「フフフフ、ハハハハハハ! はぁぁぁあ……」
熱い吐息を零して女は吊るし上げた男、いや少年を見やる。
“養分”を搾り取られた人間は吸引された量によっては意識混濁を起こし、過ぎれば昏倒、意識不明、そしてもっと悪くすれば。
死……今のところ女、“藝の導”筆頭巫女ミヤビノカミは人を吸い殺したことはない。
この国で人死は極めて面倒だ。特に死体の処理。専門業者ですら完全な隠蔽は困難だという。
導師ニニギはそれをなにより怖れていた。教団の運営が危ぶまれるあらゆる事態を嫌った。
ミヤビノカミは、男の慎重さを臆病だと罵った。心中で小馬鹿にし実際面と向かって口にもした。
そんな些事、この日陰蔓があればどうとでもできるというのに。
人から精気を吸い取ることでこの世ならざる
「今なら」
夥しい緑の触手で摩天楼の狭間に半ば浮遊している。
下々の人間達を名実共に見下して、ミヤビノカミはほくそ笑んだ。
蔓を広げる。
夜の街へ差し向ける。
蔓を通し、己が意を、街へと放つ。
「“止まれ”」
女が呟く。ビル風吹き荒ぶ夜空の只中で、それは本来誰の耳にも届かない。届く筈などないほど小さな音。
それが伝播する。
見えざる波濤が広まる。女を中心として球形に、膨張する泡のように。しかし泡に実体はなく、それは建造物を悉く飲み込みながら拡散を続けた。
人間とて例外ではない。
そこを行く人、あそこに在る人、車に乗る人、建物の内であろうが影であろうが人は一人残らずその不可視の膜──結界に囚われてゆく。
その内部に入った瞬間。
止まった。
全てが止まった。
人は歩みを止め、生活行動を止め、走行中だった自動車はその場で停止した。
飛翔していた雀が、烏が、椋鳥が、大小様々な鳥が羽搏くまま空中で静止していた。
ゴミ箱の上から地上に降りようとした猫が半端な位置で静止していた。
先程の貯水タンクの墜落によって壊乱したビルの細かな瓦礫や雲霞のような塵埃が夜空を汚しながら静止していた。
道端で躓き、転びそうな我が子を慌てて追いかける母親。
駅前で談笑に耽る大学生達。
ラブホテルの傍で喧嘩するカップル。
居酒屋の野外席で乾杯する会社員。
切り取られた一枚の画、回転を止め一場面のみ投射するフィルム、フリーズして操作を受け付けないゲーム画面。
止まった世界。
凝固した時間と空間。
女の下命により老いも若きも男も女も有機物無機物の別なく全て、全ては止まった。
「あぁ、ハハ、これ、これが、今の私の……!」
日陰蔓。この植物の異能にも限界はあった。
藝の導保有のホールやその他の箱、舞台と観客席というある種の閉鎖環境で、神楽舞という神事、儀式を見せることで信者を恍惚や陶酔状態にするのがやっとだった。その状態に仕立て上げた信者にこちらの思い通りの暗示や洗脳の類を仕込むのには、やはり結局は従来の医学療法に近い手間暇がかかった。
だがこれは、この有り様はどうだ。
「私、なったんだ。遂に、神になった……誰もが崇める、誰もが認める、誰もが愛する! 完璧で、究極の……!! ようやく、私は!」
震えながら喜びを噛み締め、笑みが零れ出て涙すら溢れた。
女は夜天に両手を広げた。
「どうだ!? ざまあ見ろ! この力、私の力! お前達が蔑ろにした、馬鹿にしたものだ! 私を認めなかったお前達は馬鹿だった! 大馬鹿だ! フハハハハ! 芸能界? アイドル? もうそんな次元じゃないんだよッ!!」
