トイレの窓からするりと中へ滑り込む。
個室でコートとニット帽をボストンバッグに詰め込み、くすんだオリーブのモッズコートを羽織る。
爆音の音楽と歌声、盛況なカラオケボックスの廊下を進み、目当ての部屋に入る。
「
「2分29秒……ん、及第点ってとこかな」
ソファーに浅く腰掛けたアクアが、スマホ片手に素気無く言った。
その言い種に思わず笑みが零れる。
「かっ、手厳しいこった。こちとら寒空の下必死に走って来たんだぞ?」
「生半可な時間じゃ怪しまれるからだろうが……まあ、あの悪徳事務所からこのカラオケまで直線距離で約2キロ強。まさか2分でそれを踏破した、なんて誰も思わない。思う訳がない。まともな頭なら」
100メートル走の世界記録どころかもはや野生動物並の走力。その上、人と車両が行き交う都市の交通状況を鑑みてもこの二ヶ所を5分で往復することなど人間には不可能だ。それこそ、ビルの屋上を跳び越えでもしなければ。
カラオケボックスに入った時点で己のアリバイは概ね保証されている。
「少なくともこれで、この
「こんな小細工するくらいなら最初から殴り込みなんか掛けなきゃいいんだ」
尤もだ。返す言葉もない。そしてアクアの皮肉げなその言い様は、とりもなおさず己の意図を、
「許せるものかよ」
「……」
「あんな屑共をこの世界にのさばらせておけるか。あのさりなちゃんが……ルビーちゃんがよ、散々苦しい思いしてようやくだ。今生でようやく夢を追えるんだ。これから夢の為に頑張って行こうってぇ、その矢先よ。畜生輩風情にその道行、穢されてたまるかい。かっ! 阿呆が、此度はわざわざ向こうから近寄って来やがった。討ち滅ぼして何をか咎めん」
「……そういう黒い役回り、俺の専売かと思ってた」
「そいつぁ残念だったな。今からでも遅くはねぇ。お前さんはここらでお役御免蒙ったって構わねぇんだぜ?」
「『寝言は寝て言え』、馬鹿」
「……そうかい」
「そうだよ」
「ならば、仕様もねぇか」
「ホントに、お互いどうしようもない」
「くっふふふ」
「ふ、はははっ……さてと!」
アクアは笑みから一転思案顔になり、その瞳を鈍く光らせて言った。
「路上で寝てる三人、事務所に詰めてた奴ら五人。けどその中に……」
「富田ヤスフミ。肝心の親玉はいなかった。ついでに言やぁ、奴ら言うところのケツモチとやらもな」
「あんな零細企業、従業員の数だってたかが知れてる。実働員はほぼ潰したと考えていい」
「親玉にせよ残りの手下共にせよ、警察が今夜自分達の根城に押し寄せて来てるってこたぁ流石に気付いてるだろう。富田とかいう屑が余程の間抜けでなけりゃな」
警察の介入を早めたのも、今回に関しては已むを得ぬこと。
もし悠長に一網打尽の機を待っていたなら、あの娘は今夜獣共に壊されていただろう。
そして警察とて無能ではない。事務所を浚えば物証なぞ幾らでも出てくる。富田某が逮捕されるのはもはや時間の問題だ。
だが。
「気に入らねぇのは、溝鼠から養分を吸ってる
「逮捕できないっていうのか? 警察が本腰で動いても」
「逃げ果せるとまでは言わんが、その最後の悪足掻きで害を被る者が出るやもしれん。今回の娘子のように」
「……ちっ、反吐が出る」
「同感だ。となりゃ、今宵はもう一働きしてみるか。奴らがとんずらこく隙を与えず、拙速に、迅速に」
「確かに、時間を与えて潜伏されたら厄介だな……」
アクアは顎に手を添え思索に耽る。と言って、十秒にも満たず少年は口を開いた。
「逃亡するには資金が要る。何を置いてもまず金を掻き集めようと動く筈」
「なるほど……となると、奴らの資金源は女をその筋に落す斡旋業。単純に考えるなら、あの事務所に上がりを保管してたんだろうが」
「……いや、もう一つある。富田は飲食店を幾つか経営してるって話だったよな。なら当然売上金は店舗ごとに管理してる」
「! そうか。そいつを回収する為に」
「富田は自分の店を巡る筈だ。それも今夜中に」
次の瞬間には、アクア共々ソファーから立ち上がっていた。
「行こう。一軒ずつ虱潰しだ。お前が出てる間に店名と住所はもう調べておいた」
「かっかっ! 流石だ相棒」
────私、アイドルになるのが夢なんです!
そう言ってキラキラと笑うあの子が、私にはひどく眩しかった。
白状すると、心底羨ましかった。
告白してしまうなら……少し妬ましかった。
それでも、私は後悔していない。今の自分も、今までの時間も。家族の為に働いて働いて働いて病気がちの母を支えながら弟達の学費も稼いだ。
うん、我ながら頑張ったよね。自画自賛じゃないがこれだけは胸を張って言える。私の人生には片時だって無駄な時間なんてなかった。
やるべきことをやり通した。
どんなもんだい! えっへん!
