ようこそ享楽至上主義の教室へ IF等まとめ   作:wind flower

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Man is a clever animal who behaves like an imbecile.人間とは、愚か者のように振る舞う、賢い生き物である。


Albert Schweitzerアルベルト・シュバイツァー




Der Vogel kämpft sich aus dem Ei. 0鳥は卵から出ようと戦う。Das Ei ist die Welt. 0卵は世界である。Wer geboren werden will, muss eine Welt zerstören. 0生まれるものはみな世界を破壊しなければならない。Der Vogel fliegt zu Gott. 0鳥は神へ向かって飛ぶ。Der Gott heißt Abraxas.神の名をアブラクサスという。


Hermann Hesse







 




 
Werd ich zum













過去

 

【過去編1】

 

「今日から私が君のお世話係を拝命することになったわけだ。ま、よろしくね」

 

 男は朗々と語った。

 

「君の父親? さあ、知らないねえ」

 

 男は堂々と(かた)った。

 

 

「カモノハシは好きかな? 可愛いよね。でもあんな見た目して、オスのカモノハシの蹴爪(けづめ)には毒があるんだ。人間も同じことだよ。どんなに弱そうな見た目でも毒を持ってるかもしれない。だから、そうだね。全てを疑え。何も信じるな」

 

 その理屈でいくとお前の言葉も信じられないが、と話すと、男は微笑を(たた)えた。

 

「よく分かってるじゃあないか。菊理(くくり)は偉いなあ」

 

 男は理解を(たた)えた。

 

 

「君が人の輪に加わることは不可能だ。せめて契約を重んじるといいよ。裏切るなら最高最悪のタイミングで、それが最も効率がいい」

 

 男は──────

 

 

【過去編2】

 

「あー、やっとこさ帰れるよ」

 

 朝顔の鉢植えを持ち、背負ったランドセルを揺らしながら。少女は歩いていた。

 

 夏休みが近い今、1年生はこの朝顔を持ち帰る必要がある。優等生と評価されている彼女は、風邪で休む後輩の家に届けるよう教員から頼まれ、こうして頑張って持ち運んでいるのだ。

 

「今日の番組は絶対にリアタイで見なくちゃ……!」

 

 家路を急ぐその足取りは早い。見たい番組が始まる前に着くこと。それが今の彼女の使命であった。

 

 朝顔を下級生の家にお届け、その後すぐに自分の家に帰る。幸いと言うべきか当然と言うか、両者の家は近い。普通に帰宅すれば問題ない、はずだった。

 

 通学路を進んでしばらくすると、行く手が何やら騒がしい。聞こえてくるのは怒鳴り声やら罵詈雑言やら。この地域ではよく起きていることとはいえ、少女は呆れを隠せなかった。

 

 進行方向には学ランを着た男子の集団。中学生、いやもしかすると高校生なのかもしれない。小学生である少女にとっては中学生も高校生も大して変わりなく見えるものだ。

 

 回れ右をして別の道を行くか。少女は悩んだ末、このまま突き進むことを選択した。タイムロスは避けたかったのである。

 

 幸い、少女は頼もしい武器を所持していた。そう、防犯ブザーだ。音を周囲に撒き散らすこれを投げてから少し待てば、あの集団もどっかに消えるだろう。

 

 しかし実行には一つ問題があった。ランドセルにつけてある防犯ブザーを使うには、両手を塞いでいる朝顔が邪魔なのだ。一旦手放さなくてはならない。

 

 他人の朝顔に何かあってはまずいので、きちんと安全な場所に置こうと少女が考えていると────

 

「お嬢ちゃん、何してんだ?」

 

 テンプレ通りの不良がテンプレ通りの態度でテンプレっぽい言葉を吐きながら背後に出現した。あの集団と同じ制服を着ているところからするに、仲間と見える。

 

「……下校中です」

 

 真実そのものだったが、彼にとっては満足のいく答えではなかったらしい。騒がれてしまったことにより、集団のほうも少女の存在を知る。不良のサンドイッチ、彼らに挟まれる形になった。

 

 そして、少女はあることに気づいた。不良の集団が集まっている原因がようやくわかったのだ。

 

 ──男子。それも同い年くらいの。

 

 何が起きたのかはわからないが、多対一の喧嘩となっているようだった。

 

 不良に囲まれ痛い目に遭っている少年の姿に、少女はどこか見覚えがあった。同級生……もしかするとクラスメイトなのかもしれない。顔が見られればはっきりするであろうが、その暇は無さそうだ。

 

 少女にとって、少年がボコボコにされようとどうでもいい。優先すべきは時間内にテレビの前へ座ること。

 

 状況を踏まえ、少女は即座に決断した。

 

「あのう、道の邪魔なのでおどきになってはいただけませんか?」

 

 対話。穏便に済ませることが出来るならそれが一番である。

 

「あ? ふざけてんのか、このガキ」

 

 しかし悲しいことに上手く話が通じなかったらしい。少女はめげずに、今度は彼らにも理解できるようにと口を開いた。

 

「ぶつくさ言ってねーでさっさとどけよテメーら」

 

「おい、なめてんじゃねぇぞ!!」

 

 不良どもが激高する。対話というものはやはり難しいものだと少女は改めて実感した。

 

 せっかく彼らに合わせた言葉を選んだのに何故だろうと不思議に思う。

 

 ──ま、全員倒せば追ってくることもないか。

 

 少女の頭は悪くはないのだが、色々と残念な思考をしていた。

 

 そしてこれが大言壮語にならないだけの力を有しているのであった。

 

「よし、朝顔も無事、時間もまだ余裕あるね!」

 

 あっという間に、少女以外の人間は皆地面に倒れ伏すこととなった。その惨状を一瞥もせずに彼女は道を急いだ。

 

 

 

 

 

 それから時が経ち、少女がこの出来事をすっかり忘れていた頃。彼女のクラスではちょっとした異変が起きていた。

 

 普段登校しない男子生徒が、何故かきちんと授業に出るようになったのである。

 

