思い出話と言うには少しもの寂しい。
白い部屋、薬臭い病室、嫌になるほど清潔なベッドとシーツ、四角く区切られたあの無機質な世界が私の幼少時代の全て。
でも、私はそれを悲しいとは思わない。
辛いとは思わない。
だって、あそこは私の全てで、全てが満ち足りていたから。
『お、今日も居るな。サボり魔と悪戯娘が』
『誰がサボり魔だ』
『そりゃ居るに決まってんじゃん。ここ私の部屋だし』
扉から剽軽に覗く強面。薄味の夕食を適当に片付けた後、病室で推し活をしながら私とせんせはいつもその人の来訪を待っている。
忘れない。大切な日々。あの人達との暖かな日々。
今の私を育んだ、今も私を守り続けている。私の心の立脚点、支柱、自己を肯定できる理由。
だから、私はこの世界に産まれてきてもよかったんだって、思える。
『そう言うおじさんだってサボりでしょー。刑事って普通もっと忙しいんじゃないの?』
『そうだそうだ。仕事しろよ公僕。さりなちゃん、この税金泥棒にもっと言ってやってよ』
『かっかっ! うるせーよドルオタ共め』
私達をからかうおじさんを、私とせんせが結託して文句を言う。
お決まりのやりとり。他愛もない日常風景。そんな些細な一日、一時、一瞬を、刻み付けるようにして今までずっと覚えていたのは、私の身命とかいうものが薄紙みたいに頼りなく脆かったからなのだろう。その時間があまりにも重くて、大切で、楽しかったから。
自分の境遇を悲観する気はない。特別視するのはいかにも悲劇のヒロイン気取りだし、自分が不幸だと認めるみたいで、嫌だ。
私は不幸なんかじゃなかった。
胸を張って、そう言える。
『……どうして』
『ん?』
『おじさんは、どうして私に、こんなに良くしてくれるの……?』
ある時、私はおじさんに訊ねた。そんなことを面と向かって聞くべきじゃないとわかってる。無粋だし、なにより……怖い。
問い掛け一つで壊れてしまうような関係ではないとわかっていても、私は変化することを怖れた。
気兼ねや気負いや、憐れみや同情が。
この白い箱庭の平穏を掻き乱してしまうんじゃないかって。
不意に、終わってしまうんじゃないかって。
不安で不安で仕方なかった。だから、聞かずにはいられなかった。愚かなことだとわかっていても、私は私の弱さを隠しきれなかった。
『己にとっちゃ、さりなちゃんは可愛い姪っ子みたいなもんでな。独り身の寂しい男がこれ幸いと他人様の子供の身の回りをうろちょろさせてもらってる。おぉ、そう聞くと、なにやら褒められたもんじゃあねぇな? かっかっかっ』
『……』
きっと私は不満そうな顔をしていたんだろう。
おじさんはお道化た調子を引っ込めて、薄く笑った。それはなんだか見馴れない穏やかな、柔らかな表情で。
私はひどく切なくなる。
『生憎、深い理由なんてねぇのさ。知り合えたのは言っちまえば偶々だし、雨宮っつう腐れ縁の野郎を通じて奇縁が結んだ。己はそれを有り難ぇと思うよ』
『おじさんがここに来てくれるのは、せんせが私を……特別扱いしてくれるから?』
『いいや。まあ切欠は奴のお蔭だが、そうでなくたってさりなちゃんは特別だったろうさ。ああなんせこんな小生意気で口が達者で面白い娘っ子、他にはおるまい』
『えぇー! なにそれー!』
『くふふ! 他にはいねぇさ。代わりなんて、いやしねぇさ。お前さんみたいな可愛い子は』
────寡男の戯言だよ。
おじさんはそう言って、大きな声で笑った。でもその笑い声はなんだか空元気で、いつもみたいな力強さはなくて。まるで気後れを隠すように、恥じ入るように。
私にはその姿が、悲しく見えた。
『あいつにももう家族がいない。高校二年の冬だったかな。唯一の身寄りだったお祖母さんが亡くなって、天涯孤独ってやつになった』
せんせ越しに伝え聞くおじさんの半生は、言ってしまえばとてもシンプルだった。
