東方闇魂録   作:メラニズム

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第二十一話

体の重みが消えたのは、果たしてどれほど前の事だっただろうか。

 

光を放ち、星々の間の闇を縫うように騎士を飛ばしていた外套は、今ではその光を失っている。

 

外套が光を失うと共に、騎士は初めて虚空に浮くという感覚を知る事となった。

 

腕を振る。

 

すると、体は腕の慣性に従って独楽のように回り出す。

 

星々の間。

 

地上から見上げたそこには闇しか無く、本当は何が有るのか、その陰に何が潜んでいるのかと騎士が夢想した事は少なくない。

 

今、騎士はその星々の間……宇宙空間……に居た。

 

いざ来てみれば、星たちは地から見上げた時ほど、仲良しこよしと隣り合っては居ない。

 

ここでは、星だろうが人だろうが独りぼっちだった。

 

寂しい。

ただひたすらに、寂しい。

 

こうまで寂しく感じるのは、この果てない暗闇に、寂しさが詰め込まれているからなのだろう。

 

そんな気がした。

 

口を開く。

 

息を吸おうとしても、何も入っては来ない。

 

この空の果てには、光どころか空気すら無い様だった。

 

虚空を満たす寂しさは、肺を満たさない。

 

むしろ、寂しさが肺に詰め込まれ、息苦しくも感じる。

 

少しずつ、少しずつ。

 

肺が求めているのは空気であるというのに、寂しさばかりが肺に詰め込まれる。

その異常に肺が根を上げて、死が迫ってきているのだぞと声高に騎士に訴える。

 

肺が感じている苦しさに騎士も耐えかねて、半ば反射的に騎士はもがいた。

 

もがいた反動で、騎士は回る。

 

一周、二週。

 

そうして回った視界に映ったのは、白く輝く月と、青々とした空を映す大地……地球だった。

そして、闇を穿つように光る星と闇。

それ以外は何も無い。

音も無い。

深淵と似ていて、しかし違う類の暗闇が、広がっている。

 

そんな、何もない空間の中に居ると、自然と精神は外では無く内を向く。

 

騎士は、過去へと思いを馳せていた。

平和だった頃。

人であった頃。

人で無くなった頃。

永い旅路に、巡り合った暖かい者達。

 

記憶の中の温もりに抱かれたからか、それとも息が出来ずに意識がもうろうとし始めているからだろうか。

瞼は微睡むように、少しずつ重みを増す。

 

その瞼の重さで、騎士はにわかに薄れかけた意識を取り戻した。

 

仮に、この虚空を永遠に漂うのならば。

 

それはそれでいい。

それならば、少なくとも誰かに迷惑をかける事は無い。

 

だが、この虚空では息が出来ない。

言うまでも無く、息が出来なければ人は死ぬ。

 

そして、死ねば幻想郷に戻ってしまう。

 

騎士は、月面での闇霊を思い出す。

 

闇霊の強さは個体によって様々だ。

 

弱い者ならば片手間で捻り潰せる事も有れば、強い者は騎士の全力ですら倒せるかどうか五分五分と言った所。

それは騎士の膂力に器用さなど、ソウルの業で底上げした身体能力のみで争った場合の事であり、実際は戦法や運、武具の相性、なによりも場数である程度変動する。

故に膂力や能力で騎士を圧倒的に上回る、この世界での強者……真っ先に挙げるとすれば、幽香や依姫辺りだろう……ならば、闇霊の中でも特に強い個体相手でも問題とはなるまい。

 

だが逆に言えば、強者で無ければやられる可能性がある、恐ろしい相手でもある。

ロードラン、ドラングレイグの時では、不死人である己はやられた所で大した問題とはならなかった。

だが、この世界の者達は、例外を除いて……永琳や輝夜に、そして、妹紅……死ねばそれで終わりだ。

 

そんな者共が、己の周りに山と湧くのだ。

 

己が狙われるだけならば、まだいい。

だが、奴らは目的の者であろうとなかろうと殺戮を繰り広げる。

 

その性質と物量は、さほど広くも無い幻想郷には致命的である。

強者だけが生き残っても、他に住む者が全員死んでしまえば、それは最早郷里の体を成さない。

 

人と妖の共存を目指す幻想郷には、闇霊は余りにも危険過ぎる。

 

それならば己が紫達に、幻想郷に出来る最も良い手段は、幻想郷に留まらずに方々を放浪する事のみ。

 

己はただでさえ、月面での争いを引き起こした原因なのだから。

 

紫達に、これ以上迷惑を掛けてはいけない。

掛ける気も無い。

 

思えば己は、疫病神のような物だ。

行く先々で争いを起こす。

己が関わらない事で、紫達が、家族が、幻想郷の穏やかで優しい者達が安全ならば。

 

迷う事は無い。

 

むしろ未だに大切にするべき家族が居るという事だけで、己にとっては望外なのだ。

紫達は、この空の何処かで、平和に、楽しく暮らすのだろう。

 

その空想は、独りきりの旅路にささやかな救いをもたらしてくれる。

その救いさえあれば、己は歩んでいける。

これまでは、その救いすら無かったのだから。

 

息苦しさが、どんどんと増していく。

星々の輝きが、騎士の意志に反して閉じてしまう瞼に掻き消されていく。

 

死ぬ訳にはいかない。

 

どうにかして、幻想郷でもここでも無い何処かへ行かなければ。

 

騎士は何か手掛かりにならないかと、これまでの旅の中で別の場所に"飛ばされた"事を思い出す。

 

聖壁の都 サルヴァ、黒霧の塔、凍てついたエス・ロイエス。

最初の火の炉に、ウーラシールもそうだった。

 

そのどれもが、そこへの縁とでもいうべき物無くしては行く事が出来なかった事を、騎士は思い出す。

 

だが、今は縁が全くと言っていいほど無い所へと赴きたいのだ。

恐らく、縁が有る所には、巻き込みたくは無い者達が居るだろうから。

 

縁無くして、どこかへ行く事が出来る物は無いだろうか。

朧にかすむ意識の中で、騎士はある事を思い出した。

 

そもそも、己はどうやってこの世界まで来たのだ?

