「んっ……くうぅ……ふわぁ〜あ。まだ寝てたいなぁ……」
とある平日の、早朝五時。神蔵藤子は目を覚ました。
「おっと……蒼哉の朝ごはんも作らなきゃだし、早く起きないと……」
眠いまなこをこすりながら、神蔵は洗面所へと向かった。
「やぁ、おはよう蒼哉。心地の良い朝だね」
「あぁおはよう藤子。いつもすまないな、朝からこれだけの作業をするんだ。そんな重労働を君にばかり任せてしまって」
約二時間後、目の下に隈を作った草壁が起床する。
「いや、構わないよ。そもそもここを間借りしているのは私の方だしね。言ってしまえば居候のようなものだし、せめて家事くらいは私に任せてほしいな」
神蔵は胸を張り、朝食を振舞った。
「では、そろそろ私は行くとしようかね」
「おっと、もうそんな時間かい?」
数十分後、制服に着替えた草壁は、鞄を片手に玄関を出て行った。
「行ってらっしゃい、蒼哉」
「あぁ、行ってきます。……確か、今日から仕事だったな?夜は私が作っておくよ」
「おや、気を遣わせてしまってすまないね。そう遅くはならないと思うが……まぁ、早めに帰るよ」
神蔵はそう言って、草壁を見送った。
数時間後。真っ白いシャツに袖を通して、神蔵は家を出た。大半の住民が学生であるこの街では、この時間に出歩くものはほとんどいない。
「あぁ……この空気も久しいものだね」
涼しい空気を肺いっぱいに吸い込んで、神蔵は言う。
「あらぁ?藤ちゃんじゃなぁい!!久しぶりねぇ!!」
「ん?……あぁ、美梁木。本当に久しぶりだね、そちらの調子はどうだい?」
そんな神蔵に声をかけた、長身の
「そちらは買い出しかい?」
「えぇ、そうよぉ!夜の営業までに仕込んでおかないといけないものぉ!!」
美梁木は急いでいるようだったので、特に立ち話などはせずに見送ることにした。
「そちらもそちらで大変そうだね、まぁ適当に頑張ってくれよ」
「えぇわかってるわぁ!!また今度そっちのお店行くから、その時はたくさんお話ししましょうねぇ!!」
バビュンと美梁木は駆けていった。そのあまりの勢いに、神蔵は思わず、
「いやぁ、前々から思ってはいたがすごいなあの
そう漏らした。
「おっ、久しぶりだねぇ神蔵くん。もう療養は済んだのかい?」
「あぁ、おかげさまで快復したよマスター。今まで休んだ分ビシバシ働いていかないとね」
それから歩くこと数分、神蔵は開店前のカフェに到着した。着くなり声をかけてきたこの中年男性こそがこの店のマスター、
「あぁ〜やる気を出すのは構わないんだけどね、この間みたいにお客様の顔面引っ叩くのは無しにしてね。それで困るの、ぼくだからね?」
「その節は本当にすみませんでした……」
ミスティの顔面を引っ叩いた以前のことを突かれ、神蔵は言葉を失う。
「まぁ、反省してるみたいだしぼくは許すよ?二度目はないけどね」
マスターが釘を刺した。
「あぁ、疲れた……」
気が付いたら、もう夜の八時。昼の営業から入っていたため、これでちょうど八時間だ。今から二時間の後にバーとしての顔を見せ始めるが、そんなことは疲れ切った神蔵には関係ない。仕事こそ終わったものの、ドがつくほどの重労働で、神蔵はもうクタクタだった。
どうしてかは知らないが、今日は客がやたらと多かった。馬車馬のように働かせられ、足が棒のようになる感覚をリアルタイムで味わっていた。
「あぁ……このまま歩いて帰るの面倒だな……でも蒼哉を呼ぶのも失礼だし……」
「誰を呼ぶのが失礼だって?」
「うひゃいっ!?」
突如、背後から投げかけられた柔らかな声。趣味の悪い金色のバイクに跨った草壁は、そのバイクに似合わぬ爽やかな笑みで、神蔵に手招きする。
「白髪頭から今日はやたらと混んでいたと聞いてな。疲れているだろうと思って迎えにきたのだが……どうやら、わたしの予想は当たっていたようだな?」
「……まったく、君は本当に最高の男だよ。実際、めちゃくちゃ疲れているしね。君の厚意に甘えるとするよ」
草壁の後ろに座り、神蔵はその背に手を伸ばした。
