アイ。
アイ。
B小町。不動のセンター。輝く一番星。完璧な、アイドル。
俺の光。俺の光。俺の光。
俺の、俺だけの。
つまらない灰色だった俺の人生に鮮やかな色と煌めくような光芒をもたらしてくれた。俺を救ってくれた。
女神。これはもはや崇拝に近い。
小さな箱で踊る地下アイドルだった頃からその成長を片時も目を放さず見守って来た。躍進に歓喜した。
CDを買い揃えグッズを買い漁りファンレターとメッセージを欠かさず送り握手会に始まるファンイベントは全て参加した。抽選イベントともなれば貯金の大半を叩き、場合によっては
キミの笑顔を見る為だ。その為なら、なんでもできた。
なんでもしてあげた。
だってこんなにも俺は、キミを愛してるんだから!
────なのに。
裏切ったな。
キミは裏切ったんだ。
キミだけを見続けてきた。キミだけを心の支えに生きてきた。
ただキミだけを純粋に愛してきた。
男とヤッて、子供なんぞこさえやがった。
穢れた。
俺のアイは穢れてしまった。
俺の愛は穢されてしまった。
嘘吐きが。売女が。性悪のビッチが。
糞、糞、糞、糞、糞、糞。
だからこれは相応しい報いだ。
愛を裏切った嘘吐きを、愛を嘯いたキミを、俺はせめて真心から殺す。
殺してやる。
忍び込んだ商業ビルの空きテナント。その窓から向かいのマンションを双眼鏡で覗く。
開け放したカーテン、リビングでキミは子供と無邪気に遊んでいた。
>あの女は今日、新居に移る
>引っ越し業者が荷物を持って出て行った後、来客を待つ為にしばらくは部屋に残る
>その時を狙うといい
>逆に言えば、その機会を逃したらあの女の転居先を調べるのは困難だ。何年も時間が掛かるだろう
>貴方の想いを伝えるチャンスはこれきり
>貴方の純粋な愛を裏切った、あの嘘吐きに
>復讐を果たせ
引っ越し業者二人がそれぞれ大きな段ボールを抱え、さらにもう一人は大型のキャリーケースを押してエレベーターホールから出て行く。俺は植え込みの影でその様子を窺っていた。
最後の一人が自動ドアを出た瞬間、すかさず中に駆け込む。
白い薔薇の花束を持って、俺はマンションの階段を昇った。エレベーターでは監視カメラに常時姿を録画され続けてしまう上そこは完全な袋小路だ。なるべく階段を使って行動した方がいい、という“あいつ”の助言を汲んでのこと。
そしてそんな理屈とは別に、俺は単に時間が欲しかったのだ。
キミに会いに行く、その道のりをこの足で踏み締めるという行為が。
実感させる。
俺のキミへの愛と、それゆえの失望の深さを。
七階の開放廊下。
空は曇っている癖に妙に白んでいて眩しい。手の中の白い花弁が自ずから光ってるみたいだ。
706号室。角部屋。ここが。
ここに、キミがいる。
アイがこの中に。
震える指で、俺はインターホンを押そうとした。
「まんまと誘き出されたか」
「っ!?」
低く響く男の声に心臓が跳ねる。
硬質な、コンクリートの床を打つ靴音が、ゆっくりとこちらに近寄って来る。
つい今しがた自分が昇って来た階段、その上階から男が一人降りて来る。
黒い背広姿、隈の浮いた眼はギラついて相貌はまるで猛禽類のように鋭い。
そして、その右手には、黒い棒……特殊警棒が握られていた。
「貝原リョースケだな」
「お前、だ、だ、誰だよ……なっ、なんで俺の」
「ファンレターだよ」
思わず発した疑問に、男は応えた。
「ここ二年間、星野アイ宛に送られたファンレターやメッセージ数千通。内容は似たり寄ったりでストーカー行為を臭わせるようなものも一通や二通じゃあなかった。とはいえいずれも共通するのはアイドル・アイに対する偏執性だ。その日の彼女の機微やコンディションの変化を異常なまでの感度で察知しやがる……妊娠初期の、母体に体調不良が出始める時期など特にな」