 

騎士は最早糸ほどの細さしか開いていない、己の瞼に触れる。

その奥に鎮座する眼球、その奥にあるはずの火。

 

この火、"最初の火"によってではないか。

 

この世界に己を誘ったこの火ならば、どこへとでも行く事が出来るだろう。

そう考えてみると、今の状態は実に都合が良い状況だった。

 

強く思い、火を活性化させれば闇霊が湧く。

 

しかしこの虚空ならば、闇霊すらそのまま何も出来ずに死ぬだけだ。

 

……これしか、無い。

 

亡者化を防ぐかと思えば、闇霊を湧かし。

この火には、恩も有れば恨みも有る。

 

だがその恨みも、そもそもこの世界へと、最初の火に導かれなければ生まれる事も無かったのだ。

 

つくづく、この火に振り回されているな。

騎士は苦い笑みを浮かべる。

 

だがそれでも、今はこの火に頼る他無いのだ。

 

眼を閉じ、深く思う。

別の場所へと誘ってくれ、と。

 

にわかに焦げ臭い臭気を感じる。

その臭気を感じた瞬間、騎士は火に包まれた。

 

そして、虚空から騎士の姿は消え失せた。

 

 

目を覚ますと、一面の銀世界に立ち尽くしていた。

夜闇に、白い何かが無数に浮かぶ。

その白さは星々をも霞むと思わせる程輝き、夜闇を白く塗り潰して騎士の視界を塞いだ。

 

雪であった。

 

すわ、凍てついたエス・ロイエスに来たかと騎士は思う。

 

エス・ロイエスとは、ある偉大な騎士が王となって建てた都だった。

その土地にはある呪われた物が有った。

それを封じる為に、"白王"という、かつてドラングレイグに居た偉大な王が、そこに都を建てたのだ。

白王はやがて力を失い、ある女性が王の遺志を継ぎ、混沌を封じる為に都全体を凍りつかせた。

 

その為に、かの都は今騎士が見ている景色のように、目の前が見えるかどうかすら覚束ないほどの量の雪が降り注いでいたのだ。

騎士は何の縁かその都へと赴き、一つの終極を見届けた。

 

エス・ロイエスは、無論あの世界……紫達の生きている世界では無く、ドラングレイグの一部にある。

ここがエス・ロイエスであれば、己はあの世界に戻ってきた訳になる。

 

だが、己が何処へたどり着いたか、確かめるのは後で良い。

その事よりも優先するべき事は山とある。

 

騎士が身動ぎした時、足元の雪の音と羽織った外套の擦れる音が騎士の耳に入った。

 

そういえば、外套は大丈夫だろうか。

 

外套にあのような機能が付いているとは思っていなかったが、二度目に使用しようとした時に使えたという事は、星々の間を行く機能は使い捨てでは無いはずだ。

 

それなのに、あの虚空の只中で機能を止めた。

順当に考えると、外套には何か異常か破損でも見られるはずなのだ。

 

騎士は外套を脱ぎ、己の前に広げて見る。

 

外套の艶めかしさを感じるほど滑らかだった布地は、何かの熱に耐えきれなかったかのように斑に焦げ跡があった。

焦げ跡の中心には、人の眼球ほどの大きさの穴が開いてしまっている。

形を保ってはいるが、それなりに激しい旅路で使うとなれば、そう長くは持たないだろう、と騎士は直感した。

 

この有り様では、普通に使用していれば更に穴が広がり、終いには引き千切れてしまうかもしれない。

取り敢えずは、修復をするまで外套を仕舞い込んでしまった方が良いだろう。

この寒さの中で外套を付けないのは少しばかり辛いが、これほど強い吹雪ならば、付けていようが付けていまいが誤差でしか無い。

 

騎士は、辺りを見渡した。

 

このまま吹雪の中で突っ立っていては、いずれ凍えて死ぬ。

 

人ならざる身ならば兎も角として、騎士はあくまで人の身である。

ソウルの業で強められた肉体も、凍え死にまでの期限を延ばす程度の恩恵しかもたらさない。

 

何処へなりとも、凍えぬ場所へと赴く必要が有った。

 

辺りを見渡す。

 

騎士の背後に、街並みの灯りらしき、薄ぼんやりとした光源が見えた。

それも一つでは無い、複数の灯りが規則的に立ち並んでいた。

 

これは、自然にできる光源では無いだろう。

 

すわ、何処とも知れぬ街か。

 

否、それともエス・ロイエスに、ドラングレイグに戻って来たのか?

 

数瞬考え、エス・ロイエスでは無いと騎士は結論を出す。

凍てついたエス・ロイエスは、廃都同然の有り様であった。

吹雪くに任せ、建物だろうが何だろうが全てを凍りつかせていた。

 

故に、街並みの灯りが有るというのは有り得ない。

 

であれば、ここはエス・ロイエスでは無いのだ。

しかしここが紫達の居る、幻想郷と地続きの世界とも限らない。

 

ただ、エス・ロイエスでは無いという事が解っただけだ。

 

だが、エス・ロイエスでない場所ならば、情報を集めねばなるまい。

かの地については、放浪するに困らない程度に情報を知っている。

しかし全く知らない地、それに加えてここまで厳しい環境の場所ならば、情報を求める事が最優先である。

 

故に情報を集める為、騎士が街へ歩みを進めようとし、足元の雪の中に黒い粉が混じるのを見る。

 

己の体から落ちた物だ。

 

何だ、と思い鎧を手甲で拭う。

 

手甲に付いていたのは、黒く雪よりも細かい粉。

 

