東方闇魂録   作:メラニズム

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第二十話

月の都は、地上からの移住後、類を見ない程騒がしかった。

 

妖怪が突如として現れ、月の都近辺に集結しているのである。

 

月防衛軍の総大将、綿月依姫はこの事態に対して素早い対応を見せた。

 

まるで襲撃を予知していたように的確に月の都前に陣を敷いたのである。

 

この余りの素早さに、後の歴史考察の中では妖と内通していたのでは無いか、という異論が生まれたほどだ。

 

それは兎も角として、依姫は姉の豊姫に月の都を結界で覆わせて、自らは本陣で一人指揮を執っていた。

 

通信機器から、妖怪が進撃を始めたという知らせが入る。

 

大まかな動きの指示を出してから、通信を切った。

 

永琳先生からの手紙に書かれていた"頼み事"の準備は終わった。

 

後は時を見計らいながら、妖怪を"殲滅"すればいいだけ。

 

だが、頼まれ事を成功させるには、一度は混乱状態を招かねばならない。

 

被害を抑えつつ、混乱状態にさせる。

 

難しい物だ、と思いながら、依姫は腰を上げる。

 

そして、脇に置いていた二本の刀を差し、前線へと赴く。

 

刀のうちの一本を撫で、心の中で呟く。

 

私は強くなりましたよ、師匠。

あなたは地上に残ったままで、恐らくは老衰の果てに死に絶えたのでしょう。

どうか草葉の陰で、見守っていてください。

 

抱えたまま捨てるに捨てられぬ情念を燻らせながら、依姫は歩き出した。

 

 

紫は前線から離れた所で、月人と妖怪の衝突を眺めていた。

 

最初こそ、あの銃器という遠距離攻撃手段により少なくない損害を受けた妖怪側。

 

だが、今では月人に対して接敵し、混戦状態に持ち込んでいる。

 

妖怪の膂力は、月人に対しても脅威足り得たらしい。

近づかれた月人は、妖怪の膂力に薙ぎ倒される。

だが、それでも彼らの扱う銃器の威力は衰えない。

彼らの中でも動きにキレがある古強者らしき者達は、接近戦であっても妖怪に後れを取っては居なかった。

 

だが、嬉しい誤算だったのは、月人の軍には新兵が入り混じっていた事だ。

 

新兵を庇い、死んでいく古強者がちらほらと見える。

 

無能な味方が居ると苦労するのはどこでも同じね、と紫は心の中で呟いた。

 

戦況は五分五分。

 

隙間を使って奪い取った通信機からは、統率も何も取れていない混乱状況だという事が解る。

 

そろそろ、動き出すべきだろう。

 

あの女の言う事が正しければ、綿月依姫に綿月豊姫という者が篝火について知っていると言っていた。

 

通信機器によれば、その二人は月の防衛軍、総大将とその姉らしい。

 

あの女にしてやられた、と思いながらも、どうにでもなると楽観する。

 

この力……隙間ならば、どんな相手だろうと意に介する事は無い。

 

件の総大将らしき少女を視認し、隙間を開け放つ。

 

紫は隙間に入って行き、藍はその後ろから厳しい顔で付き従う。

 

 

混戦状態の中、戦場の一部が月人側に優勢となった。

 

依姫が行き会う妖怪を、片端から切り刻んだのだ。

 

そして、そこではない別の場所が、妖怪側に優勢となる。

 

紫がその隙間で持って、月人の首を別ったのだ。

 

月人が優勢な地域と妖怪が優勢な地域は次第に広がって行き、ついに双方がぶつかる。

 

その時、戦場はにわかに静けさを取り戻した。

 

双方の総大将が、遭遇した。

 

妖怪は、不平不満を抱きながらも紫の力は認めており。

 

月人は、有能であり最強である依姫の力に全幅の信頼を置いている。

 

依姫と紫、そして紫に付き従う藍の周囲は、自然に開けていく。

 

妖怪も、月人も、彼女らの戦いに巻き込まれたくない事だけは一致していた。

 

月の都側に月人が、その反対側に妖怪が。

 

戦場は、にわかに一騎討ちの様相を呈していた。

 

「あなたが、妖怪共の頭領かしら?」

 

「そういうあなたは、月人共の総大将?」

 

彼女らの問いかけは、双方共に答える事は無い。

その問いの答えは、彼女ら自身すでに知っている。

 

「……良い具合に散っていったわね、妖怪も皆も。

これなら、全力を出してもよさそうね」

 

「いえ、まだ足りないわ。

秘密のお話をするには、ね」

 

そう言うと、紫は指を鳴らした。

 

快音と同時に、悲鳴が響き渡る。

 

妖怪の全てが隙間に落され、月人の頭上に現れたのだ。

完全な混戦となった戦況は、最早誰がどう統率を取ろうとしても整う事は無いだろう。

 

「これでいいわね。

で、私、一つ質問が有るのだけれど。

良いかしら?」

 

「あら、命乞い?」

 

「まさか。

……この刃に、剣の刺さった篝火。

その主に、覚えは有るかしら?」

 

そう言いながら、紫は傘から刃を抜き、見せる。

それを見て、依姫は全てを悟ったように頷く。

 

