推しの子と元刑事【本編完結】   作:足洗

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逃走劇

 

 

 

 我ながら非常識だ。

 何度目になる。この今更な自戒に苦笑する。

 陸上世界記録を超える走力はまあいい。大通りを挟んだビルとビルの間をバッタかノミのように跨ぎ越す跳躍力もこの際よかろう。地上三十階相当の高さから墜落して直下の車に激突し地面を跳ね転がっておいてなお傷一つ負わなかったことも忘れよう。

 だが“これ”は少々やり過ぎだ。

 

「待ちやがれぃ!」

 

 社長入りのワゴン車を路肩に下ろし、路地の角を見上げる。つい今し方、緑色の触手の集合体が駆け込んで行ったところへ。

 右手を伸ばす。それは意図あっての行動ではなく、追い縋る心持ちが先走ったゆえの挙措だった。

 虚空を五指が掻く。

 空を。

 空間を。

 それは風に似ていたが、もっと手応えに富んだ。

 ビルの壁面に突如、五本の傷が走った。それは随分とスケールアップされてはいるがどうやら己の爪跡であった。

 

「おぉう!?」

 

 乾いた土塊より柔い手触りに思わず手を引っ込める。

 右の手首を掴んで掌を睨み付けた。それでどうできる訳でもない。

 今は思索の時ではなかった。

 それを打ち破るように突如、けたたましい音が耳孔を貫く。クラクションを鳴らしエンジンを轟かせ目の前を車が走り過ぎた。

 思えば先刻から異様な静寂に支配されていた街が今や喧騒を取り戻している。夢から覚めたように、時間が本来の運行へと回帰した。

 

「なんだ?」

「車ぐちゃぐちゃ」

「なになに事故?」

「俺の車がーーー!!?」

 

 あの女がこの場を去ったことで女の異能の効果範囲を脱したか。あるいは、逃げるのに夢中で“術”を行使するだけの余裕がなくなったか。

 いずれにせよ。

 

「────ぬあぁっ!? マーシールァァァアアアアア!? 見付けたぞこらぁ! アイのバカどこだ!? どうせあのアマお前と一緒なんだろ!?」

「社長! 一分後に三丁目の通りを(そいつ)で西進しててくれ。ご所望のお転婆娘回収して合流する!」

「はあ!?」

 

 了承の応えも待たず、一跳躍。

 直近の街灯を足場に、さらに跳躍しビルの角へ。己が削り取ってしまった壁面を駆け上り、女の後塵を追う。

 しかし路地の向こうに緑の異形の姿は影も形もない。

 

「逃げ足の速い……!」

 

 追い詰め過ぎたと言えばそれまでのこと。

 己の手落ちを嘆いたとて、敵の居所がわかる筈もなし。

 どうする。

 空中を遊歩しながら思案したその時。ポケットでスマホが鳴動していた。

 取り出し、画面を見やればそこに表示されていた名は『アクア』。

 

「!」

 

 このタイミングでの連絡、予感を覚える。アイと己とメムちゃんが引き起こした騒動への苦言などではあるまい。あの男は常に機に聡く抜け目というものがないのだ。

 

「もしもし」

『緑色のもじゃもじゃが六丁目の大通りを横切った。現在北東方向にほぼ直進中。珍しく不甲斐ないな、藤咲』

「くっ、くっかかかかかか! 流石よ、雨宮!」

 

 

 

 

 

 

 コンパクトSUVの助手席から上空を、ビルの狭間の細長い夜空を見上げる。

 事前に“現場”から“逃げ去るモノ”の存在があると既知していなければ見逃していただろう。

 街の灯から逃れるように建物の間を高速で走る緑のモノ。異形、怪物と呼んで差し支えない。

 

『それにしてもよく追跡が間に合ったもんだ。今夜の騒動はまるきりアイの突然の思い付きだったってのに』

「MEMちょのチャンネルで配信が開始された段階でお前も一枚噛んでるだろうことは想像がついた。そしてお前がいるなら、現地で事件が起こる可能性は高い」

『へっ、そいつぁまた厚い信頼を寄せていただいて恐縮ですなアクアさん』

「いえいえお安い御用ですよマシラさん」

「お安い御用で振り回される側の身にもなって欲しいんですけどぉ!?」

 

 緊急で快く運転手を引き受けてくれたミヤコさんが力一杯叫んだ。

 

『かっかっ、いやいつもすまねぇなミヤコちゃん。ん? いやしかし、路上ライブやらかしたホテルと今居るここは随分距離があるぜ。当てずっぽう、な訳ゃねぇよな』

「別に、お前のスマホのGPSを辿っただけだ」

『……そんな設定した覚えがねぇぞ』

「覚えなんてそりゃないに決まってるだろ。知らせてないんだから」

 

 ちなみにマシラのスマホに監視アプリを仕込んだのはルビーだ。本来の用途は浮気調査や子供の素行見守りなどだが、まあ似たようなもの。

 電子機器に疎いこの男相手ならまずバレないし消せもしない。

 