小学生の頃に事故で両親を亡くし、宮崎に住まう母方の祖母に引き取られ、せんせとは高校からの付き合いで。
『あいつは自分の生い立ちを不幸だなんて言わないし、振る舞おうともしない。ははっ、その癖、俺みたいな奴は放って置かないんだから、矛盾だよな』
『せんせも……』
『うん、まあ。祖父母に育てられたってところに親近感みたいなものはあったかもしれないけど……結局あいつは、守る側に回ったんだと思う』
『守る?』
同じ顔だった。
柔らかで、穏やかで、寂しそうで、悲しい。そんな笑み。
せんせぇの顔に浮かんでいたのは、おじさんと同じ寂寥の色。
『俺や……さりなちゃんみたいな』
『……』
私は、言葉を濁すせんせぇの気持ちを感じた。
私達に共通するもの。欠落、飢え、病理を。
家族。
そう呼ばれる絆。
私達がいつからか失った繋がり。求めて止まない、願わずにいられない。そしてそれに執着する自分自身を嫌悪する。
無い、そんなものは無いという現実を。
『お節介な奴だよ。自分だって、胸に穴空けてる癖に。そんなものないみたいに振る舞いやがって』
『……』
『許してやってよ。あの馬鹿を。あいつはさ……さりなちゃんが可愛くて仕方ないんだ。守ってあげたくてしょうがないんだ』
それはせんせぇも
ふと浮かんだその言葉を私は胸の奥に飲み込んだ。
代わりに私は自分自身を振り返る。胸の奥底に仕舞い込んだものを手に取って見詰めてみる。
親に見捨てられたという事実。
親に、命を失望されたという真実。
健やかで在れなかった、まともな子供になれなかった、出来損ないだった私は。
それをずっと、ずっと、認められなかった。
自分は愛されているんだと思い込んで……いや、愛されてはいたのだろう。あの人達なりの愛し方を私はきちんと施されてきた。
ただ、見限られただけ。命を諦められてしまった、ただそれだけ。
────私はまだ、生きてるのに。
恨めしいとは、もう思わない。
私は知った。
親の愛は無償じゃない。有限で、結構無慈悲なんだって。
けれど。
愛は、あった。
ここにあった。
私に愛をくれる人達がいた。確かに二つ。色も手触りも温度も、意味も異なる。けれどどちらも、手放しの愛。
見ず知らずの、赤の他人だったのに。
そっか。こういうのも、あるんだ。
こんな愛し方もあるんだ。
私は、もう、安心してもいいんだ。
産まれたこと、生きること、そして死ぬこと。私はもうどれ一つ望まれていないと思ってたけど。
少なくとも二人、私自身を望んでくれる人達がいる。
なら、いっか。
私は胸を張る。
私は最期の最期まで、幸せだったんだって。
陽東高校一年の生徒数は全188人。四日掛けて150人に聞き込みをしたところ、藝の導について知っていたのは47人。内、一回以上講演会やその他のイベントに参加したことのある人間は35人。実際に信者として籍を置いていたのは20人だった。
「うーん、これ多いのか少ないのかよくわかんないなー」
私は放課後の教室の自分の席に座って、メモ帳を眺めながら唸る。
夕暮れの空でカラスが鳴いている。
学校が冬休みに入るまであと少し。それまでに全校生徒に聞き込みをするのは、ちょっと難しいかも。
「はぁ警察の人ってすごいなー。こんな大変なこと毎回やってるんだ……」
机に突っ伏し、進展しない捜査活動を思って憂鬱になる。
「んあーダメダメ! アクアとおじさんだけに好き勝手させないんだから!」
私を愛してくれる人達は、近頃私を放置する。由々しきことである。どうせいざとなった時危険な目に遭わせない為、とかなんとか考えているのだ、あの野郎共は。
そんなことは許さないし、かといって私はただ貰うだけで満足するような殊勝な女じゃない。
「私だって」
一人の男性としてせんせぇを愛している。
親よりも大切な父として、おじさんを愛している。
だから。
「一緒に戦うよ」
私は蹴飛ばす勢いで席を立ち、捜査活動を再開した。