死とは、多くの場合人生の終局である。
無論、死が生の終局では無い異形の者も多く居る。
だがそれとて体験したのは一度かそこらで、二度も体験したような者はそれら異形の者の中でもまずいない。
三度となれば、最早皆無と言い切れるほどだ。
ましてや、死に慣れるほどに死を迎えた者など、言わずともがな、である。
その中での唯一の例外である騎士にとっても、死とは久々に体感する物だった。
眠りにも似た体の冷たさ、それからの感覚の消去。
そこから熱と感覚が復帰する。
そうして降り立った世界は、篝火の火で微かに照らされた木造建築の中だった。
四方が木目の壁であり、緋色にも似たその色を篝火の火で更に赤く染めている。
暗く、光源が篝火の火しか無い為に見え辛いが、その内の一方が引き戸の扉となっている。
篝火を中心に、丸く照らされる室内。
その綺麗な円を邪魔するのが、一人。
騎士である。
辺りを見渡し、直ぐに己への危険が及ばぬような静けさを聞き取ると、その直後に己の装備を整える。
異様なのだ。
元より騎士が篝火の剣を刺したのは、碌に舗装すらされていない丘、その一か所に有った僅かな平地である。
決して、このような室内の床板では無い。
では何故抜けば消える篝火の火が、このような所で燃えているのか。
篝火の剣が刺さっている一か所だけが土で、その周囲を床板が囲っているのだ。
周囲を見れば日本の建築様式である事は歴然。
ならば軒下も当然のことながらある筈で、にも拘らずこのような事になっている。
それはつまり、丘の篝火の剣が刺さった所以外を軒下の分だけ削った、という事になる。
人里から離れている事、そして辺境であった事も加味すれば、このような場所を人が作り上げたとは到底思えない。
では誰が建てたか、妖に他ならないでは無いか。
それも、尋常ならざる狂気を孕んだ。
この場に少しの間でも永く留まる事は、騎士にとってはすこぶる不味い。
例えその妖を殺したとしても、広い訳でも無い幻想郷ではすぐに足が付く。
返り討ちに会い己が殺されたとしても、すぐにここで復活してしまいまた戦う事となるだろう。
それも、己を返り討ちに出来るだけの実力者と。
前者ならば、偏屈な妖を殺したとして話が広がり、それは幻想郷を創り、管理している紫の耳に入るだろう。
後者でも、それだけの実力者と紫が関わり合いを持っていないはずがなく、その内に紫の耳に入らないとも限らない。
剣を抜くのは論外だ、それだけ執着している者が剣を抜かれて騒ぎ立てないはずが無い。
己の結界破りを考えれば、物理的に幻想郷を出る事は不可能に近い。
だが物理的で無く脱出するにしても、紫から見つからずに伝手を創り出すのもまた不可能に近い。
"ならば、脱出せずに問題を解決すればいい。
その為の方法は、既に思いついている。
幻想郷で無ければ出来ない、傍迷惑ながらも全てを解決させる方法が"。
だが、その為には紫は己の生存を知らない方が良い。
故に、この場は誰にも見つからずに脱出した方が、都合が良いのだ。
それが例え不可能に近い事だとしても、その努力を怠る気には、騎士はなれなかった。
盗賊の身に付ける類の、黒皮でなめされたマスクに皮鎧、篭手、ブーツを着込み、音を掻き消す静かに眠る竜印の指輪を指に嵌める。
そしてその手には何の武器も持たず、騎士は引き戸を少しだけ開け、外の様子を窺う。
何にも見つからずに夜闇に紛れるのが最善だが、最悪を想定しないのは阿呆のやる事だ。
この場合の最悪とは、ここを建てた"執着している妖怪"に見つかる事。
だがこの姿で一目散に逃げれば、命知らずの盗賊が盗みに入って見つかった、という多少の誤魔化しも効くだろう。
己の立ち振る舞いに多少の違和感はあるだろうが、あくまで次善の策だ、多少の効果が望めるだけマシと言う物。
