推しの子と元刑事【本編完結】   作:足洗

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摩天楼を踏み越えてゆけ

 

 

 古びた七階建ての雑居ビル。その二階に目的地たるアイドル事務所はあった。

 芸能界の入口を標榜しながらそんな華やかさは欠片も窺えない。ほとほと苺プロがいかに真っ当なのかがよく解るというもの。

 引き抜くように扉を開く。

 中は無人。申し訳程度にデスクの並んだオフィスの様相。それらが仕事に使われた形跡は見受けられない。

 当然だ。奴らの本当の仕事は別にあったのだから。

 さらに奥。もう一部屋。その中からは確かに人の身動ぐ気配がする。

 

(四人……いや五人か)

 

 己が転がした三人が“味見役”とやらに参加していないのだから、増えたか撮影役か。

 いずれにせよ問題ない。

 そう、19秒もあれば。

 

「……おぉ」

 

 ふと、傘立てに差されたそれを見付けて眉を上げる。

 木刀である。

 抜き取り、握りと重みを確かめ、一振り。風切りはやや堅い音色。白樫か。

 よく土産屋に置かれている安物だ。

 その方がいい。

 屑を叩くのに、いちいち高価な玩具を使うことはないのだ。

 

「始める」

『ああ』

 

 百円ショップのインカムでも音質と感度は十分だった。

 露天商で買ったフェイク品の黒コートは踝まであり、黒いニット帽はこの目立つ白髪頭を包み隠す。そして黒いマフラーを覆面にして、今一歩。

 扉を蹴破る。

 それ自体が金属製であろうが蝶番を支えているのは木製の建材である。扉は一枚の板切れとなって飛んだ。

 そうして直近に佇んでいたのだろう男の一人にぶつかる。男は背後からの奇襲に必要以上に驚いたようで、そのまま床に倒れ込んだ。

 沈黙が凝固して空間に満ちる。

 全員の視線が総身に刺さる。それらに理解の色が灯る前に事を済ませよう。

 扉の下からもぞもぞと這い出て来た男。その延髄に木刀の柄頭を落とした。

 

「ぎゃおっ」

 

 ぺたりと床に這いつくばって、男は動かなくなった。

 

「てめぇ誰」

 

 右前方、なにかしら声を上げようとしたのだろう若い赤髪のガキに一歩詰め寄る。

 喉笛に鍔元を押し付け、踏み込んだ右足で相手の右脚を弾く。胴体を軸に、上半身が仰け反り下半身が宙に昇る。一対のプロペラのようにぐるりと、身体が回る。

 響く重い音。赤髪の後頭部が強かに床を打った。

 失神したそれを跳び越え、上段から打ち下ろし。

 三脚に据えられたカメラの傍で呆然とする半裸の男の左肩に一太刀、さらに右肩に一太刀。ダメ押しの蹴り、踵が鳩尾に沈む。

 壁に衝突し、小太りが濡れ雑巾の如くずるずると床に座り込む。

 

「ひ、ぎ、おおおおおおお!!」

 

 雄叫びが背後から迫る。

 パンツ一丁の男が折り畳まれたパイプ椅子を今、振り下ろした。

 剣尖一突き。座面を貫く。そして剣先はぴたりと、その鼻面に触れる寸前で止めてやる。

 

「ひぃっ」

 

 パイプ椅子ごと払い、そんな恐怖に硬直した顔と対面を果たした。

 跳び上がり、肉体の落下重量を利して肘打ちを脳天に落す。

 床に顔面で接吻して、それもまた静かになった。

 薄汚れたホリゾントの前で全裸の男が一人喚いた。

 

「お前、お前、こんなことしてただで済むと」

「寝言は寝て言え。戯けぇッ!」

 

 深く、より深く。

 蛇が地を這い、獲物に喰らいつく。そんな速度で。()()()の進突。

 肉薄する。

 男の視線は、この身が半瞬前に佇んでいた場所を未だ見詰めている。

 今ここに在る我が身を見失っている。

 男はもはやその事実を知ることはない。

 横一文字、木刀の切先は男の顎先を掠める。かくんと一度小首を傾げたかと思えば、男はそのまま膝から崩れ落ちた。

 

「よし、終わった」

『きっかり16秒……やっぱお前おかしいわ』

「そいつぁこの体に言ってくれぃ」

 

 前世に引き続いて十五年ばかり真面目に鍛え直しはしたが、それにしたとてこの肉体の性能は少々、控えめに言っても、ややイカレている。

 この大立回りの後でさえ、息一つ乱れず、心臓は平素とまるで変わらぬ速度で鼓動を打っていた。

 

「通報してくれ。例によって喧嘩沙汰だと」

『了解。すぐにそこを離れろ。最寄りの巡回中のPCがそこに着くまで……概算8分弱』

「あいよ」

 

 床に転がる死屍累々を跨いで部屋の中央に赴く。

 そのついでとばかり、三脚のカメラを両断した。今一時録画機能を潰せればいい。データはこれからのこのこやって来る警察連中の為に敢えて残していく。

 そっと、目隠しをされ、椅子に縛り付けられた下着姿の女に近寄る。いや、面差しを見ればかなり幼い。あるいは未成年なのやもしれぬ。罪状がまた一つ重みを増していく。

 かたかたと震える少女の後ろに回り、手元を見る。革製の枷が手首に巻かれ、細い鎖で繋がれている。SMグッズか何かだろう。

 短く鼻から吸気し、木刀を打ち下ろす。鋭く、物打ち処で鎖を断つ。

 