「ええ、知っているわ。

篝火を焚けるのは、ある一人の男性……あの人だけよ。

あの人はここには、月には居ないけれどね。

居るとすれば、それこそ地上。

……まあ、既に寿命で亡くなっているでしょうけど」

 

紫が、眼を見開く。

やはり、と心は言い、そんな馬鹿な、と頭は叫ぶ。

 

どちらにしても、やるべきなのは……。

 

「……そう。

なら、早い所あなたを片付けて、地上に戻らないと、ね」

 

「あら、急ぐ必要なんてないわ。

あなたの骨肉はここで永遠に眠りにつくのよ、卑しき妖怪よ」

 

「成否を手繰れる私にならば、訳無い事ですわ。

あなたの骨肉は故知らぬ妖の腹の中に行くのよ、貴き月人よ」

 

煽り文句を言い捨てて、戦いは始まった。

 

紫は藍を前に出す。

前衛後衛と役割を分担し、最大効率で叩き潰す算段だ。

 

対して依姫は、注意深く二人を観察し、動かない。

 

藍がその爪を剥き出しにし、飛び掛かった。

 

甲高い金属音が響く、かと思われた。

 

依姫は、藍の爪による一撃をその刀で持って受け流していた。

 

片や大妖の爪。

片や綿月家に伝わる宝刀。

 

藍の爪は言うまでも無いが、宝刀は彼女の能力を使う為に必要な媒体でしかない。

しかしながら、その刀身は生半な名工の刀を一顧だにしない頑丈さと切れ味を持つ。

 

その両者が、受け流したとはいえぶつかり合えば、衝突する甲高い音が鳴るのは必然。

しかしそうならなかったのは、一重に依姫の剣の技量故である。

 

尋常ならざる膂力から繰り出される爪は、刀の腹で持って寄り添わせるように押され、その軌道を変えられた。

 

流水のように柔らかく宛がわれた刀は、その使い手である彼女が、己の持つ異能に頼り切りの人間では無い事を言外に知らせる。

 

大妖相手に、受け切れた。

その自信が、更に依姫を勢い付かせる。

 

「師匠、あなたの教えは間違っておりませんでした……!」

 

確信を持った眼は煌めきを放ち、依姫は受け流した手に対して切りつける。

 

「藍!」

 

その紫の声に、藍は大きく飛び退いた。

 

その手には浅い切り傷が付けられている。

避けきれなかったのだ。

 

「浅いか……!」

 

呟く依姫の四方に、隙間が開かれる。

そこから出て来たのは、悍ましい量の蟲。

 

紫が隙間を巡る最中に見つけたその蟲は、光りながら見つけた対象を跡形も無く食い尽くす。

飛光虫と彼女が名付けたその蟲は、その性質と数から、紫の持つ攻撃手段の中でも上位に位置している。

 

四方から襲い来る蟲に眼をやる事も無く、依姫は呟いた。

 

「愛宕権現」

 

その途端、彼女を火が巻いた。

 

群がる蟲は、その火の前に全て焼け死ぬ。

 

その火は神の火だ。

伊耶那美を焼き殺した火之加具土と同一視される愛宕権現は、神すら焼く火を操るとされる。

全てを焼き尽くす神の火を抜けるほど、飛光虫は強くは無かった。

 

綿月依姫。

その力は、神を降ろす力である。

 

その力の源は、正しく八百万。

数々の優秀な軍人を送り出した綿月家の中でも、一二を争うほどの強者。

 

故に、彼女はその年で月の防衛軍の総大将という役柄を任された。

 

全ての蟲を焼き尽くすと、火は消えた。

 

やはり分が悪いと、藍は歯噛みする。

 

いや、分が悪いどころではないか。

あの女が神をその身に自在に降ろす事が出来るなら。

 

紫様の妖怪としての性質を鑑みるに、"アレ"を呼ばれたらまず終わる。

 

どうする。

 

まだ紫様は戦うつもりだ。

 

否、あの様子からそれこそ気絶でもしない限り逃げてくれそうにも無い。

 

だが、紫様が気絶などすれば逃げる暇すら無く殺られる。

 

藍が必死に頭脳を回していると、閉じようとしている隙間を依姫が見つめている。

 

彼女の口に浮かぶ薄い笑みに、藍は嫌な予感を覚える。

 

「成程、ね。

曖昧を操る力、という事か」

 

「ええ、そうですけれども?

残念ながらあの子たちの胃袋にあなたを入れてあげる事は出来なかったけれどもね。

まあいいわ、あなたの胴と首の間を曖昧にしてあげましょう」

 

「やってみなさい。出来るなら、ね」

 

「では、望み通り」

 

そう言い、紫は指を弾く。

 

快音が響くが、依姫の首はどうにもなっていない。

 

「……馬鹿な」

 

「地蔵菩薩。

 閻魔大王とも言うけれど、ね。

 全ての死者を善悪に分ける地蔵菩薩に、分けられないものは無い」

 

「今ここは白か黒かだけ。

 あなたが居られる灰色は無いわ」

 

紫が膝を付く。

その表情にはこれまで浮かべていた余裕の色は無く、代わりに苦痛の色が見える。

 

妖怪にとって、能力とは己を表す物だ。

 