 少女はこの少年が自分の周りを嗅ぎ回っていることに気がついていたものの、特に問題視はしていなかった。探られるのには慣れっこなのだ。

 

 ただ、真正面から接触されると話は別である。

 

「おい、テメエ」

 

 少年の言うことを端的にまとめるとこうだった。

 

 彼と不良たちが揉めていた際、通りすがりの少女が全員倒していったが、あれは余計な手出しだったと。幸い、あの不良たちは「小学生の少女に絡んだら逆に完膚なきまでに敗北した」という事実を広めるのは嫌だったらしくあの時のことは無かったことにしていた。

 

 よって少年は彼らに再び挑みリベンジを果たしたそうだ。

 

「へー、良かったね。おめでとう!」

 

「おちょくってんのか?」

 

 心からの祝福だったのに、少年は馬鹿にされていると感じてしまったらしい。人と人が分かり合うことの難しさを少女は考えさせられた。

 

「次はお前だ。勝負しろ」

 

「え、やだけど。私にメリット全く無いし」

 

 正論である。少女はきっぱりと断った。こういう時はノーをはっきり突きつけたほうが良いことを知っているのだ。少女は「NO」と言える日本人だった。

 

 しかしながら、少年は蛇のように執念深かった。それからと言うものの少女をしつこく追い回したのである。

 

 面倒くさい、それが彼女の本音だった。

 

 彼女は察していたのだ。この少年と勝負して勝ったところで、彼はまた何度も挑みに来ることを。

 

 かといってクラスメイトを手にかけるのは流石に気が引けた。

 

 勝負勝負とうるさい彼を黙らせるにはどうすればいいか。少女は頭を捻った。

 

 そして、少年にこう告げることにした。

 

「面倒くさいから殴って満足するなら好きなだけ殴っていいよ」

 

 ──龍園君もわかってくれるだろう。私は彼の敵に成り得ず、彼が私の敵になることもまた、無いことを。

 

 この結果は────────

 

 

 

 

 

【過去編3】

 

「さて、菊理(くくり)。殺人罪とは何故存在すると思う?」

 

「気に入らない人間を誰でも好きに殺せるようでは、社会が立ち行かなくなるからでしょ」

 

 男からの問いに、少女は億劫そうに答えた。

 

「そうだね。働き手などにバタバタ死んでしまわれ歯車が欠けると、文化的な生活というものは難しくなっていく」

 

「加えて、誰でも殺せるような環境とはつまり誰からでも殺されるリスクがあるということになる。他者に殺されたくないから、他者を殺さないようにする。殺し殺されることが当然の場では殺人罪は適用されない。戦場とか」

 

「あはは、そこらへんは国際法の問題になってくるねえ。まあ、道理は道理だ。人は社会で生きていけるように法律を作り、遵守している」

 

 殺し殺されることが当然の場。つまりデスゲームの類いにおける殺人は少女の理屈では罪にならないことを、男は察していても言及することは無かった。

 

 

 

 

 

 

【過去編4】

 

 

 

 帰り道。雨が降っていた。水滴が強く激しく傘にぶつかる。そんな、篠突く雨。

 

「あれ……?」

 

 不思議な状況だった。自分の住処の前に人がいる。男物であろうシンプルな傘が邪魔でその姿ははっきりとは分からない。背丈は低く、子ども、同年代くらいだと遠目には見えた。

 

 来客の予定なんてあったかしら、と少女は首を傾げる。思い当たることはないが、聞いた方が早いのは確かだ。

 

 水たまりを避けながら、歩く。ゆっくりと。

 

「ああ、君だったか」

 

 近づけば、不審者の正体は知り合いだとすぐに判明した。同じ小学校の男子生徒、龍園翔。

 

「き────」

「ククリって呼んでねってば。それで、どんな用? 何でうちに?」

 

 言葉を遮り矢継ぎ早に聞けば、少年は言い放った。

 

「入れろ」

 

「…………友達の家で遊ぶの、初めて?」

 

 拳が飛んできたので、よける。

 

 ──今はあまり良くないのだけど。

 

 仕方ないか、と片付けて少女は少年の放り出した傘を拾い、畳んだ。自分のさしていたものを渡し、告げる。

 

「外は冷える。濡れると余計に。お風呂くらいなら、貸すよ?」

 

 

 

 外観も中身も普通だった。非凡な少女の家が平凡とは、と当てが外れた気分になる少年の前に、茶が出される。あら探ししようにも出来ない、完璧なもてなしだった。

 

「んーんー、自分から招いといてあれだけど、パパが帰ってくる前に帰ることをオススメしたいかな」

 

「今更客を放り出すのか?」

 

「だって。ちょっと恥ずかしいじゃない? 父親に会わせるって。でも、何時帰宅か分かんないのが困るんだよね……」

 

 少年は、少女の強さの秘密を探りたかった。故に、まだ全く調べられていない状態で逃げ帰る気は毛頭なかった。

 

「本気で、会うのはやめた方がいいと思うんだけどな」

 

 その言葉の意味を、少年はすぐに知ることとなる。

 

 

 

「龍園翔──ああ、君が。なるほどねえ」

 

 リビングに足を踏み入れたのは、異様な男だった。特筆すべき容姿というわけではない。むしろその逆。どこまでも普通で、知り合いだったとしてもどこかですれ違ったところで気づけないような。知り合いではなかったとして、挨拶されれば「もしかしたら知人にこういう人がいたっけ?」ととりあえず返事してしまうような。

 

 黒髪黒目。その点は少女と同一でも、顔の造形は全く異なっていて、まるで血縁とは感じさせない男だ。

 

「京楽伏厨(ふしず)です。娘とは義理の親子でね。いやあ、それでも私たち父子のラブラブっぷりは世界一とそりゃあもう自負してるんだけれどね!」

 

「いらない情報が多いよ、パパ」

 

「ははっ。最近は悲しいことに『私の服はパパのと一緒に洗っちゃ嫌!』なんてことも言われちゃっててさ。ともかく、()()()()()()よろしくね」

 

