────先日、高千穂の山中で
灯りの落ちた部屋の隅で膝を抱えて座っている。もうどれくらいそうしてるだろう。
アイが家に帰ってきて、夜型のアクアでさえ既に眠りについた深夜二時。
私は眠ることもせず、ベランダの外を見ていた。もう傾き始めて低い月が、血のように赤々と燃えている。
錯覚?
それとも、私の心がそう見せてるのか。
わからない。
わからないわからない。
わかりたく、ない。
────遺体で発見されました
「っ!! イヤ……そんなの、いやぁ……せんせぇ……!」
溢れ出そうとするものを必死に押し殺す。でもそれはあとからあとから止め処なく、声に、涙に姿を変えて私の体から逃げ出していく。
ぽたぽた、雫がフローリングで玉になり、弾けた。
私の惑乱する心のように弾けて、弾けて、千々に砕けて。
一つだけ、残る。この目の中に感じる。鋭く尖り、触れれば刺さり切り裂く棘のように凶悪な、星屑。
暗く輝く憎悪の星。
ごく自然のなりゆきで、私はこの感情を理解する。
────相応の報いをくれてやる
藤咲のおじさん。
強面だけどいつも優しくて、柔らかに笑う人。
なのに……あんな恐い声のおじさん、初めてだった。
せんせとおじさんと私。親からも見放されて独りぼっちだった私に、あの人達は寄り添ってくれた。一緒にご飯を食べた。一緒にB小町のライブを見た。推しの話でせんせと盛り上がって、おじさんはおじさんだからちんぷんかんぷんで。
いつも、いつも笑わせてくれた。
空虚なだけだった入院生活が、あんなにも楽しいと思えた。
あの消毒液臭い病室が、大切な思い出の場所になった。
それを、私の、私達の大切な思い出を、傷付けた。
大事な人を奪った。
「……そう。そうだよ。そうだよね、おじさん」
許さない。
せんせを殺した奴を私は絶対に許さない。
「報いを」
相応しい報いを与えてやる。
せんせが受けた痛み、苦しみを味わわせてやる。
絶対。
「殺してやろう。仇を討とう、ね……おじさん……」
私は膝に顔を埋めて、殺意を唱えた。
この赤い月の下、きっと自分と同じ想いを抱いて眠れぬ夜を過ごす人がいる。そう思うと少しだけ、ほんの少しだけ心は安らいだ。
独りぼっちじゃないって思えた。
ファンレターの内容は、言ってはなんだが皆似たり寄ったり。
今日のライブは良かった。ダンスが切れていた。歌声に感動した。握手会の対応が神がかっていた。これからも応援します。
いつも元気をもらって────
『ほらほら見てよ! アイの笑顔もう最高! 見てるだけでめちゃアガるもん! 確実に三年は寿命伸びてるよこれ!』
『あぁこれはやばいな。ファンを狂わせるのもわかる。わかるだるぉ藤咲!?』
「うるせぇよ」
耳元でぎゃあぎゃあ騒ぐな。
もういない。
お前達はもう、いないんだよ。
知らず燃え尽きていた煙草を灰皿に押し付ける。吸殻の山は新参の一本を迎え入れまた一層嵩を増した。
都内某所ビジネスホテルの狭苦しいシングルルームには段ボールが四箱積み上がっている。
芸能事務所『苺プロダクション』が保管する星野アイ宛のファンレターを全て押収し、俺は宣言通りその中身を検めていた。
取り分け、二年前。星野アイ本人が妊娠を自覚した時期の消印の前後。特に熱狂的な、偏執的な内容のものを抽出していく。
“化粧が濃すぎない? アイにはもっと薄い色合いが似合うよ”
“ダンスの立ち位置、ちょっとめいめい贔屓され過ぎ。アイをもっと前に出せばいいのに。振り付け師殺してくる”
“この前駅前のカフェで抹茶クリームのフラペ飲んでたよね?? 僕もあれ大好きなんです! その後モールでパンプス見てたでしょ? プレゼントするね!”