紫の能力は物事の境界を操るモノ。

いわば物事のボーダーライン……白と黒の間、灰色を操る力。

 

紫の存在できる灰色は、依姫の降ろした地蔵菩薩により消された。

 

今の紫は、能力を使えない事は愚か、存在すら否定されようとしている。

 

存在の否定。

 

それは神と同じように、恐怖というある種の信仰によって生存する妖怪への、いわば死刑宣告。

 

それに対し、膝を付き、動けなくなる程度で済んだ紫の方が規格外なのだ。

 

藍は、想像出来得る限り最悪の事態になった事を悟る。

 

紫は、普段ならばこのような簡単に想定し得ることを思いつかない愚鈍では無い。

 

だが、今の彼女は己の求めていた答えを見つけてしまった。

そして、早く地上に戻らねば、と焦っても居た。

 

焦りと動揺が、彼女の頭を鈍らせた。

 

そして、その鈍りはこの場において致命的だった。

 

「糞っ」

 

悪態をつきながら、藍は依姫に飛び掛かる。

 

勝算も逃げ道も無いが、退く訳にはいかない。

 

飛び掛かる藍を見て、依姫は差していたもう一本の刀を抜き放った。

紫様の援護が無くなったからだろう。

 

依姫は、抜き放ったもう一本の刀の柄を親指で撫でる。

 

その刀身は、透明だった。

 

騎士が依姫に渡した刀は、闇朧と言う。

その刀は、かつてロードランで死をもたらした者……最初の死者、ニトの持ち物であった。

その刀身は、見た目通りに半ば"ずれた"場所に存在している。

 

故に。

 

依姫は、飛び掛かって来た藍に闇朧を振るう。

藍は反応し、飛び退きながら妖力を手に纏わせ、腹部を庇った。

だが、刃は大妖の名に恥じぬ頑健さを誇る藍の手を半ばまで切り裂いた。

切り裂かれた藍の手には、白魚のような肌の白と骨の白の二つの白が見えていた。

 

このように、あらゆる防御を抜く。

 

その特性と切れ味は、依姫が師匠から渡された、という贔屓目を抜いたとしても、

綿月家に伝わるもう片方の宝刀に匹敵する業物だった。

 

これまでの間、わずか数瞬。

藍が闇朧を避けられなかったのは、その抜刀術の速さもさる事ながら、刀身が見えずに間合いを測りかねたからである。

 

だが、それを知った所でもう遅い。

 

「浅い、か。

 まあいい」

 

言いながら、依姫は踏み込んで、飛び退いた藍の腕……切り裂かれた腕に刀の柄を叩きつける。

 

藍の噛み締められた歯の間から悲鳴が漏れる。

 

痛みによる、一瞬の意識の揺らぎ。

 

それは、まごう事無く隙であった。

 

依姫が闇朧を片手に、更に足を踏み込む。

 

片手で握られた闇朧による突きは、藍の腹部を貫通した。

 

透明な刀身を、鮮血が伝う。

 

闇朧の柄を捻り、引き抜く。

 

藍は崩れ落ちた。

 

依姫は、足元の大妖がまだ息をしている事に驚く。

 

流石九尾の狐というべきか、未だに死んでいないとは。

 

藍を一瞥すると、依姫は紫に向かって歩き出した。

あの九尾の狐は式神、態々止めを刺さずとも主を殺せば死ぬ。

 

苦しげな声音を出しながら膝を付く紫の首に、依姫は宝刀を宛がう。

 

その刀を振り下ろそうとした、その時。

 

依姫の脳裏に、警報が響いた。

 

それは所謂虫の知らせとも、第六感とも言うべき物だった。

 

警報に従い、依姫は飛び退く。

 

その直後に、依姫が先ほどまで居た所と紫の間……刀の腹が有った所を、巨大な剣が落ちてきた。

 

その刀身は、美しい物だった。

 

蒼い燐光を放つその剣は、神聖さを感じさせる。

 

剣が落ちてきた直後、轟音と噴煙が剣の周囲を取り巻く。

 

轟音を出した主は、一人の男だった。

 

その身は正面だけが異様に傷ついた鎧を身に纏っていた。

その兜のフェイスガードは僅かに開かれているが、その男の素顔を見れる位置に居るのは、三人のみ。

 

その三人。

藍、依姫、紫は、その男の事を知っていた。

 

「やれ、やれ……。

貴様は、よくよく、間の良い、男らしいな。

……時間を、稼いでくれ。

頼む」

 

藍は、腹部を貫かれた為か、途切れ途切れに言葉を発する。

 

「……あ゛……と、う……」

 

存在を否定される痛みに悶える紫は、体の痛みで霞む視界にその男の背中を見る。

大きく見えたその背中に手を伸ばし、痛みによって気絶した。

 

「まさか……」

 

「そんな、馬鹿な……!」

 

「生きて、いたのですか……!?」

 

依姫は、死んだはずだった、目の前の男の姿に驚きを隠せない。

 

男は……騎士は、地面に突き刺さったアルトリウスの聖剣を引き抜き、背負った。

 

依姫は、騎士の背に居る紫と騎士を見比べる。

 

そして何かを悟ったか、静かな口調で話し出した。

 

「……やはり、そうなのですね。

奇妙な物です、どんな事が有ろうとも敵に回るはずが無いと思っていたあなたと、相対しているのですから。

良いのです、相対している事自体は。

あなたはどんな相手であろうと、必要が有れば助けていたのですから」

 

「その上で、言います。

……私たちの一年は、縁のある妖怪よりも、自分の娘よりも軽い物だったのですか?」

 

「私にとってのあの一年は、他のどれよりも重い物でした。

……さっきの剣捌き、見ててくれましたか?

