『先生! これ見てください! 私見付けたんです! 運命の人っ!』
週刊連載と言う名の生き地獄の僅かな合間を縫って作った休暇。一ヶ月前から予約していた人気の欧風創作料理の店で久しぶりに会った元アシスタントの、現売れっ子漫画家鮫島アビ子は絶品と評判の肉団子のトマト煮にも手を付けず、夢見がちなメルヘン女みたいな歓声を上げた。
割れたスマホの画面には、見目好い少年少女達が何故か農具片手に畑仕事に精を出している動画が映し出されていた。知っている。近頃話題の恋愛リアリティーショー……のガワを被せた狩猟農耕畜産建築土木地域振興海外弾丸ロケバラエティー配信番組だ。
アビ子先生は画面をタップして動画を一時停止すると再度画面をこちらに突き出す。
一人の青年が薪割りをしている。分厚い鉈を小刀でも扱うように軽々と振るうその一瞬を見事に捉えた一場面。
『ハバキなんです、この人。私が思い描いてた人。私が出会いたかった人! ハバキなんですよ!』
無邪気に声を弾ませて、少女のように貴女は笑う。クリスマスイブの夜、プレゼントを抱えたサンタさんが煙突から降りてくるところに出くわした子供みたいに。
それは人生最高の贈り物だろう。漫画家が、世のフィクションを扱う作家達が良かれ悪しかれ一度は夢想する。
五反田マシラ演じる“ハバキ”は、当初はあった彼女の不安と大きな期待を良い意味で打ち壊し、手始めに漫画のプロモーションと舞台化のCM。また先行して、実写版の単体スピンオフ作品として短編映像がyoutubeで配信された。驚くことに再生回数は瞬く間にミリオンの大台に乗った。
完璧な、異常なまでの再現度。漫画作品の実写化にアレルギーを持つ漫画・アニメファンからすら絶賛を受け、舞台が開演前にもかかわらず彼は今や個人にして二次元媒体実写化の成功例に数えられている。
出来すぎてる。
夢のようだ。夢のような話だ。
私も見た夢。私には、叶わなかった夢。
新人タレントの顔と声と名前入り宣材配りのプロモーションVに自分の作品が使われたのだと理解した時、心の一部分が砕けた。
勿論、錯覚だ。
心は目に見えないし触れないしガラス製のハート型でもない。
「魂を削り出して漫画を描いてる。少なくとも私はそういう覚悟でやってきた。でも、そんなの周りの人間には知ったことじゃない。メディアミックスは膨大な人と物と技術と資金で行う共同事業。わかってる。私だって社会人だもの。漫画家っていう、個人事業主。原作者っていう役職付きであの事業に参加した。名ばかりのね。発言権なんてない。ワガママなんて言えない。だって、大人だから。数えきれない人達が自分や家族の生活の為に働いてる。会社同士のしがらみとか義理とか、利害と人間関係、無数の手続きと契約と決まり事。
「……」
「はは……」
街灯の下、小山のように大きな青年を見上げて笑う。照明が反射してその白髪頭がぼんやり光って見えた。
逆光の中では浅黒い肌が闇に溶けて、血のように赤い両目だけが瞭然とこちらを見下ろす。カラーコンタクトではない。天然の、危ういほど鮮やかな眼光に、存在も疑わしい心とやらが反応する。ドキドキと跳ね回ってうるさい。
見るからに危険な匂いのする男。だのに、眼差しは父親のように優しい。
だからだろう。舌は勝手に動いて喉は未消化の感情を汚い言葉にして吐き出してしまう。自称社会人の女は子供に戻って愚痴と不満と怒りを彼にぶつけた。
「ふざけんな!! 私の、魂、私の心……あんな風にされたのに……! あの子は貴方一人のお陰で全部上手くいく!」
「そんなことはない。己如きに、そんな上等な価値はねぇさ。あの子は巡り合わせがよかった。それだけだ」
「ずるい、ずるいよ……なんで、私だけ……私の大事な作品だけ、傷付けられるの……? 私だけが……」
「大丈夫。大丈夫だよぅ。なにも損なわれちゃいない。あんたが創った作品の価値は誰にも傷付けられやしねぇさ」