折り悪く、ちょうど夜が明け、朝日が差そうとしている時間帯であったらしい。
彼方に見える空が、黒から紺へと色を変え始めている。
引き戸の僅かな隙間から望める石畳、見通しが良くなるように切り開かれた木々に茂み、そして己の直下の賽銭箱。
ここは神社の中か、とその風景から騎士は察した。
随分と皮肉めいた話だ。
妖怪が神を祈るとでも言うのか。
それとも、何時の間にやら幻想郷は、神と妖が寄り添えるような世界となったのだろうか。
開いた引き戸を閉める僅かな音で掻き消される程度の思考。
騎士は掻き消えたその思考をやり直さず、その思考に割り振られていた思考の分も含めて辺りの様子を探る。
辺りを見渡し、人気どころか少しの音も無い事を確認し、騎士は引き戸を開けて出る。
夜闇に溶け込めなければ、一目を忍ぶのは困難だ。
この朝日が出る直前の、最も暗くなる時。
最早、その時を狙う他無い。
静かだった。
ただひたすらに、静かだった。
指輪による効力で、己の足音すら消え失せた夜明けの直前。
だからこそ、その声は良く響いた。
「随分と、奇妙な盗人だ。
入りもせず抜け出してくるとは」
騎士は思わず振り返り、見上げた。
神社の上から聞こえたその声は、うら若き少女のような高い声であった。
にも拘らず老獪さを感じるそれは、まず間違いなく妖の物。
振り返ると同時に、朝日が上がった。
緋と橙の合いの子のような色味が、夜闇の黒紺を塗り潰していく。
それは騎士が出て来た神社も例外では無く、木と瓦で作られた神社に黒い騎士の影が伸びる。
強烈な朝日であった。
故にゆらゆらと舞い落ちる黒羽も、朝日を跳ね返し燦然と輝く。
瓦、黒羽。
それらと日光が創り出した煌めきの中に、一人の少女が居た。
舞い落ちる黒羽の元らしき黒翼が、朝日によりその艶を強く主張する。
その黒翼とは異質ながらも劣らぬ艶を持った短く切り揃えられた髪、その上には小さな赤い被り物。
天狗であった。
その姿は伝承に有る赤面に長鼻とは似ても似つかぬ麗しい見目であったが、その妖しさは正に人をかどわかす魔性の物。
その顔は神のごとく厳かであり、妖として見るには少しばかり違和感を持つ。
だが妖であるにも拘らず神として信仰されもする天狗ならば、それは別段不可思議な物でも無いのだろう。
己の姿を見られた美しい天狗は、からからと笑いながら言葉を紡ぐ。
「しかし、残念だったな?
よりにもよって、盗み出す物も無い社に入り込むなど。
妖としての天狗から言わせればその強欲、実に良い、と言う所だが……。
生憎、今の我は神の方の天狗として此処に居るのだ。
天狗の、先導する者としての権能を求められてな」
そう言うと、天狗は目つきを鋭くする。
「貴様にどういう意図が有ろうとも、後であの口煩い奴から難癖を付けられても困る。
故に、問答無用で叩きのめさせてもらおう。
……まあ、運が悪かったと思って諦めろ、盗人。
何、お前と違って天狗は盗人では無い、命までは取る気はないさな」
そう言って、天狗の姿は掻き消えた。
騎士はすぐさま神社へと駆け寄り、その戸を背に立つ。
騎士と戸はさほど距離は無く、そして全力で駆け寄った為に二秒も経たずに神社の戸口までたどり着いた。
にも拘らず、その全身は鋭利な刃で裂かれたような傷が付いている。
その中でも、皮鎧の最も厚い部分に深い傷が付いていた。
何時もは使わない武具であろうとも、長旅に飽かせて集めた楔石で強化しておいて良かった、と騎士は胸をなで下ろす。
世が世ならば値段を付けられぬだけの価値を持つ楔石で強化した盗賊の身の着は、そこらの金属鎧を軽く凌駕するだけの強さを持つ。
天狗は神社を背にした騎士の正面、ちょうど登って来た朝日を背にして姿を現した。