その香りは、にわかに焦げ臭かった。

 

煤だった。

 

言うまでも無いが、煤は火から出る物だ。

 

そんな物を己が纏っていた、という事は、その煤の出所は一つしか無い。

 

言うまでも無く、最初の火だろう。

 

どうやら、煤が出る程度には火が活性化していたようだ。

煤が付くかどうかは別に気にする必要は無いのだが、やはりこの移動方法はなるべく避けた方が良いな、と騎士は思う。

 

今回は吹雪の中という、まだ生き延びる余地がある場所に出た。

しかし、下手をすれば溶岩の最中等、どうにもならない場所に飛ばされる可能性もあったろう。

そう思うと、騎士はぞっとしなかった。

 

一応、火の扱い方に習熟すれば、何処に飛ぶかを操れるかもしれない。

だが、習熟するまでに己はどれだけ死ぬだろうか。

火山の中、空の彼方、息をも出来ぬ地中深く、高さにもよるが高い所に出ても着地出来ず、己は死ぬ。

 

一度も負けられない賭博をするにしては、どうにも己の運勢は頼りない。

 

仮にも騎士の位を持っていた者が、明日をも知れぬ放浪の身と成り果てる。

それならばまだ珍しい事では無いが、尊厳無き人死にが溢れ返っている地獄のような世界を、自ら"終わる"事も出来ずにさまよい続ける他無い。

 

自分自身が言うのは筋違いだろうが、これは中々どうして救いようの無い運の無さでは無かろうか。

よりにもよってそんな運命を選び取った己の運勢を、信用する事など誰だって出来はしない。

 

まあ、その運命の果てに優しく良い人々に妖物や神、そして新しい家族に巡り合えたのだから、最近に限って言えばそう悪し様に罵るほど情けない運勢では無い。

程度こそあれ、人生は山あり谷ありとも言う。

そう思うと、やはり運命や人生というのは人の身で推し量れる物でも無いのだろう。

 

そうだとすれば、まずは人として出来る事からやるとしよう。

 

騎士は街灯りへと歩みを進めた。

 

 

街灯りが少しずつ近づき、街の様子が朧気ながら見えてくる。

 

そこにあったのは、四角い建物のような何かだった。

 

建物だ、と騎士が感じたのは、一重に街灯りがその建物の中から灯っているが故である。

 

そしてその街は不思議な事に、雪粒の一つたりとも降り積もってはいなかった。

 

その上これだけの規模を持ちながら外壁すらも無いその街は、騎士に"ここは己の常識では計り知れぬ、常世ならざる場所なのだ"という確信を抱かせるには十分過ぎる異様さであった。

 

雪を半ば掻き分けながら、光の方へと歩んで行く。

 

少しずつ、少しずつ。

 

荒ぶ吹雪の音に、山盛りとなって押し潰された雪を踏んだ、革靴を磨く様な音が掻き消される。

 

騎士にとっては異様な容貌をした街並みが、少しずつ見えてきた。

 

そして、騎士は足甲に付いた雪を飛ばしながら、街に入り込む。

 

途端に過ごしやすい程度のほんのりと暖かな空気に包まれた。

 

吐くたびに白くなっていた息も、瞬く間に透明になる。

 

ほう、と一息ついた騎士。

 

そして、そんな騎士を見つめる大量の眼が有った。

 

有象無象の少女の姿をした者や、明らかに人ならざる造詣の者。

 

彼ら、彼女らは己の赴くがままに歩みを進めていたが、その視線は一様に騎士へと向いていた。

 

このような不思議な世界では来客は珍しい物なのだ、というのは古来から物語ではお約束のような物だ。

この不思議な街もそのお約束に漏れず、旅人である騎士は珍しいようだった。

 

好奇の視線ならばまだ良いのだが、中には明らかに御馳走を見るような目線の者も居るから性質が悪い。

 

どうにもやり辛い視線を浴びながら、騎士は歩みを進める。

 

遠くから見た通り、乾いた粘土にも似た色合いの材質で作られた四角の建物が幾つか建っている。

その建物はどうやらビル、というらしいが、そのビルが見下ろす町並みにも、大小さまざまな建物が立ち並ぶ。

建築様式すらも雑多な建物達は、高い建築技術で作られた、という事だけが共通していた。

 

そして雑多に立ち並ぶ建物の中から騎士が捜していたのは、酒場だった。

適当に歩いていた騎士だったが、看板らしき物が大量に見える区画を見つけ、入り込む。

 

どうやら、この一帯は物の売買を主とする区画らしい。

 

看板を読もうとしたが、見た事の無い造詣の字で読めない……と思っていたら、ふと脳内にその看板に書いている字の意味が浮かんでくる。

そう言った魔法の類なのだろうか、それは解らないが、騎士には文字が読めたという事実だけで十分であった。

 

どんな場所だろうと、文字が読めて金があればどうにでもなる。

 

この街で扱われる金銭がどういう物かは解らないが、騎士のソウルに収納された物品の中には純金、純銀、宝石の類もある。

旅中では、下手に貨幣を持つよりも現物の方が話が早い。

 

騎士は数多くの看板の中から、酒場を探し始めた。

 

視覚のみならず、嗅覚でも酒の香りを探そうとするが、雑多な食料や香水、あるいはよく分からない物が混じり合った匂いで全く持って嗅覚が役に立たない。

不快な香りという訳では無く、むしろ良い香りが入り混じって高揚感すら覚えるのだが、今回に限ってはいささか煩わしい。

 

酒というのは、どんな場所でもその厄介さ、転じて有用さに変わりは無い。

視野が狭くなり、口が軽くなり、心にも隙が出来る。

そして声が大きくなり、他の者の耳にも入りやすくなる。

 

街や村などの一つの社会と対峙するにおいて、剣や弓は何の役にも立たない。

 

