家のソファーで一人、ルビーはぼんやりとテレビを見ていた。
「……おかえり」
俺がリビングに入ってきたことには流石に気付いたようだ。
変調は明らかで、その原因について想像を巡らせてみる……すると、我ながらあっさり察しは付いた。
双子だからツーカーなのか、あるいはもっと別の部分で、俺とさりなちゃんは解り合っているから。
俺は常になく物静かな妹の隣に腰掛けて、自分の膝をぽんぽんと叩いた。
「おいで」
「……」
逡巡少なく、ルビーは機嫌の悪い猫のように注意深く膝の上にしな垂れた。
このまま頭を撫でていれば、その内に喉を鳴らしそうだ。
テレビから漏れ出る雑多な音が静謐なリビングを跳ねて回る。
少女が意を決して口を開くまでのこの時間を苦に感じたことはない。前世も、今生でも。
「……学校でね。不知火さんに言われたの」
「うん」
訥々と語られる今日の何気ない出来事。彼女からそれを聞けること、彼女の口から語られる他愛もない日常、その重みを、価値を、俺は日々尊んでいる。
そんなことを言ったら、ルビーは大袈裟だと笑うか、さもなければ恥ずかしそうに怒るだろう。
「へぇ、マシラに? あの不知火フリルが?」
「あ! 信じてないでしょ! あれは絶対冗談なだけじゃない感じだった。もうホント興味津々って感じでさ、機会さえあれば本気で『今ガチ』まで会いに行く気だ。わかるんだから」
「女の勘で?」
「そう!」
「ははっ」
「うぅ、わーらーうーなー!」
「ごめんごめん。いやでもキミ、そんなことでずーっとしょぼくれてたのか?」
「そんなことじゃない。アクアだって……せんせだって、イヤでしょ? おじさんが、遠くに行っちゃうなんて」
「……でも、あいつだって今を生きてるんだ。文字通りの新しい人生を与えられた。あいつ曰く、神だか天魔だかに。それをどう生きるかは、あいつの……自由だ」
「せんせはそれでいいの? 本当に?」
「……」
「私達の知らない、私達が認めない、どこかの誰かの為におじさんが力を尽くそうとする。どこかの誰かを、また命懸けで助けようとしちゃう。それでいいの?」
「そうは言ってない」
「でもおじさんは、そういうしょーがない、どーしようもない人だって、せんせ知ってるでしょ?」
「そんなことはさせない。もう、二度と」
あの野郎の好きにはさせない。もう二度とあんな、あんな、反吐が出るような真似は。
血の色に狂った、あの空間を。
命の失われた暗い眼を。
俺は許さない。断じて、認めない。
「最悪、この家の地下倉庫に鎖でふん縛って放り込んどくのも手だな」
「あんな狭いとこおじさん入んないでしょ。ただでさえ大きいんだから。でもそこでロープをチョイスしないせんせってばナイスだと思う」
「あいつの今のスペックだと手錠の鎖程度なら簡単に千切れるからな」
「実際んとこおじさんもう人間じゃないよねあれ。いやわりと本気で」
「それはそう」
当の本人こそが自分自身の物理的人間性を一番疑っているというのだから、笑えばいいのか呆れればいいのか。
「でもお前、MEMちょには『おじさんをよろしく!』みたいなこと言ってたんじゃなかったのか。監督が面白そうに茶化してたぞ」
「あー、うん。言った」
「不知火フリルはダメで、MEMちょならいいのか?」
「だって、同じユニットのMEMちょとならいつでも連絡取れるし、どこにいるかもすぐわかるし、いつだって会いに行けるし、いつでも────取り戻せるでしょ?」
無垢な瞳で星が瞬いた。純一な色。光。嘘を微塵も含まない心の顕れ。
ルビーは本気で。
「返してって言えばすぐ返してくれるよ。MEMちょ優しいもん! わかってくれる。理解してくれる。おじさんが私達にとってどれくらい大事か、大丈夫、MEMちょだよ? 大丈夫だよ……それでも、もし、わかってくれなかったら……うん。大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫だから、大丈夫、だよね……? ねぇ、せんせぇ」
「うん、大丈夫だよ。さりなちゃん」
「……えへへ」
その時は俺も一緒に謝ろう。きちんと話をして、それでも納得してくれないなら。
「あれ、待ってせんせ。いいこと思い付いた」
「うん?」
ひょっこり起き上がったルビーが突如諸手を上げる。
「そうだよ。不知火フリルが芸能人として遠過ぎる存在だからこんなに不安になるの。だったら……私がトップアイドルになっちゃえばいいんだ! そしたら不知火さんだろうが誰だろうが、簡単に手が届く。どうとでもできる! あっはは、もーなんでこんな単純な理屈気付かなかったんだろ。なにも変わらないんだ。私は変わらずただアイを目指して邁進すればいい!」
