五年前の終幕をしてなんと呼ぶ。
己が恥を捨ててこう呼ぼう。
あれは、紛うことなき敗北であったと。
産科医・雨宮吾郎殺害に端を発する星野アイを襲った凶行の、首謀者にして元凶。
そして、かの娘を孕ませた男……少年との因縁は。
素敵だ
最高だよ
あどけなさすら残る美しい顔が笑う。無邪気に笑う。愉快げに、あるいはかの者は初めて。
そう、この瞬間に産まれて初めて喜びを知ったのかもしれない。
あまりにも嬉しくて、嬉しくて嬉しくて、少年は笑うのだ。
命
僕の命
木刀の切先を見詰めて、かつて少年だった者が囁く。
うっとりと、それはまるで咲き誇る花弁に見蕩れる乙女のような目。
待ち侘びた満開の季節、春の麗の到来を、この刹那に感じ入って。
貴方の殺意が僕に教えてくれる
こんなに怖いんだね
死は、こんなにも
貴方は、こんなにも怖ろしい
少年は至極当然自然の理を繰り返した。
そうだ。その言葉、何一つとして誤りはない。揺るがぬ真実である。その通りだ。
そうでなくてはならないのだ。
死とは畏るべきものでなければならない。
なればこそ、命とは尊ばねばなるまい。
せめて人として。
せめて。
あぁ僕、生きてるんだ
僕……生きたいんだ
ははは! これだよ!
これが僕の価値
僕が僕に認める価値
やっと、やっとわかった
貴方のお陰だ
かつて少年だったものはそれを知った。
命の尊厳を数多踏み躙り、その価値なるを量る傲岸な好奇心の権化は、この時、事ここに至って遂に。
貴方に会えてよかった
もっと早く、会いたかった
暗転した舞台。非常灯の青い朧な光の中、二人の道化が立つ。
片や木刀を構えて。
片や、感謝を以てそれを拝し、迎え。
藤咲仁
僕と同じ────
百年来の友を得た。そんな笑みに。
男の綺麗な
不意に、微睡から引き上げられる。
校内に響く調子っ外れの金管楽器の音が、転寝する間抜けを嘲笑うようだった。
夢。
目蓋の裏にこびり付いた光景は過去の記憶。悪夢的な喜劇の、その終幕。
折に触れて思い出す。夢にまで見ていれば重症だ。
黒幕を捜し出し裁きをくれてやるなどとよくぞ吼えたもの。結果顧みれば我が身の増長慢を思い知る。
そんな資格はとうに失っていたというのに。
警官としての、なにより────人としての、正義。
殺さず、害さず、奪わず。
「……負け犬め」
教室に忌々しげな男の声が虚しく響いた。
後列窓際、背もたれに反り上がり天井を仰ぐ。
ゆえに敗者。
罪人にも確信犯にもなれず、ただ徒に殺意を持て余した阿呆。
それが俺だ。
それが、今の俺の醜態なのだ。
死ねばそれも多少改められるだろうと期待したが、結局のところ俺はこうして永らえている。
なるほど、まったくもって返す返すに醜態だ。
「……価値、か」
それでも。
己の筋違いな復讐がどれだけみっともない有り様を晒していたとて。
価値は、残った。一人守られた。
星野アイ。そして、かの娘を愛して止まぬ男と少女の、心が。
俺の死に然したる意味はなかったが、彼らが今も生きている事実には紛れもなく価値がある。
────雨宮吾郎の死を、無価値へと貶めず済む。
俺にとってはそれだけでいい。それだけで十分だ。
ならば。
「ああ、なら……いいか」
ここまで生き恥を晒した甲斐はあったのやもしれぬ。
ならばもはや、この世に未練など────
「おい」
不意に声が掛かる。見やれば、教室後ろの扉に少年が一人。
ミディアムに切り整えられた金髪。母親譲りの十二分な美相。夕陽に煌めく瞳はまるで星が瞬くようだ。
実のところ、旧友の様変わりに馴れたのはここ最近のこと。それまではどうにも、扱いに困ったものだ。
「まだこんなところにいたのか。ルビーと探したんだぞ。メッセ何度も送ったろ」
「おぉ? そうだったか……」
ポケットからスマホを取り出し電源を入れる。すると雨宮の、アクアの言の通り、ロック画面ではメッセージアプリの通知が渋滞を起こしていた。
[おじさーん!いずこー!?]
[返事くらいしろー!]
[かわいいルビーちゃんからのお呼び出しです]
[怒り顔のスタンプ]
[怒り顔のスタンプ]
[怒り顔のスタンプ]...