そして、意外そうな声を上げる。
首を少しだけ傾げ、不思議そうなその顔色は、場に似合わず可愛らしい物であった。
「……確かに、死なぬように鎧の厚い所を狙いはしたが。
まさか抜けぬとは思わなんだ。
さて、出来ればその鎧を脱いでほしいのだがな。
これ以上強くとなると、加減をするにも骨だ……故に、命の保証は出来んぞ?」
騎士は、なんとも面の皮の厚いその要求に否と首を振る。
例え脱いでかの風を喰らった所で、気絶など出来る物か。
この体には有効打にはなろうとも、気絶するほどの威力とはならない。
ならば気絶したふり、という選択肢も頭を過ぎったが、生憎そんなふりをした事など一度も無い。
何せ気絶のふりなどが有効な事など旅空の下では無く、その修練を積むよりも生き残る修練を積んだ方がよほどましであったのだ。
少なくとも、付け焼刃の演技などがこの天狗に通じるとも思えない。
常人では耐えられぬ物を耐えたとなれば、ただの盗賊だとは思われまい。
だが、これで否定して逃げ切れば、腕の立つ盗賊で評価は止まる、はずだ。
願望に願望を重ねてはいるが、本質的に戦いとは、生きる事とはそんなものだ。
勝手にこうなるだろうと願望を抱き、そしてそれに向かって行動する。
究極的に、そして大雑把にいえば、その願望の精度が高い者が最後には立っているのだ。
……と意気込んだ所で、状況がすこぶる悪い事自体はどうにも変えようがない。
己の持つ武具は総じて殺傷力が高く、ああいった尋常では無い素早さを持つ相手には当てられない。
かと言って術は使えない、使った時点であの天狗の己に持つ印象は盗賊などという物では収まらなくなる。
ただ、そこまで悪い条件下で最悪と称するまでは行かないのは……一重に、己と天狗との位置取りだ。
天狗の口調からして、何者かから頼まれてここを守護している事は察する事が出来た。
守護する対象は誰かであり、同時にこの場所である、と考えたが……どうやら当たっていたようだ。
こうして考えている間にも幾重もの軽い切り傷が己の身に刻まれてはいるが、天狗の予告していた"手加減無しの一撃"はどれだけ待っても来ない。
それは即ち、建物へ被害を出したくは無い、と言っているような物だ。
件の口煩い奴の存在が足かせとなっているのだろう。
この天狗が守護する物。
それこそが、この場を切り抜ける為に必要不可欠な要因だ。
だが、この建物を背にしていても事態は悪化するばかりだ。
であれば、もう一つの守護する対象。
騎士は、神社の脇に立つ母屋を見やる。
人質。
それしかあるまい。
無論、後に続かない策だ。
人質を解放しようにも逃げねばなるまいし、よしんば上手く行って人質を解放して逃げ切った所で追われる事となるだろう。
だが、己が常人の範疇を超えていないように見せ、その上でこの場を切り抜けるには、言葉を持たぬ己ではそれしか無いように思えた。
例え歩む先が崖だろうと、歩みを止めた時点で全ては終わる。
崖に落ちようとも、それで死にさえしなければまた歩く事は出来るのだ。
崖に落ちる事では無く、立ち止まる事こそが真に死をもたらす。
一瞬の隙。
それだけあれば、天狗に背中ぐらいを見られたりはするだろうが何とか母屋に入り込めるだろう。
不幸中の幸いというべきか、目暗ましには好都合な状況だ。
騎士は戸に凭れていた背中を起こし、階段を一段降りながら右手の人差し指を動かし挑発する。
その動作に一瞬気を取られ、そしてその意味に気付き天狗が顔を顰める、その微かな隙。
その一瞬で、騎士は傀儡のナイフを取り出し、差し込む光へとかざす。
傀儡のナイフは、過去に失われたある国に伝わる、"人形"と呼ばれる奇妙な術により繰られる人形たちの短刀である。
