪が目元を隠して、笑う口元だけが見えていた。至っていつも通りの声音でホシノは笑って、アヤネとシロコの頭を「ありがとね」と優しく撫でた。
その様子にアヤネは困惑し、シロコはじっとホシノの後ろ髪を見つめていた。
私はただ、短く「ホシノ」と名前を呼んだ。笑う口元が固くなって、二人を撫でる手が止まる。ホシノがどれだけ追い詰められていたのかは、私を見つめた時の瞳で痛いほどに分かっていた。だから私には、今のホシノの言葉と態度は全部、ただの虚勢だと分かっている。
ホシノは、本当は誰よりも追い詰められていて、誰よりも傷ついていて……それでもそんな顔ひとつ見せず、いつも通り皆の前に立ってしまう。誰よりも才能を秘めていて、だからこそ誰も信じられず、いつも一人になってしまっていた。
今の姿を見ればそれははっきりと分かるのに──一度目の私は、それを理解してあげられなかった。
アビドス生徒会の最後の一人として、誰もが投げ出した責任を最後まで背負い続ける彼女を『強い生徒』だと思った。その孤独な在り方を『孤高』だと過信した。ホシノならば『安心』だと、その姿を見守った。
一度でも、皆の前に立つ彼女の表情を正面から見ていれば……そうはならなかっただろう。
だから私は、もう一度「ホシノ」と名前を呼ぶ。ホシノは笑みを浮かべたまま、顔を上げない。
「……先生、助けに来てくれてありがとう。おじさんには何がなんだが分からないけど、多分先生が頑張ってくれたってことは分かるよ。本当に──」
"──私は、ホシノにとって理想の大人じゃなかったのかもしれない"
「やだなぁ急に、どうしたのさ先生。そんなにかしこまって……」
"私は、皆に思われているほど大した存在じゃないんだ。よく計算違いをするし、ミスもするし……大切な領収証はポケットの底に残ってたりするよ。私は天才でも、完璧な大人でもないんだ"
でもね、と私は続けた。例え私がどれだけ失敗したとしても、敗北し、あらゆるものを失ったとしても──
"私は、生徒たちのための先生だから。私はアビドスのみんなを見捨てたりしないし、最後までホシノの力になりたい。悪い大人がホシノを傷つけようとするなら全力で守りたいし、もしもホシノが傷ついたら、側にいて寄り添いたい"
「……」
"ホシノは私みたいな大人を信じられないかもしれないけれど……私という『先生』だけは、信じてほしいな"
大人に騙され続けたホシノが、私という大人を信用出来ないのは当たり前だ。だけれど、私という先生がずっとホシノのことを大切に思っていることだけは信じてほしかった。
ホシノは一人きりで頑張らなきゃいけない訳じゃなくて、側に助けを求められる人が居ることを知ってほしかった。
私の言葉に、ホシノは何も答えない。ただ、見せかけだけの笑顔は消えていた。俯いた口元に、小さく涙が溢れる。
「……先生」
"うん"
「先生は、なんでそこまでしてくれるの? 先生にとってアビドスはそんなに価値があるものなのかな? ……まさか、本当に私達が生徒だからって理由?」
"そうだけど、変かな?"
「変だよ。本当に……」
"……強いて言うならば、私はアビドスのみんなが大好きで、大切だから、かな。この理由じゃ、駄目?"
「っ……!?」
少し恥ずかしいけれど、はっきりと口に出して理由を告げた。自然と照れ笑いのような表情になって、それを見たホシノがどうしてか口を開けて固まった。傷の目立つ喉元から、掠れた声が漏れる。
「……先生、は……私の『信じられる大人』になってくれるのかな。最初で最後の──裏切らない大人になってくれる?」
前髪に隠された瞳が、静かに私を見ているのを感じた。それは暗く、そして仄かに光っているように見える。どこまでも深い神秘を湛えたその瞳を真っ直ぐ見返して、私は堂々と言った。
"私がホシノを裏切ったり、傷つけたりすることは絶対にないよ。ホシノが私を信じられなくても、信じてくれても、それは絶対に変わらないから"
「……そっか」
小さくホシノの声が響いて、その体が揺れる。目元からはポロポロと涙が溢れていて、先程まで堪えていたものが決壊していくのが良く分かった。ホシノの両手はアヤネとシロコの頭の上から、そっと肩にずり落ちる。そのままホシノは二人を抱き締めて、小さく震えた声で「アヤネちゃん、シロコちゃん」と呟いた。
「格好ばっかりつけて……不甲斐ないおじさんでごめんね」
「ホシノ先輩……私は別に、先輩を不甲斐ないなんて──」
「それだけじゃないよ。謝りたいことが、沢山、沢山あるんだ。あれだけ偉そうに色々言って、私は皆のことを全然信じてなかったんだよ」
「……」
「誰のことも信じてなくて、自分が嫌だって一番分かってたのに、皆を裏切って……だから、謝らないといけないこと、が、いっぱい……あって……」
そうして、ホシノは泣きながら沢山の弱音を吐いた。多くの謝罪を繰り返した。これまで誰にも、自分自身にも理解させなかったホシノの弱い部分が剥き出しになって、アヤネとシロコは静かにそれを聞いている。
どれだけの不安を、焦りをひた隠しにしてきたのか。アビドスの現状をいつも一番憂いていたのはホシノで、一番大きな責任を負っていたのもホシノだった。
その小さな体に背負い込んできた全部が濁流のように溢れ出て……そっと止まった。抱きしめた二人の間で、ホシノは静かに目を閉じていた。
「……ホシノ先輩、泣き疲れちゃったみたいです」
「ホシノ先輩が、ここまで追い詰められていることを、私は全然理解出来てなかった。……あんなに一緒に居たのに、何も見えてなかったんだね」
「はい……。私の目からも、ホシノ先輩は飄々としていて、いつもリラックスしているようで……だから、なんとなく私も楽観的になって、アビドスの借金も砂漠化も、きっとなんとかなるだろうって思っていました」
これまでの実験の負荷もあったのか、ホシノは目を閉じて眠りに落ちている。よく見ればホシノの目元には隈があり、これまでまともな睡眠さえ取れていないようだった。小さな寝息がシロコの髪を揺らして、シロコはそっと自分のマフラーに触れた。そして、その指先がホシノの目元に向かって、涙を拭う。
「私はいつも、ホシノ先輩に貰ってばかりだね。私は一体、先輩に何を返せるんだろう……?」
シロコの白魚のような指先がホシノの目元を拭って、大粒の涙が一滴──手をすり抜けていった。
――次回、『それでも手放さなかったもの』