夜の街並みを少女と行く。
ブーツの踵も軽やかに、踊るように人波をすいすいと躱して女は歩く。
オリーブ色の残影を燐光の如く夜気に刻む。さながら妖精か、でなければ魔物だ。
魔とは得てして人を惹き付けて止まぬ。
傍らを過ぎ去る度、男が振り返る。視界を過るだけで女が立ち止まる。老いも若きも隔てなく、少女の形をした“ソレ”の残光を追った。
誰もが目を奪われていく────
「今日はレコがすんごい早く終わったんだ。もうね、全フレーズほぼ一発録り。まきまきだね。いつもこうならなー」
「……」
「それで晩ごはんどうしよーってアクアに電話したの。最近私だけじゃなくアクアもルビーもマシラくんも忙しいじゃん? 久しぶりに家族全員集合ー! って喜んでたらさ、マシラくん出掛けちゃったって言うんだもん」
「そこで何故己を勘定に入れる。今日はアクア坊もルビーちゃんも早上がりだったろう。お前さんがとっとと帰ってやればいいじゃあねぇか」
「ほらまた。そうやって遠慮する」
「遠慮なものか。こいつは当然の配慮と言うんだ」
ふわり、薫風めいた軽い挙措で娘はこちらに振り向いた。冬本番の夜気は身を切るまでに冷えているのだが。
纏め髪を黒いキャスケットに納め、オリーブのトレンチコートの前を合わせた女の装いは決して華美ではない。色合いで言えば地味とも言える。もっと派手な出で立ちの人間が近く其処彼処を歩いている。
だのに、猥雑な照明を浴びてこちらを向く娘の姿は一枚のポートレートのようだ。無作為に、まるで無秩序に形成された夜街の光景すら、この娘を引き立たせる為だけの飾り物に代わる。
不思議なのは、行き交う人波の尽くが目を留め足を止めるにも関わらず、アイドル“アイ”の存在に誰一人騒ぎ立てないことだった。
がしかしその理由には多少思い当たる節もある。
何某かを発見した者、目撃者がその事物についてやたらに自分が気付いたのだという旨を主張したがるのは、第一発見者として承認されたいから、あるいは驚愕や動揺といった感情の共有・共感を望むからだ。自己承認にせよ相互共感にせよ、端的に言えばいずれも心理的快感を求めての行為。
では今は。
そんなものは必要ない。
そんなことをするまでもなくこの場の人々は必要十分の快楽を獲得している。
アイを視界に収め、その足音衣擦れを聞き、残り香を嗅ぎ、気配を覚えれば。
陶酔は完結し、スマホを構える余力すら根こそぎ蕩かせる。
“本物”には、世を忍ぶ必然も取り繕う努力さえ不要だったのだ。
なるほど。
「己は不要だ。せっかくの家族水入らず。水差しは御免だぜ。ちっ、野暮なこと言わせんじゃねぇよ」
過ぎたるもの。
己には、不要だ。
美貌には無表情がある。もう一息、感情の余波を受けたならすぐにも形を決める寸前の顔。
怒りやもしれぬ。寂しさやもしれぬ。
少なくとも確かなこと、娘は己の言に不満なのだ。
「どうして? どうしてそんな淋しいこと言うの? いつもそうだね、マシラくん……藤咲さん」
「……」
「……怒ってる?」
恐々と娘は問うた。
叱られた仔猫が耳を萎れさせ虹彩を丸めて飼い主を見上げるように。
あざとい仕草。だがこの
世の女性愛者の凡そ総員は男女の別なくこれに許しを与えるだろう。与える以外の選択肢を失うだろう。いや、男性愛者ですら、その性的嗜好を歪めさせるかもしれない。
卑怯だの横暴だの文句を付ける余地はない。
魔力がある。人の身には断じて抗い難い魔なる蠱惑が。生来の魔性が、遂にはここまで育ってしまった。
「お前さんはどうだ? 怒られちまう心当たりがあんのかい?」
「……」
「あるのだろう。無ぇとは言わせねぇぞ。先刻の仕儀はどういう了見だ。まるで脅し付けるような物言いでよ。てめぇ自身の言霊が、容貌が、意気が、人並外れてるってぇこたぁてめぇで一番理解してる筈だ。それを」
「だ、だって、っ……ごめん、なさい」
「……」
出掛かった抗議か言い訳か、それをアイは呑み込んだ。震える唇が掠れた詫び言を繰り返す。
そこに、僅かにでも誤魔化しや欺きの毛色があれば、己の叱責も今少し長く厳しく続けられたのだろうが。
代わりにこの口から漏れ出たのは悩ましげな気息であった。
嘘と悪辣な詐術の違いをこの娘はよくよく心得ている。それは間違いなくこの娘の良いところであり、同時に危うい均衡の証左でもあった。
「お前さんらしくもねぇな。他人にああも、露悪な態度は」
「……私、らしい? 私らしいって……なんなんだろうね」
そっと呟いて、アイは再び歩き始めた。
人の群が
流石に、異様が過ぎる。遠巻きの群衆からは、様子のおかしな人混みに対する怪訝そうな騒めきが聞こえていた。
周囲を見渡す。
現在時刻、酔漢御用達のタクシーが洪水を成し、一般車両にしてから膨大を極める幹線道路を渡ることは不可能だ。この衆人環視の中、まさか
となればせめて、表通りを離れるべきだろう。
「走れるか」
「えっ、うん」
そっと娘の手を取って、手近な路地へと早駆ける。
人垣に空いたほんの隙間目掛けてこの図体が迫ると、多くは泡を食ってその場を退いてくれた。
凍った夜気に身を打たれ、己などは早くも音を上げそうだ。
だというのに、傍らの娘ときたら。
「……ふ、ふふ、あははっ」
何が楽しいのか。この一時が。
擽られるように娘が笑い出す。
思いがけずアイと二人、人目からの逃避行を演じた。