ここにはない誰か、あるいは誰でもない、不定形の、不可視の何かを女は玩弄した。嘲笑した。そして常に憎悪してきた。
憧れたものに裏切られ、惨めに捨てられた。女はその理不尽と不当と悪辣なるを信じ切っている。
そして女は手に入れた。正当な復讐を果たす為の力を得た。
ゆえに、手始めに。
歓声が聞こえる。
ビルの壁面に植え付けた触腕で身を乗り上げて、ミヤビノカミはその発生源を見た。
少年との追走劇に夢中で、知らぬ間に随分と離れていたらしい。直線距離で数キロメートル。蔓を手繰ればほんの一跨ぎだが。
「……あいつ、あの女」
藝の導が信者の子供に客を接待させる為に見繕ったシティホテル。裏手から地下駐車場を使えば人目に晒されることなく出入りができる。鼠並に慎重なニニギらしいシチュエーションだ。
その正面のロータリーから表通りまでを黒山の人集りが埋め尽くしている。
宛がわれたセミスイートで寛いでいたところを邪魔された苛立ちは無論あるが、なにより。
ミヤビノカミという女にとって、アイは怨敵である。
面識と呼べるほどのものはない。強いて言えばどこか……小さな箱か、あるいは事務所か、廊下で擦れ違ったことがあるかどうかくらい。
私的で具体的な理由は皆無だった。そんなものが出来上がるほどの接触さえなかった。
気付けば遠い存在に─────違う。違う。違う。
ただ、気に食わないだけだ。
恨めしいのだ。
憎らしいのだ。
うざい。目障りなんだよ。
ただ、ただ、ただ─────妬ましい。そして羨ましい。女は身の内に凝る最も強烈なその感情だけは断じて認めないだろう。
十五年前のドームコンサートで人気の絶頂を迎えてより、アイドル・アイがその地位から下りた瞬間は一刹那とてなかった。
居座り続けている。人々の崇敬の的に、愛慕の対象に。
偶像は実体と実態を伴って今や神に等しかった。
認めぬ。
「いつまでも調子乗ってんじゃねぇぞ。たかが、アイドルの癖に……ただのアイドルの癖に……アイドル……アイドル……クヒヒヒヒ」
その席。
「私がもらってあげるわ」
掌を翳し意を放つ。それだけでいい。
たったそれだけで全てが手に入るのだ。全てを意のままにする
「“こっちを見ろ”」
球形の力の領域。結界がさらに肥大して、人の群へとにじり寄る。
もうあと数十メートル、数メートル、最後列の背中に到達する。
そうすれば、お前は失うのだ。
お前を崇め奉るファン共は全部私のものになる。私だけを崇め、私だけを祀り、私だけを愛する信者になる。
全部失うがいい。独りになって、虚しく肩身を縮めて舞台から降りろ。
安心しろ。お前のファンは私が可愛がってやる。
だから。
「どうして」
歓声が止まない。
コールが、叫びが、今も呼び続ける。
誰一人振り向かない。背中に迫る力場の存在を最後列に付いた者の誰一人として、一顧だにしない。
「なんで」
周囲には未だ静止したままの人々と世界がある。ミヤビノカミの下命を絶対遵守する従順な優しい世界が広がっている。
だのに。
誰もが目を奪われ続けている。
そう大きくもない噴水の縁で、路上ミュージシャンのように粗末な音響設備。あれは私服だろう。衣装や華美なメイクすらせず。
どうして。
「なん、で」
こちらを見向きもしない。
結界を伸ばす。先程よりも強固に、激烈に意志を飛ばす。
しかし、それは観衆に近付けもしなかった。これが力の限界だと?