 この台詞を受け取った少女はぎゅっと少年の腕を両手で抱いた。きちんと配慮したのか、一般的な人間程度の力で。

 

 未だ止まぬ雨の音が、微かに響いていた。

 

 少女が男を睨む。男は、少年を──おそらくこの瞬間に、初めて本当に視界に入れた。

 

 空気が変わる。

 

 呪われそうな瞳だと、少年は思った。ありとあらゆる感情が内包されているのに、その底はさっぱり見えてこない。

 

 自分にかかる重力が何倍にも膨れ上がったようにすら感じる。少しでも気を抜けば、すぐさま(くずお)れてしまいそうだった。

 

 ドクドクと、少女の鼓動が手のひらから伝わる。唯一それだけが、現実感を留めていた。

 

「パパ」

 

 少女は繰り返す。

 

「駄目だよ、パパ」

 

「…………はは」

 

 乾いた笑いが男の口から漏れた。

 

「友達だから。違うよ」

 

 途端。まるで、全てが幻だったかのように。ふっと圧力が消えた。

 

「そっかー。なら良かったよ、本当に」

 

 それからの男の対応は、極めて親切なものだった。

 

 

 

 

 

 

「やれやれ。うちのお姫様は、何をむくれているのかな」

 

 少年が去った後。二人きりのリビングにて、少女は木で鼻をくくったような態度で返した。

 

「わからない?」

 

「うん、分かりかねるねえ」

 

 悠然と泰然と平然と。男の調子は変わらない。

 

「あなたの。彼を害そうとする気持ちは、本物でした」

 

「それが?」

 

 粛々と、少女は会話を進める。

 

「私の意に沿わない事柄です」

 

「ほう、そうだったのか」

 

 男は(うそぶ)いた。

 

「私に。あなたを、不必要と思わせないでください」

 

 しん、と数瞬の間。部屋が静まり返る。

 

「なるほどなるほど。つまり、『パパのこと嫌いになっちゃうからね!プンプン』ということかな」

 

 少女は白けた目を向けた。男が笑顔を返す。

 

「……『パパのこと嫌いになっちゃうからね。プンプン』」

 

 実に面倒くさそうに少女は言った。

 

「もう少し気持ちを込めて、あと甘えるみたいな可愛い感じの声音がいいんだけどなあ。うーん、声色を変える練習もしようか」

 

「……『パパのこと嫌いになっちゃうからね。プンプン』」

 

「復唱された!?」

 

 

 

【過去編5】

 

 特別な人間と、三宅が自分自身を捉えたことはない。心配性な母親と寡黙な父親のいる平凡な家庭で育ち、なんとなく周りに合わせて不良になって、中2になってなんとなくやめた。喧嘩騒ぎでの補導も何回かあったが、いわゆる善行もそこそこ積んでると思ってる。世話になった先輩が弓道部だとか、たまたまテレビでやってたからとか、適当な理由で暇つぶしに弓道を始めた。今では高校でも続けようかと考えてる程度には好きだし、楽しんでやってる。バリバリの理系で得意教科は偏っているものの、全体の成績はそこまで悪くもない。そう、可もなく不可もなく生きてきた。

 

 特別な人間というのは、龍園翔だとか宝泉(ほうせん)和臣(かずおみ)だとか、ああいった奴らのことを言うのだろう。彼らと違って三宅は別に有名な不良というわけでもなかった。直接姿を見たこともない宝泉はともかく、龍園とは学校同士の抗争の際その近くに行ったこともあるが、彼はこちらの存在などまったく気にしていないはずだ。

 

 強さについては龍園以上であろう宝泉は、三宅の中学まで遠征してきて頭をタイマンで病院送りにしたらしい。まだ中1になったばかりの時に、三宅より喧嘩の強い中3の番長格を倒したのだ。それからも三宅の中学だけでなく周辺の中学を手当り次第ボコしているとのことだが、不思議と龍園と戦ったという話は入ってこない。ここは昔から不良が集まることで評判の、その手の大人が子どもを産み育てている地域だ。有名人2人の喧嘩があればすぐに噂が回ることを考えると、偶然出会ってないとかそのあたりな気がする。

 

「よ、三宅。元気そうだな。さてはバレンタインチョコでウハウハか〜?」

 

 そう考えつつ道を歩いていると、こちらには偶然の出会いが降ってきた。中3の元弓道部の男子生徒。三宅が世話になった先輩だ。

 

「久しぶりです、先輩」

 

 一礼してから、事実を述べる。

 

「あいにく今日の収穫は数個だけっすよ」

 

「もらえるだけいいだろ。しかしもっと嬉しそうにすればいいものを、相変わらずポーカーフェイスだな。落ち着きすぎだっての。悟りでも開いてんのか? 前は絡まれると即暴力で対抗するような熱い男だったのに……」

 

「基本的に自分から仕掛けることはなかったしこれからもないですって。あと女子への興味なんてのは人並みにありますけどね、そりゃ。義理に一喜一憂は出来ませんよ」

 

 どうだか、とニヤニヤ笑う先輩に三宅はカウンターを放つことにした。

 

「先輩こそどうだったんですか?」

 

「うっ……それは聞かないお約束、だろ?」

 

「そんな約束した覚えないっすけど」

 

「どちゃくそ冷たいぞこの後輩!?」

 

 ゆるっとした部活の先輩後輩関係はゆるっとしている。だからこそ三宅は弓道を続けてこれたという面もあるのだろう。はは、とどちらからともなく笑みが浮かんだ。

 

 公園の入り口に差し掛かったあたりで、先輩が思い出したように口を開く。

 

「質より量だろ、こういうのは。そういや昔……2年前になるのか。俺、ここでお前くらいの年の子からすげーチョコ貰っちゃったんだよなぁ」

 

「2年前って先輩が中1でその子は小学生っすよね?」

 

 1歳差だとしても、小学生と中学生の差というものは大きい。胡乱な目を向けた三宅に対し、先輩が慌てて付け加える。

 

「いや、色々とあったんだってホントに」

 

 そう、懐かしむような顔で彼は語り始めた。

 