それらに変わって頼れるのが、金に知識、そして酒なのだ。

不死人という社会的に圧倒的不利な存在に変わってからは、自ずとこういった手段に長けていった。

慣れなければ一度や二度の死では効かない事態になるのだから、当然と言えば当然ではあるのだが。

 

騎士は長い事酒場を探し回った。

 

そして、最終的にある一つの酒場を見つけ出す。

街の一角、入り組んだ路地の中に見つけた酒場。

そこはどうにも怪しい雰囲気で、周囲の魑魅魍魎達も不思議とそこには寄り付かない。

 

酒場自体は、幾つか大通りの中にも見つける事が出来たのだ。

 

だが、どうにも思っていたより荒くれ者が多かった。

 

人間である己は、酒精により視野が狭まり切った彼らには、注文せずして出された酒の肴にしか見えていなかったようだ。

 

自己防衛とはいえ、街中で殺人……この場合は殺妖か……を犯すのは、非常に不味いだろう。

故に店に入っては逃げ、店に入っては逃げを繰り返していた。

 

それでも酒場という場所に騎士が固執していたのは、この街では酒場以外の場所は治安が整っており、どうにも余所者が入り込む余地が無いからだ。

余所者というのは、ただでさえ目立つ。

故に、細心の注意を払いながら、更に念を押さなければ安心出来ない。

 

事貿易が盛んな街や、そういった場所ならばそこまで気を張る必要は無いのだが、この街では己は目立ち過ぎる。

何度考え直しても、せめてこの街のあらゆる酒場を巡ってから、初めて別の場所での情報収集に当たる方が良いという結論に達するのだ。

 

これだけ良い治安が保てる街であるというのに何故酒場の治安が悪いのか、とも思ったが、

ほぼ妖物しか居ない街なのだ、そう言った羽目を外せる場所が少しは無ければ具合が悪いのだろう。

 

しかし、それならば何故そもそも勝手気ままが信条の妖物が、街全体で見ればこんなにも良い治安を保っているのか、という事に疑問を抱くのだが……。

 

酒に乱れ、己を喰おうとする妖に追われている状況では、その疑問に対する答えを出す為に思考を巡らせる余裕など無かった。

 

そうして逃げる内に路地裏に入り込み、この酒場を見つけたのだ。

 

見つけた店は、おあつらえ向き、と言ってもいいほど好条件ではあるのだ。

 

未だ店には入っていないが、先ほどまでの厄介な酔っ払いの類が居るならば店の前からも解る。

酔っ払いの声は、大抵店の外まで響く物だ。

 

だが、騒がしい者が居なければ、当然己は目立つだろう。

すると必然的に盗み聞きできなくなり、そうなれば情報は集め難い。

 

だが、数に限りがあるとはいえ紙もある。

 

補充の都合が立たない為にあまり使いたくは無いが、最悪店の店主と筆談でもすれば情報を集める事が出来るだろう。

そもそも、己の書ける言語を、店主が知っているか、という疑念があるが……やって見なければ何とも言えない。

 

それに、これまで見つけた店ではその最悪すらしようが無かったのだ。

 

故に、この店に入る理由こそあれど、入らない理由は無い。

 

だが、どうにもその店の放つ妖しい雰囲気には、警戒を抱かずにはいられない。

 

それに、勘違いで無いのなら、この店が目に入った途端、追手の妖怪が踵を返したようにも見えたのだ。

無論、ただの偶然である可能性も否定は出来ないのだが。

 

さて、入るべきか入らないべきか。

 

頭を掻き、その指が兜に阻まれない事で、月に己の兜を置いていってしまったのを思い出す。

そう言えば、依姫に斬り飛ばされたまま、回収するのを忘れていた。

他の物ならば替えは効いたのだが、よりによって父より継いだ兜を忘れてしまうとは。

 

まあ、仕方がない。

今更月に行く手段も無い上に、行った所で回収できる保証も無い。

 

諦めよう。

もしかすれば依姫辺りが回収でもしていてはくれないだろうか、と思い、希望的観測に過ぎる、と苦笑する。

 

兎も角、こうしていても始まらない。

 

ここに入らなかったとしても、次に良い店が見つかるとも限らないのだから。

 

騎士は、どうにも近寄り難い雰囲気を放つ酒場の扉を開いた。

 

中々、清掃の行き届いた店であった。

 

木製の店内にテーブルとイス、そしてカウンターと台所に向かうらしき扉が一つ。

 

店にあるのはそれぐらいだったが、酒場としては充分だとも言えた。

 

しかし、酒場としては足りない物が有った。

 

客だ。

 

その酒場には客は誰も居なかった。

 

酔って暴れ出す類の者は居なかろうと騎士は思っていたが、

だとしてもこれだけ静かだろうが一人ぐらいは居るだろう、と考えていた。

 

しかし、まさか誰一人として居ないとは。

 

「あら、お客さん?

お客さんが来るだけでも珍しいのに、私が見た事無い"人"だなんて。

やっぱり開いてて良かったわ、ねえアリスちゃん?」

 

「うん、良かったねお母さん!

確か、お客さんにちゃーんとお飲み物を渡せたら、お人形さん買ってくれるって言ってたよわね?」

 

「あら、言ったかしら?」

 

「言ったわよ!

もう、忘れちゃうなんて、お母さんったらひどいわ!」

 

「大丈夫よ、今度はちゃんと覚えたから。

流石に私だって、お客さん一人帰る間くらいは覚えてられるわよ?」

 

店内を見渡すと、その会話から親子と思しき者が二人いた。

 

妙齢の、赤いローブのような服を着込んだ女性である。

長い銀髪を流し、向かって左に束ねた髪が一房垂れている。

その一房だけ飛び出した髪は、馬の尾のようだった。

 

そしてその女性をお母さんという子……アリスは、少女と言うよりは女の子と呼ぶべき体躯であった。

ふわりとした金髪に、青いリボンが結ばれている。

 

アリスは、騎士が己を見ている事を悟ると、そのリボンと同じ色をしたドレスの裾を掴み、

およそ酒場には似つかわしくない、ドレスの裾を抓み上げての礼をした。

 

礼をし、上げた顔には、お転婆な笑みが浮かんでいる。

 

妙齢の銀髪の女性は、ふわりとした笑みを浮かべて騎士を呼ぶ。

 

「ほらほら、そんな所で立っててもどうにもならないわ?

