長い長い砂漠を抜けて、ようやく市街地に入った私は、張り詰めた足の筋肉に苦い顔をしながら呟いた。
"と、遠いなぁ……"
多分、40キロくらいは歩いたはずなんだけど、市街地の中心はまだまだ遠い。「アビドスでは街中で人が遭難する」なんてまことしやかに囁かれているけど、それは誇張じゃない。……実際に私も、アヤネの手紙を貰ってアビドス高等学校に出張したものの、街中で迷子になって動けなくなったことがある。
"あの時は、シロコが私を助けてくれたんだっけ"
トレードマークのマウンテンバイクに乗ったシロコが、颯爽と現れて私を助けてくれた。そういえばその時もちょうど、こんな場所だったなぁ。
汗を拭い、コートの砂を払いながら歩いていると、道路の真ん中に誰かが寝そべっているのが見えた。アビドスは砂漠化が進行しているけど、夜はしっかりと冷え込む。
そんな中、道路に横たわっているのはとても危険だ。疲れた体に鞭を打って側に駆け寄ると、その姿には見覚えがあった。夜の寒さに耐えるためか、それともそれ以外の何かに耐えているのか、『彼女』は膝を抱えて丸くなり、呼吸の度に肩が上下しているのが見える。言葉を失う私に、『彼女』は……砂狼シロコは小さく丸まった姿勢を少しだけ崩しながら声を発した。
「……誰かは分からないけど、私には手を出さないほうがいい。私は、ただのホームレスじゃないから」
"……シロコ?"
そう名前を呼んだとき、ピクリ、とシロコの体が震えた。「ぇ」と掠れた吐息めいた声が響く。
「そんな、はず……幻覚……?何日も、何も食べていないから?」
"シロコ"
「先生がここに居るはずないのに……う、うぅ」
今度ははっきりと名前を呼んで、そっとその側に近づいた。見覚えのある制服は、汚れと傷でボロボロになっている。それは彼女がどれだけ頑張っていたのかの証明だ。何かから逃げるように頭の上の耳を両手で塞ぐシロコの側にしゃがみ込んで、銀色の髪に手を触れる。
そして、静かにシロコの頭を撫でた。
"シロコ……よく頑張ったね。大丈夫、ここから先の責任は、『大人』の私が負うから"
「っ……!」
シロコの手が耳から離れて、弾かれたようにその顔が私を見上げる。綺麗なオッドアイの瞳が私を見つめてきゅっと細まり──次の瞬間、強い衝撃と共に地面に押し倒された。
"うっ……!?シロコ──"
「先生っ!!」
仰向けの私の上に上乗りになったシロコが、手足をぎゅっと絡ませて私の体を抱きしめている。シロコの顔は私の胸元に押し付けられていて、荒い呼吸と一緒にグリグリと強く押し当てられていた。
ま、まずい……!抱き締められるのは大丈夫だけど、そのままだと私の全身が複雑骨折してしまう……!
"し、シロコ……!もうちょっと、力を弱めに──ぐぅぅ!?"