 

 

 

 

 

 

「あーチョコ欲しいチョコ欲しいチョコ欲しい……」

 

 ブツブツと呟きながら歩いてもどうにもならないし、チョコが降って湧いてくるわけなんてないが、俺は口に出さずにはいられなかった。

 

 この荒れている区、そしてそこにあるまあまあ荒れてる中学に在籍している一生徒としては、高望みしすぎているんだろうか。いいや、そんな訳はない。

 

 チョコは誰にだって平等だ。この世界は機会均等であるべきなのだ。

 

「……何で、受け取ってくれないの?」

 

 そんなことを考えていたからだろうか。通りがかった公園から聞こえてきた幼い声に、つい耳が反応してしまった。

 

 幼い、といってもたぶん年は俺とそう変わらない。フリフリとリボンがいっぱいのいかにも女子っぽい服を着て長い黒髪をポニーテールにした少女が、同級生らしき少年に詰め寄っていた。

 

 俺はすぐにピンときた。今日はバレンタインデー。少女は可愛いらしい紙袋を手にしているんだし、2人はチョコのことで揉めてるに違いない。

 

 ここは年長者として助け舟を出してやるか。

 

「そこの君たち、どうかした?」

 

 別にこの少年が貰わないなら俺がチョコを、なんて卑しいことはこれっぽっちも……嘘です、ちょっとだけ考えたが、あとは純粋な親切心が騒いだのだ。チョコのチャンスはなるだけ逃さない方がいい。俺はこの少年にそれを教えなければならない。決して醜い嫉妬心とかじゃないのだ。

 

「よかったらお兄さんが相談にのるぞ〜☆」

 

「お兄さん……?」

 

 ポニテ少女が小首を傾げる。若く見られてるのか、その逆なのか。どっちにしろちょっとショックだ。

 

「そこに疑問を抱かれるとは思わなかったんだけど!? え、なに、もしかして君たち中学生?」

 

「いえ、まだ小学校に通う身です」

 

 やはり年下で合っていたらしい。2人は同じ小学校の生徒、といったところか。

 

 目を向けると、ミニサイズながら典型的なチーマーっぽい外見の少年は、不良漫画のテンプレのようにこちらへメンチを切ってきた。完全に見た目通りの行動で安心感すら湧いてくる。

 

 このへんではガンの飛ばし合いなんてのは日常茶飯、当然俺も慣れきっている。とはいえ小学生でこれってのはなかなかの胆力だ。傍らの少女は完全スルーしていて、こっちもこっちで凄い。

 

「ただ、ある程度一人っ子なので。兄、というものに少し戸惑いが」

 

「それは一体全体どの程度!?」

 

 少女は優雅に微笑むと、流麗に礼を見せた。見惚れてしまうような仕草はどこかちぐはぐな印象を与える。

 

「そういえば、申し遅れました見知らぬ方。私は……ククリ、あちらはたっつーです」

 

「マイペースだな君。そして俺が言うのもあれだがぽっと出の知らんやつには名乗らんほうがいいと思うぞ……」

 

「でもプリン頭のお兄さんはそう悪い方には見えなかったので」

 

「呼び方にそこはかとなく悪意を感じる!?」

 

 ふわふわの黒く美しい髪を持つ少女には分からないのかもしれないが、染めた経験のある人間になら理解してもらえるはずだ。髪が伸びてきて地毛の色と染めてるところとのグラデが生まれてしまうこともあることを。

 

「そ、それで2人は何を言い争っていたんだい?」

 

「ええと、小学校へはお菓子の持ち込みが禁止なので、友人のポストにチョコを投函する作業を実行していたんですが。1つ余ったので偶然見かけた彼にあげようと思ったら受け取ってもらえなかった、みたいな?」

 

「誰がいるかよ、んなもん」

 

「この通り、取り付く島もないのです」

 

 俺の脳裏ではいくつかの可能性がぽぽぽんと浮かんできた。まず、この女の子がツンデレで男の子がニブチンで、実はラブコメしてる可能性。とすると俺は空気の読めない男ということになってしま……いや、天から遣わされたキューピットとかそういうことにしておいて欲しい。

 

「そこのプリン頭にでもやりゃいいだろ」

 

「俺の名前それで固定か!?」

 

「まあそれも悪くは無いけど……」

 

「悪いと思うよ!?」

 

「はっ、どうせチョコなんざ貰えてねえクチだろ」

 

「否定はしないけどところ構わず喧嘩売るね君……」

 

 少年の冷たい言葉に肩を落とす俺に、少女が優しく声をかける。

 

「立つ瀬もなさそうですし、とりあえずそこのベンチにでも座りませんか」

 

 いや、全然優しくなかった。立つ瀬がないって、立場を失うとかそういう意味だったはず。チョコくらいで失う立場は無いよ……プライドなんかはズタズタになったけど。

 

「実は君も結構毒舌じゃない?」

 

 ふふ、と上品に口元を隠して少女はベンチに腰掛けた。きちんとハンカチを下に敷いてから。ところでささやかな疑問なんだが、布一枚隔てた程度で何か意味があるんだろうか。気持ちの問題? 

