「さて、そろそろお暇しますかね」
「あ、そう、ですか……えっと、なんのお構いもできませず?」
「いやいや」
判で捺したような応酬がなにやら滑稽だった。この娘は突拍子もないところでひどく真面目で面白い。
だからこそ妥協など許せぬのだ。己の創った世界を、世界に産み落とした愛しの我が子達を、ありのまま思う様徹底的に
……いや、それは少し夢想的過ぎる。
週刊連載を抱えた漫画家の日々が安楽である筈がないのだ。辛く苦しくない訳がないのだ。心身に取り返しのつかない負荷を掛けながら、血を吐きながら続けるマラソン。終わりはいつか。描き上げたものが素晴らしいほど艱難の時は永続する。
そんなにも頑張っているのだ。この娘は。
己をきょとんと見上げる小さな子、年齢不相応に幼気な姿が無性に労しくなってしまう。
「無理してくれるな、とは言うまい。言ってよい分際でもないでな。お前さんの頑張りに水を差していい筈がない。たとえ誰であっても」
「……」
「ただ、何か困ったことがあったらいつでも連絡してくれ。いつでもどこでもすぐに飛んで行くからよ」
「……はい」
「そ・れ・と。舌の根も乾かぬうちに口幅ったいこと言わせてもらうとだな、ちゃんと食わなきゃいけねぇよぅアビコちゃん。栄養失調になっちまう」
「た、食べてますよぅ。コンビニご飯ですけど……で、でも近年のコンビニチェーンが開発するインスタント食品の味と栄養価には目を見張るものがあってですね」
「別にインスタントでもいいが滋養のあるものを選ばにゃ。プリン二個だけじゃ人間は生きていけねぇんだぞ」
「んなっ、なんで」
「台所の流しに空の容器があった。あと玄関先で顔合わせた時から気になってたんだが、ほれ、口の端っこにカラメルが付いてる」
「ふんぐぅ」
「こらこら、袖で拭うんじゃねぇの。かっはは、まったく」
近くにあったティッシュの箱を差し出す。慌てて二、三枚引き抜いて、アビコちゃんは口元をごしごし拭った。普段からあまり化粧をする習慣がないことが窺える。
「なんだかねぇ。親しくなるにつれて心配になっちまう。お前さん本当に独り暮らしできてるかい?」
「で、できてますぅ! 現に今だって! いぃ、いろいろ手付かずなだけで……こ、子供じゃないんですから。これでも歴とした成人女性なんですからね!」
「くくく、すまんすまん。しかし実際問題よ、お前さんは仕事柄、身の回りのことは人より余計に手が回らんだろう。ああ、さっき吉祥寺先生も言ってたな。原稿の方が佳境になりゃ尚の事だ。家政婦さん雇えとまでは言わねぇから、誰か手伝いを呼べたりしねぇのかい? 同業の」
「……そういえば貴女、アシスタントさんは? 今日はもう帰ってるの?」
己とアビコちゃんの遣り取りを蚊帳の外から見守っていた吉祥寺先生が不意に尋ねた。両肘を抱く立ち姿が妙にアンニュイで、
アビコちゃんは即答しなかった。バツの悪そうな顔で、口の中でもごもごと言葉を、言い訳を探しているらしい。
「……先週までは」
「まさか、クビにしたの? 締め切り明後日よね?」
「なんとかします」
「なんとかって」
「今のペースなら大丈夫です。マシラくんと先生のお陰で心配事も一つ減りましたし」
「…………」
「あ、でも、その脚本家の人と話し合い、しないとだけど」
「……そう、じゃあ、邪魔するのも悪いし私達はもう行くわね。そういうことだから五反田くんも」
水を向けられて咄嗟にそちらを見やる。眼鏡のつる越しに、醒めた色をしたその瞳を。
「……貴女は、人に恵まれてるのね……」
優しい声色を聞いてアビコちゃんは無邪気にはにかんだ。
しかし、何故か。己はどうしてもその語気に、まるで突き放したような冷たさを覚えてならなかった。
一昨日よりも昨日、昨日よりも今日、今日よりもおそらくは明日。日没はどんどんと早まっていく。
鮫島アビ子先生宅を出たのは午後五時を少し回った辺り。街灯の点った歩道を吉祥寺先生と連れ立って歩いた。
「今日は本当にありがとう存じます。知り合いとはいえ野郎一人で若ぇ娘さんの自宅を訪ねるなぁ、ちょいと
「私も一度あの子の様子を見に行こうと思ってたので渡りに船だったんです。スケジュールも空いてましたし」
「そうは言ってもこちらの都合で時間を取らせて申し訳ねぇや。お忙しいのは先生も同じでしょうに」
「お気になさらず…………吉祥寺頼子は鮫島アビ子ほど、売れっ子でもありませんから」
「ご謙遜を」
キャメルのカシミアコートの裾をはためかせ、ブーツの踵が心なしかきつく路面を突く。まるで、苛立ちを表すように。
らしくない。言葉を交わした数も、過ごした時間も、友人並と呼べるほどではないにせよ、彼女の人物評に今の姿は見合わなかった。
「前々から相談は受けてたんです。今回の舞台化のこと、脚本への不満、自分の作品の……実写化について」
「先生なら相談相手としちゃ打ってつけでしょうな。心強い創作者の先達だ」
「……そう思いますか」
「ええ、勿論」
「あんな酷いものを世に出すことを許しておいて?」
明白な怒りが語気に宿った。堪えていただけに、それは勢いづいて彼女の喉奥から氾濫する。
「すごい! あの子は今日たった一時間の面談で、この世の原作者達が抱える最大の苦悩の一つを解消する機会を与えられたの。それもただの一人の役者に過ぎない人の手配りで……彼女が自らの意志と希望とワガママで抜擢したたった一人の俳優さんの導きによって、ね?」
「……」
「見る人が見ればわかる。あんなの
「先生、落ち着いてください」
車通りの多い時刻だ。車道側に寄って彼女に追い縋る。呼吸も歩調も乱れ、声は震えている。キャメルのコートの背中に儚げな怒りと悲しみの気が見えた。
失礼を承知でその腕を取る。
振り返った女の、眼鏡の奥の瞳に微かに涙の兆しが見えた。
「私の作品に、私の前に、“貴方”は現れてくれなかった」
そう言って彼女は微笑んだ。
途端、女の面相に形作られる虚。その欠落は痛ましい。しかし同時に、深く澄み渡ったその闇色は、悲しいまでに──綺麗だった。