「ストーカーの凶刃で大事な者の血を見た癖に、自分達のストーカー行為は棚に上げるんだ。ふふ、虫の良いこと」

「無駄口叩くな。追跡機(トレーサー)は行く先だけ指示しろ」

『おぉ? そこにルメもいるのか』

「はぁいサルタ」

 

 後部座席から少女が身を乗り出し、スピーカー状態のスマホに柔らかな声色で囁いた。

 

「あの紛い物、あなたの氣を吸ったのね。素の状態では矮小に過ぎて気配も掴めなかったけど、今ならはっきり感じられるわ……穢らわしい。あんなものがあなたに触れたなど、あまつさえ舐り、啜り、貪った……おのれ、おのれおのれおのれおのれおのれ」

「いちいちキレるなよ鬱陶しい」

「ぶち殺してやるヒューマン」

「ひぇぇぇ……」

『やめんか。今はとりあえず、あれの居所(ヤサ)だけ押さえてくれりゃいい。くれぐれも早まった真似するんじゃあねぇぞ』

 

 条件反射的に震え上がるミヤコさんのハンドル捌きが狂わないことを祈る。

 銀色の少女が黒々とした瘴気を発散する様を後目に、俺はもう一つの携帯端末で配信画面を確認した。

 

「こっちは任せて、お前は早くアイのところへ行けよ。一曲歌い終えてからアンコールが止まらないんだ。ホテル側は今もまだ混乱してるが、そろそろ近くの店舗や企業が通報するかもしれない」

『……それもそうだ。了解、こちらは撤収する。後を頼む』

「ああ」

 

 

 

 

 

 

 

 スマホを切りながら転身。元来た道のりをそっくり逆進する。

 心なしか、先程よりも速度が増した。脚力が一段階突き抜けてしまった。

 肌身を叩く風の烈しさ。夜景が光線となって視界を瞬く間に過っていく。

 

「人間が、遠退いていくな」

 

 俺は何になるのか。いや、ナニになったのか。

 ホテル正面、最初のオフィスビルに帰還して、そこに用意しておいた小道具を拾う。

 スマホを操作し、通話をタップ。構えて待っていたのだろう、ワンコールでメムちゃんが電話に出る。

 

「ずらかるぜ。十秒で支度しな」

『せめてその四倍くらいは欲しかったかな!』

「機材抱えてしっかり身構えろ。かなり揺れるぜ。覚悟はいいかい」

『えぇいどんと来い! ってか早く来て! もう間が持たない! 至近距離のアイ信者さん達の圧がヤバい!!』

「あいよぅ!」

 

 あらかじめ用意していた2リットル入りの清涼飲料水、そしてケーキ屋を梯子して掻き集めたドライアイス1キログラム。

 水を三分の一ばかり捨ててから砕いたドライアイスを中に放り込み、蓋をする。ボトルを激しく振るまでもない。音を立てて気泡が弾け、見る間に白い煙がポリエチレン製の容器を充満する。

 放って置けば真実爆発するだろう。

 その前に、俺はビルの屋上を跳んだ。

 ほぼ垂直落下に等しい速度で壁面を駆け降りる。窓ガラスの合間、窓枠の支柱に沿って重力方向へ疾走する只中。

 地上10メートル付近で()を蹴った。

 垂直落下から水平に直線運動。放物線など描きもせず、砲弾の如き速度と貫通力を以て通りを横断する。

 ホテル正面ロータリー。円形噴水。

 優雅に、可憐に舞う、歌姫の御前へと。

 推参。

 刹那、遅滞する時間感覚の中、ありえぬ速度で目前に現れた己の姿を、しかし少女は確と認めた。

 そうして微笑する。

 それはまるで、自分を迎えに来た親を見付けた子供のように、幼気で無邪気で、健気な表情(カオ)

 アイがこちらに両腕を伸ばす。

 己は宙に置き捨てたペットボトルに手刀を叩き込んだ。内部で溜まり、堪りかねて、突然解放された白煙が噴水前を覆う。広がり、簾の様相で観客共の視界を遮る。

 その向こうで、アイを抱き上げた。隅で音響機材を抱えて縮こまっていたメムちゃんを俵担ぎにした。

 全力離脱。脚力の許す限りの大跳躍。踏み締めたアスファルトをうっかり砕いてしまった。

 大通りへ。

 そこに走る、見馴れたワゴン車の天井へ乗り移る。

 

「わ、わ、あっはは、車の上とか初めて乗るよー」

「ひえやあああああっ!?!? 落ち落ち落ちちちちち」

「かかっ、ドンピシャだ社長」

「お前ら一体なにしてたぁぁぁあああああああああ!!?」

 

 何かと騒がしかった長い長い一夜。それがようやく終結した。少なくとも一旦は。

 無遠慮な夜風に撫でられながら、社長の嘆き節が摩天楼を木霊する。

 

「あー、楽しかった!」

 

 煌めくように娘子が笑う。過ぎ去る夜景よりそれはとても輝かしく。

 女神様の興を満たすのも楽じゃない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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