私、師匠の教えを忘れないで、ずっと練習してきたんですよ」

 

「師匠が死んでしまったと思ってたから、せめてこの剣技だけは生かそうと。

師匠が、あなたが……」

 

最早、依姫の口から漏れる物は、言葉の体を成してはいなかった。

 

「なんでっ!」

 

依姫は眼を涙で霞ませながら、宝刀を放り出して闇朧で騎士へと切りかかる。

 

先ほどの藍への見事な刀捌きとは思えない、雑な一撃。

それは防がれも、外れもしなかった。

 

依姫の手に、硬い物を切り裂いた抵抗と、肉と骨を切る独特の抵抗の感覚が走る。

 

涙で霞む視界が、取り払われた。

 

彼女の涙を弾いた騎士の指。

 

ほぼ垂直に切り上げられ血を噴き出す、騎士の体。

 

そして、片耳ごと兜をかち上げられて素顔が露出した、

騎士の痛みに堪えながら笑みを浮かべようとする、不器用でさまにならない顔。

その耳には耳飾りが着けてあり、幽かに桃の香りがする。

耳飾りは

 

それが、依姫の眼に映った光景であった。

 

依姫は、その耳飾りに見覚えが有った。

否、見覚えが無いはずが無い。

 

自分自身が、あなたへの贈り物として渡そうとしていた品だったのだから。

 

どうして、あなたは相手の涙など拭くのだろう。

どうして、あなたは微笑もうとしているのだろう。

どうして、あなたはその耳飾りを付けているのだろう。

 

斬られてまで、そんな事をするのならば。

 

何故、もっと早くここに来てくれなかったのだろう。

 

あなたの着けている羽衣は、一度でも思えばここまであなたを連れてくるというのに。

 

あなたがいつまでも来ないから、永琳先生は地上に行ってしまったというのに。

 

私たちは、私は、あなたの事を待っていたのに。

 

ここに来れるように、永琳先生は月の羽衣を残しました。

私たちを忘れないように、姉さんは桃の香水を残しました。

また稽古をつけてもらう為に、私は傷を癒す為のまじないを込めた耳飾りを残しました。

 

その全てを携えて、あなたは私に相対して。

そして、あなたは私を傷つけないのですね。

 

「男の人って、勝手過ぎます……っ」

 

一度止まった依姫の涙は、また眼球の奥底から溢れ出してきた。

 

それをどう止めたものかと、痛みに耐えながら騎士は右往左往する。

 

そして、彼女の後ろに見覚えのある赤い輝粉を見た。

 

頭が切り替わる。

 

後ろ目に紫の様子を見る。

 

ようやく藍が紫の元に這いながら辿り着いた所だった。

 

依姫は涙があふれ、とてもでは無いが戦える状態では無い。

 

エスト瓶を呷り、優しく彼女を脇へ寄せる。

 

そして、背中のアルトリウスの大剣を引き抜いた。

 

「……し、しょう?」

 

彼女が不思議そうに尋ねてくるが、返答している間は無い。

 

紅い光は人の形を成した。

 

重装甲の鋼鉄の具足を纏い、人の丈よりも大きい斧、番兵の大斧を携えた闇霊。

 

何故、この世界に奴らが出てくるのだ。

 

ここはロードランでも、ドラングレイグでも無いというのに。

 

だが、今はそんな事はどうでもいい。

 

彼女らを、守らねば。

 

大斧の闇霊の後ろでは月人と妖怪が入り乱れていたはずだが、その様子もおかしい。

 

見てみれば、赤い体を持った人型がそこかしこに見える。

 

闇霊だ。

 

見えるモノだけでも、相当な数が居る。

 

だが幸いな事に、今こちらに敵愾心を持っているのはあの大斧の闇霊だけのようだ。

 

早めに仕留め、守らなければ。

と、騎士は一歩足を踏み込もうとする。

 

背後に、闇霊が現れる独特の音が響いた。

 

振り向く。

 

そこには、死に体ながら紫を隙間に入れようとする藍と、

現れながらその頭につるはしを叩き込もうとする、闇霊の姿が有った。

 

アルトリウスの大剣を闇霊に叩き込む。

 

アルトリウスの大剣はつるはしごと、闇霊を叩き斬った。

 

粉へと還る闇霊を見る事も無く、騎士は振り返る。

 

そこには、大斧を振り下ろそうとする、鋼鉄の鎧を着た闇霊の姿が有った。

 

とっさに踏込み、大斧の柄にアルトリウスの大剣の刃の腹を当て、防ぐ。

 

ほんの一瞬、鍔競り合った。

 

どちらに転ぶか分からない鍔競り合いに終止符を打ったのは、依姫だった。

 

涙をぬぐい、手に持った闇朧で闇霊の後ろから、首を切り落とす。

 

