羨ましい、アイは幾度となくそう囁いた。
街灯りにその尽くを駆逐された筈の夜闇が、どうしてか今眼前で娘の身体をベールのように薄く取り巻いている。
わかっている。これは錯覚だ。
この目は依然として必要十分な光量に照らし出されたアイの姿を捉えている。
ただ、娘の気配が光を嫌う。絶大なるその輝彩が一時翳るまでに。
その両の瞳だけは爛々と深紅に煌めいていた。
「なにを羨む。こんな、男を。てめぇの信念見失った野郎が惨めに野垂れ死んだだけだ……望み通りに」
法を破り、務めを棄て、人倫を踏み躙り、私心私欲を充足させようとした。その為の犠牲すら厭わず。
犠牲────それは貝原リョースケの、そしてあの“男”の生命。贖いを、贖いを。
他者を殺めてでも遂げたい望みがあった。
人殺しの人でなしの、獣の思考回路。
まあ結果として、己の卑劣な思惑は成就せず……友と娘子は再びの今を生きている。
結果論だ。
「少し、違うかな。ううん、両方なんだよ」
「?」
「あいしてる。アイシテル。愛してる……言葉にしても、考えてみても私にはわからない。わからなかった、ずっと。私は愛されてたの? 私は愛せているの? 欠陥だらけの私には無理だと思った。憎まれることには……小さい頃から馴れてたけど。私に心からの憎しみを教えてくれたのは、一番最初に与えてくれたのは、お母さんだった」
「……」
アイの生い立ちについて己が知ることは極少ない。
ただ、円満な家庭環境とは決して言えなかっただろうことは確かだ。ならば現代日本に何一つ瑕疵や歪みのない家庭が存在するのかと言えば、軽々には頷けぬ。
「母親になるのが怖かった。産まれたばかりのアクアとルビーを抱いた、あの小さくて、暖かな、優しい、愛しい感触を私は、私もその内、いつか、いつかは……って」
いつしか、路の果てに行き着いていた。商業ビルの灯りと建設現場のトラ縞のフェンスとの境。明暗のあわいに立ち、アイは暗がりの方を見て言った。
「お父さん……お父さん、お父さんお父さんお父さん。ふ、ふふ。変な感じ。マシラくんのこと、冗談ぽくそう呼ぶ時、いつもくすぐったかった。不思議な気持ちがした。何度呼んでも言い馴れない。だって“父親”はいつだって私を犯そうとする怖くて、気持ち悪いものだったから。でもなんでだろ……マシラくんを、藤咲さんをこう呼ぶのは、嫌じゃない。呼んだ分だけ安心した。涙が出るくらい、暖かかった。どうして?」
「……さてな。この体は若くとも、性根の方はしっかりと枯れちまってるからかねぇ」
「ふふ、ほらまた、そうやって引いちゃう」
振り返ってアイは、己のコートの裾を摘まんだ。まるで逃げることは許さぬ、そう示すように。
「いつもそう。少しだけ離れたところから見てる。あなたは、私だけじゃなくアクアやルビーにもそういう態度。近付こうとすると離れてくのに、私達が
「……」
「……どうしてもっと深く繋がってくれないの」
コートを掻き分けて、女が入ってくる。
ニット生地に覆われた胸板へ、頭を寄せる。両腕はしっかり背中に回っていた。
きつく抱き締め、放さない。離れない。
「おい」
「ルビーは喜ぶよ。絶対そう。お父さんって呼んでくれる。藤咲さんだって嬉しいでしょう? アクアも」
「いや、いやいや、ルビーちゃんはまだしも、アクア坊はおめぇ己の幼馴染みだぜ? 同い年の野郎を父親呼ばわりは、かかっ、奴も気味悪ぃだろう、きっと」
「口ではそう言うだろうね。せんせ、素直じゃないから」
「……
「二人の為に、命まで捨てた人が?」
「関係ねぇ。器じゃあねぇよ」
引き剥がす為に触れた娘の肩の、あまりの細さにそれを断念した。うっかり手折ってしまいそうなほど華奢で小さな体。
巨大ドームに詰め掛けた数万の観衆を一人残らず魅了し狂わせるような超能などそこには感じない。
いやあるいはこの娘の最も卑怯で、強烈な力が、これなのか。
この儚さが、脆さが、アイの本質なのか。
「愛し方を教えてくれたのはあなた。愛される喜びを教えてくれたのも、あなた。藤咲さん、あなたは私の……」
