推しの子と元刑事【本編完結】   作:足洗

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また会う日まで

 

 

 

 

 

 ────非力な幼児に、健常な成人の殺害は可能だろうか?

 

 不可能ではない、ない筈だ。

 けれどそれは、確率が0ではない、程度のただの慰めに等しい論法。

 数週間、私の脳はその一つの命題だけを思考し吟味し計画し否認し修正し計画し修正し修正し修正しそして、一つの“方法”を仮定した。

 というより、取れる手段を取捨していった結果、“それ”くらいしか手元には残らなかった。

 準備が容易で、実行に腕力や然程の手間暇を要さず、しかし高い確率で人間一人を殺傷し得る方法。

 まず刃物・鈍器等凶器を用いた自力での殺傷は、身体能力の点で無理がある。相手は、少なくとも自分より体格の上回った、肉体の出来上がった男性(もしかしたら女性)である。絶対に勝てない。下手すると返り討ちに合う。拳銃やボウガンでもあるならともかく、まともに正面から渡り合うのは不可能だ。

 次に毒物。体格差という点を無視できるが、化学薬品を扱うノウハウも入手の伝手もないという点で現実的ではない。洗剤を混ぜて塩素ガスを発生させる程度はできるが、即効性がなく、確実性にもやや不安があり、むしろ相手が死亡する前に自身が行動不能になる危険の方が高い。仇が都合よくその状況に追い込まれ、かついつまでも留まってくれる保証はないのだから。

 高所から重量物を落として殺傷する。準備の手間と命中精度、テストの可不可、あらゆる点で無理。

 なら、高所から突き落として墜落死させる。有効。けれどやはり、その状況に仇を追い込む難度と、自身の非力さがネック。やはり不可能。

 自動車で轢殺。悪くない。悪くはないのに、入手と状況構築の難易度がやはりどうしてもクリアできない。

 殺し屋を雇う……どこで、どうやって、報酬は、連絡手段は。妄想レベルで論外。

 

「……はい、作業が長引いてしまって……はい、申し訳ありません。いえ……はい、では、一週間後に変更で……よろしくお願いします」

 

 やはり現実的にこれしかない。

 と思う。

 私の想像力では結局、これが限界だった。

 

「……大丈夫。上手くいく」

 

 運は、味方してくれていると思うから。

 そしてなにより兄アクアが、私の計画に必要不可欠な要素をおじさんに提案してくれた。

 アイを安全な場所へと連れ出し、この部屋を────無人にしてくれた。

 

「ありがとう、アクア」

 

 スマホをジップロックに詰めながら、私は心からの感謝を想う。

 

 

 

 

 白薔薇なぞ携えた黒フードの男と開放廊下にて対峙。

 間合は四歩。大股で全体重移動力と共に()()込めば二歩。撃尺に捉え得る。

 進突に合わせ大上段から最短の軌道を最速の運剣にて斬り下ろす。さすれば特殊警棒の先端に備わったカスタムスチールの小さな鉄球は対手の額を確実に割り砕こう。

 そうしてやらぬ理由がどこにある?

 雨宮吾郎を殺したこの男に。

 躊躇う理由など。

 絶無(ない)────

 

「西臼杵公立病院の産科医を高千穂山中で殺害したのは貴様か」

「……」

「答えやがれぇッッ!!!」

「ひっ……!?」

 

 一歩、踏み込む。地を割る心地。靴底が削れ沈む。無意識にも肉体は稼働し、間合をじりと詰め寄った。

 男は震え上がって後退る。その手から花束が床に落ちる。花弁が弾け、滴の如く舞い、散った。

 隠し持っていたナイフが白日の下露わになる。

 所謂、片刃。刃渡りは一般家庭にあるような果物ナイフの倍ほどもあろうか。鍔があり、先端の棟が窪み、より鋭利に、そしてより刺突に適した形状に整形された軍用ナイフ。ミリタリーショップや通信販売あたりで手に入れた物と思しい。

 人体を破壊する、人間を殺傷するに過不足ない性能を有する兇器。

 だからどうした。

 

「あ、あいつが悪いんだ。あの、あの医者、アイに、こ、子供を産ませようとしてた。その手伝いをする奴は敵だ。だからこ、こ、殺してやった。ひ、ひひはははっ、崖から突き落としてやった。アイはさ、女神様なんだよ。俺を救ってくれた女神なんだよ。それを……それを! 穢す手伝いをするような奴はみんな殺されて当ぜ」