 

 少女は服装に合わぬやや無骨な腕時計──たぶん戦車が踏んでも壊れないってよく宣伝してるやつだ──に軽く目をやり時間を確認してから、何かを取り出す。タッパーが2つ。チョコは別の袋に入ってるとして、あれは何だろうか。

 

「金、銀、鉛の三つの箱があったら、どれを選びます?」

 

「舌切り雀と金の斧を混ぜたみたいな話だね。鉛、と言うのが誠実なのかな」

 

「そうですね。顛末は『ヴェニスの商人』をお読みいただければと。ではお兄さんにはこのチョコを差し上げましょう! カカオ豆から選んだ自信作です」

 

 洒落た紙袋が手渡される。チョコをゲット、って手放しに喜んでいいものかこれは。

 

「たぶん最後の1個とかだろ? 俺なんかにいいのか……あと手の込みようが半端ないな!? パティシエ志望だったり?」

 

「パパ、が好きなんですよこういったの。力仕事が得意で。だからチョコ以外の用意もあります」

 

 ターキッシュデライトとグラブジャムン、と少女は言った。こちらも手作りなのだろうか。俺が金か銀の箱を選んでたらこっちになってたっぽいな。チョコじゃないからバレンタイン的にはハズレ枠ってことなのか。

 

 素早くタッパーを開いた少女は笑顔ながらも抵抗など許さず、さっと少年の口に丸い物体を放り込んだ。冗談抜きでいい動きだった。推定細マッチョなお父さんに鍛えられていたりするのかもな。

 

「……甘ったるい」

 

「グラブジャムンはねー。それでも甘さ控えめにして作ったんだけど。ターキッシュデライトのほうも食べる?」

 

「誰が」

 

 少年はそのまま去っていく。よほど甘かったのか、かなり顔をしかめていた。たっつーとか呼ばれてたけど、結局彼の本名は何だったんだか。

 

「引き留めなくてよかったの?」

 

「あまり拘束しすぎるのも悪いですから。私もそんなに長居するつもりはありませんでしたし」

 

 この子も先ほど時計を気にしていたし、このあと何か用事でもあるのかもしれない。

 

「悪いね、変に話しかけちゃって」

 

「いいえ、とても楽しい一時でした」

 

「こちらこそ。彼からホワイトデーにお返し貰えたりするといいね」

 

「どうでしょう。そんな小粋なプレゼントを手渡すよりは、引導を渡すとかそういうことを言ってきそうです」

 

 ころころと笑う少女。いいのかそれで。というかよく考えると俺の方がちゃんとしたやつ貰っちゃってるよな。

 

「俺も何かお礼を……」

 

「大丈夫ですよ、お気になさらず」

 

「いやいや。そんなことしたら君のお父さんにも悪いしさ」

 

 俺は公園の外に視線を向けた。隠れるように一人の男性が立っている。たぶんたまたま通りがかったら、娘が厳つい男たちに絡まれてるように見えて心配になったのだろう。その気持ちはよく理解出来る。

 

「………………パパ?」

 

 俺と同じ方向を見た少女が目を丸くする。正直あまり似てはいないが、やはり家族だったらしい。子どもを狙う不審者とかじゃなくて良かった。

 

「あ、あの。すごく恥ずかしいので、今日父を目撃してしまったことは絶対に黙っていていただくと、それをチョコのお返しとしていただいてもいいですか?」

 

「ああ、勿論。お安い御用だ」

 

 花のように微笑んだ少女は、男のもとへ駆け寄っていく。ベンチにタッパーを残して。

 

「え、このお菓子は?」

 

「そちらも、一緒にどうぞ」

 

 こうして、俺のバレンタインは一気に豪華なものとなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「チョコはすげー美味しかった。あとの2つはすげー甘かったな──」

 

 処分に困って押し付けられた説が若干浮上する程度には、と先輩は語り終える。

 

「そんなタカっ、貰っておいて返礼とかは出来なかったんすね」

 

「そこは内緒の取引があったのさ。俺と彼女の秘密ってやつだよ」

 

 得意げに鼻をこする先輩に三宅は冷めた視線を送った。

 

「俺が弓道に打ち込んでるのも、キューピットになりたかったってあの時の後悔があったのかもな」

 

「弓道部をお見合いおじさんの巣窟みたいに言わんでください」

 

「三宅だってなぁ。もっと恋愛にガンガンいけばいいのに。さりげなくモテるだろお前」

 

「少なくとも今は弓道が恋人なんで」

 

「ま、そうだな。県大会、お前ならいいとこまで行けるって信じてるわ。応援してるぞ」

 

 あざっす、と三宅は頭を下げる。

 

「世界は広いようで案外狭い。同じ地域に住んでんだし、あの2人とお前もすれ違ってたりしてな。あるいはこれから会ったりなんてことが起きるかもか」

 

「だとしても名前も分からないんじゃ意味ないですよ」

 

「そこは個人情報保護の観点からだな、あんま言うのもあれだと思ってよ」

 

 意外と細かいところを気にする先輩だ、と三宅は感じた。それはともかく。

 

「またプリン頭、なりかけてますよ」

 

「え、マジで?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 簡単な命令だと思った。渡されたのは一枚の写真。書かれていたのは京楽菊理、という四文字。言い渡されたのは一言。

 

『この少女を監視しろ』

 

 ただそれだけ。

 

 ターゲットに気づかれてもいい。距離さえ注意していれば、近づきすぎなければ相手は何も言ってこないから。そんな、楽な仕事。

 

 それがどうしてこんなことになっているんだか。

 

「じゃあ、パパ! 一緒に家まで帰りましょう」

 

 観察対象の接近。初めての事態。勿論彼女は俺の娘などではない。まあ年齢的には違和感が無いけれども。

 

 腕を掴まれ、ダラダラと汗が流れる。人目のある場所で滅多なことはしないだろうが、それでも恐怖感というものは拭えない。

 

「な、何でこんな茶番を……?」

 

 先程まで彼女がいた公園から十分離れたあたりで、小声で尋ねてみると、少女はにこにこ顔を崩さないまま硬質な声で答えた。

 

「勘がいいっぽいとはいえ、そこらの一般男子中学生に尾行がバレることがなければこんなことをせずとも良かったんですが」

 

 淡々とした事務的な口調。ガキっぽさの消えた態度は正直やりやすくはあるが、同時に不気味さも感じる。

 

「さっき公園で話していた男子は、あなたの存在に気づいた。下手に通報されたり嗅ぎ回られると、私の事情に巻き込むことになる。5分少々といえど楽しく会話しました。こちらの悪い態度に気分を害した様子も無かった。好印象です。だから、多少の手間くらいはかけることにしました」

 

「俺は君にとって『ただの手間』なのか」

 

「あなたたちは、ですね」

 

 他の監視者の存在をさらりとほのめかした少女は周囲に軽く目を向ける。俺程度にはさっぱりだが、どうやら尾行は山ほどついてきているらしい。

 