「おぉおぉ、娘っ子がすっかりご立腹だねぇ……くぁっ、あ゛ぁー」
大欠伸を噛み殺す。
少年の呆れ顔が己を見下ろす。
「寝てたのか? ルビーのやつが今日は三人で下校デートだーって朝に騒いでただろうが。ちゃんと謝っとけよ。言っとくけど、俺はフォローとかしてやんねぇから」
「おいおい手厳しいな。いやそこをなんとか口添えいただけねぇもんかねぇ。頼むよ兄上殿よぅ」
「まあ……クレープでも奢ってやればいいんじゃね? もしくはワッフル。今流行ってるだろ、なんか段積みになったカロリーすごそうなやつ」
「別にそのくれぇ構やしねぇが、夕飯前にいいのか?」
「よくない。太る。あんなもん脂質と糖分の暴力だ。レッスンとトレーニングにダイエットメニューも追加だな。あいつだってもう一端のアイドルだしその辺は弁えて……ると思う。多分」
「育ち盛りが鱈腹食えねぇってなぁ気の毒な話だな」
「育ち盛りて……俺もルビーももう十七だぞ。肉体的には」
生前までの通り同齢同士として振る舞えばよいのだが、時折うっかりと子供扱いしてしまう場面も屡々。
それは無論、外見的な年齢が誤認を誘うというのも一因だが。
それだけが理由ではないように思う。
精神は肉体を揺り籠として、生育環境を学び舎として成長し、適応する。
この友人は変わった。いや性格はそのままだが、振舞いや言動が肉体年齢相応のそれに近付きつつある。
もっと単純に、若返ったと言ってもいい。
だからとて、それを嘆かわしいなどとは思わない。思う理由もない。
強いて可笑しみを覚えるとすれば、己の様こそ。
「一応今はお前が後輩なんだからな?」
「そうだったな。いやはや油断するとすぐに忘れっちまってよ。いけねぇいけねぇっと」
席を立ち上がり、鞄を肩に担ぐ。
傍らの整った不満顔を見下ろしてやる。
「……無駄にでかくなりやがってこの野郎」
「この体、好き嫌いせずよく食べ、よく眠る。するとご覧の通りの仕上がりよ。かっかっ、悪く思うな」
「勝ち誇るな」
「なぁにお前さんにだってまだまだ伸び代はあらぁな。なんせ十七だろう? 育ち盛りじゃあねぇか、えぇおい」
「くっそ! ここぞとばかりに……ぐっ、この、撫でんな! 縮む!」
「かっかっかっ!」
嫌がる少年を無視して、柔らかな金髪をこねくり回す。
ああ、本当に。まるであの頃に戻ったようだ。
クールぶった優等生と悪たれ坊主の、あの若かりし時分。
思えば遠くに来たものだ。
「俺はいいんだよ、別に」
いつか、
つまらなそうに。興味も薄く。
「自分が死んだことなんて、大して気にしてない」
強がりでもはったりでもなく雨宮は自己の死に拘泥しなかった。
貝原リョースケの所業。殺人事件の被害者にされながら、さも、いやはっきりと「どうでもよい」と言う。
「さりなちゃんには……ルビーには悪いと思ってる」
雨宮の死を知り、誰よりも傷付いたのはかの娘だ。深く、深く悲しみ、そして怒り、犯人への報復を……その殺害を切望してしまうまでに。
なるほど、その一点においてこの男は責めを負うべきだ。娘に対して罪悪感を覚えるというならば、誠心誠意全身全霊で以て謝罪し、娘の被った苦心に見合うだけ償いに努めるが道理である。
望外の機会を与えられたのだ。
雨宮、お前は今生きているではないか。
それがどれほど、幸いであることか。
「……お前だってそうだろ……自分の死は無意味だったとか本気で考えてるんだろ」
低く、獣が唸るような声で雨宮は言った。
土中に燻る火にも似た、静かな憤怒。
図星を突かれて薄ら笑うと、雨宮の怒りは余計に火を上げた。
「自分のことは棚に上げて何が復讐だ!? そんなことされたって死んだ方は嬉しくもなんともねぇんだよ! お前が言ったことだ……
まったくもってその通り。返す言葉もない。
「……お前のお蔭なんだよ。アイは助かった。ルビーも無事で……人殺しにならずに済んだんだよ。それがどんなに、幸せか……だからさ」
少年の顔が痛みに歪む。惨い傷痕でも見下ろすように、俺を見る。
十かそこらの幼い顔は、今にも泣き暮れてしまいそうで。
それこそ、痛ましく、労しく。
「もう、いいんだよ……俺は星野アクアマリンで、お前は五反田マシラだ。それでいい。それだけでいい。十分だ」
雨宮は繰り返す。繰り返しに赦しを口にした。
藤咲仁の“悪徳”を赦す。何度も何度も、何度も。
「事件はもう終わったんだよ、藤咲」
奈落の底に、かつて少年だったものが、かつて生命だったものがある。