“アイとの結婚生活を想像してみました。希望があったら返信してね”
どれもこれも大概だった。
アイドルだの芸能人だの、そんな世界に欠片の造詣も持たない己にはそれらは一様に犯罪者予備軍に見えた。
あるいは、そうであればよいと思い込んでいる。
この中にそれがあればいいと期待している。
友の仇が。
雨宮吾郎を殺した者が、この中に。
「……」
それは幾度となく胸中に湧いた。骨を焼き、血を沸騰させた。
その癖、頭は妙に冴えている。冷徹に今の己なるものを俯瞰する。警察官にあるまじきそれを夢想する一人の男を。
仇を、憎悪を、殺意を。
果たして俺は
「……
そうしてこの期に及んで恃むのが、理性ではなく亡霊とは。
救えぬ。救い様のない愚かしさ。
「わかってる。わかってるさ」
一人、誰に聞かれることもない言い訳を繰り返す。己の正気を訴える。
また一枚、鼻息の荒い文章を読み終え、除外する。こいつじゃあない。また一枚読み終えては除外する。こいつでもない。
ここ数日、昼間は関係各所を巡り夜間は朝までこの作業に当てている。膨大な数の紙媒体に加えて、いちごプロの公式ファンサイトに送られるメンバー向けのメッセージ等も並行して検分せねばならなかった。紙・電子それぞれ半数は開いたろうが収穫は乏しい。
そろそろ明け方近い。が、眠気は一向に覚えない。遺体を発見した日から、数分微睡むことはあっても、身体は睡眠を拒否した。精神は急き立てられる。心は、それを掻き立てる。
応報を。
その時、スマートフォンが震動した。
画面を見やって通話をタップ。
それは地域課の後輩婦警からだった。
「よう、こんな時間にどうした。随分と宵っ張りだな」
『昼間だと先輩ほとんど捕まらないじゃないですか! もう……!』
「すまねぇな。進展はあったかい」
『……いいえ、現場検証は済んだそうですけど、今はまだ初動の方針で揉めてるみたいで』
己の拙速な物言いに、彼女は苦言の全てを一旦仕舞って端的に応えてくれた。
県内公立病院勤務の、それも“産科医”の殺害。怨恨、営利、それに加えて医療過誤による報復殺人の可能性も視野に、警察組織の動向が及び腰……もとい巧遅に流れることは予想ができた。かの大野病院事件の悪例、その二の舞を踏む訳にはいくまい。
それになにより基本的な問題は、警察は物証がなければ大々的な捜査に乗り出せない。私有地の捜索、証拠品の押収、いずれも令状を提示せねばならずその発行には必要十分な根拠が要る。
「己の捜査資料ではやはり本部は動かせんか」
『……すみません』
「かっかっ、なんでお前さんが謝るんだい。お前さんにゃ責めも咎もありゃしねぇさ」
────芸能関係者、ないしアイドルの一ファンによる
こんな荒唐無稽な憶測を真に受けていては警察組織など立ち行かないだろう。
物証など欠片もない状態から犯人を特定しようなどと無謀な真似をするなら、やはり動機から当たるより他に術はない。産科医雨宮吾郎を殺害するに足る動機。
そんなものはなかった。
犯人に雨宮吾郎を殺害する動機などない。初めから犯人の標的はあの男ではなかったのだ。
アイドル星野アイ。かの娘こそその大本命。
おそらく雨宮は、様子を窺っていた犯人を目撃したか、あるいは犯人となんらかの接触を持ってしまったが為に、已む無く殺された。
「……」
『先輩……?』
「いや……失踪当時に市内の防犯カメラを洗えてりゃあな」
目撃情報はあったのだ。
誰あろう西臼杵病院の看護師が見ていた。不審な、見慣れない風体の“二人組”。一人は大学生風の若い男。そしてもう一人、中学生程度の男の子を。
悔やんだところで意味はない。死体が発見された現在ならいざ知らず、一般家出人捜索の為に店舗や家宅の映像開示許諾など下りる筈がなかったのだから。
(だが被疑者はこいつらだ。勘だが間違いねぇ。こればかりは昔取った杵柄だ)
『……先輩、もういい加減署に戻ってください。今ならまだ謹慎と降格くらいで済みます。先輩が最初からこの事件を重視してたって署内では皆知ってたことです。殺人事件として立件した今なら、もしかしたら捜査本部にだって……』
「この期に及んで懲戒免職見逃してもらおう、なんて虫のいいこたぁ思っちゃいねぇさ」
『わ、私も、課長を説得します!』
「よせよせ。これ以上お前さんに迷惑掛けられるかい」
『っ! 今更そんなこと言うんですか……!?』
「……そうだな。今更、さんざ世話ぁ掛けておいて。なんてぇ言い種だろうな……すまねぇな」
『あ、謝らないでください!』
「すまねぇ。これっきりだ。もう己のことは気にしなくていい。くれぐれも課長に掛け合おうなんて思っちゃいけねぇよ。お前さんにまで累が及ぶからな」
『待って! 先輩!』
「ありがとうよ。達者でな」
なおも言い縋ろうとする可愛い後輩を黙殺し、通話を切った。
念には念をと彼女の番号を着信拒否に設定する。
非情な我が身を顧みる。恩知らずめ。同僚を便利に小間使いのように扱って、その礼がこれか。
「……」
今一度、厚顔無恥に彼女への謝罪を思う。
だが、時間はもはや残されていなかった。
「……諦める訳がねぇ」
奴は、
可能性を挙げ出せば切りがない。
だが一つ、確実に言える。
彼奴等は機会を窺っている。星野アイを殺すその時を、虎視眈々と狙っている。
推定される犯人の特徴は、まずなにより星野アイの動向を知る者。即ち芸能関係者だが。
口の堅さは流石に業界人。足を使った警官の直談判にも彼らは容易には応じなかった。
どうする。
星野アイの周辺にぴったり張り付くか。要人警護よろしく……それこそ警察に通報されて終わりだ。己が連行されている内にがら空きの娘を殺される。
いちごプロに星野アイの身辺に警備を付けるよう要請する……悪くはないが、その場合犯人は再び潜伏するだろう。それを何年続ける。安全面において考慮に値するが根本的な解決にはならない。
最悪の場合、
「逃げられると思うなよ」
奥歯が軋む。辛酸と共にそれを噛み締めた。
この憤怒が、かの罪人の赦免を断じて拒む。断じて。
だが。
脳裏にはさりなちゃんと雨宮の、あの無邪気な顔が過るのだ。
「…………ッ」
荒く息を吐く。満ち満ちた殺気を肺から追い出す。
────星野アイは殺させない
あの娘を守り通すことは絶対の条件だ。
「……ふっ、でないと、俺があいつらに憑り殺されっちまう」
憤怒と憎悪が鎮まる。染まり浸りきろうとする俺を現世に引き戻す記憶……思い出。
薬臭い病室での、あの他愛ない日々が、俺をまだ人のままに留めてくれる。
「……?」
ベッドに放ったスマホが鳴動していた。画面に表示された番号に見覚えはない。
すわ後輩婦警が端末を変えてまで?
どう言い含めたものか。手前勝手に心算を練りながら、俺は電話を取った。
しかし、予想とは裏腹に、スピーカーから聞こえてきたのは男の声だった。
『やっと出たな、不良刑事』