「言い残すことはそれだけか」

「へ」

 

 震える切先が己を差す。

 それがどうした。

 

「お、お前、警察なんじゃ」

「それが、どうした」

「け、警察が、人を、こ、こ、殺すのかよ!?」

「……」

 

 男を見る。その目を見る。

 恐怖に歪む眼球を。視神経の奥底で怯え竦み戦慄く、この男の魂を。

 捉え、射貫く。

 果たして俺は今どんな貌をしているのか。

 果たして俺は今、人の姿を保っているのか。

 鏡を見ればそこに在るのは人ならぬ、人殺しの獣ではあるまいか。

 俺は。

 俺は。

 

「あ、ぁ、ひぃ……!」

「ッッッ!!」

 

 憤怒が喉奥に溢れ、歯列から吹き出す。血は沸き上がり泡立った。肉は焼けて爛れ、骨は焦げ付く。

 警棒を、頭上高く構え。

 

 ────外科医になりたいって

 

 何故、今それを思い出す。

 あの放課後を、夕暮れの教室を。悩み、迷い、それでも夢を語るお前を。

 何故よりによって今。

 こんな有り様の俺に、お前はまだ。

 

「────」

 

 一呼吸、いや半拍にも満たぬ間、肉体と精神は停止する。

 あるいはお前が止めてくれたのか、雨宮。馬鹿なことやってんじゃねぇ、とでも悪態吐いて。

 その時。

 

 大丈夫だよ、ルビー。ママも一緒だから、ね?

 

「!」

「!? アイ? アイ! いるんだな!?」

 

 突如、扉の奥から響いた少女の声に、一早く反応したのは眼前の男の方だった。それこそ意表外の素早さ。やはりその、病的なまでの執着心がそれを為し得るのか。

 男が扉を開き部屋へと駆け込む。

 

「ちぃっ、待ちやがれ!」

 

 当然に己もまたそれを追う。

 ここは七階の角部屋、中は袋小路である。なんとしても捕縛────

 

「っ!? これは……!?」

 

 玄関に踏み入った途端に強烈な臭気が鼻腔を貫いた。腐卵臭。

 土足で廊下を越え、半開きの仕切り戸を蹴り退ける。

 敵を欺くならば念には念をと、引っ越し作業自体は本当に行われた。家具や調度の類を運び出された九畳間のリビングダイニング。

 生活感の消え失せた空間は無闇に茫漠として見えた。

 その中心に、黒フードの男が立っている。身動ぎもせず棒立ちに、片手には何故かジップロックに入れられたスマホを持って。

 

『怖がらなくていいんだよ。刑事さんが悪い人を捕まえてくれるって。段ボール窮屈かもだけど少しの間我慢してね』

 

 スマホからは依然として優しげなアイの囁きが、録音されたそれがループ再生される。

 

「なん、なんだよ……お前……」

「あ?」

 

 硬直した男の背中越し、その姿はあった。ベランダの掃き出し窓を背にして佇む小さな人影。

 薄曇りの昼日中、白光は消灯された室内の薄闇をむしろ濃く深く際立たせ、その子供の形を虚ろにした。あたかも影法師が実体を得たかの異様。

 今この場にいる筈のない者が、星野ルビーがそこに佇んでいる。

 

「あ、おじさん。ありがとう。追い込んでくれて。でもちょっと焦っちゃった。おじさんってばあのままあっさりやっちゃうかと思って……それでもよかったけど、それでも……やっぱり私だって、この手でやりたいよ。おじさんにだけやらせちゃうのは申し訳ないし、なによりズルーい! これは私の復讐でもあるんだからね!」

「なに言ってんだよこいつ」

「誰が喋っていいっつった。ちょっと黙ってろ。それとも今すぐ、吹き飛ばされたいのか?」

「うっ、あ……!」

 

 一瞬にして無邪気な声音は温度を失くした。感情が消え、いや純一に、ただ一色に絞られたのだ。

 黒。

 その瞳に暗澹と輝く暗黒の星同様の、無明に。

 童女は右手を掲げ、電子ガスライターを突き出す。小さな親指はスイッチに掛かり、いつなりと着火できると。

 部屋中に満ちる臭気。締め切られた窓。そして、ライター。

 状況は異常にして異様だが、その目的と意図はこの上もなく明々白々であった。

 

「ルビーちゃん」

「なぁに、おじさん」

「お前さんは……」

 