座って、お話でもしましょうよ。

お酒でも飲みながら、ね?

ほーら、アリス。

お酒持って来てー」

 

「お母さん、どのお酒を持ってくればいい?」

 

「どれも結構良いお酒だから、適当に選んじゃって良いわよ」

 

「はーい」

 

アリスは扉の奥へと消えていき、騎士は促されるままカウンターに置かれた椅子へと座った。

 

銀髪の女性は騎士の目の前に移動すると、両肘をカウンターに付いて頬に手を当てる。

 

「ねえ、お客さん。

少し聞いてもいいかしら?

こういう時って、店主は何かしらそれっぽい事を喋ったりするわよね?

格好いい文句を言ったりとか、何ていうか……そんな感じの。

……そういうのって、具体的にどう言ったらいいのかしら?」

 

……仮にも、店の店主がそんな事で良いのだろうか。

というよりも、その理論で言う所の格好を付けるべき客相手に聴く事では無いと思うのだが。

 

開口一番情けない事を言われ、どうにも形容し難い表情を浮かべた騎士に言い訳をするように、銀髪の女性はまくし立てる。

 

「いや、だってね?

あなたがこのお店の初めてのお客さんなんだもの。

皆こう、疲れた時って甘えたくなったりするんじゃないかなー、って思って、この酒場を開いてみたのよ。

皆来てねー、って伝えたのに、だーれも来ないんだものね。

皆しっかり者に育ってくれたのは良いけれど、甘えてくれないとお母さん的には寂しいのよー」

 

騎士は取り敢えず、この女性は大家族だ、という事ぐらいしか把握することが出来なかった。

否、来る客皆が己の娘、息子だと思っている可能性もある。

だとすれば豪気な事だ。

 

だが、このままこの女性の気の赴くままに喋らせていては、何も解らないまま夜が明けるだろう。

そこまで人の喉が耐えられるはずも無いとも思うが、こと話となると女性の喉はその強靭さを何倍にもする物だ。

 

やはり紙を使うしかないのだろうか、と騎士がソウルから紙と墨、そして羽ペンを取り出そうとした時。

 

「あら、筆談?

お洒落な人ねぇ、それとも喋れないから仕方なく、なのかしら?」

 

……!

 

騎士はゆっくりと、音を立てずにソウルからアストラの直剣を取り出し、腰に差した。

 

騎士は未だ紙をも取り出しても居ない上に、喋れない事も伝えてはいない。

 

無論これまで一言も口を開いては居ない為に、喋られない事を予想出来なくも無いだろうが、それにしても断定するには早すぎる。

なのに何故、己が筆談しようとしていたのかを察知出来たのか。

 

観察眼が異様に鋭いか、それとも妖怪が持っている類の力の恩恵か。

 

いずれにせよ、彼女は己に対して一歩、踏み込んだ対応をした。

 

故に、騎士はこの見目麗しい女性への警戒を一気に高める。

最早己は死ねぬ身である為に。

 

それこそいざとなれば彼女を斬り捨てるつもりでいる程度には、騎士はこの女性に警戒していた。

それは一種の恐怖であり、久々に思い出した死への恐怖への、半ば本能的な対処であった。

 

カウンターは騎士と女性の胸まである。

故に、腰に刺したアストラの直剣は見えず、剣を腰に差した事は解るはずが無い。

 

だと言うのに。

 

「もう、せっかちねぇ。

世の中には、敵か味方の二種類しかいない訳じゃないのよ?

こうやって、生真面目な殿方をからかいたくなる乙女だっているのよ、人間さん?」

 

そう言う女性の目線は、カウンターに遮られ見えていないはずのアストラの直剣を確かに捉えていた。

 

……これは、選択を誤ったか。

 

近寄り難い雰囲気を出している店など、入らなければ良かった。

 

アストラの直剣は、良い剣である。

アストラの地で鍛えられた剣の中でも良い物を選び、聖別されたアストラの直剣。

それは、ドラングレイグやロードランに住まう魑魅魍魎を相手にしないのであれば、命を預けるに足る良品であった。

 

要するに名剣であり、それ以上でも以下でも無かった。

 

眼前の、得体も実力も知れない女性を相手取るには、少々役者不足である事は否めない。

 

だが、それが躊躇する理由にはならない。

死んではならぬ、死んではならぬのだ。

 

どこか遠くへ、誰もいない所へと赴く為に。

 

騎士は腰に手を回す。

そして、アストラの剣の柄を、音が出ないようにそっと、だがしかし最高の一振りを行えるように丁寧に握り込む。

女性をじっと見つめ、大きく息を吐く。

その一挙一足を知り得る筈の銀髪の女性は、その柔らかな笑みを崩さぬまま。

 

その様は、はた目から見れば、騎士は女性をじっと見つめて固まっていた様に見える。

 

無論、それは両者の生死を別つべく、張り詰めた糸のような空気である。

今この場において両者は生死を争う相手であり、それ以上でもそれ以下でも無い。

 

だが、それを知らない第三者からすれば、騎士が女性に見惚れていたように見えるのだ。

 

「あー!

お客さんが、お母さんの事じーっと見てるー!

ねえねえ、お客さん、それって恋って奴なの?

胸が苦しいの? それとも切ないの?