それは四角く区切られた光の中で、ゆっくりと血溜まりに沈みゆく。
一人、舞台の上、取り残された己は、物言わぬ肉塊となりつつある男をただ見下ろしていた。
その顔はひどく……がっかりしていた。
失望と、百年来の友と見初めた相手に裏切られた絶望とが混淆する灰色の貌。
「藤咲さん……」
舞台袖に娘が佇み、こちらを見ている。
星野アイが俺を見ている。その深く、宇宙の深淵の如き瞳に、一等星を浮かべ。
けれど今は呆然と、光を失くして。
俺は努めて静かに口を開く。
「俺が……」
「事故だよ」
娘は言った。その先を制するように。
「見てたから」
「……」
「最後まで。最後に……藤咲さんは踏み止まれた」
知らず、柄を握る手は強張っていく。加減もできず掌の皮膚は潰れ、骨は軋んだ。
踏み止まったと娘は言う。
否。
躊躇、迷い、友人の言葉、少女への自らの言葉、忘却などできない。捨てられない。
この一刀を仇に叩き込むことができなかった。
俺は遂に、その一歩を踏み込めなかったのだ。
『公演前の劇場で大手芸能事務所取締役社長が死亡』
『機械の誤作動か』
それは都内の某演劇場で。
公演前、舞台設営中での出来事。舞台装置であるその“奈落”は以前から誤作動が続いており、近く整備業者を呼ぶ手筈だったそうだ。
当夜、社長が一人で劇場に入る姿を幾人かのスタッフが見ていた。
警察は事故としてこれを処理。
公演予定だった舞台演劇は延期を余儀なくされ────
それはテレビやネットニュースに幾らか取り上げられたが、額面以上の報道が為されることもなかった。
数日を置かず、それは世間からの関心を失い次なる話題という波の底に消える。
「ごめんなさい」
無色透明の美しい顔が、不意に謝罪を口にした。
その声音にさえ、色や温度を覚えない。
娘が今なにを思っているのか、誰を想っているのか。それは定かではなかった。
「私のワガママ。アクア、今度舞台が決まったんだって。自分には才能がない、なんて本人は言うけどそんな訳ない。私と違って頭良いし、私と同じで顔も良いし! 楽しそうなの。今、すごく」
劇場前のベンチに並んで座り、閉鎖されたきりの扉を二人で見上げた。
「ルビーはね、アイドルになるんだって。私と同じ、私みたいなアイドルになりたいって言ってくれた。嬉しかった。嬉しかったぁ……苦手なダンスも、どんどん上手くなってくの。好きになってくれてる。歌は……これからだけど。楽しそうなの。今、あの子は今を大事にしてる。すごく、大事に」
アイは、笑み、のようなものを浮かべる。それは、ガラスの破片を縒り集めて作った仮面のような表情だった。継ぎ接ぎだらけの不格好さ。この、完璧な顔容には到底似合わぬ、歪な形。
「だからお願い、藤咲さん。私と嘘を吐いて欲しい。私と悪人になって欲しい。これまでのこと、あの子達のこと、私と……“あの人”とのこと」
笑みがこちらを向く。慈悲の女神めいて、あるいは傾国の悪女か。
人を欺き、美麗な嘘で信望と愛を
「私と藤咲さんだけの秘密。罪」
笑みが、濡れる。
その片目から一筋、少女は涙を落とした。罅のように走る。ほんの一滴、殺した心が溢れ出る。
「ごめんなさい……ごめんなさい、刑事さん」
「元だ」
暗む少女の瞳から目を逸らし、本物の夜空を見上げて呟く。
悪罪を行う、その意志を。
「俺ぁ元刑事だ。とっくの昔から」
貝原リョースケが逮捕された時、当然共犯者の存在を警察も疑った筈だ。
だがそれでも現在に至るまで警察発表は出ない。捜査の進展も、僅かな動きさえ。
貝原リョースケは知らないのだ。自身に情報を提供した相手、いや……あるいは殺人を教唆された自覚すらないやもしれない。
巧妙に繋がりを消し去り、傀儡を回すように貝原リョースケの殺意を煽り立てて星野アイ殺害を企てた。間接殺人。それは現実には到底あり得ぬ完全犯罪。
奴は、何の為にそのような真似を働いたのか。
命の価値などという曖昧模糊としたものの為にそんな大それた罪を犯したと。
それとも。
────僕と同じ
耐えかねたのか。生きることに。その疑問を抱えながら、誰の理解も共感も得られず、孤独に在るということに。
自ら死を選ぶほどに。
わからない。解答は得られない。
解を知る者は、もはやこの世にないのだから。
「あー! こんなとこにいた! 二人とも!」
夕暮れの教室に響き渡る。少女らしい高音。ともすればキンキンと鼓膜に障る怒鳴り声。