 ガス爆発でこの男を殺害しようとしている。ガスの閉栓の立ち合いにガス会社が訪問してこなかったのは、おそらくはこの娘が断りの連絡を入れたからだろう。

 年端もいかない、まだ二歳にも満たない幼児がそのような。

 何故。

 その純粋すぎる憎悪をどうしてそこまで滾らせた。己と同じか、あるいは凌駕するほどの烈しさで。

 何がこの子を駆り立てる。

 この子は一体────

 

「お前さんは雨宮吾郎を知っている」

「うん」

「お前さんは、その仇討の為にここにいる」

「うん、うん」

「お前さん……」

 

 ……その解は思いの外あっさりと導き出され、己の腑にすとんと落ちていった。

 面影はない。歳は無論のこと、顔容も随分と違う。当然だ。生まれも育ちも親も、もはや何一つ変わってしまった。ただ一つだけ同じものがそこに宿っている。

 そうなのか。そう、だったのか。

 

「さりなちゃん、なのか」

「うん! 久しぶり、藤咲のおじさん。ずっと会いたかった。また……せんせとおじさんと私と、三人で、会いたかった……会えればよかった」

「う、うおおああああああ!!!」

「!」

 

 黒フードの男が叫び、ナイフを振り被ってさりなちゃんに襲い掛かる。

 それを許す筈もなし。

 背後から右腕を警棒の刀身に絡め、さらに左手で捻じり上げる。体重を掛けて引き倒し、床に押さえ付けた。

 男の手を離れたナイフが床を転がっていく。

 

「ぐえぇっ!?」

 

 その背に膝頭を突き入れると男は潰れた蛙のような呻きと唾液を垂れ流す。

 肥溜めでも見下ろすようにさりなちゃんは男を見た。そして己もまた、おそらくは娘と同じような目をしているのだろう。

 

「そんなに死にてぇか。えぇおい」

「ぐ、ふ、おあぁ、がっ……」

 

 床に押さえ付けられながら横顔を必死にこちらへ向け、その目は懇願した。

 助けてくれ。助けてくれ。

 首を掴む。右手で、胸鎖乳突筋からその奥の喉肉、さらに奥に埋まる頸骨を。

 今、この男の生殺与奪は俺と、さりなちゃんの(ほしいまま)になった。縊り殺すことも、頭を無理矢理起こさせ首の骨を捻じり折ることも、諸共にここを爆破することも、全て容易だ。

 そう決断することに何程の躊躇も湧かぬ。

 こんなにも人殺しとは容易なものか。

 

「うわぁ、あぁ、だず、だずげて、ご、ごろ゛さない、で、ごべんなさ、ゆ、ゆるじで」

「……」

「ふざけんなよ。今更命乞いとかさぁ……ふざけんじゃねぇよ!! お前はせんせぇを殺したんだろうが!!」

「ひぃ、ひ、う、ぐぅ……」

 

 細く華奢な肩から憎しみが炎のように立ち昇っている。それは幻覚か? 否、それほどの、実体化するまでの激情が、想いというものがこの世にはある。あるのだ。

 この娘はそれほどに、それほどまでに雨宮を、愛していたのだ。

 

「こいつもう殺そう、おじさん。殺さなきゃ。どうしようもないよ。どうせ他人を妬んで、自分に足りないもの全部他人の所為にして、人を殺すような奴だよ。せんせを殺して、アイまで殺しに来た。救いようのないゴミだよ。だから、殺そ?」

「……」

「どうやる? おじさんがそのまま絞め殺す? それとも、これで……おじさんも一緒に、せんせのとこ、行こっか」

 

 さりなちゃんは笑った。蕾が綻び、そっと、怖々と花弁を開かせるように。

 花が咲くように、儚く笑み。

 そうして片目から一筋、涙を落とした。

 殺意、怒り、憎しみ。だがそれと同じほど、それら全てを使ってでしか覆い隠せぬほど極大な……悲しみがあった。瞳の黒い星を滲ませ、揺るがす絶望が。

 それは。

 この男を、こんな男を殺したところで癒えるのか? 癒えよう筈がない。喪失の苦しみ、痛み、惨たらしい傷がその程度で消える筈がないのだ。帳尻が合う筈がないのだ。等価値足らんものはもはや喪われてしまった。永遠に還らぬ奈辺へと消えてしまった。

