────
都心の真っ只中に造られた古蒼な日本庭園に鹿威しが甲高く鳴り響く。
「……いけねぇな。いけねぇよこいつぁ。こんな雅な場所柄で素面でいられるかってんだ糞。燗でも入れなきゃ居たたまれんぞ」
「一杯くらいなら大目に見るけど?」
「やめてくれ。忍耐がぐらつく」
流水の静かな調べ。控えめに灯った石燈籠の光が小池に映え、波紋と共に光が揺れる。池の傍には淑やかな姿でモミジが佇んでいる。その紅葉がなんとも実に、眩いほど鮮やかだった。
秋夜なれば冷涼だが、風はなく澄んだ空気が心地好い。開け放たれた障子戸の向こう、完璧に造形されたこの小世界はひどく美しかった。
外は絶景、卓上には色とりどりの馳走、肴はいずれも極上だ。だのに己の前には酒がない。肝心要、不可欠なるその画竜点睛を欠いている。
対面の座椅子で、旨そうにお猪口を嘗める男を恨めしく見やる。
そうしてから、己は無闇に侘しい心持ちでほうじ茶を啜った。
都内某所、鏑木は密談の場として料亭の座敷を用意したのだ。
「で? 昨日の意味深長な電話、ありゃなんだ。こうも念の入った人払いをするからにはそれなりに厄介な事情なのだろう」
「厄介になりつつある、かな。君を呼んだのは対応を協議する為だ。どういう訳か君はこの道の専門家らしいからね。本当にどうしてだか」
鏑木は手酌で注いだ酒を呷り、人心地。
出し抜けに言った。
「脅迫されてんだよね、僕」
「あぁ?」
鏑木は胸ポケットから黒い棒切れのようなものを取り出した。
一見するとUSBメモリのようだが、いや。
「ボイスレコーダー……?」
「そう」
応えと共に男は再生ボタンを押す。
対する鏑木のものではない、その聞き知らぬ男の声はかなりくぐもっている。ポケットに入れたまま録音したのだろう。
『すまないがもう一度言ってもらえるかな。意味がよくわからなかった』
『頼みますよ鏑木さん、そうはぐらかさないで』
『別にはぐらかしてはいないよ。ただ、勘違いの余地のないようにしておきたい。何分デリケートなことだから』
相も変わらず無感情というか無感動というか、この男の声音はいつも抑揚が少ない。機嫌の良し悪しを他人に掴ませず、平淡なままに他人と会話をする。
対して、会話相手の男は妙に慇懃で、下手から言葉を選ぶ。ともすると鏑木に怯えているようにさえ聞こえる。
脅迫者にしては随分と様にならない。
『貴方の番組でうちのタレントを何人か使ってくださいと、そう言ってるんです』
『正式に事務所を通さず、僕個人にそれを言うのは?』
『勿論……正式なオファーでは採用していただけないから、です』
『日本特有、とまでは言わないけど、ほとんどの場合ドラマも映画もキャスト有りき。それぞれ必要なポジションにマーケティングを考慮して最適な人間を事前に割り振ってから製作される。オーディションで大抜擢とか、偉い人の目に留まってだとか、そういうのは夢物語だってことは理解してるよね?』
『だからこそ、こうして貴方を脅してるんです。今ガチ、すごい人気じゃないですか。再生数は桁上がり、毎週SNSのトレンドを総なめして、広告費やグッズ展開、売り上げに換算したら何億です? 貴方の地位も益々盤石だ。最終回を控えて大事な時期ですよね? そこに……演者に対する傷害事件とか、やばいでしょう』
『君がやるのかい?』
『まさか……そういう仕事を請け負ってくれる人間が世の中には五万と居るんですよ』
『へー、そりゃすごい。まるでドラマみたいだ』
『それで……! どうなんです!?』
『いいよ』
『えっ』
『ただ、ちょっと条件があるんだ』
『じょ、条件って、あんた』