本には、そういう物だって書いてあったんだけれど」

 

扉の奥から騒がしく、アリスが酒瓶を抱えてやって来た。

 

恋や愛について聞こうとして駆け寄ったのだろうが、兎角この年頃の童というのは忙しない物だ。

 

騎士の腰に差した剣を見て、訊こうとしていた恋や愛についてを忘れ、少女の興味の対象は剣へと移る。

 

「あれ? お客さんって剣、差してたっけ?

何だか、物語に出てくる勇者さんみたい!

悪ーい竜とか、退治したりした事でもあるの?

アーサー王物語とか、ベオウルフみたいに!」

 

なんとも好奇心旺盛で、騒がしいアリス。

 

騎士から眼を外し、そのアリスを優しく見る女性の顔は、得体の知れぬ化け物の物では無い。

 

一人の、母親の顔であった。

 

我に返り、己の所業を客観的に鑑みる。

警戒にはし過ぎという物は無いが、これは警戒では無くただの疑心暗鬼であったのでは無いだろうか。

 

今さっきまで、騎士は女子供に刃を向けかねない悪人であった。

死ねない体だからだ、娘の為だ、と言い訳は幾らでも吐けるが、その事実は変わらない。

 

騎士は深いため息を一つついた。

生まれ持った俗人の性というのは、どれだけの生を重ねようと覆せぬ物らしい。

こうしていざ己が死ねぬ身となり、危機に陥れば、いつもの騎士然とあろうと努める心情など紙屑のように軽く舞って、飛んで行ってしまっていた。

 

騎士はアリスの抱える酒瓶を受け取りカウンターに置いてから、アストラの直剣を鞘に差したまま渡す。

 

「わ!

見せてくれるの?」

 

驚きながらも興奮を抑えられていない、アリスのその問いに頷く。

 

身の丈に合わないアストラの直剣を、その重みにふらふらとしながら抱えて、嬉しそうに眺めるアリス。

 

彼女の母に手を上げかけた罪滅ぼしにはなるまいが、と思いながら、騎士は女性に向き直る。

 

疑った事、そして害意を持ちかけた事への謝罪をしなければなるまい。

未遂とは言え、刃を向けようとしたのだから。

 

頭を下げるべく立ち上がろうとした騎士を、女性は手で押し留めた。

 

「殿方が、濫りに頭を下げる物では無くてよ?

それに、ここは酒場よ?

酒場には、酒場なりの謝り方ってある物じゃないかしら」

 

ね?

 

そうウインクした女性の目線には、騎士がアリスから預かり、カウンターに置いた酒がある。

 

騎士がその視線に気づくと、私やっと酒場のマスターっぽい事言えた! とでも言いたげに胸を張る。

 

……成程、そう言う事か。

 

確かに、この場においては、それが最も相応しい謝罪の仕方かもしれない。

 

騎士は懐から純金の硬貨を何枚か取り出し、カウンターに放った。

そして、酒をもっとくれ、とグラスに入った飲み物を呑むような仕草をする。

 

「はい、畏まりましたー♪」

 

そう言って、女性は奥から幾つかの酒瓶とグラスを持って来た。

 

騎士はその間にアリスの持って来た酒瓶を開けておき、女性の持って来たグラスを受け取り注ぐ。

そして、酒を注いだグラスを女性へと差し出した。

女性が、自分のグラスに注ごうとしていたのを止め、騎士の差し出したグラスを受け取った。

 

そして手元に置き、注ごうとしていた空のグラスに酒を入れ、騎士に渡す。

 

「御相伴に預かりますわね?

ほーら、アリスにも葡萄酒、持って来てあげたわよー」

 

「ほんと!?

やった、お母さんの創った葡萄酒!」

 

「ほーら、酒瓶ごと飲む物じゃないわよ。

ちょっと待っててね、もう一つグラスを持って来てあげる」

 

そう言って、女性は閉店と書かれた看板を持ち、店の扉の前に掛ける。

 

それが終わってから、女性は店の奥へと消えて行った。

 

だが、アリスは女性が戻ってくるまで待てないらしい。

騎士から見てカウンターの裏側に有ったらしいコルクスクリューを取って来て、己の葡萄酒を開けようとした。

 

だが、中々コルクに刺さらない。

 

代わってやった方が良いだろうか、と思い、手を伸ばした瞬間。

 

コルクに押し付けられていたコルクスクリューの鋭利な先が、ふとした拍子に滑ってアリスの腕に突き刺さった。

血が吹き出し、アリスは一瞬だけ何が起こったのか把握していない様子だった。

そして、やっとその血の噴き出し様と痛みを認識したのか、泣き出す。

 

騎士はすぐさまハンカチを取り出して傷口を抑えた。

 

アリスの泣き声に、グラスを持って女性が駆けてくる。

 

「アリスちゃん!?

どうしたの!?」

 

その足音とアリスを呼ぶ声を耳にしながら、騎士は聖鈴を取り出し、鳴らした。

 

大回復。

 

聖職者の中でもごく一部しか使えない偉大な奇跡は、日光のように柔らかく光る魔方陣が浮かばせる。

魔方陣が消え去ってから、騎士は傷口を抑えていたハンカチを外した。

鋭利な刺し傷は、最早突き刺さっていた跡すら見えなかった。

 

「……す、すっごーい!」

 

喉元過ぎれば何とやら。

 

自らから傷どころか痛みすら拭い取った奇跡について、興奮しながら駆けてきた女性に語りかけていた。

 

女性がアリスを叱る声を耳にしながら、騎士は血の付いたハンカチをソウルへと戻す。

女性がアリスを叱る姿は、優しさに溢れていた。

 

しばしの間叱り声が店内を満たし、それが止んだ後は酒がグラスへと注がれる音が響いた。

 

腹いせか、アリスの腕を抉ったコルクスクリューは女性により握り潰され、代わりのコルクスクリューで葡萄酒が開けられた。

 