「……あぁ、そうだ。少々、寄り道をしていきたいのだが、構わないかね?」
「いいよ。君が行きたいところがあるなら、それは私が行くべきところでもあるのだから、ね」
「……まったく、君という女は。どうしてそう流れるように歯の浮くようなことを言ってのけるんだ」
草壁は、少しだけ声を上擦らせた。
「……ほら、着いたぞ」
草壁に連れられて訪れたのは、空気の澄んだ小山の頂上だった。
「……あぁ、綺麗な空気だね。結構、私の好みだよ。街中の喧騒も嫌いではないけど、こうして落ち着ける場所というのは……悪くないな」
「だろう?それに……」
草壁は微笑みながら、柵のある方を指差した。
「……ここの夜景が綺麗だと、とある筋から教えられてな」
吹き込んだのは多々羅であるのだが、恋人と二人きりでいる時にまで他の女の名前を出すほど、草壁は愚かではない。
「そのとある筋がどの筋か気になるところではあるが……うん。とても綺麗だ。街に息づく人々の営みの明かりと、どこか遠くで瞬く星の明かりと、二つのマリアージュが、それぞれの儚さをより一層引き立て合っている。……こんな景色が見れるのは、この街では、間違いなくここくらいなものだね」
神蔵は饒舌に語る。その瞳は、感動に煌めいていた。
「……ところで、君はどうして私をここに連れてきたんだい?」
「何の話かね?私はただこの景色を君と見たかっただけなのだが……」
「そうじゃないことくらい、私にはお見通しだよ?……どれだけの時を君と重ねたか、考えてみればわかるだろう?」
しばし夜景を愉しんだ後、神蔵はふと口を開いた。その言葉に、一瞬、草壁の瞳が横に逸れた。
「……答えて。私たちの間に、隠し事なんていらない」
どこか拗ねたような目で、草壁を見つめる。
「その、なんというか……これ、いざ言うとなるととてもとても恥ずかしいのだが……」
「寄り道したい、なんて言って、こんな人気のない場所までうら若き乙女を連れ出したんだ、何もないわけがないだろう?」
「いや、君は私から見たらうら若くは……」
「はっ倒すぞ」
神蔵は怒るが、当の草壁は、どうやら今のやり取りで落ち着きを取り戻したようだ。
「……そうだな。私が何をしようと思ってここまで来たか、というのを話すのもいいが、それでは風情がないし……本題から入らせてもらって構わないかね?」
「あぁ、うん、構わないが……」
神蔵が答えると、草壁はその手を掴んで、少し後ろの大樹のもとまで歩いた。
「どうやらこの展望スペースの、特にこの木には、ある言い伝えがあるそうでな。……その、私が伝えたいことを君に伝えるには、ここが適任だと思ったんだ。私は恋愛経験なんてほとんどないようなものだし、ましてこんなことを言うのも初めてだから、空回りしていても多めに見てほしい」
深呼吸ののちに、草壁は膝をつき、小さな箱を神蔵に差し出した。
「私はまだ十七だし、遠い未来のことにはなってしまうのだが……」
草壁の顔が、羞恥心から真っ赤に染まる。
「その、将来的な話なのだけど……全て終わって、この街に平和が訪れたら……そのときは、私と結婚してほしい」
神蔵の頬も、同様に。
「……ふふっ。ははっ、あっははは!!可愛いなぁ蒼哉!!」
恥じらいで染まった頬を隠すべく、神蔵は笑う。
「それにしたって急すぎないかい?そんな急にプロポーズされてしまったら、その……いつもみたいに気丈に振る舞えなくなってしまうんだけど…………」
「いや、だってほら、今日は私と君が出会った日だし……なんというか、今でなければダメな気がしたのだよ」
珍しく途切れ途切れの言葉を紡ぐ草壁に、神蔵の頬が緩む。
「やっぱり、可愛い人ね。……うん。すべてが終わって、私たちの平穏が取り戻されたら……末永く、よろしくお願いしますね。……あなた」
真っ赤な微笑みを携えて、神蔵は、左手の薬指に指輪をはめた。
「……ありがとう、藤子」
それに応えるよう、草壁は、神蔵の唇と自らのそれを触れ合わせた。