「……」
「どいつもこいつも心配し切りだったぜ。ファンレターやメッセージをほぼ毎日欠かさず送って寄越すような熱心なファンほどそれは顕著だった。だってぇのに……てめぇは一言も触れなかったな? 何故なら、てめぇは知ってたんだ。いや、
「ッッ! そ、そんなの当てずっぽうだろ! ある日突然飽きて推し変するドルオタなんて掃いて捨てるほどいる!」
「らしいな。んなもんで結局、特定はできなかった」
「は?」
男は上着の内ポケットから無造作にそれを取り出し、床にばら撒いた。
数十枚の紙片。それは、よくよく見馴れた写真。必死になってその権利を同担共と奪い合った、アイドルチェキ。
「28人までは絞れたが、その先は流石に無理でよ。仕方ねぇから全員の顔と名前と住所を
散乱する写真の中に自分の姿があった。
いつも来てくれてありがとう
星の砂大切にするね
リョースケくんへ
アイより愛をこめて
「もはや逃げられんぞ、貝原リョースケ」
待ち伏せ決行数日前、夜半。
繁華街を離れ、辿り着いたのは小さな公園だった。
聳え立つ集合住宅の棟に囲まれた猫の額のような空間。己はベンチに座り、五反田は滑り台の上で煙草を吹かした。
『えーっと、それってつまり、私に……この子達の父親とファンの子を罠に嵌めろってこと?』
「そういうことになる」
スマホから発せられる少女の声音は、開口一番の挨拶から依然として変わらず朗らかだ。絹を撫でるような繊細で愛らしい調べ。
皮肉げなその言い様にまるで似つかわしくはない。
『愛のない嘘を吐くのって、やっぱりやだなぁ』
「相手がお前さんを殺そうとするストーカーでもかい」
『可愛さ余って憎さ億倍ってことでしょ? うーん愛されてる証だね!』
「殺されてから同じことが言えるんならお前さんは紛れもねぇ本物だよ。だが、そいつを確かめさせてやる訳にはいかねぇな」
『……そうだね。この子達がいるのに、死んじゃう訳にはいかない』
甘く声を和らげ、少女は我が子を見下ろしているのだろう。
『私はどうすればいいの』
「父親に住所を教える」
『え、そんだけ?』
「ああ、欲を言えば、相手方に部屋まで出向くようお前さんから日時を決めて約束を取り付けてくれりゃなお好都合だ。子供の顔を見に来いだのどうのと、名目は任せるが。その父親に、雨宮を……産科医殺しの犯人との繋がりがあれば、数日中になんらかの動きを見せる」
『うーん、でもそれだといつ襲ってくるのかわかんなくない? 相手が絶対約束を守ってくれる保証もないし』
「その際、連絡を取った日から俺がお前さんの周辺を二十四時間常に見張る。数日程度ならまあやってやれねぇことはねぇ」
『うわぁお、藤咲さんが私のストーカーになるんだね~。ふふふ、それはちょっとおもしろいかも』
「……笑い事じゃあねぇんだぜ、お嬢ちゃん」
自身の命に関わることだとまるで理解していないのか。
あるいは、理解してもなお
『アイ、ちょっといい? 俺に話させて』
『えっ、アクアももしもししたいの?』
『う、うん。藤咲さんに俺から提案があるから』
「?」
電話口に別の声が割り込む。先程も聞いた子供の声。
星野アクア。五反田は彼を指して早熟ベイビーなどと呼んでいたが。その年齢不相応に達者な言葉遣いはなるほど、呼び名に恥じぬものがある。
『相手に情報を与えて誘き出すっていう案には俺も賛成する。けど、もう一工夫したい』
「工夫」
『そう、アイの安全を高める工夫。この部屋を引き払うんだ』
「……どういうことだ」
『あらかじめアイとルビーを安全な場所に移動させて、父親、もしくはストーカーは、もぬけの殻になった空き部屋に呼び出す』
「だがそんな大掛かりなことをしてちゃ
『引っ越しを理由に絡めて、否が応にも会いに来させるよう仕向けるんだよ。「マスコミ対策に住所を変える。関係者にも伏せるから当分は会えない。だから今の内に……」みたいな具合にな』