『いいでしょそれくらい。交換条件って言ってもどうせこっちの方が多く払うんだし』
『……言ってみてください』
『うん、まずはね────』
再生された時と同じ唐突さで音声は途切れた。
「まあ大体の流れは理解してもらえたかな。相手は某大手芸能プロの営業課長。若手の出世頭で通ってた子で何度か仕事したこともあったんだけどね」
「この間抜けが課長だって? おいおいマジかよ。世も末だな」
「ぷっ、ふふ、結構いい奴なんだよ? なんせ僕の好きな銘柄の日本酒をよく手土産に持ってきてくれる」
小馬鹿にしたようにも、本気で褒めているようにも聞こえる。
実際、人が人を評価する指標などそんなものなのだろうが。
「これを脅迫なんて言った日にゃ本職が怒り出すぜ。
「それは、君曰く素人の僕には解りかねる。ただ一つ、彼は脅迫が本気だという証拠として、こんなものを僕に寄越した」
鏑木は鞄からハンカチを取り出し、卓上に広げた。
白い布切れの真ん中に、なにやらくすんだ鉄色の物体が横たわっている。
「なんだこりゃ。ボルトか」
「先々週の台風の時、屋上のビニールハウスが強風で飛ばされたことがあったろう。あれは、自分が指示してやらせた、と彼は言った」
「…………」
「……そう恐い顔をしないでくれるかな。君は控えめに言っても眼力が凄まじい。自覚はないみたいだが」
珍しく怯んだ様子の鏑木をじろりと一睨みしてから、己は再び太い金属の六角ボルトを見下ろした。
そうして、ふと。
「……違うな」
「ん?」
「こいつはあの日吹っ飛んだボルトじゃねぇぞ。あの学校、見た目は小綺麗だが内装から造りからかなり古くてな。使われてたのは旧規格のボルトだ。だがこいつは違う。今市販で主に流通してる新規格品だ」
「どういうこと?」
「狂言だってぇこった。その間抜けの」
あの日、子供らを家に帰した後スタッフで屋上の破損個所を修繕しに掛かったのだが、ボルトの規格が既製品と合わないだのなんだの一悶着起きたのだ。
「居残った数人のスタッフと作業してた時に発覚したことだ。その時はとっとと設備管理の業者を呼んで済ませた。ディレクターには無論報告してるが、他のADなんかは修繕したというところまでしか知るまいな……どうやら、今ガチの現場にその課長殿の
「でも、わざわざそんな嘘を吐くってことは、彼には本当に演者を襲撃するような度胸はないということだね」
「……さて」
溺れる鼠は藁をも掴み、追い詰められれば猫を噛む。
これほど厄介なものもない。
「その小心者の胆が鼠並だったとしても、脅し文句にガキの身柄を上げる屑野郎には違ぇねぇ。己としちゃ、帰り路にひとっ走り捻り潰しに行ってやりてぇところだ」
「……君の怒りは、うん、正しい。それを否定する気はない。だがそこを曲げて、動くのは待って欲しい」
「何故」
「だから、睨まないでくれ。頼むよ……その間抜けの屑野郎の言い分にも、ただ一つだけ正しい点がある。最終回を目前に控えた今ガチで傷害事件なんてものが起こった時、一番損を被るのは僕でも、製作スタッフでも、スポンサーでもない。演者である子供達だ」
「……」
「たとえ何の落ち度もない被害者であろうと、事実でもそうでなくても揶揄してバッシングするのが世間というものだ。芸能人として出発したばかりの卵達、そのキャリアにむざむざ傷を付けたくはない。僕の予想とは違ったが、今ガチは多くの注目を浴びて、そしてとても有り難いことに見てくれた多くの人々に愛されている。純粋に愛されながらこの世界に漕ぎ出せる者は稀だ。そんな得難い機会を用意できたことを僕は誇りに思うし、出来ることなら……君達には、良い芸能生活を送って欲しい」