何とも無しにぐしゃぐしゃに握り潰された元コルクスクリューを投げ捨てる女性に、やはりこの者は尋常では無かった、と騎士が戦々恐々としながら、漸く三人のグラスに酒が注がれたのだった。

 

三人のグラスがぶつかり合って快音を奏でる。

 

三人の酒盛りは、朝まで続いた。

と言っても、酒と言えないような程酒精の弱い葡萄酒で早々に眠ってしまったアリスを含めるのならば、だが。

 

アリスはその体躯に相応しい騒がしさで、酒宴の暫くの間を己の独擅場としていた。

 

騎士の事を、様々な危機を切り抜け、悪党を裁いてきた勇者だ、と決め付け、……事実の一部一部を抜き取ればそうと言えなくも無いのが性質が悪い……その冒険譚をせがんだのが最初である。

次に騎士が口が利けない事を知って少しの間落ち込むと、今度は倒した事のある"悪い竜"を描いて! と騎士にねだった。

 

悪い竜、という竜など有っただろうか? と騎士が頭を捻らせていると、アリスは業を煮やしたか色々な本を持って来た。

そしてどういう物が悪い奴だ、というのを、その物語を朗読する事で己へ教えようとした。

アストラの直剣を、明らかに重たげに抱えているというのに、朗読の時も抱え続けているその姿は、何とも微笑ましい物であった。

 

アリスのその張り切りも長くは続かず、騎士が"白い、鱗の無い竜"、シースの絵を八割ほど描いている時には既に夢の世界へ旅立っていた。

重たげにアストラの直剣とグリム童話という物語集を抱えながら、頬を赤らめながら安らかな寝息を立てている。

そんなアリスを、銀髪の女性は剣や本ごと抱えながら、器用に酒を飲んでいた。

 

嵐のように暴れたアリスが眠ってからは、少しばかり物静かな酒宴となった。

物静かだと感じたのは、アリスの騒々しさが騎士の心中に残っていたというのも多大にあるだろう。

だがそれ以上に、騎士が身振り手振りを使って意志を伝えようとしなくても、女性が考えを読み、話していたからであった。

 

騎士が話を聴いている時に心にふと湧いた疑問を間髪入れずに拾い上げ、その事について喋るのだ。

 

故に騎士は紙を消費する事無く、色々な事が訊けた。

 

専ら騎士が疑問に浮かべた、この世界と街の事についての話だったが、夜を明かすほど長い酒宴の肴にはちょうど良い長話となった。

と言っても、内容だけ挙げれば一夜を明かす程の濃い内容では無い。

 

では何故話がそれほどまでに長くなったかというと、女性の話は何かと脇道に逸れるのだ。

 

街のある店の話をしているかと思えば、そこに通り掛かった人の起こした、ちょっとした笑い話に話が逸れたり。

この世界の土地の説明をしているかと思えば、その場所を創る時の苦労話に行ったり。

 

何故そんな話が出来るか、と言うと、信じ難い事ではあるが、どうやらこの女性はこの世界……魔界……を創った、所謂神と言う存在らしい。

ついでにこの街の長でもあるらしかった。

 

その際に己の名を自信満々に宣言し、漸く騎士は彼女の名前を知る事が出来た。

 

神綺(しんき)。

 

それが、この子供らしくも得体の知れない女性の名前らしい。

 

こう見えて、すっごい偉いんだから!

 

そう言う神綺の姿は、彼女が胸に抱いている眠ったアリスと大差無い、子供のような見栄の張り方だった。

 

訊けばこの店も気紛れに作った物で、先ほども言っていたが己がこの店の初めての客らしかった。

 

確かに、改めて店内を見渡して見れば、掃除が行き届いているというよりは汚れた事が無いようだった。

 

椅子も、机も、カウンターも、店自体も。

 

どれも年月を重ねた木々を使っているのか黒々としていたが、

酒場としてこなれたような、酒や食物の汁が浸み込み、馴染んでいるような類の黒さは見当たらない。

 

神綺は、大規模に宣伝したのに誰も来ない! と残念がっていたが、仮にも己の創造主たる者の酒場に喜び勇んで飛び込む事が出来るだろうか?

 

その答えは、この店に居着いている閑古鳥が教えてくれると言うものだ。

 

しかし、それが彼女、神綺を皆が嫌っているという事の証左にはならない。

 

人と見れば喰おうとするような気質の者共が居着く街が、このように整然とした秩序を保っている事。

 

それは、一重にこの街の長たる彼女に、敬意を持っている事の証に他ならないのではないだろうか。

 

少なくとも、住民一人一人の事すら覚えているような彼女の語り口は、敬意を受けるに足るだけの懐の深い愛を感じるのだ。

 

そう思い、その思考を読んだのか子供のように赤面させて照れる神を見て、味が解らぬ酒が旨く感じられた気がした騎士だった。

 

 

店に嵌められた硝子窓から、朝日が差し込み出してきた。

 

酒精に負けぬように、と毒咬みの指輪を嵌めた騎士……長い旅路の最中に知った事だが、酒精を体は毒と見なしているらしい……だが、飲んだ酒量の多さには勝てずに少しばかり酩酊している。

 

しかし、騎士よりもかなり多く酒瓶を開けていた神綺は、少し頬が赤くなる程度で済んでいた。

 

どうでも良い所で人の貧弱さを思い知った騎士は、日が店内まで差した事を切欠に、そろそろお開きにすべきだろう、と立ち上がる。

 

そして店を出ようとしたが、神綺から呼び止められた。

 

その顔には悪戯小僧のような不敵な笑みが浮かんでいる。

 

「あら、これだけ飲んだらこれだけじゃあ足りないわよ?」

 

おや、そうだったか、と騎士は追加の純金硬貨を出してカウンターに置くが、神綺はそれを己に突き返す。

 

その上で、お代が足りないと嘯く。

 

「お代が足りないとなっちゃあ、しょうがないわね。

飲食分の労働はして貰わないと……ね?」

 

つまり、何か頼み事が有るという事らしい。

 

回りくどい事をする。

頼み事が有るならば、素直に言えば良いというのに。

 

ほんの少しばかりの苛立ちを載せて思うと、その苛立ちに意を介さずに嘯きを続ける。

 

「いやね、酒盛りをする前に、アリスちゃんがお人形をねだってたの、覚えてる?」

 

「お人形を買いに行く為に、ちょっと付き合って貰えないかしら」

 

「あなたが居た青い星……地球って言うのよ?