「理由は分かったが、もし後で君の本当の父親役──京楽伏厨とあの少年が会ったら? その方が厄介なことにならないか?」

 

「あの男は何処にでもいて、誰にでもなれる。それがアレの利点です。もし私がアレをパパと紹介したところで、『そういえばこんな男だったか』と納得するだけで終わる。問題は生じません」

 

「なら、まさかこの場にもいたり……」

 

「それはありません。だとすれば私が出張る必要は無かったですから」

 

「もしかして怒っていたり、するのかな?」

 

「そんなことはないです。私はその部分は気をつけていますし。この口調は、ただあなたが会話しやすいようにと選んだもので、ご不満であれば適当に変えますけれど」

 

 なんの感慨も浮かんでなさそうな瞳には、色という色が見えなかった。

 

「いや……大丈夫。そ、それよりあれかな、君のクラスメイトの男子。途中で帰っちゃったとはいえ結構喋ってたし、やっぱり仲がいいの?」

 

「どうでしょうね。会話する長さ、頻度で言えばもっと上の人は大勢いますし」

 

 それは俺もよく知っている。ただ、早く話題を変えたかったというだけだ。そんな俺の思いが通じてか、少女はゆっくり言葉を紡いだ。

 

「会話といえば。貧乳と罵倒されることもありましたけど、そういうのって怒るべきなんですかね」

 

「まあ……そうなんじゃないか。喜べるようなワードでは無いし」

 

「なるほど。覚えておきます」

 

「……すごいどうでもよさそうな感じだけど」

 

「詰め物でもすれば解決できそうな話ですし。耳の形とかのほうが気になりますね、どちらかと言うと。変装や整形でも変えないことが多い部分で区別しやすいですから。あなたみたいな福耳だと特にわかりやすいです」

 

 これは褒められてるのか変装が下手とけなされてるのか。表情からはよく読み取れなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 それからの会話も、天然というか、ネジが外れているというか、そう形容したくなるものが多かった。俺の方もおあいこな部分はあるだろう。今まで遠くから観察していた存在とこうして言葉を交わして、家に招かれて、初めて彼女も現実に生きているのだと実感出来た気がする。ピントが合ったというべきか。画面越しでは無くなった感じ。

 

 家まで歩いたのはいいとして、何故入れてくれたのかは正直謎だが、こちらとしては断る理由もなかった。

 

「いい匂いだね」

 

「紅茶はよく淹れるので」

 

 出された飲み物に何か危険物が入っていないかと疑ってしまうのは職業柄か、この少女を信じきれないからか。

 

「ああ。カップを私の物と入れ替えます? それとも、一口飲みましょうか」

 

 少し迷う。カップの入れ替えは相手から提案されるとその効果が疑問視される。元から相手のカップにのみ異物が混入されていれば、カップを交換することで逆に自分の方へそれを取り寄せることになってしまうからだ。かといって彼女に飲んでもらって確かめるというのも……いや、そうか。

 

「こちらに入ってるのを少し君の方に混ぜても?」

 

「構いませんよ」

 

 カップを傾けると、中の液体が流れる。俺に出されたお茶の一部を彼女のカップへ注いだ。これでもし俺の方のお茶に何か危ない薬品が入っていたとしたら、少女もそれを口にすることになる。

 

 じっと見ていると、彼女は普通にカップを唇へ運んだ。コクリと喉が鳴る。しかしその身体に変化が起きた様子はゼロ。何も細工はない……のか。

 

 そう思うと、途端に頬に熱が集まる。こんな子ども相手に自分は何をしているんだと。あまりにも警戒しすぎていた気がする。

 

 いくら天才と言えるレベルのすごい才能の持ち主だとしても、彼女はまだ幼いのだ。いたく疑われるのは悲しいだろう。恥ずかしさと罪悪感とに突き動かされながら俺はカップの縁に口をつける。

 

「…………美味い」

 

 おべっか抜きの感想だった。俺の貧乏舌でも、高い茶葉を高い技量で扱ったことが伝わってくる。

 

「君はフィジカルだけでなく、紅茶を淹れる腕ってとこでも天才なんだな」

 

「ありがとうございます」

 

 どうでもよさそうに、平坦なトーンで彼女は礼を述べた。うるさいガキは嫌いだが、こういう大人びているのもこれはこれでやりづいらいんだな、と俺はこの短時間でちょっと学べた気がした。

 

 会話に困っているのを察されたのか少女の方から口を開く。

 

「そうですね、少し失礼なことをお尋ねしますが────あなたは。自分を凡人と、そう思っていますか」

 

「そりゃあな。身の程ってもんを知っている。中坊に尾行がバレたくらいだしよ」

 

「でしたら、それは傲慢ではないでしょうか」

 

「は?」

 

 話の脈絡が、前後が繋がらなくて。俺は思わず間抜けな声を上げた。

 

「凡人が天才と褒める。それは、凡人が天才を見分けられる。そういうことになってしまいます」

 

 傲慢でしょう、と彼女は首を傾げる。

 

「あー。凡人は凡人を見分ける。だから、凡人以外は天才とみなして、そうとわかる。こんな理屈でどうだ?」

 

「人を推し量れる時点で凡人かという疑問が出てきますけど、それはそれで面白い意見かと」

 

 でも、と少女は続けた。

 

「私は、自分を『天才』と思ってるような人に天才と褒められたほうが嬉しいです」

 

「だから自分を褒める資格を得たいなら俺も天才になれと?」

 

「そもそも才能というものは、ひどく曖昧なものだと私は考えます。石器時代にハッキングの才能がある人がいたとして、それが発揮されることはないでしょう。逆に、今この時代に狩猟の才能を持つ人がいたとしても、なかなかそれを自覚することは出来ないと思います」

 

「そういう、巡り合わせっつーか運も才能のうちなんじゃないか?」

 

「なるほど。面白い見解ですね」

 

 余裕のある返答。少なくとも俺にとっちゃ、彼女の言葉は恵まれた子どもの戯言にしか聞こえなかった。

 