「ひっ」

「おっと、すまんすまん驚かせちまったなぁ。ものの10分足らずで警察が来る。それを待って保護してもらうもよし。順当に被害届を出してこやつら郎党豚箱へ叩き込んでもいい……恥ずかしけりゃ、このまま逃げちまっても構わねぇんだぜ」

 

 性被害は現代においてすら未だに被害者側の泣き寝入りに終わる事案が少なくない。その事実を恥じ、世間からの奇異の目を恐れ、遂には口を噤む。

 それをして臆病者とどうして謗れる。

 糺されるべきは心ない衆愚であり、なにより性犯罪者共である筈が。

 

「もし家に警察が訪ねてくるようなら、包み隠さずこやつらの所業をぶち撒けちまいな。お前さんは何も悪くねぇんだ。本当なら恥ずべきことなど、何もないのだ」

「……あなた、だ、誰、なんですか……?」

「そうさなぁ、所謂貧乏旗本の放蕩息子ってぇやつよ」

「はたもと?」

「んん? 今の若ぇ子にゃ通じねぇか。かっははは! ではな」

 

 目隠しを取ろうとする娘の前から踵を返し、部屋を後にする。木刀は柄を拭い去り、その辺に放り捨てた。

 オフィスフロアを出、真っ直ぐに非常口の扉を目指す。

 押し退けるようにして扉を抜ければ、そこは建屋の壁に外付けされた避難階段、冷えた外気が身を包む。

 急ぎ、七階へとその階段を駆け登っていく。

 その頂点。踊り場で申し訳程度の助走をつけて、欄干を踏み付け────跳ぶ。

 夜の摩天楼。その無機質な渓谷に身を躍らせた。

 対岸のビルの屋上までは目測10メートル。それを越える。跳び移る。

 前転しつつ跳躍と落下の勢力を殺す。大量に積まれた室外機の合間を走り抜け、またしても跳躍。

 今度はやや高く、遠い。片道二車線と歩道分の幅跳び。

 問題ない。この肉体のふざけた脚力ならば、この倍までは。

 夜空を翔ける。

 ビル間を抜ける風になった心地。夜景の上を疾走するのもそう悪くない。

 

「うぅ、この体がこうも寒がりでなきゃなぁ」

 

 走りながら両肩を抱いて擦る。

 なんとまあ、締まらねぇや。

 

 

 

 

 

 

 

 

 嫌々参加した打ち上げがようやく終わりを告げた。

 居酒屋からさっさと抜け出したところを、後ろから小走りに誰か追い掛けて来る。

 編集さんかと思って一瞬身構えたが、聞き馴染んだ柔らかな声で少し安心する。

 

「アビ子先生! もぉ出てくなら誰かに一声掛けて。皆心配するでしょう」

「別にいいじゃないですかいちいち。子供じゃないんですから」

「そっくりそのまま返します。子供じゃないんだから挨拶くらいしてきなさい」

「……むぅ」

 

 吉祥寺先生は今日も今日とて至極真っ当なことを言う。でも苦手で苦痛で心的疲労を伴なう作業をなるべく避けたいと思うのも人情ではなかろうか。

 幸い私は会社員ではない。必要以上の対人能力を求められない職業にありついている。

 

「漫画家にコミュ力が必要ないなんて幻想をまだ持ってるなら早めに捨てなさいね」

「……先生の正論、最近愛を感じません」

「愛に溢れてるわよ。安易な加減をしてないだけ」

「……」

「またそうやって黙り込んでむくれる……あんまり食べてなかったでしょ。なにか好きな物奢ったげるから」

「天一行きましょう。居酒屋のメニューって食べたいやつないんですよ」

「アビ子、現金な子……!」

 

 深夜と呼ぶにはまだ浅い時刻だが、空きっ腹に掻き込むこってりラーメンの背徳の味を想って空を仰いだ。

 その、星も見えない暗黒に────

 

「────」

「? アビ子先生?」

 

 はためく黒衣。風に靡く白い髪。

 事も無げに空を翔ける、人の影。

 顔を覆うマフラーの緒が、まるで獣の尾のように伸びて。

 ほんの刹那、その隙間から覗く目と目が合った。赤い、紅い……そう、それこそ酸漿(あか)い眼光がこっちを見た。

 

「……ぁ」

 

 ビルからビルの屋上へ、その長身の彼は消えた。

 現実感の欠片もない。けれど現実にこの目が捉えた。

 光景はストロボの発火めいて眼球に焼き付き脳へ浸透する。

 震え。久しく忘れていた感覚が全身を満たしていくのがわかる。

 

「先生……私、なんか見ちゃいました」

「はい? な、なにを」

 

 興奮が血を熱くしていた。

 ただ、ただ、今一刻も早く作業部屋に戻りたい。

 ひたすらに漫画が描きたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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