推しの子と元刑事【本編完結】   作:足洗

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悋気

 

 

 店主が気を利かせて出してくれたサンドイッチを早々に片付ける。シンプルなBLTサンドだが、分厚いベーコンは肉質が良くジューシーで油気も厭味が無い。トマトとレタスの新鮮な歯触りも心地よかった。

 二杯目のコーヒーを飲み干して、己は再び資料に目を落とした。

 スピーカーから流れるクラシックの曲目が変わった。生憎、その手の造詣のない己には作曲者も曲名もなにも判りはしないが。

 狭い個室の中、暫時ゆるやかな音楽と紙を捲る物音だけが響く。

 

「……宿泊施設はどれも三ツ星の高級ホテルだな」

「こことかー、最上階のレストランがすっごい評判良いんですよー。本格イタリアンですよーいいなー憧れちゃうなー」

「イタ飯か。近頃食ってねぇな。アリアちゃん連れて行ってみるかい? ……密会場所? 何の為に? 金の受け渡しの為だけにわざわざ……いや」

「えっ、マジですか? マジに受け取りますよ? 言質取りましたよ? やっぱりなしとか言いっこなしですよやったー!」

「……」

「あれ、でも先輩もう結構な有名人ですし……ちょっと、や、かなり、不味い? すっぱ抜かれるかなぁ……まあそれはそれで既成事実……いやいやいや未成年淫行嫌疑で私が捕まる……」

「…………まさか」

「先輩、これも冗談ですから。そんな深刻に悩まないでくださいよ。流石の私でもちょっと傷付く……先輩?」

 

 嫌な予感が走り、それが決して突飛な発想ではないことを理解する。事例は腐るほどあるのだ。

 新興宗教、信者の多くは芸能関係者や見目好い芸能人達、“客”には大物政治家や企業家、そして彼奴等は……面妖なる人心掌握術を持つ。

 実行可能な違法行為は数多あろうが、この図式から導ける大規模犯罪は。

 

「組織売春か」

「え」

 

 脳裏に過った文言をそのまま口にしてから、それが世間一般にはひどく聞くに堪えないものであることを思い出す。

 それこそ、今や立派な一児の母となった女に聞かせることではないだろう。

 

「こいつぁ証拠物件としちゃ特級だ。ありがとよ武藤」

「なんですか。これでお開き、みたいな言い方。気、遣ってくれてるんですか? 先輩それ今更ですよ。私元婦警で今は事件記者ですよ? どんだけ人間の闇追い掛けて来たと……今なら先輩にだって負けてません」

「んなもん競うことじゃああるめぇ。なに、この礼はしっかり返させてもらう。飯でもなんでも奢らせてくれや。知ってるかい武藤、芸能人ってやつぁ殊の外儲かるんだぜ? 使う当てもねぇのに口座に数字がどんどん並びやがる」

「そうやってまた置いて行くんですか」

 

 責めるような言葉であるのに、語気はどこまでも儚く弱々しい。

 捨てられた仔犬のようだ。

 十五年です────武藤は吐息のように呟いた。

 

「気付いたらもうすっかりこんなおばさん。先輩を忘れる為にいろいろやりました。記者になったのは……先輩への仕返しみたいなもんですけど。警察官のままで、私の先輩のままでいてくれなかった貴方への、私の厭味です。結婚して、子供が、アリアが生まれた時は嬉しかったぁ。本当に。子育てで毎日右往左往してる時だけは貴方を忘れた気になれた……」

「……」

「でも結局、この有り様。今にして思えば、別れた旦那も何か察してたのかな。私がどこかの誰かに未練たらたらだってこと……」

 

 女は額を押さえて俯く。

 打ち沈んだ溜め息を卓面に落とす。

 

「中学生相手に、なに言ってんだろ私」

「さて、果たして俺ぁ真っ当な中坊を名乗れるのかねぇ」

「……」

「なぁ、武藤。俺ぁな」

「なーんちゃって」

 

 ぱっと上げられた顔は笑み。

 対して、差し向かいの己の顔は、彼女の目にはどのように映ったろう。とんだ間抜けか、あるいは。

 

「ちょっとは堪えましたか?」

「……そうだな。すまねぇな」

「謝らないでください。惨めです」

 

 武藤はテーブルの呼び鈴を押した。

 程なく店主が扉を開けて用件を問う。

 

「お会計お願いします」

 

 店主が伝票を持って一旦その場を離れてから、武藤は卓上のバインダーを己の方へ押しやった。

 

「組織売春……私もそれは考えました。でもほんの印象なので断言はできません。先輩はどうしてそう思うんです?」

「己の友人に陽東高校に通ってる女の子がいる。こいつはその子が学校で聞き回って突き止めたことなんだが」

「ちょっと聞き捨てなりませんけどまあ今は聞きません。それで?」

「藝の導に深浅の別は置いて関わりのある生徒が数十名。その内、不登校になった者が数人いる。学校側に対しては家庭の事情と説明してるそうだが、この生徒達、クラスメイトが言うには不登校になる少し前から様子が変わっていたらしい」

「変わったって」

「具体的に言やぁ、やたらと羽振りが良くなった。割の良いバイトを見付けた、なんて自慢気に吹く者もいたとか」

「……」

「この子らの身辺を洗うつもりだったが、お前さんのお蔭で調べる手掛かりが増えたぜ」

 

 藝の導関係者が出入りするホテル、帳簿に記載された顧客と失踪生徒との繋がり……本丸を攻める前に突ける箇所は全て突き回してやる。

 

「楽しそうな顔。私、つい今さっきわりと一世一代の告白をしたんですけど」

「……すまん。こいつぁ性分だ」

「病気ですよ。まったく……弱いなぁ」

 

 弱々しく笑み、女は切なげな目で己を見上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 通りでタクシーを捕まえた。酒気を帯びた武藤がその後部座席に収まる。

 雑踏の喧騒が遠く感じる。座席からこちらを見上げる女の無言はそれほど色濃く、強かった。

 言葉なく己に訴えかける、想い。

 己に読心術など使えない。ましてや女心など、不敏で粗略、死んでも治らぬ性根を抱え、今なお生き永らえるこんな男には到底解らない。解ってなどやれない。

 藤咲仁は、何も変わらなかった。身勝手な正義を抱え、振り翳し、またそれに自ら振り回されながら生きている。

 武藤アヤはこんなにも人として真っ当に生きているというのに。

 

「……家、来ますか」

「ん」

「久しぶりにアリアの顔見に来ません? あの子も喜びます。その後、少し……少しだけ、時間、くれませんか。ほんの少し……一度で、いいから」

「……」

 

 喧騒が遠退く。車のエンジン音も消え、夜景が滲み、それらはただの光の濁流に変わる。

 女の目が縋るように己を刺す。

 一世一代というなら、今こそ。必死に。

 俺は。

 

「武藤」

「あれれ~、マシラくんだー」

 

 軽やかに、肩口からそんな声がした。

 背後に気配。これほど接近を許すまで、まるで気付かなかった。

 甘い、花のような香りが舞う。それは己の身を取り巻くように包み、べたりと纏わり付いた。

 武藤が目を見開いて、己の傍らを見やった。

 

「どうしたの? こんなとこで奇遇だね」

 

 濁流のような夜光の中、それら全てが色褪せて見える。

 その笑顔は極光なのだ。人も世界も魅了し焼き尽くす恒星の光。もはや暴力の如き美貌。

 

「にひひ」

 

 ひどく意味深にアイは笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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