「先生っ、先生っ!先生っ!本物の、本当の先生の匂い……!う、ううぅ……ぁぁぁ!」
だ、駄目だ。なんとか抜け出せないか試してみたけど、肉食動物に捕まった草食動物みたいに、まるで歯が立たない。声を掛けたシロコはそのまま泣き出してしまった。そして、激しく泣きながら、色んなことを口にした。
私が居なくなってから、対策委員会がバラバラになってしまったこと。ホシノが消えて、セリカが消えて、ノノミが消えて、今はアヤネとシロコの二人で消えた三人を探しながら、なんとか借金の利息を返せないか頑張っていたこと。シロコがアヤネの静止を振り切って、ホシノが居ると思われるカイザーPMCの施設に一人で襲撃に向かって、返り討ちにあったこと。
とても多くの内容を泣きながら、シロコは語った。私のコートに涙が染みて、胸に温かい感触がある。
「私が、いけなかったの……!私がもっと、頑張らないから……私が、もっと皆の言う事を聞いて、ちゃんと生きて……それか、最初から皆に会わなければ──」
"──それは違うよ、シロコ"
自分でも驚くくらい、真剣な声が出た。シロコは私の声に震えて、胸元から顔を上げる。涙と鼻水でグズグズになった顔に向き合って、少しだけ前のことを思う。
激しい雨の降っていたあの日、シロコが私に銃を向けて、私が倒れてしまったあの日。
私は君に、何も伝えられなかった。君が流す涙を止めることもできず、ただ責任を取ることでしか君に向かい合えなかった。それが私の最期の失敗で、最大の後悔だったんだ。
"シロコは、何も悪くないよ。ずっと頑張って、一生懸命に生きていたのを、私は知っているからね"
"それでも、誰かが傷ついてしまうのなら、誰かが泣いて、シロコが後悔をするのなら──それはシロコの責任じゃなくて、この世界の責任なんだよ"
"子供と一緒に歩む、大人の私が背負うべき責任だから"
ずっと言えなかった言葉があった。一人で泣きながら歩いてきた君に、言えずに途絶えた言葉があった。いつの間にか力の抜けたシロコの腕から右手を離して、私を見上げるシロコの髪をそっと撫でた。
"だから、皆の責任は私が負うよ。どんな手段を使っても、どんな代償を払うことになっても──私が、みんなを守るから"
「……先、生……ん。私、知ってるから。先生は、私達を守ってくれる大人だって。だから……その言葉も、信じていい?」
"うん。私を信じて、シロコ"
「……ありがとう、先生」
涙ばかりの顔にようやく笑みが浮かんで、シロコはまた私の体に顔を埋めた。ようやく緩くなってきた手足にまた力が籠もって、肋骨から嫌な感触が伝わる。
"し、シロコ……?ちょっと、緩く……というか、離してくれない?地面にずっと寝てるのはちょっと──"
「だめ。離したらまた、先生が居なくなるかもしれない」
"大丈夫だよ。私はもう居なくならないから"
「……それはずっと?ずっと私の側から居なくならない?」
あ、あれ……?ようやくシロコに笑顔が戻ったと思ったんだけど……ちょっと笑顔の種類が違うような気がする。オッドアイのハイライトも薄いような気がするし、若干怖い。
流石にずっとは、と言い淀む私に、シロコは私を抱き締めたまま暗い瞳で微笑む。
「ん。じゃあ、離さない。先生は、こういう責任も取るべき」
"……えーっと"
シロコが離してくれない以上、私に出来ることはない。確かに、シロコに寂しい思いや辛い思いをさせたのは事実だ。責任を取るのは間違っていない……のかなぁ?
取り敢えず、空いた片手でシロコの頭を撫でる。出来ることがこれしかないので、シロコの髪やふさふさした獣耳を撫でて気まずい沈黙をやり過ごす。
「……ん。これは合意。先生から私に手を出した」
"なんの合意かは怖いから聞かないでおくね……あと、手を出したのはシロコにじゃなくてシロコの髪にだからね"
なんだか懐かしいこの感じに、クスリと笑いがこぼれてしまった。そのままシロコの髪に触れていると……不意に、シロコの体から力が抜けた。
"……シロコ?"
返事は無い。代わりに、すぅ、と小さな吐息が聞こえてきた。シロコの体から力が抜けて、耳もぺたりと垂れている。頭を起こして覗き込んだ顔は、涙の跡が残る寝顔だった。
……そうだよね。ずっとずっと、今まで頑張ってきたもんね。
"偉いよ、シロコ。よく頑張ったね"
もう一度、確かにその頭を撫でてから、体を起こす。眠るシロコが反射的にしがみついてくるので、それを利用して背中に背負った。
ぎゅう、と背中からしがみつくシロコを背負って、アスファルトの地面から立ち上がる。シロコの髪が肩口で揺れて、頬に擦れてくすぐったい。
……こうしていると、彼女と初めて出会ったときを思い出す。遭難して動けなくなった私を、シロコは背負ってアビドス高等学校に運んでいったんだったよね。
あのときはちょっと情けない姿を見せてしまったけれど、今度こそ先生らしく、君を助けてみせるよ。
シロコを背負って、記憶を頼りに高校へ向けて歩き出す。その最中に、背中のシロコがボソリと寝言を漏らした。
「……せんせ」
"……ん?"
「おかえりなさい……」
"……うん。ただいま"
寝言に言葉を返し、進む路地の先──暗い夜の空に白が滲んで、ゆっくりと夜が明けているのが見えた。