「……となれば、相手の動く機をより限定することも可能か」
『ああ、それも引っ越し作業が終わった直後。業者が出払って、他に誰もいなくなって最も無防備なタイミングを指定すれば』
「釣れるか」
『間違いなく奴らはアクションを起こす』
「だがそうすると問題は、お前さん達をどうやって密かに連れ出すかだ。すっかり作業を終えた後に住所を教えてやったところで、そこが伽藍堂では流石に怪しまれるぞ」
電話口を小さく気息が擽る。笑声。まるで我が意を得たりとばかりの。
『大丈夫。手はある。人手が、そう三人もいれば。こっちはすぐ二人用意できる。ふふふ、そして丁度いいことにそっちにも一人、暇なのがいるでしょ?』
「……いるな。暇そうに
「あ?」
滑り台を滑り降りて来た男に笑みを送る。
いかにも怪訝そうに五反田は己を見返した。
「逃がしの段取りはそっちに任すぜ、アクア坊」
『わかった。ただ、その代わり……』
「ん?」
『……無茶すんなよ、おっさん』
大型のワゴン車がマンションから離れて行く。
運転席、助手席、そして後部二列目の席それぞれに作業着姿の男女が座っている。
助手席の女がキャップを脱ぎ、大きな溜息を吐いた。ようやく緊張から解放された安堵の様。
「もぉおおおおお!! これ絶対社長夫人の仕事じゃない!」
「社長の仕事でもねぇよ! クソ! あの刑事めぇ……!」
ハンドルを握る男もまた苛立たしげに呻いた。そうしてダッシュボードから取り出したサングラスを掛ける。
「……俺、一応あんたらに仕事振る立場なんだけど、そこんとこ理解されてる?」
後部座席の窓が開き、ライターの着火ハンマーを叩く音がする。
「文句はあの藤咲って人に言ってください! いきなり呼び出されたかと思ったら業者のふりしてアイさん達運び出せって……夜逃げ屋本舗かっての!」
「意外と古い映画知ってんだな……おーい、もう出てきていいぞ。早熟ベイビー」
「ぶはっ」
段ボール箱の持ち手の穴から外を窺っていた俺は、蓋を押し開けて飛び出した。思ってた以上に窮屈で息苦しかった。
そして即座に、もっと息苦しいだろうキャリーケースに取り付く。
ファスナーを開くや、中で丸まっていたアイが大きく伸びをして出て来た。
「んん~ッ! おんもしろかったぁ! すごいね、なんかスパイ映画みたい!」
「暢気……」
「お前ってやつはもうホント人の気も知らねぇで!」
「はっ、大物だよ。アイドルにしとくにゃ惜しいくらいだ。あんた主演で一本映画撮ってもいいな」
「マジで!? さ、流石監督! 男前!」
「よっ、次代の黒澤!」
「今後ともいちごプロをご贔屓に!!」
「あんたらも十分逞しいわ……」
俺、ミヤコさん、斉藤社長のヨイショに監督はそれはもう呆れて、諦めて感心してくれたようだ。
とはいえアイの主演映画という大事は今とりあえず置いて、次の工程に移らなければならない。
警察への通報。それもストーカー被害云々ではなく、成人男性同士の喧嘩沙汰を。
明確な暴行傷害の可能性があれば警察は動かざるを得ない。俺と藤咲の悪知恵だ。
「ルビーもよく頑張ったね。もう出てきて大丈夫だよー……えっ」
「?」
もう一つ、ルビーが隠れている段ボール箱の蓋を開いて、アイは硬直した。
そこに────ルビーの姿はなかった。
代わりに、水の張られたウォーターサーバーのボトルが一缶、中に鎮座している。透明のボトルの中で揺らぐ水面が、まるでそれを見下ろす俺達を馬鹿にしているみたいで。
アイは呆然と譫言のように呟く。
「ルビー、どうして、ど、どこにいったの」
「……まさか」
あの部屋に、まだいるのか。それも明らかに……自分の意志で。
残ったんだ。
「────社長! 車を引き返せ!」