紙束をぺらぺらと捲り、アビコちゃんは目当ての項を見付けてその表面をなぞる。
「私のハバキはこんなこと言わない」
平淡な声だ。静止した空気の中で燃える蝋燭の灯のように揺らぎなく、ひどく静かな。しかし感情という引火性物質の充満した今の彼女にとって、それは文字通りの口火に過ぎない。
憤懣はすぐにも炎を上げた。
「キャラの理解が浅いんです。この時このシーンでこの状況でこの人物が何を考えて行動してるのかまるで考えられてない。ただシーンと台詞をなぞってるだけ。キショい自分語りと寒い言葉遊び! 人の作品使って変な趣味に走ってるとしか思えない!」
「あ~、アビ子先生、それは、その、まずいです」
「そいつはなんというかぁ、
「何度修正依頼しても直らないし。それどころか悪くなる一方! 難しいことなんて何も言ってない。キャラを変えるな! それだけなのに! 私、嘗められてるんですかね? 漫画家じゃ若い方だし、実写の映像制作の世界じゃ原作者の意向なんてなんの意味もない」
「そんなこと」
「私の……」
年長者ぶって掣肘する方が容易かろうに。しかしそれでもなお後輩に掛ける言葉を懸命に探し続ける吉祥寺先生はけだし誠実だ。
反して小賢しい己は黙って続きを待った。娘の本音、次の一言に含まれるだろう真相を。
「命懸けで描いた私の、大事な作品なのにっ……」
「……」
涙。
ひどく無垢な、澄んだ雫が頬を流れていく。
ただでさえ幼気な娘の面差しが今はもう童の如く、くしゃりと歪む。
作為、詐称、欺瞞、擬態のものではない。同情が欲しいのならもっと綺麗に泣くだろう。虚飾を忘れ表出してしまった不慮の、不格好な泣き顔。
アビコちゃんにはどうやら噓泣きの才能はなかった。
見る者全てに憐憫と庇護の情を抱かせる完璧な泣き顔を作ることのできる人物を俺は一人知っている。
いつからだろう。俺が人の嘘を見抜こうとする時、無意識に脳裏に浮かんだその娘と、アイと見比べるようになったのは。
あの娘と知り合ってからこっち、嘘に対する洞察眼は嫌でも磨かれたが、同時に他者への猜疑心までも鍛えられてしまった気がする。それほどに完璧な、看破し得ない嘘というものがこの世にはある。
「アビ子先生、ほら、もう泣かないの」
「だって……悔しいじゃないですか……先生だってそう思うでしょ? 思ってた筈でしょ……?」
「…………」
吉祥寺先生は押し黙った。湧き出た感情も言葉も溢れ返ってしまう前に、全て喉奥、胃の腑の底へと飲み下して。
ただ心を殺すその痛みに耐えていた。
目の前の女達は今、同じ痛みを分かち合っていた。
俺は、その光景がどうも歯痒くてならない。だから部屋の隅へと向かう。
「マシラくん……?」
物問いたげな声を一旦無視して、傘のない傘立てから鞘に納められた太刀を一振り抜いた。
「おぉ、こいつぁ井上真改か」
「あ、はい……出来のいいレプリカがあるとつい買っちゃって。時代劇とか、わりと好きなので」
「鬼平だろ? 若ぇのに渋いねぇアビコちゃん。どら」
今度は部屋の中央、デスクや荷物の比較的少ない拓けた場所に立つ。
アビコちゃんも吉祥寺先生も突然動き出した己の様を怪訝そうに見守っていた。
刃渡り。踏み足。部屋の丁度の位置関係。ざっと見回してみたところ、コンパクトに
鯉口を切る。
「へ?」
「なにを」
「一つ斬ってはサヤの為」
下段から抜き打ち、切先は書架の最上段。『世界の武器防具辞典』の背表紙を差した。
一足分の後退と転身によって振り返りながらに太刀を一閃。横一文字、空間を裂く。
奇行から暴挙へ出た男を、彼女らは唖然と見上げる。いや、程なく、アビコちゃんは気が付いた。
型に。
この挙動の意、いや出典元に。
「二つ斬っては愛し子の」
足を踏み変え、脇に引き付けた柄を一挙に押し出す。尖端の鋭鋒、切先はデスクライトの支柱と文具棚の隙間に滑り込む。触れず、傷付けず、物も倒れない。