いや、違う。目を凝らしてよく見てみれば、力場は確かに拡大している。しかし、その影響下に包み込めない。
異なる力、光が、輝彩が、それを阻んでいる。
「“私を見ろ”!!」
誰も目も向けない。気にも留めない。
目は、耳は、五感と心の全ては一つの偶像に奪われ、囚われ、魅せられている。
ミヤビノカミの力が及ばぬ。
あそこにいる者達は皆、アイの虜だった。
「なんでよッ!?」
「知れたこと。皆お前さんよりも、アイの方が好きなのさ」
「ッッ!?」
地下空洞に響くような低音、女はびくりと肩身を跳ねさせた。
赤い眼光が夜景より強く、鬼火のように鈍く、光る。
「なっ、吸い続けている筈なのに……」
「お蔭さんでな、いい加減慣れちまったのよ」
ほんの力みすら感じさせず、マシラは自身を取り巻く蔓の縛鎖を、片手で引き千切った。まるで塵紙でも破るようだった。
そうしておいて、男は千切れ残った蔓を掴んで無理矢理に空中に静止する。
「わ、私は力を、絶対の力を手に入れて……!」
「見世物としちゃ物珍しいだろうな、こいつは。だが、ファンってぇやつぁ現金なもんだ。結局彼奴等が欲しいのは、見事な大道芸でも、超絶的技巧でも、絶世の美貌や天上の歌声でさえない」
男は視線を投げる。
ホテルの前に渦巻き、天井知らずに湧き上がる熱狂。その渦中を、中心を。
アイ。
アイがこちらを見ていた。アイの視線は確実に、男のそれとぶつかり、絡み交わって。
少女が囁く。
聞こえぬ筈の声が、香り立つ花のように、人肌の恋情で。
“アイシテル”
「愛、なんじゃあねぇのか? 嘘か真かはどうでもいい。いや真実味があるに越したこたぁねぇんだろうが、あの娘はそれを十何年ファンに与え続けてきた。愛を嘯く覚悟をして」
肩を竦めながら、男は冗談めかしに言った。
不意に屹度、赤い眼光がミヤビノカミを射貫く。
「お前さんに、それがあるかい」
「う……うるさぁぁぁああああああいッ!!」
夥しい触手を振り乱して女が暴れ出す。
認め難い。認めたくない事実を、欠落を指摘された。
それは紛うことなき癇癪だった。
ビルの狭間で玩具のように振り回されながら男は、異様なまでに冷静だった。苦悶も、微塵の動揺もなく。
拳を握る。
脇に畳んでいた腕を素早く突き出す。それは何の変哲もない正拳突き────のようなモノだった。
拳の軌道、それが打った一点、
「は?」
ふと気付けば、女の右肩辺りに背負われていた触手の束に、穴が空いていた。
ぽっかりと、まるで最初からそこには何も存在していなかったかのような。
空間を穿った。
拳が示したその“道”、その途上にあったありとあらゆるものが消失する。殺ぎ抜かれ、消え去った。
「貰い物の能力、使ってみたくなる気持ちはよっくわかるぜ。ああ本当に、
「は、ぁ、あぁぁあぁ」
「だがそいつを、他人を食い物にする為にしか使えねぇというなら己も恥を捨てよう。恥を捨てて揮ってくれよう。俺は貴様の存在を許さん」
「あああああああああああッ!?!?!?」
男を投げ落とす。地上三十階相当。高度にして150メートルを墜落していく。
停車していたSUVのボンネットに男が着弾する。アルミの板切れに過ぎない薄いボディはもとより、内部のエンジンや部品を粉砕し、男の身体は車体から弾け飛びながら路面に投げ出される。
死んだ。
確実に死んだ。
人体が容易に挽肉になるような衝撃と圧力。潰れて死ぬ。それが普通だ。
それが当然だ。
男が……むくりと立ち上がる。にべもなくこちらを見上げる。襤褸布のようになったコート、衣服の下の肌身には傷の兆しすら見えない。
ミヤビノカミは、しゃくり上げて恐怖の息を吐いた。
「お前、バ、バケモノか」
「てめぇに言われたかねぇよ」
薄く笑み、男は踏み出した。
女は怯えて高所へと退いた。
男は進む。前面に翳した手指を握り込み、骨子を鳴らして調える。それは次なる一撃が先刻のそれを上回ることを容易に想像させた。
「く、来るな……来るなぁあぁああああ!!」
女は静止した自動車の一台を蔓で掴み上げ、男へ投げ付けた。
ワゴン車である。運転席にはサングラスを掛けた柄の悪い男が座っていた。ぼんやりと前方を見詰めたまま意識を止められた幸運な男。
「おいおいおい社長!?」
落下してきたワゴン車をマシラは慌てて受け止めた。
車体のフロントを両腕で掴み、踏ん張る。本来は車体に潰され圧死して然るべきところを、一瞬蹈鞴を踏んだ程度で凌いでしまった。
異常であった。
ミヤビノカミの恐怖は極点を迎えた。
蔓が形を変える。束ねられ、整形され、それらは一瞬にして巨大な翼へ変じた。
「あ、てめっ! 飛ぶとか! 待ちやがれ!!」
「ひっ、ひぃいい!?」
舞い上がる。一目散。ビルの狭間、建物の影、何を置いてもまず男の死角へと飛び込む。
それは功を奏した。内部に人が居た為に男の追撃を免れた。
ミヤビノカミは逃げ出した。
己が獲得し、拡大した筈の常識を、遥かに超えたモノ達から。
眼下の男、そしてなにより、なによりも。
愛を嘯くあの女から。