「その道のりは簡単じゃないけどなー」
「もぉー!! 水差さないで! せんせの意地悪ー!!」
「いたた、はははっ、ごめんさりなちゃん。痛い痛い、ごめんて。ははははは!」
ルビーちゃんが膝の上に寝転んで両腕を振り回す。俺はその可愛らしい攻撃に甘んじた。
「あ!」
「今度はなんだ」
「テレビ! ほら、おじさんのCM、そろそろじゃない?」
「ああ、そうか。この時間だっけ」
二週間前。日没まで残り10分。
郊外某所。
────あまり期待しない方がいいですよ
それは、常の彼女からは口にされない、ひどく冷たく乾いた言葉だった。
忠告の体だったが、どうも違う。それは自分自身に言い聞かせるように。
これ以上傷付かないように。
期待して裏切られて、我が子同然の作品が汚されるのをただ見せ付けられ続ける。その痛み。惨い痛みを。
気丈に振る舞う先生の細い背中。見てられなかった。
「……」
撮影場所は郊外、取り壊し予定の廃ビル。地上六階。
窓どころか壁も取り払われた吹き曝し、コンクリート剥き出しのワンフロア。
都市の覇権を巡って大小様々な勢力が、字義通り鎬を削り合う世界。銃火器ではなく、刀剣によって人と人とが相争う。時代劇ではない。しかし完全な現代劇とも呼べない。和テイストに全霊のエッジを込めて構築した鮫島アビ子の世界観の結晶『東京ブレイド』。
シチュエーションはまあまあ。西日が床や天井や柱を緋色に染めるノスタルジックなこの光景は悪くない。
ただ予め設定されていたのは夜の剣闘。残念ながら今日この情景を活かす機会は訪れない。
今日の撮影は、原作にはないシーン。原作とアニメを宣伝する為の謂わばイメージ映像を製作するという。
「先生! どうもお運びいただいて」
「あ、はい。どうも……」
「どうです。結構雰囲気あるでしょう。解体業者の不手際とかで一週間工事が遅れてたところに滑り込めましてね。ビル一棟丸々借り切りですよ?」
「はあ、すごいですね」
「……今度こそ期待に応えてみせますよ」
監督さんはやる気みたいだ。
それは素直に有り難いと思うしすごいと思う。
過去三回の撮影や完パケに細々とケチを付けた相手によくこんなに話し掛けてくれるものだ。
生返事にならないよう(なっていないつもりで)私は缶のカフェオレに口を付けて誤魔化した。
以前に同行した撮影で感想を聞かれて、出来の良いコスプレですね……と答えたのは流石にまずかったかもしれない。
漫画アニメの負う宿命だ。
形は違えど、実写化に対してアレルギー反応は不可分の病理。現実を離れ、現実を誇張し、現実より美化されるからこそ虚構は求められる。勿論、それだけではない。それだけではないと信じてる。ストーリー、設定、情緒や言葉、そういったものにこそ面白さ素晴らしさが宿ると、漫画家、創作者、表現者である自分がせめて信じなければならない。
それでも、やっぱり、チラつく。
細部の粗や、幻滅の不快感、私の世界観への侵犯を、冒涜を。
感じずにはいられない。我が子に趣味の悪いお仕着せをされて怒らない親がいるか?
私は偉そうに、傲岸にそう宣おう。……本当は偉ぶりたくなどないのに。
だからこそ、今日ここに来た。
得意でもない口を使い、交渉をして、彼を呼んだ。
期待と不安と、先生の忠告。理性と諦観、私の皮肉で露悪な部分が意地悪く囁く。
どうせ、と。
大きな期待は持つな。裏切られるぞ。痛い目を見るぞ。落されるなら、低い位置からがいい。
だから。
でも。
やっぱり。
「“ハバキ”役、五反田マシラです。どうぞお頼み申します」
低い男声に思わず顔を上げる。
廃ビルの寒々しい鉄筋コンクリートの空間に。
彼は来た。
自然な白髪、ドーランに拠らない浅黒い肌、日本人離れしたその偉丈夫は今、現実離れした衣装を纏っている。
黒い着物、黒い袴、羽織りだけが目の醒めるような藍色をしている。蝶々の染め抜き。明らかに女物のそれを肩掛けにした伊達男。
そして、その右手には鞘に納められた太刀が握られていた。全長七尺を優に超える。刃先から柄頭まで余裕で私の身長より長い。手を伸ばしたって届かないだろう。
模造刀だ。
けれどあの大きさなら重量も相当の筈。実際、作画部屋に置いてある資料用の打刀でさえ私は満足に振れない。
ましてあんな。
不意に、彼は、“ハバキ”はあろうことか掌中でその糞長くて糞重い筈の大太刀をぐるりぐるりと回し、風切り音を立ててそのまま肩に担ぎ上げた。
「ほ、ほあぁあああああああ! 初登場時の大見得! ほあああああああああ!」
「あそこで奇声上げてるお嬢ちゃんはどなたかのお子さんかい?」
「原作者様です」