「私はっ……嫌だったの!」
「そうだな……そうだよな」
彼の胸板を叩く。タイヤのゴムを叩いたような頑丈さに一瞬閉口した。それが悔しくてもう一度叩いた。何度も何度も叩いた。
彼は止めなかった。
叩き疲れて、そのままもたれかかっても彼はびくともしない。
悔しい。やっぱり悔しい。
抱き付いて、縋り付いてるのに、動揺も狼狽もしないこの男が。全部全部受け入れて、包み込んでくれそうな大きな体が。
悔しくて堪らない。
羨ましくて、狂いそうになる。
「……はぁっ、っ、ごめんなさい。私、混乱して……こんな、貴方に八つ当たり、して……ふ、ふふ、いい歳して、なにしてるんだか」
「いいや、なにもおかしなこたぁねぇよ。あんたの苦悩は正しい」
「後輩に嫉妬して男の人に泣き付くのが?」
「男に泣き付く云々はともかく、嫉妬して悪いのかい? あんたは作家だ。創作にハングリーなのはいけねぇことかい」
「ふふ、卑怯な言い方するのね」
「卑怯ぐれぇで丁度いいのさ、人間なんてな。あんたはちょいと真摯すぎる」
「……卑怯でも、いいなら」
悪魔の誘惑だ。それくらいわかってる。
この人は、あの子にとって大事な人。男女の情ではない(と思うけど……)にしても、あの子の漫画家人生の瀬戸際で間違いなく作家生命を救ってくれた恩人だ。
だから、これは間違ってる。
こんなことしてはいけない。
胸板に手を這わせる。掌に伝わる熱量、男性的な体温にまた心臓が跳ねる。
そっと伸ばした手が彼の首筋に回ろうとしていることに気付いた時、私は私自身の思惑を理解して驚いた。
まさか、まさかまさかまさかまさか。作家として夢想が叶わないからって、私は、私は。
「慰めて」
止める暇もなかった。舌も喉も持ち主の意思など無視して好き勝手に動く。
そんな筈がない。全部自分だ。この辛さと苦しさと悔しさに耐えられないから。目の前の男の優しさが、私を狂わせるから。
「さて、
「ぅ、ぁ……あ、あの……私」
「少し荒っぽくなっちまうが、いいかい? 先生」
もう遅い。吐いた言葉を撤回しようにも、あんなに奔放だった舌はもつれ、すっかりと役立たず。緊張と羞恥と興奮で、発汗と発熱と動悸がする。
陰キャの喪女自称してるくせに調子に乗ったツケを支払わされようとしている。
不意に彼は────私を両腕で掻き抱いた。そのあまりの大きさと分厚さと力強さで、体が潰されるかと思ったほど。
自分が思い描き実際に描く都合の良いシチュエーション通りの体格差。くらくらする。男の人の匂い。仄かな柔軟剤と、野性味のある体臭が。
「あ、あの、やっぱり私」
「喋るな」
強い言葉に体が凝固する。優しかった男性が僅かに垣間見せた獰猛さにぞくりと異常な興奮を覚えた。そして自分の脳が思ったよりバカになっていることを自覚した。
彼の年齢、芸能人としての立場、これからの仕事、スキャンダル、警察、犯罪、逮捕、刑務所生活。
全てが走馬灯のように駆け巡り、突然正気に戻った私がどうにか真人間の言葉を吐こうとした、その時。
「舌ぁ噛むぞ!」
「えぇっ!?」
浮遊感、なんてものじゃない。大昔に乗ったジェットコースターの三回転錐揉みに匹敵する速度と勢いでマシラくんは跳んだ。抱きかかえた自分ごと。
身を翻した刹那、今その瞬間まで身を置いていた空間が消失する。
いや正確には、充満して溢れ返った。
炎。
紅蓮の炎。
着地と同時に私は腕から解放され、代わりに彼の背後へと押しやられる。守るように立ち塞がった背中が、さっきなんかとは比べ物にならない獰猛さと覇気でそれと相対した。
赤い装束。赤い髪。夜闇に白刃を翻す、その人物は、間違いなく。
「ブ……ブレイド!?」
「背中から不意打ちか。主役にしちゃやり口がせこいな。えぇ? 読者が幻滅しちまうぞ」
夢。夢か幻みたいな、非現実の光景。
漫画の登場人物のような彼が今、漫画の主人公そのものと対峙している。