何とか藍も紫も依姫も無事で済んだ、と騎士は息をつく。

 

「師匠、こいつらは……?」

 

そう問いかける依姫の背後に、騎士は彼女の宝刀を拾い上げる闇霊の姿を見た。

 

投げナイフを投擲し、牽制する。

 

投げナイフは闇霊の手の甲に当たり、痛がるような仕草をして宝刀を取り落した。

 

そして依姫も振り返り、危うく己の得物が盗られる所だった事を知る。

 

「私の宝刀!」

 

依姫は宝刀に向かって駆け出した。

 

闇朧も持っている、大丈夫だろうと騎士は当たりを付け、ソウルからクロスボウを取り出す。

 

スナイパークロス。

弓矢を機構的に再現する為に大型化しやすいクロスボウの中でも更に大型のクロスボウである。

狙撃用のそのクロスボウは、長い射程と高い貫通力を持つ。

 

先ほどのようにいつどこから闇霊が出てくるか分からない。

その為、こうして依姫を援護できるようにしながら、周囲を警戒する形を取った騎士。

 

守らねば。

依姫も、紫も藍も。

そして、出来れば妖怪も月人達も。

 

宝刀を取ろうとした闇霊の足首に向けて、スナイパークロスを撃つ。

狙いは過たずに当たり、狙った足首を貫通してもう片方の足首に突き刺さった。

 

依姫は落ちていた宝刀を握り、同時に足を射抜かれた闇霊の頭を闇朧で切り捨てる。

 

同時に、背後で隙間が閉じる音がした。

 

これで、藍と紫は逃げ切れたろう。

今度は彼らを……妖怪や、月人達を闇霊から守らねば。

 

そう思った途端、地から闇霊が湧き出て来た。

 

「申し訳ありません、師匠!

私には、やらなければならない事があります!」

 

依姫は何かを思い出したように、妖怪、月人、闇霊が三つ巴となった乱戦区域へ飛び込んでいく。

 

一体何体出てくるんだ。

 

騎士は歯噛みしながら、第二射を装填し終わったスナイパークロスを、手近の闇霊の頭に向けて放った。

 

 

戦争なんて糞喰らえだ。

 

眼に涙を浮かべ、逃げ回りながら、鈴仙・優曇華院・イナバはただひたすら呟いていた。

脇に抱えられた長銃は、一度も弾を撃つ事無く彼女の手に握られている。

彼女の胸ポケットには、隊の隊長から受け取った伝令が入れられていた。

 

そもそも、歴史からして妖怪が出ないから月に移り住んだんじゃなかったのか。

 

碌に相手も居ないから、軍に志願したっていうのに。

 

それが、一体なんだって、こんな妖怪とよく分からない幽霊みたいなのと戦わなければならないの!

 

それも、隊の中じゃなくて、たった一人で伝令なんて。

絶対、あの隊長私を殺すつもりだわ。

 

独り銃すら撃てずに怯え、その上仲間を見捨てて逃げる事も出来ない彼女を慮り、彼女の隊長が出した伝令という任務。

 

伝令の中身にはただ一言、彼女を頼みますとだけ書かれている事も知らず、鈴仙は己の隊長を罵倒する。

しかし、それも無理からぬ事だった。

その罵倒は、戦場という異常空間で彼女が己の心を守る為にやっている、防衛本能の産物なのだから。

 

戦場のどこかに居るという総大将へ向けた伝令。

 

そんなの、どう探せってのよ。

確かに私の能力なら、他の子よりは探しやすいけど。

 

走る鈴仙。

その頬に、近くの月人から噴き出した血が当たる。

 

喉奥から悲鳴が漏れ出る。

そして、鈴仙は己の口をふさいだ。

 

悲鳴で妖怪かあの幽霊がこちらを見つけるかもしれない。

 

例え能力で自らを隠ぺいしたとしても、それは絶対的な安全を保障してはくれないのだから。

 

鈴仙の能力は、狂気を操る力である。

しかしその実は、物事の波を操る力だ。

 

物を見る為には、物から反射した光の波を眼球で捉えねばならない。

物を聴く為には、空気を伝う音の波を耳で捉えねばならない。

 

それを操っている鈴仙は、今誰からも認識されていない。

 

それでも彼女が戦場を恐れるのは、彼女の生来の臆病な性格による。

それが、豪傑ですら気が触れてしまいかねない戦場の真っ只中にいるのだ。

 

鈴仙は己の身を隠しながら、人それぞれにある波を探し、総大将……綿月依姫を探していた。

 

人の波を拾うという作業の中で、彼女は色々な物を同時に拾う。

 

それは皆が持つ武具を成す物質の波だったり、色々な星々から流れてくる波だったり。

 

そして、月人、妖怪、そして幽霊の、精神の波だ。

 

月人の皆は、心中で罵声を浴びせたり、ただ恐れ戦いていたりする。

妖怪は、ただ殺すとだけ思ってる連中が一杯いる。

幽霊は、ただの何でもない仕事だ、とでも思っているように、波の揺れが少ない。

 

今、この場で最も戦場というものの恐ろしさを実感しているのは、鈴仙であった。

 

己が狂気を操れる故に、それに身を任せる事も出来ない。

 