 知れたことだろうが。初めから取り戻すべき何者も既にない。この世にはないと。

 復讐とは得る為の道に非ず。全て、あらゆる一切合切尽く全てを、消し去る道。終わりの道。

 承知の上だ。

 仇を殺し、その上はもはやどのような主張もせず、ただ粛々社会の法理に任せ余生を費やすと、俺は傲岸に誓っていた。罪を為すという覚悟。いや、諦めを、心の内で終えていた。

 己の身一つの芥のような生涯。それでいいと、それで十分と。

 だが、今この場この瞬間に在るのは俺一人と仇一人ではなかった。

 さりなちゃんが、居合わせてしまった。

 雨宮吾郎が送った。最期を見届けた少女が、奇縁によってここに再生している。

 

「……ああ、それもいいかもしれねぇな」

「えへへ……」

 

 仇諸共に自爆を画策するとは、なんて思い切りの良さだい。己などとは比べ物にならぬ潔さよ。まったく半端な己が恥ずかしい。恥ずかしく思う。

 まだ俺は恥を捨てられずにいる。

 

「恥ずかしくっていけねぇ。地獄の道連れに、さりなちゃんを伴うなんざ。できるわけがねぇ」

「え……」

「さりなちゃん、そのライター渡してくれ」

 

 愕然と、少女は俺と俺の差し出した手を見比べた。

 

「どうして、今更」

「そうだな。今更だ」

「そいつはせんせを殺したんだよ?」

「ああ……」

「私達の大事な人を殺したんだよ?」

「そうだ」

「見逃すって言うの」

「いいや。司法に預け裁きを受けさせる」

「同じことじゃない!!」

 

 少女は叫んだ。無念を、この理不尽への怒りを。

 

「じゃあ法律はこいつを死刑にしてくれるの? 絶対確実に絞首台に送ってくれるって約束してくれるわけ? できないでしょ!? どうせこいつは、何年か刑務所に入るだけ。たったそれだけやったら終わり。それで、その程度で許せるわけねぇだろうが!!」

 

 さりなちゃんはライターを両手に握り締め、掲げた。震える指がスイッチを押し込む。力を込める。もうあと何グラムかの力で、あと何ミリかでも押し下がれば、それだけでこの空間は爆炎に包まれる。

 

「……おじさんができないって言うんならもういい。私がやるよ。さっさとここから出て行って」

「そいつぁできねぇ相談だ」

「出てけよ!」

「いいや駄目だ。奴ならお前さんを止める。雨宮なら必ずさりなちゃんを止めようとする」

「せんせはもういないの!! もう、どこにも……いないんだよぉ……!」

 

 少女の両目から涙が溢れ出た。押し込めていた悲しみが決壊し、瀑布のように流れては落ちてゆく。

 

「そうだ。そうだよな。死んだ人間はもう、思い願いなんざ口にしちゃくれねぇ。もうどうしたとて確かめ様もねぇ。故人の遺志を継ぐ、なんてぇ言ったところで所詮そいつぁ残された側の想像で、こうあればいいという自己満足だ」

「っ! っ、うっ、あ、くっ、なんで、なんでそんな、悲しいこと言うの……」

「それでも、いやだからこそ、俺達は知っている。雨宮という男が大事な存在だったと知っている。さりなちゃんにとって掛け替えのない、愛しい者だってこと。俺にとって、尊い夢と意志を持った敬意に値する親友だったと、覚えている。今も変わらず」

「大好きだった。今も……それをそいつが奪った!!」

「変わらず愛情があり敬意があるのに、それを言い訳にするのか」

「言い、訳……?」

「己が憎悪を行使する、殺人という鬱憤晴らしの言い訳に、あの男を使うのか。確かめるまでもなく今も、確実にここに在る愛情と敬意を、殺意に置き換え、衝動に身を任せるのか……俺の中の雨宮は、どうも、それを許してくれそうにない」

 

 全ては自己満足。殺すことも、自身の想う故人の諫めを信じることも、選ぶのは己自身。

 決めるのは俺だ。そう、お前に(のたま)っちまったものな。

 

「……わかんないよ。おじさんの言ってること、私にはわかんない……わかりたくなんかないッ!」

「!」

 

 さりなちゃんはポケットから小さなナイフを取り出した。それこそ、何の変哲もない果物ナイフだ。

 鞘を投げ捨て、こちらへ突進する。

 今俺が床に押さえ付けている男の顔を、眼球を狙って、逆手に握った刃を振り下ろした。いや全体重を乗せて、倒れ込んで来た。

 