「違う」
わかるものか。己が如き愚物には。
「己は違う。お前達とは違う」
「どこが……なにが違うの」
「お前達は、知っている。この世に絶対のものはない。無償のものなど。不動のものなど。愛など……血の繋がった親類縁者や、時に両親すら……それは裏切られると。ひたむきに願っても、叶わぬものは叶わねぇってな」
「……」
「だが同時にそれは、それはな。価値を知っているということだ。取り落とす衝撃と失う痛みを理解している。いやそれこそ痛感してる。悲しいが、そいつは尊いことだぜ。悲しみに寄り添える。共感できる。すげぇじゃねぇか……すげぇ奴なんだよ雨宮も、さりなちゃんも、お前さんもさ」
価値など初めから携えていた。あやつもあの子もこの娘も。
ゆえに、己が身命を擲つのは格別不思議がるに値しない。当然、と言い切っていい。
「他人を愛することの重さも難しさも俺にゃわからねぇ。わかってやれねぇ。何故かって? 何故かってぇとな、己はもう父母から愛を貰ってるからだ。背負っちまったからだ」
「……それでも」
「その、命を」
「え?」
語るに及ばぬ。こんなものは、こんな記憶は仕舞って置くだけでいい。
藤咲仁の過去など無用だ。雨宮吾郎にも、天童寺さりなにも、星野アイにも。
要らぬ。
「あの人らは逝っちまったのさ。俺にこんな重てぇもの寄越せるだけ寄越して……俺はお前達の苦悩を理解してやることはできん。俺にできるのは父母と同じことだけだ。俺が差し出せるものは」
「藤咲さん……?」
「これくらいしかねぇんだ」
アイは困惑している。一人見っともなく惑乱する男の奇態に。
半歩、身を引いて娘から離れた。その言の通り、己が居るべき場所へ。これが己の身の程なのだ────
「! アイ、フェンスに寄れ」
「はえ? うん」
反問もせずアイは素直に端へ身を躱す。
直後、俺はポケットに忍ばせていたものを道の東西へ擲った。
両端の曲がり角から現れその横腹を晒して停車する黒いセダン二台。それぞれのスモークガラスに、過たず命中する。
軽い音を立てて砕け、粘った中身が後部のガラス窓に拡がった。
「なにあれ。卵?」
「おう、こんなこともあろうかとバーのマスターから拝借した」
「あれじゃ返せないね」
「また店に顔出して詫びるさ。それより、まだ来るぞ!」
今度は真正面。ヘッドライトのハイビームが点灯し、我々を照らし出す。
しかし車中からアイはこの図体の影に隠れ、見ることも撮ることもできまい。
業を煮やしたか、けたたましいエンジン音を響かせてアクセルを吹かし、真っ直ぐに三台目のセダンが向かってくる。
「流石トップアイドルだ。パパラッチ風情もなかなかどうして気合入ってやがる」
「えぇ、私目当てなの?」
「そりゃあそうだろう、よっ!」
「きゃっ!?」
抱え上げたアイの体は想像通り小鳥のように儚い。この肉体が異常であることを差し引いても、成人女性並の重量は感じられなかった。
一跳躍でフェンスを越える。
外壁改装中のビル、壁面には全面に鉄骨で足場が組まれている。好都合。ジャングルジムめいたそれを駆け足に登る。昇る。下半身の筋骨の
階段を踏み上がるようにして、地上十五階相当の高さを登り切った。
屋上に到達する。
腕の中の少女は猫のように目を丸めていた。
「まだ大丈夫か」
「うん……うん! 全然平気!」
「上々。ならば今度はしっかり掴まっておれ。飛ぶぞ!」
屋上の端から端へ。全力疾走。床面を一際強く噛む一蹴り、そうして二歩目。
我らは宙を舞った。
「────あっははははははは!! すごいすごいすごい! すっごーい!」
空中遊歩。そろそろこの都心では馴れ親しんだ道行である。
隣接するビルの屋上へ着地。足先から伝わる衝撃を殺す為、跳ね上がって回転運動を経てさらに着地。
さらに走る。まだまだ走る。
追手共の想像力を超過する速度で距離を荒稼ぎする。
「これから送り迎えはマシラくんにしてもらう!」
「無茶言うんじゃねぇよ!」
また一跳躍、夜空を越える。
姫御前は無邪気に歓声を上げた。