彼女は全くの正気で、この地獄を渡り歩いている。

 

「あ……居た……?」

 

能力の使い過ぎで半ば朦朧として来た意識に、依姫の精神の波を見つける。

この地獄の終わりを見た様な気分で、縋る様に鈴仙は依姫の元へ走る。

 

そして、依姫の眼前で、己の能力を解いた。

 

「!」

 

同時に、鈴仙の額に依姫の刀の刀身が触れる所だった。

 

「……あなたは確か……鈴仙・優曇華院・イナバね。

隠密状態で人の前に立つのは止めなさい、危うく斬る所だったわ」

 

彼女の隠密は理論上無敵である。

だが、世界は理論だけで動いては居ない。

依姫のように、よく分からない第六感とも言うべき物で隠密を見破る物も居る。

 

刀が眼前にあるという恐怖に、鈴仙の涙腺は限界を迎えた。

 

泣く事を止めようとしているのに、涙があふれ出て止まらない。

 

「あなた、私を探していたようだけれど、何か用があるのかしら?

酷な事を言うようだけれども、私はあなただけを守るという訳にはいかない。

ここでただ泣かれているようでは、私はあなたを置いていく事しか出来ないわ。

例え、あなたが姉さんのペットだったとしてもね」

 

鈴仙は、玉兎という種族である。

玉兎は月で生まれた人型の兎であり、月人よりも下の階級に位置している。

主にこういった月人の護衛や、愛玩用のペットとして扱われる。

とは言っても、技術の発達している月では、さほど悪い扱いをされている訳でも無い。

 

そして、鈴仙は依姫の姉、豊姫のペットであった。

 

故に鈴仙は依姫とも少ないながら面識が有り、故に依姫の精神波を知っている。

 

溢れる涙を止めようとしていた鈴仙だったが、それを聞いて涙を止めようとするのを止め、

胸ポケットに仕舞っていた伝令を取り出し、渡す。

 

依姫は闇朧を鞘に戻し、空いた手で受け取って読み始めた。

伝令を視界の中心からずらして読み、尻目で周囲の警戒もしながら読んでいる事には、鈴仙は気付かない。

 

「……成程。

姉さん、この子が……鈴仙が、"アレには適任"だと思います」

 

「あら、やっぱりそうかしら?

結構気に入ってたから、やりたくは無かったんだけどねぇ」

 

鈴仙はその声に振り替える。

豊姫が、いつの間にか鈴仙の後ろに立ち、依姫に相槌を打っていた。

 

量子論、という物がある。

一言で言ってしまえば、どれだけ有り得ない事だろうと、起こり得る可能性が少しでもあるならば不可能では無い、という物だ。

 

例えば、壁にぶつかるとしよう。

そうした場合、壁を通り抜ける事は出来るだろうか?

常識に当てはめれば出来ない、という答えが出てくるが、量子論に基づけば出来る、という答えも返ってくる。

人が生まれてから死ぬまで、ずっと壁にぶつかり続ければ通り抜けられるかもしれない、という低確率ではあるが、出来るのだ。

 

豊姫は、永琳による量子論解釈を完全に理解する事で、知っている場所に人や物体を転送する事が出来るようになった。

 

故に、突如として鈴仙の背後に現れたのだ。

 

「鈴仙、あなたに仕事があるの。

だから、私に付いて来てくれないかしら?」

 

「は、はい。

解りました、豊姫様」

 

「いい子ね、私いい子は嫌いじゃないわ」

 

依姫は、前触れも無く消え去る姉と鈴仙を見送る。

 

これでやらなければならない事は終わった。

 

他の者を助けつつ、師匠の元に戻らねば。

 

依姫は闇朧を抜刀し、手近な妖怪に切りかかっていった。

 

 

「あの……豊姫様?

ここって、どこですか?」

 

鈴仙は、一瞬の意識の途切れを感じた直後、見知らぬ場所に居た。

何かの艦船のような狭い通行口が後ろに見える。

目の前には、超強化ガラスらしき物で外と隔てられた宇宙が見えた。

 

「ここはね、医療器具を満載した小型の宇宙船よ。

貴方は此処に居なさい」

 

そう言って、豊姫はまた消えて行った。

 

「……ここは、安全かもしれないけど。

でも、隊の他の皆は、無事かなぁ……?」

 

鈴仙がそう呟いた、その時。

 

『船内に生体反応を探知。

当船は、予定された目的地に向け、出航します』

 

「え?

ちょ、一寸待って、何それ!?」

 

船に搭載された人工知能が発した音声に、鈴仙は驚く。

何かの間違いだとコンソールを弄ろうとして覗いてみるが、ロックされていた。

 

「一寸待ってよ、出してよ!