「死ねぇッッ!!!」

「ひぃぃいいいあああああああ!!?」

 

 白刃が外光を照り返す。閃き、落ちる。

 それを掴む。

 

「っっ!? おじさん! おじさんどいて! どいてよ!?」

「偉そうなこと言ったがな。ホント言うと俺ぁ、単に恐ぇんだよ」

 

 刃を握り込んだ掌。指の合間から血が滴り落ち、床に粘った溜まりを作る。

 なおも押し込もうとするさりなちゃんを抱え上げ、窓際に押しやる。そうしてその、小さな体を抱き締めた。

 雫が床を打つ音色が、なにやらひどく大きく耳孔に響く。

 

「あの世に行った時、雨宮の野郎に烈火の如く叱られるのが。差し詰めこうか? さりなちゃんになにやらせてんだこの馬鹿野郎! ……ってな」

「────ぁ」

 

 全ては想像だ。記憶は事実ではない。雨宮が何を考え、どんな言葉を口にするのか。もう誰にもわからない。

 しかし、どうやら俺とさりなちゃんの記憶は、ある一点で合致した。あの男について想う実相の一端を共感した。

 雨宮吾郎は天童寺さりなを殺人犯になどさせない。断じて、許しはしない。

 ナイフを握る少女の手が力を失くす。そのまま取り上げ、背広のポケットに仕舞う。

 そして、俺はライターを持つその小さな手を包んだ。

 

「すまなかった。雨宮を守ってやれなんだ。俺ぁ警官で、そう遠くもねぇ場所に勤めて、いつなりと会いに行けたってのに。それが仕事だった。それは俺がやらなきゃならねぇことだった。俺が、不甲斐ねぇばっかりに……すまねぇ……すまねぇ。さりなちゃん……許してくれ。許してくれぇ……!」

「おじ、さん……謝らないで……泣かないで……おじさぁん……!」

 

 復讐心など所詮、この後悔には敵わない。

 あの男が生きて、今も生きていられたかもしれない。己にならそれを叶えてやれたかもしれない。そんな、愚かしい想像を。

 大の男の泣き言を、幼い少女もまた泣きながら受け止めてくれた。

 

「……っ!? おじさん!!」

 

 さりなちゃんが叫ぶ。頭上を仰いで。

 その視線の先にあるものを即座理解する。

 しかし、この場を退く訳にはいかぬ。ここにはさりなちゃんがいる。

 振り向き様に一撃。

 一撃で間合を。

 ほんの一当て。

 できる、か。

 

「う、うあ、うううあああああああ!!!」

 

 ────おっと、こりゃあ無理だな

 

 なりふり構わず突き出されたコンバットナイフの切先の軌道がどこに到達するのか、見えている。

 躱すには近過ぎ、防ぐにも両腕は未だ遠く持ち上がる途上。

 刹那、ゆっくりと刻まれる時間、砂時計の砂一粒の中で、俺は呆と刃を見ていた。無垢な光を放つ銀を。

 過たず、それは己の左頸部に突き刺さった。

 他人事のようにその事実を認める。然程の痛みはない。これから起こるのか。それとも……もう()()()()()()()()と、気の早い肉体がそう判断したのやもしれぬ。

 実に有り難い。

 動きやすくていい。

 

「なっ、なんで……なんであんた、死なないんだ?」

「これから死ぬのさ。その前に一つ言っておいてやる」

 

 ナイフを握る方の男の手首を掴む。

 引き寄せ、右腕を振り被る。

 左首の刺創から血が吹き出すのがわかる。

 

「アイが穢れる。そう言ったな。だがそいつぁ違う」

「っ! っ!!」

「穢れてんなぁお前だよ、小僧。愛を履き違えちまったのは」

 

 憎しみによって都合よく愛を忘れようとした、愚か者は。

 俺達だ。

 

「塀の中で勉強して来い……大馬鹿野郎がぁッ!!!」

 

 拳を叩き込む。男の左頬を打つ。

 男が飛ぶ。後方へ、背中でガラス戸ぶち破り、ベランダの手摺に強か衝突し。

 だらりと座り込む。男はそのまま動かなくなった。

 突如、膝が崩れ体が傾ぐ。力が、入らない。

 視界が煮崩れていく。脳への血流が大幅に減じた所為だ。

 壁に手を突こうとして、そのまま滑り横倒しに床に身を投げた。

 