…………でも。
そうやって強がり言って、悟ったように振る舞ってみても、ふと気付けば考えてる。
たらたらと未練。
あーあ、なりたかったな、アイドル。
────聞いて聞いて先輩! うちの店のオーナーが変わったんですけど、なんとその人が
ほんの二年前まで勤めていたガールズバーで、随分懐いてくれた後輩。正真正銘の女子高生な彼女は、いつも無邪気に夢を語った。
それを応援する気持ちに嘘はない。彼女は昔の自分なのだから。
だからこそどうか、自分のようにはならないで欲しい。
ただ純粋に、
私は私自身の夢を懸ける想いで、あの子の明るい前途を祈っていた。
そんなある日の夜。
『先輩……助けて』
突然掛かってきた電話の向こうで、怯え切った声が言う。
『アイドルにしてくれるなんて嘘でした……オーナー、富田さん、あの人、他にもたくさん、女の子を……私、私も、今、無理矢理……ひっ、いやっ────』
悲鳴はほんの一瞬だけ耳を劈き、途絶えた。
気付くと私はマンションの自室を飛び出し、夜の街へと走り出していた。
……今になってよくよく考えると、まず何より先に私がすべきだったのは110番だったような気がする。というか間違いなくそうだ。
そういう正常な思考力を取り戻せたのは結局、私が“あの人達”に捕まった後だったけど。
路上でタクシーを捕まえて、真っ先に私が向かったのは古巣のガールズバーだった。
他に選択肢もなかった。彼女の居所についての手掛かりらしいものがあるとすればここしかない。
表から通りを一本跨いだ歓楽街。スナックやバー、ちょっとエッチな店も素知らぬ顔で看板を出す混沌で猥雑な夜景の中に踏み入る。
酒臭く賑わう人通りを横目に、手元のスマホで時刻を確認すると十時をやや過ぎていた。この辺りが水商売のピークだろう。
「……あ、そっか」
一階から最上階の八階までしっかりとバーやスナックが軒を連ねる雑居ビル。その地上、従業員用の裏口に差し掛かって、はたと思い出した。
「定休日だっけ……」
店には誰もいないだろうか。いや、もし仮にいたとして、それは果たして
途端に、ばくばくと恐怖を訴える心臓を胸の上から抑え付ける。
今更怖気づいてどうする。
「し、しっかりしろMEMちょ。可愛い後輩の為だろ。な、なんなら今から生配信とかしちゃう? ガールズバーオーナーの裏の顔! 囚われのJK救済RTA~!! ……なんつって」
応援コメントもツッコミもない。室外機の唸りと湿気た風が地面を這うように吹き抜け、そっと脹脛を撫でていく。
自分はただ一人、闇に飛び込む。
「……っ!」
意を決して、私は裏口の扉に一歩近寄った。
その瞬間、扉が弾けるように開かれた。
「ひゃお!?」
「ッッ!? 邪魔だ! どけ!」
中から現れたのはやたらに色黒のおじさんだった。ハイブランドのダークスーツ、漆のように滑らかな生地の黒シャツはこの寒い中でも胸元を鳩尾まで開けている。イエローゴールドのネックレスがばちんと黒い胸を打った。
必死の形相。怒声とは裏腹に目は怯え切っていて、サバの小骨のように細く整えられた眉毛がへなへなと歪んでいた。
革のバッグを抱えて、男性は裏口を飛び出す。
当然私は道を譲るようにその場を逃げ跳んだ。
男性が裏道を駆けていく。逃げるように。
ゴミ箱を蹴飛ばし、足を縺れさせて、死に物狂いで逃げて────頭上から降って来た“影”に圧し潰された。
「ぶぎゃぼっ!?!?」
潰れた蛙、なんてもんじゃない。豚の悲鳴のような音を漏らした彼は、前のめりに倒れたまま動かなくなった。
その背中に膝を突いていた“影”が、すっくと立ち上がる。
影のように黒い装いの人が、男性を見下ろして言った。
「富田を仕留めた。西側の裏口付近だ……仕方なかろう、見取り図と間取りが違ったんだ。どうも頻繁に改装してるらしくてな……わかった。わぁかったって、すぐ戻る。おうさ、抜かりはねぇよ。表と違ってこっちは人通りがなくてな。多少派手に動いたところでなぁに、誰にも見られや────」
「…………」
そうして、目が合った。合ってしまった。
暗闇を二つ、まるで自ずから光るようにして穿つ赤い瞳。
それはすごく、綺麗な色だった。それは鬼灯の果実みたいに鮮やかだった。
なんて言ってる場合じゃなかった。
不意に、光が細まる。黒衣のその人は微笑んでいた。
「見たかい?」
ぶんぶんと首を左右する。
「聞いたかい」
「なんにも聞いてません! 聞こえません! あーあー最近耳が遠いなーヘッドホン爆音で使うからだなー気を付けなきゃなー!」
「そうかい。そいつぁ所謂現代病だな。自愛しねぇといけねぇよ」
「ホントですね! お互い健康は大事にしていきましょう!」
「ああまったくだ。お心遣いありがとうよ、お嬢さん」
「いえいえどういたしまして! それでは私はこれで」
「そしてすまねぇな」
踵を返し、背を向けて、全力疾走しようとした私の……目の前に現れた黒衣の人が言った。
ぼんやりとした心地で覆面をした顔を見上げる。
「…………ワープ?」
「いんや。人よりほんの少しばかり足が速いのさ」
間近で見るとホントに背高いなぁこの人。
私は努めて暢気にそんなことを考えた。一般的に人はそれを現実逃避と呼ぶのだと知っている。
「紅茶は好きかい? 事務所に良い茶葉がある」