跳びに跳んだり八棟目のビル屋上に至り、
その只中に女を一人抱えて佇む。僅かに熱を持った身体を吹き上がった夜風が撫でる。ぶるりと震えが背骨を伝う。
密着している娘子はそれを感じ取って、どうしてかふにゃりと笑った。
「ふふっ、マシラくんは寒がりだねぇ」
「しよーがあるめぇ。こいつは死ぬ前からの
盛大にくしゃみを放出する男の無様に、娘は嫌がるでもなくむしろ一層顔を綻ばせた。
「俺の面がそんなに可笑しいかい」
「うん、かわいいなぁって」
「まあうれしい」
こんな強面捕まえて何を言うのか。
不意に、頬に触れる。ひやりとして、滑らかな感触。
娘はその小さな両掌で己の顔を覆い、引き寄せた。
鼻先が触れ合いそうなほど近く、乱れ吹く風に容易く浚われるほど微かに、しかし驚くほど鮮明に。
娘は囁く。
「暖めてあげよっか……?」
耳を擽り、頭蓋が震え、脳の髄が痺れるような声だ。理性とやらが甘く蕩ける。その兆しを覚えた。
ゆえに俺は微笑む。
微笑んで、アイのキャスケットの鍔を摘まんでぐいっと引き下げた。
「前が見えないよー」
「下ろすぞ。ほれ、しゃんと立て」
ようやく自由の身になれたにも関わらず娘は頗る不満気だった。
夥しい都市の灯光を見下ろす。洪水めいている。よくぞここまで夜から安寧な闇を蹴散らしたものだ。
猥雑で無節操で仰々しい。けれど大都会に敷き詰められた夜景はやはり、ひどく美しかった。
「……さっきの話。藤咲さんの……ご両親の話」
「忘れろ」
「やだ」
「ありゃ鬼の霍乱というやつだ。でなきゃ馬鹿の風邪っ引きよ」
「じゃあ看病しなきゃ」
アイの指が己の手に絡む。二回りは小さな、その細い手先がひしと握られた。
「藤咲さん、自分のことはなんにも教えてくれないね」
「話して聞かせるほど面白れぇ人生は歩んでねぇのさ」
「あなたが知りたいです。あなたのことを、なんでも。どんな辛い過去でも……惨い傷でも」
「御大層な過去語りはない。一所懸命慰めようとしてくれてるところ申し訳ねぇがな。そいつぁ無駄な努力ってぇやつだ」
切って捨てる。傲岸不遜に、その労りを、縋る手を俺は払い除けた。
アイは────笑った。
「あははっ、慰めたいって言うのは本当だよ? でもね、藤咲さん。いい加減、私がそんな可愛げのある女じゃないって、知ってるでしょ」
声音がややも変わる。切に、懇願するようだったそれが、子供を揶揄うような、あるいは嘲るような悪辣さを孕む。
「私はただ欲しいだけ。あなたの痛み、怒り、悲しみでもいい。ただ……私に感じさせて欲しい。あなたを。せんせも知らないあなたを」
「……」
「愛だけじゃ、もう足りないの。あなたの」
「あのホテル」
「えっ」
眼下、大通りを挟んだ向かいの敷地に建つシティホテル。正面玄関前はロータリーになっており、その中央では円形噴水が飛沫を上げている。
都心の一等地に営業する三ツ星ホテル。入口に掲げられたその屋号に、己は見覚えがあった。
「そ、その、全ッ然! いいよ? いいんだけど、な、なんかいきなり積極的だねぇマシラくん。えへへへ、うん、心の準備はOKだから、どんと来い! 私だってもう三十だしー? 年上の余裕ってやつを見せたげるよ!」
「なんの話をしてんだい」
さっと朱の差した顔に得意げな表情を作り腰に手を当て胸を逸らす。
夜光を映した大きな瞳の中で、平素ならひたすら眩く煌めく星が今はぐるぐると回り巡り焦点を失する。
娘はなにやら精一杯、虚勢を張っていた。
「いや、あのホテルは確かこいつに……」
俺は自身の背中側、ズボンに挟みセーターの下に隠していたバインダーを取り出した。
後輩武藤より供与された“
「ほぉれやっぱりだ。ありゃ藝の導御用達ホテルの一軒だぜ。結構な頻度で信者だか関係者だかが出入りしてやがる」
「…………」
アイは無言で己の耳を引っ張った。全体重を掛けて引き千切らんばかりに。
「あだだだだだだだだッ。いてぇいてぇ。いてぇよぅお嬢さん」
「バーカバーカバーーーカ」
乙女の恥じらいは美しいと言うが、それに甘んじるのもなかなか、楽じゃあない。