そこで売ってるお人形なんだけど、この前私一人で買いに行ったら、人外に渡す人形は無いとか言われちゃって。

腕は本当に良いんだけれど、偏屈さも度を越しているのよねぇ」

 

そこで折良く己が来た、という事か。

 

しかし、神綺の力を鑑みるに、"真摯にお願い"でもすれば買えない事も無いと思われるのだが。

 

「ああ、そりゃあ私だってちょっとだけ粗っぽい手段を考えた事は有るわよ?

だけど、どれだけ力を絞っても人形どころか建物ごと壊してしまうだろうから、やるにやれないのよねぇ。

それよりも、あなたに頼んだ方がよっぽど早いって訳」

 

まさか、力が強すぎてそういう手段に踏み切れないとは思わなかった。

 

確かに、そう言う事ならば己に頼む理由として納得がいく。

 

「報酬はそこまで送り届けると言うのと……うーん、そうねえ。

私に貸し一つ、が前報酬でどうかしら?

成功後の報酬は、まあ要相談で、って感じで」

 

解っているでしょうけれど、割と人間が居続けるには辛い世界よ? ここは。

 

神綺の提案に、騎士は少し考え頷いた。

 

酒盛り中に、この世界は人間一人が放浪するには少し厳しい物が有るという事を教わっている。

 

無論騎士自身常人であるとはお世辞にも言えないが、この身は最早軽々しく死地に飛び込む訳にはいかない。

蒼い星に、地球に戻れば紫達に見つかる可能性こそ少しは高まるが、人の中に紛れて放浪する方が生き易いと言うものだ。

 

それに、先刻の無礼を鑑みれば、命に関わらない範囲なら極力協力してやりたいとも思う。

 

騎士の頷きを見て、神綺は花開く様な笑顔を浮かべた。

 

「じゃ、交渉成立って奴ね!」

 

そう言うと、アリスを寝床に降ろす為か、台所に向かう扉の方へ歩みを進めようとしていた。

そう言えば、アリスも本を持ってくる時に、あそこから持って来ていた。

どうやら、住居区は台所の奥にあるらしい。

 

その折に、神綺はアリスの抱えていたアストラの剣を、持て余すように見た。

 

「あ、これ、あなたに返した方が良いでしょう?」

 

そう言う神綺に、騎士は首を振った。

 

良ければ彼女に、アリスにあげても良い。

 

「……良いのかしら?

そこまで良いとは言わないけど、悪い剣でも無いでしょう? これ」

 

良い。

他にもそれより良い剣は持っているし、アストラの直剣だって偶に使うだけなのだ。

ソウルの奥底に埋もれているよりは、持っていて喜ぶ者に渡した方が、剣にとっても良いだろう。

 

……それに、少しばかりの罪滅ぼしでもあるのだ。

 

心を読める側からすれば、心にも声の大きさ、と言った類の物は有るらしく、

騎士の最後に呟いた心情は読み取られなかったらしかった。

 

騎士の耳触りの良い、半ば建前、半ば本気の独白のみを聞き取った神綺は、憐れみを込めた眼で騎士を見て、言葉を紡ぐ。

 

「……あなた、放浪なんてしているよりも、どこかの村か街で子供の世話をしている方が余程似合うと思うわよ?

まあ、そう出来ない理由があるのでしょうけど」

 

「まあ、そう言う事なら、有り難く貰っておこうかしら。

アリスちゃんが起きたら、あなたからのプレゼントだって言っておくわ」

 

そう言いながら、神綺は剣を携え、アリスを抱えながら扉の奥へと消えていった。

 

その後ろ姿を見届けながら、騎士は思う。

 

紫にも、あれだけ小さい頃が有ったのだろうか。

あのように、甘える相手の居ない幼少期というのは、どれだけ寂しかったろうか。

 

何故己は、こんな処に居るのだろう。

 

後悔が、熱した鉛のように臓腑を焼く。

 

今すぐにでも、紫の元に戻るべきではないだろうか。

 

そして、あの子を抱きしめてやるべきなのでは無いだろうか……。

 

後悔を強引に飲み下し、頭を振った。

 

いつか子は親を離れる。

それが早まっただけだ。

 

共に居てあの子を危険に晒すくらいならば、子を見捨てて放浪する不出来な親である方が、よほど良いではないか。

子とて、いずれは親離れするのだから。

 

騎士は、傷だらけの手甲を撫でる。

鋼と鋼が擦れ合い、不快な音が響く。

 

同時に、後悔が喉元までせり上がってくる。

それを騎士は、残った酒を呷って今度こそ呑み下した。

最早、鉛のように臓腑を焼くのが、後悔か酒精かも解らなくなる。

 

これでいい、これでいいのだ。

 

これで、いいはずだ。

 

「……じゃ、アリスちゃんも布団に寝せてきたから、行きましょうか」

 

神綺が帰って来て、そう言うと同時に彼女の目の前に穴が開く。

 

その穴の色は、真白だった。

 

神綺がその穴に入り、消える。

 

騎士は上級騎士の兜を被り、追いかけた。

 

騎士が穴に入ると、穴は少しずつ閉じ、やがて消えた。

 

二人が居なくなった事を知る由も無く、アリスは寝床で眠っている。

 

アストラの直剣を掻き抱いて。


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