私、何処に行っちゃうの!?」

 

その悲鳴に返答は無い。

 

船が動き出し、戦場が見える位置へと来た。

 

遠い。

 

最も船に近い戦場の一か所ですら、人や妖怪が豆粒と見える。

 

「皆は、皆は大丈夫かな……?」

 

鈴仙は疲労困憊の身ながら、能力を使って余計な波長を省く。

こうする事で、鈴仙は己の視力よりも遠くを見る事が出来る。

 

鈴仙は戦場を俯瞰し、己の居た部隊を見つけた。

 

他の隊と比べて統率は取れていて、安定していた。

 

あれなら大丈夫だ、と鈴仙はほっと胸をなで下ろす。

 

今度は自分が、どうにかして脱出しなければ、と見るのを止めようとする。

 

そして、隊の一人と目が合った。

 

同じ玉兎である彼女は、遠くが見える能力を持っていた。

 

故に、鈴仙はあっちが自分を見ていると確信する。

 

玉兎は、種族固有の能力を持っていた。

それは同じ種族同士であれば、どれだけ遠い距離だろうとタイムラグも無く会話が出来るという物。

そしてそれは、個人へ向けたメッセージも送る事が出来る。

 

鈴仙の視界に移る彼女の表情を、鈴仙はついぞ忘れる事は無かった。

 

眼を見開き、何故、という戸惑いから、何かを悟ったように眼を細め。

 

同じ玉兎達の、恐怖からの罵詈雑言、悲鳴の中に、一つだけ冷静で冷たい言葉が混じる。

 

裏切り者。

 

「違う、違うの、私は……」

 

何が違うというのだろう、実際に私は此処に居るのに。

 

そうだ、此処から出なきゃ、本当に裏切り者になってしまう。

まだ裏切り者にはなっていないんだから。

 

そう思いながらも、体は言う事を聞かない。

極度の疲労と緊張で張り詰めていた心の弦が、切れてしまったように。

 

出なきゃ、出なきゃ。

 

そう思いながらも、体が酷く鈍く、頭も碌に回らない。

 

ついに鈴仙は、眠りにつくように気絶した。

 

船は唯一の搭乗者を気にする事も無く、宇宙を航海している。

 

 

闇霊を斬る。

 

闇霊を斬る。

 

闇霊を斬る。

 

騎士は、満身創痍だった。

 

エスト瓶も飲み干し、その傷だらけの鎧には新たな傷が無数に刻まれている。

その鎧を、装備者の血が赤く彩っていた。

 

エスト瓶により治った片耳が、周囲の音を拾う。

 

また闇霊だ。

現れた所をアルトリウスの大剣で大上段から唐竹割りをして、倒す。

 

闇霊が狙っていた妖怪は、己が幻想郷へと勧誘した妖怪だった。

 

守らねば。

 

また、耳が闇霊が現れる音を拾う。

少し遠い場所で、月人が現れた闇霊に切り伏せられようとしていた。

アルトリウスの大剣を投擲し、闇霊を串刺しにする。

 

闇霊が狙っていた月人は、月の都が地上に在った時に知り合った、軍人だった。

 

守らねば。

 

皆を守らねば。

 

この戦端が開いてしまったのも、己のせいだ。

妖怪も月人も、ここで死ぬ定めでは無かったはずなのだ。

 

守らねば。

 

守らねば。

 

守らねば。

 

闇霊が五体、目の前に現れた。

 

一体何体出てくるのだ、と騎士は改めて思う。

 

ここはロードランでも、ドラングレイグでも無い。

ならば、闇霊が出てくる原因が、何かある筈だ。

 

騎士は闇霊と鍔競り合いながら、原因を探る。

 

ふと、気付いた。

 

先ほど、守らねば、と強く四回思った。

 

そして、闇霊が四体現れたのだ。

 

思えば、闇霊が現れ出したのは、己が月に降り立ってからだ。

 

永琳の言葉を思い出す。

 

"貴方の呪い。穢れと同質のそれの正体は、人の感情よ"

 

では、この惨事は全て、己が引き起こした事なのか。

 

己が守りたいと強く思ったから、火は強く燃えて。

その結果、闇霊を呼び寄せてしまっていたのか。

 

己が守りたいと思ったから、彼らを傷つけているのか。

 

騎士は四体の闇霊を切り伏せる。

 

その体躯は傷だらけであり、仮初めとはいえ死が眼前に迫っていた。

しかし、エスト瓶が切れたといえども回復手段はある。

騎士は、まだ戦える。

 

だが、騎士は傷を癒す事も無く、アルトリウスの大剣を仕舞った。

 

そして、ロングソードを取り出し、逆手に持つ。

逆手に持ったロングソードの切っ先を、自らの胸へと宛がった。

 

闇霊は、自らの標的である者……この場合は騎士がその場から離れるか、

あるいは狙われた者が死ぬ事で元の世界へと還る。

 

だから、己が死ねば、この闇霊は還るだろう。

 

切っ先を自らの胸に突き刺そうとし……気づく。

 

このまま死ねば、幻想郷の中に復活する事になる。

 

あそこに帰る訳には、幻想郷に闇霊を呼び寄せる訳にはいかない。

幻想郷では、半月の間闇霊は出て来なかった。

しかしそれは己が強く心を動かそうとしなかったからだ。

 

今のあそこには、娘が、紫が居る。

苦労こそあるだろうが、それはどうしようもなく幸せな場所だろう。

 

あそこで、幻想郷で、心を固く閉ざす事など、己には出来ない。

 

やはり己は旅の空にしか、生きられないのだ。

 

ロングソードを仕舞い込み、羽織っていた外套を撫でる。

 

どうか、連れて行ってくれ。

 