空を斬る。
「三千世界の鴉を斬り、遂に愚妹の夢が花開く」
これはハバキという男の原点を示す科白だった。
修羅道を歩み阻む者を殺し寄り添おうとする者すら斬って散らす孤狼の性。
全て、全ては、妹の愚昧な夢を想うが為。平和。友愛。争い殺すことの無為をこの世に知らしめ、そしていつか、いつかは。
愛しい男と添い遂げればいい。
鞘姫と刀鬼。想い愛し合う二人の男女。妹の幸福はそこにある。そこにあると解りきっている。
ならば、
そう、俺には迷いなどなかった。
鞘姫が刀鬼と結ばれることで幸福になれるなら────さりなちゃんが雨宮と結ばれ、添い遂げたいと望むなら。
俺の全てなど、その程度だった。天涯孤独の寂しい男にとって世界、価値のある時間など。あの小さな病室にこそ全てがあった。幼馴染の男と、それを憎からず想う少女。俺はただ、あの二人に幸せになってほしかっただけなのだ。
だのに、それは叶わなかった。少女は逝き、男は消えた。
奪われた。
俺の世界は死に絶えた。
復讐、殺意、そういう月並みな憎悪に支配されていた時期もある。憎しみで燃え尽きることを望んでさえいた。
しかし……そうはならなかった。幸いというか望外というか。
とにもかくにも、俺の望みは今も変わらず同じだ。ハバキとてそれは同じだ。何故か、俺達は同じだった。気付けば願望を共有している。
俺は、ハバキは、さりなちゃんと雨宮を、鞘姫と刀鬼を阻むあらゆるものを、破壊する。完膚無く斬り捨てる。徹底的に斬り殺す。
「俺は、その為の刃金なのだから」
上段から袈裟に斬り下ろす。空気が裂け、刀身が高らかに刃鳴りを立てた。
しんと音までも切り裂かれてしまったかのような静寂。
そこに小動物めいて微かにアビコちゃんの息遣いが響いた。少女は頬を紅潮させて、食い入るようにこちらを見上げてくる。
おずおずと娘は口を開いた。
「そ、そんなの、ただ台詞を読み上げただけじゃないですか。無理矢理差し込んだ山場で、大ゴマ出して誤魔化して……確かに、本当に真に迫ってて、す、すごかったですけど……ハバキが……マシラくんがどれだけ完璧にハバキでも、ダメなんです。それだけじゃ……!」
「まったく、仰る通りだ。己一人意気がったところで演劇は成立せん。なんと言った? そう、出来の良いコスプレパーチーになっちまう」
なるべく恥ずかしそうな顔をして大袈裟に肩を竦めてみせる。
「こんな良い役を頂戴しておいて情けねぇが、役者風情にできるなぁこの程度よ」
「この、程度……これが……?」
吉祥寺先生がぽつりと呟く。驚いた感心した、といった響きはそこになく、どうしてか彼女は愕然として、打ちひしがれたかのように。
眼鏡の奥の瞳を翳らせた。
様子の変わった先生に己が何か尋ねるより前にアビコちゃんが叫んでいた。
「じゃあどうしたらいいんですか! 私の希望も、怒りも! 誰もまともに聞いてくれないのに……」
「聞くさ。聞く耳がねぇと抜かすなら耳の穴かっぽじって引きずり回してでも聞かせてやればいい。微力ながら己もその手伝いくれぇはしてやれる」
「ど、どうやってそんな」
「具体的には、そうだな。GOAさんの首に縄かけてここに引っ連れてくるなんてなぁどうだ?」
「え?」
「はいぃ!?」
己の提案にアビコちゃんは思考を止め吉祥寺先生は思考回路を破裂させた。
いよいよ異常者を見る目でこちらを見詰めてくる。
「必要なのは、その程度のことだと思うんだがなぁ」
「……」
「決めるのはアビコちゃん、お前さんだぜ」
一途に願い求め勝ち取ることを選んだ創作者。漫画家、鮫島アビ子を俺は己自身で思う以上に信頼しているらしかった。迷い、怯え、怒り、それでもなお物語を創らずにはおられない狂い。漫画狂い。
娘は程なく決断した。
まだ進みたいのだ、と。