鏑木は居住まいを正して、卓面に額を付けた。深く頭を垂れて、重く懇願した。
「どうか君の実力を以て子供達を守ってくれ。今ガチが無事に最終回を迎えるまで。その後なら、脅迫者を警察に突き出すのも、私刑に及ぶのも君の自由だ。その時は僕のコネや
頼む。
鏑木は繰り返した。
生憎と、己は嘘には慣れている。取調室や聴取に、口から出任せを並べる輩と幾度となく相対してきた経験は、目の前の男の真実味を保証した。
欠片でも嘘があれば容赦などしなかったのだが。
この男こそ厄介だ。本音と嘘の最も有効な使い分け方をよくよく心得ている。
「狸が」
「……」
「あんたに言われるまでもねぇ。己があの番組をあんな有り様にした
座椅子を立つ。座敷を背に、縁側へ出る。
見事な料亭の庭園を見やり、去り際、捨て台詞を置いていく。
「どうせ呼び付けるんなら、も少し気安い店にしてくれ。尻の据わりが悪いったらありゃしねぇ」
「ふっ、ああ、次からはそうしよう」
料亭の外に出てすぐ、白く長い塀の続く夜道の向こうに見馴れた姿を捉えた。
「この非行少年が。なにをしてやがる」
「不良中年を迎えに来たんだよ」
詰まらなそうに、アクアは顔を埋めたストールの中で悪態を吐いた。
「馬鹿、寒かったろうに。風邪ひくぞ」
「寒いよ。だから……とっとと帰ろう」
俺達は肩を並べ、ゆっくりと帰り道を歩き出す。
アクアは暫し無言だった。昨日の
ルメは神出鬼没だ。気付けば姿を眩ませていた。仔カラスもいつの間にか消えていた。自室に用意した寝床はもぬけの殻。
なにやら物悲しい。置いて行かれる気分を久方振りに味わっている。
……ああ、そうか。
「なんだ、お前さん達も同じか」
「なにが」
「置いて行かれる……そんな風に思ったか?」
「…………」
アクアは応えない。いや、答えているようなものだ。
「そんなわきゃあねぇだろうが。どうして俺が」
雨宮を、さりなちゃんを置いて、何処かへ去ってしまえるというのか。
己のような男に、そんなことができる筈がないのに。
「馬鹿だねぇ。要らねぇ心配しちまいやがって。まったく、馬鹿だねお前さんら」
「……うるさい」
「かっかっ」
己が笑い掛けてもアクアはこちらを見ようともしない。
ただ、その後訪れた沈黙は、僅かに和らいでいたように思う。
「……鏑木Pとは、なにを密談してたんだ」
「それよ。お前さんの知恵も借りたいと思ってな」
己はアクアに、事の顛末と鏑木Pの依頼内容を掻い摘んで説明した。
アクアは暫時無言で考え込んでいた。ストールを引き下げ、鼻から吸い込んだ空気を浅く吐き出す。
「……あの日、最初に屋上に行ったのは……?」
「そりゃ、有馬嬢だ。あの日は天候不順でスタッフの集合も遅れ気味だった。その直後に突風が吹いてビニールハウスが飛んじまって────待て、屋上の施錠は」
「撮影が終わる度に施錠は必ずやる。鍵の管理は、週番だった。そう、たしかADの人達の持ち回りで」
「ってことは」
「有馬が屋上に出られる筈がない。誰かが
俺達は足を止めて互いに顔を見合わせた。
事故であり、それを狂言に利用したものとばかり思っていた。だが、何故こんな単純な事実に思い至らなかったのか。
「ハウスの固定具に細工をした者がいる」
それも、狂言などという迂遠な真似をする必要がない筈の、脅迫者たる間抜けとは別に。
「……もし有馬が怒って屋上に行かなかったら、あのビニールハウスは……校舎裏の牧場に落ちてた」
「…………」
アクアが呆然と呟く。
つまり、
────今ガチメンバーを狙う何者かが、他にもまだ。