「ではミイラ作りの天才がいたりしたら、現代では干物作りや干菓子(ひがし)作りなんかに活かせるから運も持ち合わせていると」

 

「そんなニッチな才能……いや、まあそうかな」

 

 ふむ、と彼女は頷く。何となく俺の頭にはあることが浮かんだ。このバレンタイン、少女が作ったお菓子は洋干菓子だったっけ、と。

 

「────ヴェニスの商人アントーニオはユダヤ人の高利貸しシャイロックから資金を借りる際、期日までに返せなければ胸の肉1ポンドを切り取るという条件を受け入れました。アントーニオが返済出来ず、これが履行されそうになった時。彼の肉1ポンド、つまりおよそ453.6gだけならシャイロックは切り取れるが、証文に書いてない以上は血を1滴でも流してはいけない。そう言われてしまいます」

 

 突然シェイクスピア作品を語り始める小学生の姿はあまりに異質で、つい反応が遅れる。

 

「私、これを読んで思ったんです。アントーニオをミイラ状態にすれば、血が一滴も流れないからOKなんじゃないかって」

 

「君は、何を…………」

 

 菓子作り。ミイラ作り。少女から向けられる冷徹な視線。

 

 俺は、何故この家に入ってしまった? 

 

 紅茶には、本当に何も入っていなかったのか? 

 

「あなたの思考を一つ訂正しておくと、私に毒味をさせても意味はありません。そういったのが効かない体質でして」

 

 一気に気分が悪くなる。この部屋の出口。あそこから、早く逃げなければ。

 

「ただ、紅茶には何も入れてませんよ。風味が損なわれますし。そもそも、薬品とか効かないからといって飲みたいようなものでもないですしね」

 

「え?」

 

 ただ、と彼女は俺の後ろを指差した。

 

「『あの男は何処にでもいて、誰にでもなれる』と私は告げました」

 

「京楽伏厨……!?」

 

 何処にでもいる男が、元からこの部屋にいたとしたら。もしくは、途中でどうやってか俺に気づかれずに侵入してきてたとしたら。

 

 思考の結論が出る前に、首元に衝撃があった。腕を回されぐっと絞められる。

 

Sweet dreams(お休みなさい、よい夢を)

 

 とびきりの可愛らしい声とともに、意識がぶつりと飛んだ。

 

 

 

 

「何でわざわざ怖がらせるような台詞を使ったんだい?」

 

「基本甘い話には裏があるというか、知らない人についてったら大変なことになるって教えてあげようと思って」

 

「優しいねえ。それで、こいつはどうするんだい? 君への監視は互いが抜け駆けしないよう睨み合いが続いてたおかげで小康状態にあったが、そのうちの一人とこうして接近した以上は波乱が起きるだろうねえ」

 

「どのみちそろそろ一掃しようとしていたんでしょ。その人は適当に帰してあげて、あとはパパが何とか頑張ってください」

 

「私は君の便利屋じゃないんだけどなあ」

 

「出来るか出来ないかで言えば、出来るでしょう?」

 

「やりたいかやりたくないかで言うと、とてもやりたくないよ」

 

「公園から──5分以上会話して、楽しい一時を過ごした。多少は報いてやるべき」

 

「だったら菊理(くくり)がやれば……というかその時計、服に似合わないから外せって言ったのに」

 

「お気に入りなの。そもそも着せ替え人形になることを承諾しただけでもありがたいと思ってほしいのだけど」

 

「それも取り引きだったろう。ああ、じゃあそうだ、今回も対価は着せ替え遊びで手を打とう。一月でどうかな」

 

「長い。1週間」

 

「分かったよ、3週間でどうだ」

 

「いや。1週間と3日」

 

「2週間と4日、これ以上は譲れないなあ」

 

「2週間、そしたらココアいれて『美味しくなーれ、もえもえキュン』って可愛く言ってあげる」

 

「よ〜し引き受けたっ!!」

 

 

 

 

 

 

【過去編6】

 

「うわっ……おまえ、いたの」

 

 扉を開けた途端、視界に入った男の姿に少女は嫌そうに呟く。この自宅には自分一人しかいないと思っていただけに驚きが大きかったのである。

 

 真紅に金の縁取りがされたブレザーに、白いプリーツスカート。まだ着慣れていないその制服は、しかし彼女によく似合うものだった。

 

「いたのとは酷いねえ。今日は愛娘の門出の日だろう? 祝うのは当然のことじゃあないか」

 

「猫撫で声はやめろ、鳥肌が立つ。だいたい、私が中学生になってから家にほとんど寄り付かなくなった奴が『愛娘』なんてほざくとか、ちゃんちゃらおかしいから」

 

「その代わり生活費は十分渡していただろう? やれやれ、これが反抗期と言うものかな。菊理(くくり)が大人になったようで嬉しくもあり寂しくもあるよ」

 

 優しそうに笑う男はどこにでもいそうな、雑踏に紛れれば1秒もかからずに溶け込むまでの平凡な風貌をしている。だが、中身は平凡とはほど遠い。ククリは男を睨みながら会話を続ける。

 

「京楽、おまえ……今更私の入学にケチでもつけに来たの? 無理矢理止めるってならこっちも抵抗させてもらうけど」

 

「君の名字も『京楽』でしょ。まあそこはいいか。菊理(くくり)はもう一人前だからね、止めることはしないさ。高校入学について私が口出しするものではないだろうし。そのスカート丈については少々気になるところがあるけれどね」

 

「お年寄りのおまえにはわからないかもだけど、今はこのくらいの短さが普通なの」

 

 馬鹿にするような口調で話されようと、男は笑みを絶やさなかった。

 

「可愛い可愛い菊理(くくり)はお転婆なきらいがあるから心配なんだよ。去年、いや昨年度と言うべきかな。3年生になってから起こさせた事件は10冊くらいのサスペンス小説を書き上げられそうな出来栄えだったね。もっとも、君に人心掌握を教えた身としてはもう少し上手く工夫すればより面白くすることも可能だったと言わせてもらおうかな」