「おじさん!!」

 

 不思議なことに、耳はまだ正常だ。さりなちゃんの叫び声がする。

 そうして、慌ただしい複数の足音。今ほど玄関扉が開かれたらしい。

 駆け込んでくる。

 

 

 

 

「っ!? なによこの臭い……ひっ」

「う、うへぇぁあ!?」

「藤咲さん!?」

「……糞が……!」

 

 ルビーの不在を知って大慌てでマンションに取って返し、七階の旧居に駆け込んだ俺達を待っていたのは、ガス臭い部屋、ぶち破られた窓ガラス、ベランダで失神する不審なフードの男。

 そして、泣きじゃくるルビー。

 そして、それから、それ。

 それが。

 それは。

 

「玄関開けろ。換気だ! 明かり取りの窓も全部だ! おい電気は絶対に付けんな!! 全員吹き飛ぶぞ! もしもし怪我人だ。救急車寄越してくれ。住所は────」

 

 監督が叫んで電話を掛ける。社長とミヤコさんが縺れ合うように動き出す。

 アイがそれに取り縋るルビーを抱き寄せた。血塗れで、無惨な様子。けれどその血はおそらくルビーのものではないのだろうと俺は推測し少しだけ安堵する。

 ルビーの意識ははっきりしてる。今も泣き叫んで、アイの腕から這い出ようと元気にもがいてる。なんだよ、どうしたんだよ、いつもは自分から抱っこをせがむ癖に。

 

「藤咲」

「……」

 

 蚊の鳴くような声がする。一体誰だろう。この情けない声は。

 血が止まらない。首筋に当てたハンカチは無限に赤く、赤く、いつまでも染まっていく。

 

「藤咲、目を開けろ」

「……」

「藤咲。聞こえてんだろ。なあ、おい」

「……」

 

 なんで答えねぇんだよ。なにぼんやりしてんだ。

 なんでそんな血塗れなんだ。

 なに死に掛けてんだよ。

 

「藤咲……藤咲ッ!!」

「……ぁ……?」

「っ! 藤咲! おいこっち見ろ! 目を開けろ! 俺だ! わかるか? なあおい」

「あぁ……」

 

 濁り切った眼球がこちらを見る。

 その目が、不意に見開かれた。驚いて、ふっと和らいで、ひどく嬉しそうに。

 

「雨宮……」

「えっ」

 

 ルビーが藤咲を見て、俺を見た。

 俺は笑って頷いた。崩れかけの笑みを顔に繕った。

 

「ああ、ああ、そうだ。俺だよ。雨宮吾郎だ。お前の腐れ縁だ。お前の、友達だよ」

「か、かかっ……そうか……そう、だったか……」

 

 視線が逸れて、藤咲はルビーを見やる。

 

「さりなちゃん……」

「へ……?」

「……うん、さりなだよ。おじさん……私……私がっ……!」

「また、会えた」

 

 藤咲は笑う。心底嬉しそうに、あの頃みたいに。あの病室で三人、笑い合った時と同じ顔で。

 

「雨宮……さりなちゃん……かかっ、こんな近くに……いたんだなぁ……」

 

 そっと、吐息を漏らすかのように囁く。

 身体から力が抜けて、顎が落ちる。首筋に伝っていた脈がふっつりと途絶えた。

 

「藤咲……?」

 

 その目はもう、俺を見ていなかった。さりなちゃんを見ていなかった。

 なにも映してはいなかった。

 

「藤咲……」

「ッ!! おじさ、おじさん! おじさん!! おじさんッ!!」

 

 アイが強く、強く、さりなちゃんを抱き締めた。自失してもなお美しい無表情、不意にその輝くような瞳に涙が浮かんだ。

 ぎゅっとその胸にさりなちゃんの泣き声を受け止めながら、そうやって受け止めた分だけ、アイの目から涙は流れ続けた。止め処なく。

 

「藤咲」

 

 譫言を繰り返す。

 さっきからずっとこの口は同じ言葉しか発しない。なんて役に立たないのだろう。

 お前だってそう思うだろ。なあ。

 

「藤咲」

 

 男は応えない。応えてくれない。

 もう、二度と。

 

「あ……」

 

 突如として、俺はその意味を理解した。

 今、友達が死んだことを、理解した。

 

「────ああぁぁあっぁあぁあああああアアアアァアアアアアアアアアアアッッ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




次回でエピローグになります。
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