やはり母親によく似た、あるいは瓜二つの美しい顔。星が煌めくその瞳、今は怒気を迸らせて少女はずんずんと近寄って来た。
ルビーはまず真っ先にアクアに食って掛かる。下から顔を睨み上げ、自分がいかに怒っているかを全身で表して。
「おじさん探しに行ったっきりメッセに返信もしないし! 可愛い妹ほっぽってなにしてんのかなぁ!?」
「ど、どうどう、落ち着けルビー。悪いのはこっちのおじさんだから」
「むん!」
アクアはするりとこちらに矛先を誘い、ルビーもまた素直にそれに乗ってやった。
膨れ面が己を見上げる。
迫力より愛らしさが勝つのは、顔容の造形どうこうというより、俺がこの娘を知っているからだ。天童寺さりなという少女を知っている。無遠慮を装ってその実、思慮深く臆病な。明るく振る舞いながら、誰よりも寂しがり屋なこの娘を。
随分長く見て来た。雨宮と共に見守って来た。
「よしよし、ごめんな。寂しい思いさせちまってよぉ」
「くあっ、なっ、なに言ってんの! 寂しいとかないから! ただおじさんが約束すっぽかして、私もお兄ちゃんも待ち惚けで……撫でんなし! 縮んじゃうでしょ!?」
「かっかっかっ!」
なにやら聞き覚えのある文句を聞き流し、仔犬のような少女をあやす。
「ぬぬぬ……! もう怒ったから。帰りクロッフル食べるから。とーぜんおじさんの奢りだかんね! あとマリトッツォも!」
「おうじゃんじゃん食え。若ぇ内はなんでも食ってでかくなりゃいいんだ」
「馬鹿やめろその昭和理論。ルビー、今現在の総摂取カロリーを正直に言いなさい」
「……1500クライジャナイカナー」
「あれれ~おかしいぞ~。それだと朝食と昼食の弁当の分だけだな~。デザートに食べたスイートポテトはどこに消えちゃったのかな~?」
「だって! みなみちゃんがお土産にってくれたんだもん! 美味しいから大丈夫だよ~って言ってたもん! もう! せんせのそういうとこ嫌い! この理系脳!」
「理系は関係ありません。推しのアイドルには健康であって欲しいという俺なりの愛です」
「ふぇ、あ、愛って……ぐぬぅ、ちょ、調子のいいことを……せんせのくせに生意気な」
顔を赤くして惚けたことを言うルビーに、自ら口にしておいてから黙って羞恥するアクア。
この夫婦漫才もすっかり見慣れてしまった。
己が既にして教室の外に出ていることにすら気付かないのだから、熱の上り様も相当。
「いや実に微笑ましいが、そろそろ日が暮れるぜお二人さん」
「あっ、この野郎!」
「誰の所為だと!?」
廊下を行く己の背後から駆け足が二人分。
程なく追い付いた。
ルビーちゃん、その隣にアクア。
三人連れで歩く。それは恒例の、いつも通りの風景。
いつかの夕暮れ。
いつかの病室。
「かかっ」
「まだ笑うかこいつ」
「亀屋の苺どら焼きも追加!」
「いやなに、懐かしくって、ついな。ほんの十五、六年前は、またこの面子でぎゃあぎゃあ騒げる日が来るたぁ思いもよらなんだぜ」
「ほんの、ってお前な」
「おじさんってホント変わらずおじさんだよねー。今は十代のくせに」
揃いも揃って生まれ直し、二度目の十代を謳歌している。
合縁奇縁にも程がある。数奇な人生なにをか思う。
「……でも嬉しいのはわかるよ」
ルビーちゃんは笑った。華やぐような、花の薫るような可憐さで。
アクアと俺の腕を取る。
両手に野郎共を伴ない、駆け出す。
「私、今サイッコーに幸せ!」
「……はい、もしもし。ええ五反田マシラの携帯で間違いありやせんぜ」
一度死して黄泉返り、罪と知りながら己と友人達を欺いた。素知らぬ顔で日常を謳歌し、その幸福を噛み締めて。
傲岸不遜に願望する。雨宮、さりなちゃん、お前さん達がせめて、幸福に生きているならそれでいい。
せめて、お前さん達が生きる世界を、僅かでも掃き清めてやれるなら“これ”でいい。
「人探し、浮気調査、仲裁、交渉、警護。それに……仇討まで」
前世の業、まこと根深く拭い去るなど夢のまた夢。
藤咲仁の生き方は、結局のところこれ一つ。
これ一つが能。
これ一つで十分。
「苺プロダクション付御用聞き“サルタヒコ”。然らばご依頼、拝領仕る」
これにて完結となります。
何分、原作様はまだまだ気になる展開続き。
二次創作的に、こんなオチもあるか、程度に思っていただければ幸いでございます。
長らくお付き合いくださり、本当にありがとうございました。
推しの子って本当にいい作品ですね。