「新曲だよ」
悪戯な笑みでアイは言った。
スマホに保存された音楽ファイルはまさに今日先刻レコーディングを済ませてきたものだと。
「ふぉお!?」
メムちゃんは奇声を発して両の拳を突き上げた。
十年以上も心酔してきた歌い手の新曲を間近で聴けるのだから喜びも一入だろう。
「それだけじゃないよ! わ、わた、私がアイの新曲発表を手伝うなんて……しかもゲリラで!」
「手伝うっていうか、即興でミキサーやってもらうんだから私達はもう立派なトリオと言ってもカゴンじゃないよぉ。こう、エンドクレジットに“歌担当アイ”“演出担当MEMちょ”“立体機動マシラくん”ってちゃんと出るやつ。大役だよ! 頑張って! あ、これが上手く行ったら三人でホントに組んじゃおっか? あはは、結構よくない? ほらおんなじ苺プロだし」
「ひゅっ」
「余計にプレッシャー掛けてどうする。あと立体機動ってなぁ一体どんなポジションだい」
流れ出した音楽に合わせ、円形噴水の台座で少女が踊り出す。
水中の照明が瞬き、瞬き、とりどりにアイを彩った。鬼灯のように鮮やかな赤いセーター、ダークブラウンのスカートの裾が光の中で風を孕んではためく。脱いだトレンチコートをまるで恋人のように抱き寄せ、くるりくるり変転跳躍、狭い縁台の上で軽快なボールルームダンスを踏む。
人集りができ、人の群が寄せ合い、人波がうねり、遂には人海がホテル前を埋め尽くす。
それこそ瞬く間だった。
ゲリラライブ、あるいは路上パフォーマンスを前にした通行人の心理であろう躊躇や戸惑いは絶無であった。
アイを見た者は足を止めざるを得ない。アイの歌を聴いた者の耳は雑音の一切を拾えなくなる。
夜の街景色を遊び巡った時とは違う。
舞い歌う姫御前。人々を魅了し、虜にし、視線と心を強奪する魔性。
アイは愛を唄った。
美しいもの、尊いもの、暖かなもの、人が求めて止まぬもの。その価値を朗々と謡い上げながら、その存在を猜疑した。アイは誰よりも愛なるものを疑い、見損ね、見限りさえした。
一度ならずそんなものは耳触りの良い嘘っぱちに過ぎないのだと、看破した。決め付けた。諦めた。
自らが嘘の権化であることを笑った。自らを嗤った。
自己否定と自己嫌悪、愛と欺瞞、絶望と……希望。
夢を見ずにはいられない。誰もが、そう誰もが、幾万、いや幾億に上る信仰者達によって祀り上げられた偶像ですら。
迷い、惑い、怖れているのだ。
わからない。
わからない。
わからない。
誰か。
教えて。
誰か。
与えて。
誰か。
愛して。
そうしたら、きっと、きっと────好きになれるかもしれない。
私もいつか。
私も、いつの日か。
皮肉と厭世、怒りと諦観、渇きと悲哀。求めても得られない落胆、焦燥。持たざる者だった自分に対する引け目。
極上の笑顔の仮面の下に隠した邪悪で卑小で、脆弱な本性。
それはアイの告白だった。
アイの齎す救済であり、アイの魂魄からの叫び。誰よりも救いを求める少女の精一杯の悲鳴だった。
歓声、嬌声、絶叫の嵐。
ただただ興奮した猿のように咆哮するばかりの集団もあれば、訓練された軍隊さながらに合いの手を入れ持参していたサイリウムを振り回す妙に“
目算でおおよそ五千人。いや、もっと多かろう。今なお増加が止まぬ。
てんでばらばらに無秩序に形成された大群が一人残らず昂ぶり切ったままたった一人の女を取り囲み、それでも暴動へ発展しない異様。ただ歌姫を崇め、見惚れ見蕩れ、酔いしれる。そのただ一つの目的によって以心伝心し共鳴する幾千の魂。
もはや天象めいている。
人海は湧き上がる。底は無く天井知らずに、夜宴は開始数分で最高潮を更新し続けている。
「……ちょいと早まったかね」
眼下で蠢く雲霞の如き人、人、人々。アイの人気を過小評価していたつもりはなかった。誤算というならそれは、アイを信奉するファン達の物量となによりその質的な“強度”であろう。
広告予告も碌々打たずにこの動員。千両アイドル、いやさ万両アイドル様様と。
などと、いつまでも無邪気に感心してばかりもいられまい。
己は己の仕事をせねば。
アイ発案の妙案、奇策吃驚芸によって、案の定。
当たり前と言えば当たり前の仕儀で、件のホテルの窓は今や全室が全開だ。
外の乱痴気、お祭り騒ぎは何事かと、客室の宿泊客はもとより、ラウンジやレストランの従業員や、果ては見るからにお偉いさんまでも次々と外へまろび出て来ているではないか。
「好機ってかい」
俺は走り出す。
斜向かいに屹立する商業ビルの屋上のフェンスの上を、細い金属の枠を踏み締め蹴り退け、見当500メートル先の窓、窓、窓の並びを総浚いに覗く。睨む。
眼力を集中させ、眼球には血液が極度に結集し途端高温を発した。
視野が絞られていく。カメラレンズになった心地でフォーカスが自在に移動、変化、微調整され、やや赤く染まった視界、その内部に捉えたあらゆるものが。
見える。
見える。
見えた。
九階中央付近。十中八九スイートルーム。
恰幅の良い男がバスローブを羽織ってカーテンの
高級ホテルのスイートで父子水入らずのリゾートステイ。そう言い訳できる余地は、生憎と一抹とてありはしない。
バスローブの男は、最近政界に勢力を伸ばしつつある野党一派の中心人物、さる有力議員のそれ。ニュースで幾度もその顔は見た覚えがある。
見付けた。
連れている少女の身許が割れれば、そしてなにより“藝の導”の手引きの痕跡が見付かれば。
絵図が見え始めていた。
それさえわかれば後はシンプルだ。いずれ彼奴等のあくどい商売を白日の下に引き摺り出せる。
ふと、首を捻る。
俺の目は今、カーテンやら窓枠やら壁やら、なんか物理的障壁を無視して中を透視していやがらなかったか、と。
「……おいおい、アイのボケを笑えなくなっちまうな」
覗き魔の猿なんざ洒落にもなりゃしねぇ。
ビルをまた一棟跳び越えて、ホテルの外周を疾走する。それこそ、夜風に成って紛れ流れ、飛翔する。
全室の窓を確認するのは存外に容易だった。あともう一部屋。最上階にもう一つ存在するセミスイートの客室が。
壁面を駆け、看板を足掛かりに、走り走る。その部屋を。
横切る────その時、己は異なるモノを見た。
「…………」
モダンな室内、高級な丁度、豪奢なソファーに座る赤い袴に白い上衣。巫女服姿をした女を。
女は薄っすら白粉を塗り、唇と目尻には滴るように濃密な紅を差して。
ビルとビルの狭間を文字通り駆け回る己の様を見て取ってなにを思うだろう。
いや、なにを思ったかその巫女姿の女は、徐に。
羽織りを下ろした。肌襦袢の上にはそれが襷に掛けられている。その、日陰蔓が。
深緑の葉茎。青々と、瑞々しく、毒々しいまでに生命。
精気を発して、蔓が脈動する。
肥大する。
それは、溢れ返り、夥しい蔦が、緑の触手が室内に千手を広げ、広がり、広がり切った瞬間。
「なんだぁ!?」
窓を突き破った。
蔓の触手が幾千本、己を襲う。