 

「相変わらず監視してたわけか」

 

「それが私の仕事さ。でも高度育成高等学校は流石に厳しくてね。ま、菊理(くくり)なら大丈夫だろうし頑張って自衛して欲しいかな」

 

 男はおそらく護衛の仕事も任されている。それにしては投げやりな、雑としか言いようのない話だが、ククリにとっては全く問題でない。むしろ高校まで引っ付いて来られたほうが大迷惑だ。一人だけ毎日が授業参観なんて状況は避けたいのである。

 

「高校でも今まで通り好きに動くといい。上への報告は適当にやっておくよ」

 

「やっと子守りから解放されたって口ぶり。ま、そのほうが嬉しいからそれでいい、と言うか突然高校に現れるとかやめてよ」

 

 フリじゃないからね、と念押しするククリに対し男は「分かってる分かってる」と頷いた。

 

「もちろん君と会えないのは私も寂しいさ。ずっと大切に菊理(くくり)を育ててきたわけだからね」

 

「へー。大切に育てられたわりには殺気を感じることも少なくなかったな」

 

「意地悪なことを言わないでくれよ。癇癪を起こす菊理(くくり)を取り押さえるのは本当に苦労した、それだけのことじゃあないか。むしろこの私が殺気を出してまで動かないと対抗できなかったという事実を君は誇るべきだと思うね」

 

「……よく回る口だ」

 

「褒め言葉として受け取っておくよ」

 

 瞬間、殺伐とした雰囲気が漂うもすぐに霧散した。ため息を吐いたククリは呆れた顔で言葉を紡ぐ。

 

「挑発は、わざと?」

 

「君は少しばかり怒りっぽいところがあるからね。キュートな魅力だけれど、正直後始末が面倒なのさ。でもこの分だと大丈夫そうかな。うん、高校生活も楽しむことを優先して面白おかしく過ごすといい」

 

「言われなくてもそうするつもりだったもの」

 

 これは失礼、とおどけた仕草で一礼する男を無視したククリは外への扉に手をかけた。

 

「ああ、そういえば、学校についてのことでさ──」

 

 男が何かを言いかけているのももちろん無視する。

 

 バタン、と乱暴に扉が閉まる音が響いた。

 

 

「せっかちなお嬢様だなあ。いやはや、誰に似たんだか」

 

 朗らかな笑顔のまま呟いた男が軽く手を振ると、手品のように忽然と書類が現れる。

 

「念のため前から監視対象にしていた龍園翔も、菊理(くくり)と同じ高校に進学するらしいよって言いたかっただけなんだけれどね」

 

 喧嘩に明け暮れる日々を送っていたらしい彼に関する報告書へもう一度目を通すと、男はその紙をパッと空中に放った。

 

「どうせ学校に着けば2人は再会することになるだろうし、まあいいか」

 

 突如として火がともり、書類が燃え盛る。やがて紙も炎も消える頃には、男もまた跡形もなく姿を消していた。

 

 

【過去編7】

 

 

 窓の外はひどい土砂降り。ざあざあという雨音がここまで響いている気すらする。

 

 室内にも何となくその匂いが漂っていて、空気はどことなく重苦しい。立ち上る紅茶の香りだけが明るさを保っているようだった。

 

 この歴史も威厳もある中学校においては、お茶会というイベントがよく開催される。女子校だからという理由も勿論あるのだろう。美味しいお菓子というものはいつだって魅力的な輝きを放っている。

 

 今や最高学年になった私たちはもてなす側へと回っているが、以前は私も参加する立場だった。

 

 その中でも印象深いもの、というとやはり彼女たちのお茶会に違いない。

 

 どこへ行ったのか、散り散りになった先輩方。色々と噂も多いこの学校で、新たな謎でありそして語られることのない秘密となったお話。

 

 唯一の手がかりだったのは、ただ1人だけ転校しなかった、もう卒業してしまった女生徒。

 

 そういえば彼女と言葉を交わしたのもこんな雨脚が強い日だった。

 

 

 

 

 

「花はお好き?」

 

 降りしきる雨の中、ぼおっと花壇を眺めていたら聞こえてきた台詞。か細くもどこか芯のある、濁りなく透き通ったその声に振り向けば、立っていたのは自分と同じ制服に身を包んだ少女。同じ学年でないのは間違いないが、見覚えがあるような無いような、と思っているうちに彼女が再び口を開く。

 

「ごめんなさい、驚かせてしまったかしら」

 

「い、いえ」

 

 楚々(そそ)とした雰囲気、令嬢然とした(たお)やかな仕草は、世間では珍しいのだろうけどこの学校ではごくありふれたもので。没個性、と言ってしまってもいいのかもしれない。

 

 京楽菊理、と。漆黒の髪と瞳を揺らしつつ彼女はそう名乗った。

 

 話してみれば彼女のことはすぐに分かった。一学年上でも有名な先輩と、よく一緒にいる人。それで、覚えがあったのだ。

 

 空気のような、たゆたう水のような方だと感じた。悪く言えば影が薄く、良く言えばどこにでも溶け込んでいるような少女。そんな、生徒だった。

 

 

 

 

 だからこそあの時の衝撃は大きかった。突然、彼女のクラスメイトが消えてしまった時の衝撃は。

 

 心配と、好奇心とに突き動かされた私は声をかけに行ったけれど、当然のように彼女の返答は曖昧で煙に巻かれてしまった。「神様ゲーム的な」と口にしたのは何のたとえ話だったのか。今考えても理解に苦しむ。

 

 何が起きたのか、というのは明かされずモヤモヤしたまま。それでも時が過ぎれば忘れるのが人間というもので。段々と、段々と手のひらから砂がこぼれていくかの如くその痕跡は失われていく。

 

 私だって、この学校から出てまた新たに様々な体験をして、そしていつかは思い出せなくなるのかもしれない。

 

 それでも。宝石のように(きら)めく彼女の瞳の、どこか無機質な光だけは。ずっと心に残っていると、そんな確信があった。

 

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