幻想郷でも無いどこかへと。

 

騎士は月から飛び去った。

 

そして少しの間が経ち、闇霊は粉へと還った。

 

その後も、月人と妖怪の戦いが有ったが、それもしばらくして終わった。

 

戦場跡を、静寂が包んでいた。

 

静寂を掻き消す足音が響く。

 

依姫だ。

 

誰も居ない。

 

己の師匠が、あの人が、何処にもいない。

 

戦場跡を歩き廻る依姫が、ある物を見つけた。

 

それは、己がかち上げ、飛んで行った騎士の兜だ。

 

左耳の部分が切り裂かれている。

 

それを依姫は拾い上げ、抱える。

 

あなたの死体はありませんでした。

ならば、此処では無い何処かに居るのでしょう。

 

私はまた、あなたに会えるでしょうか。

 

「その時まで、これは預かっておきます」

 

そう呟き、依姫は騎士の兜を抱き締めた。

 

 

月人が月に移住してから、初めての大規模戦闘はここに集結した。

 

それなりの被害を出した月側は、後処理に追われる事となる。

 

その中で一人、逃亡兵が居た事がにわかに軍を賑わせた。

 

医療器具を満載した小型船が、地球へと航行したのだ。

 

犯人は玉兎、鈴仙・優曇華院・イナバと判明。

 

データ解析により、誰か一人が乗った時に、

設定されていた航行ルートを自動で行く設定がされていた事が判明し、

大分前から彼女個人が周到に計画していたと看做された。

 

 

幻想郷では、特に何事も無く、何かしらの要因で妖怪が減ったのだと

にわかに里が活気づいていた。

 

稗田阿一はその日を境に、やってくる八雲紫の様子が変化したと書に書いている。

 

今日は輪廻転生について、八雲紫と打ち合わせをする日であった。

だが、珍しい事に、いつもは化粧などしない八雲紫が、珍しく化粧をしていたのだ。

それも、目元に濃く化粧をしていた。

 

何故だろう、と目元を良く見てみると、目元が腫れていたのだ。

 

このように目元が腫れるというのは、酷く泣き伏した時ぐらいでしかない。

目元にばかり注目していた為に気付くのが遅れたが、その纏う雰囲気も何時もとは違う物であった。

 

親しい者が亡くなった時に残された者が纏う、悔恨と悲しみ、空虚さがない交ぜになった雰囲気だ。

 

はて、彼女は何を亡くしたのだろう。

お付の九尾の狐は生きているようだし、彼は死なないはずなのに。

 

だが少なくとも、彼女は化粧をしたという事実は変わらない。

化粧のけは、化けると書く。

それはつまり、己を化かしたかった、変わりたかったという事に他ならない。

つまり、彼女は何かしら己のままでいる事に耐えられなかった、と推測できる。

 

彼女が、何故化粧をしたのか。

いずれ……輪廻転生した後にでも……その答えを知る機会が来るかも知れないので、その時に思い出し易いよう、ここに残しておく事にする。

 

これが全文であった。

 

その謎の答えについて彼女が知るには、今しばらくの時が要る。

 

 

竹林は、その深く覆われた霧の中で、にわかに騒がしくなっていた。

 

「まさか、船ごと持って来させるとはね。

大丈夫?

月の奴らにばれるんじゃない?」

 

輝夜が珍しく外に出て、その小型の船を見ていた。

 

「大丈夫よ、ばれないようにあの戦いを仕組んだのだから。

あっちは共通規格だから、小型宇宙船一隻分でも、色々な事が出来るのよ」

 

「あー、こっちに逃げてくる前にそんな事が有ったわねー。

確か永琳、あなたが主導してたんじゃなかったっけ?

……ねえ、永琳? もしかして」

 

「計画は、時間をかけて入念に。

あなたにも教えたでしょ?」

 

「時間は高いのよ?

まあ私たちにはただ同然だけど、だからってそこまで注ぎ込むのには慣れてないわ」

 

「豪遊を欲しいままにした、輝夜姫だっていうのに?」

 

「あら、私最初は普通の家で育てられましたのよ?」

 

「すぐに金貨が竹から溢れて来たけれどね」

 

軽口を交わし合いながら、永琳達は宇宙船の中を進む。

 

そして、一人の玉兎を見つけた。

 

「今回の被害者って奴かしら?」

 

「責任ぐらいは取るわよ、寿命からしたって私たちにとっては正しくペットのような物だしね」

 

「まあ、それは良いとして。

彼、帰って来ないけど、これってあなたの計画が失敗したんじゃないのかしら?

元々彼の為の計画でしょ、これ?」

 

「準備にだって時間は掛かるわ。

死ぬ事は無いんだから、ここでゆっくり待つだけよ」

 

「はいはい、気が長い事で」

 

日は沈み、月が出てこようとする時分だった。

 

「……あら。

今日の月は、紅いのね」

 

「月と地球の角度の問題ね。

塵が太陽の光を反射した月明りを、屈折させている。

だから、紅く光るのよ」

 

「そんな事は解ってるわ。

でもそんな言い方じゃ風情が無いって物でしょ、永琳?」

 

「あれは、血の色よ」

 

紅く光る月は、地上を見下ろしていた。


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