“妖”の一字
タクシーの運転手が迷惑そうにこちらの様子を窺う。
苦言の一つも思い付いたか、壮年の男が微かに息を吸ったその時。
「ごめんなさい運転手さん。少しだけ待って。お願い」
「──」
男は虚を衝かれた顔で言葉を詰まらせ、その面相にすぐさま愛想笑いを捏ね上げた。
アイの笑顔を見た所為だ。
目も眩むような極光の、星海の輝きの如きそれ。人を惑わせ、ともすれば狂わせる。
この娘には力があった。
空想や比喩などではない。そんな
いや……超能が。
娘、少女にしか見えない美貌の女は、座席で呆然とする武藤に微笑みかけた。
「こんばんは、はじめまして。アイって言います」
「……へっ、あ、はい。はじめまして……」
「マシラくんの、
「え? え、ええ……」
「そっかそっか」
意図の読めぬ質問に、当然ながら武藤の応えも胡乱であった。
しかし、アイは満足気に頷く。望み通りの解答、我が意を得たりとばかり。
「よかったー」
「おい、初見同士でやにわに何の話だ。此方も戸惑ってるじゃあねぇか」
身を乗り出したアイの肩を捕まえる。微笑みかける、というよりこれではもはや相手を追い立てているのかようだ。
どこまでもにこやかに、朗らかに。
「もともと宮崎の人なのに、今はわざわざ
「はっ……?」
「追い掛けて来たの? へぇ。結構しつこいんだねぇ」
アイという名の芸能人の知名度は計り知れない。あるいは現代のこの日本国で、この娘を知らぬ者がいるかどうかを真面目に怪しむほどである。
そしてアイを認知する彼ら彼女らは、実際にその姿を目の当たりにした時押し並べて一人の例外もなく同じ驚愕を得ることになる。
つまりは、画面や紙面に飾られる美しき偶像が、その姿容が────どれ程までに
どころか磨かれ、艶が立ち、輝きは増していく。熟れずして赤らみ、腐り落ちることを忘れた甘やかな果実。
自然の摂理ではない。冒涜している。
アイの美貌は、人外の域に到達しつつある。
今、武藤は車内で呆然自失に在るのではなかった。現実を、人知を超えて美しい少女のような“ソレ”に怯えているのだ。
「アイ、いい加減に」
「ふふ、そう、なら
自身の左の肩口に乗せられた手に、アイは右手で触れた。細い、白磁のような指が己の指を掻き分け、絡み、握り合わされる。
それがあまりに自然な所作であったから、繋ぎ合った手と手のその有り様に俺は暫く気付かなかった。
「そうだよね。ね? なのに
「っ、あ、は、ぁ、あぁぁあぁあ……」
「アイ!」
譫言というのなら、それは果たしてどちらの。
カタカタと震え始めた武藤の様に、俺はようやく事態の異常性を覚った。愚鈍が過ぎる。
アイを無理矢理に歩道へ引き寄せた。娘は抵抗せず、こちらの膂力にただ従った。
タクシーの車内へ踏み入り、項垂れる女の肩を強く揺する。
「武藤。おい、大丈夫か? 聞こえてるか? 武藤!」
「……ぁ、せんぱ……す、すみません。私……あぁ、私……」
深々と、倦み疲れたような息を吐いて武藤は、どうしてか伏し目がちに己を見る。まるで気後れて、含羞に耐えるかの様。
女はふいと顔を背けた。己の視線をひどく、嫌うのだ。
「もう、帰りますね」
「……」
「私なにを思い上がって。こんな、もう、住む世界が違うのに」
消沈した弱々しい声は雑踏の騒音に容易く飲まれてしまう。
それが無性に苛立つ。喧騒を噛み殺す気合で俺は言った。
「馬鹿馬鹿しい。世界だぁ? 大仰なこと抜かすな戯け」
「先輩……」
「また家に寄らせてもらうぜ。アリアちゃんに宜しく伝えてくれ。次はイタ飯だってよ」
「……はい」
突如様子を違えた武藤だったが、最後の最後、復調の兆しに微かな笑みを浮かべる。
タクシーの自動ドアが閉まる。窓ガラスの向こうの表情は、それでもまだ翳りを帯びていた。
テールライトの残光がやけに気障りだった。
振り返る。
そこに佇む煌びやかな姿を見やる。否応もなく尖る己が眼力を自覚する。
娘の笑みは和かだ。母御の手が我が子を慈しむように、その眼差しは我が身を撫でる。
「帰ろっか。アクアとルビーが待ってるよ」
オリーブ色のトレンチコート。軽やかに裾を翻し夜光へ、幻夢のような世界へ。
妖艶なる少女は、白磁の手で己を手招いた。