"鏡のように"磨き上げられ、かつ短刀にも拘らず平たく厚い刀身は……。
丁度真正面から差し込む日光を、天狗の眼へと跳ね返すには十分であった。
「っ!」
幾ら天狗と言えども、光よりは早くなかったようだ。
傀儡のナイフに跳ね返された日光を天狗は直視してしまい、一瞬目が眩む。
その結果を騎士は視認する事無く、神社の傍に建つ母屋へと騎士は走る。
同時に己の向かう母屋とは真逆の方向へと、傀儡のナイフを投げる。
成功しなければどうにもならないのだ、と成功する前提で行動した騎士だったが、その思い切りは騎士へと味方した。
成功を視認する事無く駆け出した騎士は、その分時間を稼ぐことが出来た。
弄した策で一瞬、思い切りでもう一瞬。
合わせて二瞬を以て、騎士は母屋の戸を開き入る所まで、天狗に悟られずに行う事が出来た。
無論指に嵌めていた、静かに眠る竜印の指輪がそれに一役買っていた事は言うまでも無い。
戸を閉め、息を吐く。
そして、今しがた閉じた戸に耳を当て、天狗の動向を探る。
「小癪な……そっちか!」
外から声が響く。
そして、ちょうどナイフを投げつけた方から木々が薙ぎ倒される音が響く。
どうやら、天狗は己の弄した策に綺麗に嵌ってくれたらしい。
投げつけたナイフが出した音からその方に向けて風を飛ばしているらしいが、そちらには傀儡のナイフしか有りはしない。
このまま逃げた、と思って追い掛けて行けば良いが……そうもならないだろう。
木々や茂みは整然と整えられていて、生い茂りこそしてはいるが見晴らしは良い。
確かにそれらの中に潜り込み隠れる事はさほど難しくは無い程度の遮蔽にはなるが、それもごく一部の特に生い茂っている所だけだ。
数分もすれば全ての茂みを探り切り、そして件の守護対象の無事を確かめに来る、というのが妥当な線だろう。
どちらにしても、賽は既に振られ、そして時間は無い。
戸に耳を当てるのを止め、件の守護対象を探そうと、騎士は耳をそばだてる為に傾げていた首を戻し正面を見る。
その母屋は、典型的な日本家屋であった。
土間はL字型となっており、曲がり角から奥までは炊事場、そして土間を上がればその先には広い畳の間が見える。
そこには、件の守護対象と思しき少女が布団の中で眠っていた。
一目見て、この少女こそがあの天狗の守護していた対象であると確信できた。
天狗が連れて来たと言われても納得出来るほど、尋常の人間とは思えぬ雰囲気を纏っていたのだ。
まるで空のようだ。
騎士は少女を見つめているというのに、そのような感想を抱いた。
例えば、木を見ている。
他人が何を見ていると聞いても、木を見ているとしか言わないだろう。
だが、実際はその瞳から木までの間に存在している"空間"も、見ているのだ。
少女は、その空のようだった。
いつもはその存在を意識すらしないが、一度意識してしまえばそこに在るという事実が中々脳裏から離れない。
そして意識し注視しようとしても、焦点を合わせて見る事は出来ない。
空間に、見るべき中心など無いのだから。
確かにそこに居るのに、捉え所が無い。
寄り添っているようで、酷く遠くも感じる。
そのような不思議な感覚をもたらす少女の存在感に、騎士はたたらを踏む。
しかし、やらねばなるまいと、ブーツを履いたまま騎士は畳へと足を上げ。
そこで、何かが割れ落ちる音が響いた。
同時に、背後に気配、否殺気か。
咄嗟に身をかがみ、横薙ぎに振られた鍵爪の如き鋭さと長さの爪を避ける。
しかし、完全に避け切れた訳では無い。
爪によって浅く頬を抉られる。
同時に顔を覆っていたマスクの留め具が切られ、風圧により被っていた頭巾が吹き飛んだ。
しかし騎士はそれを一顧だにせず、その手に少女を人質とし、天狗を脅す為に用意していたショートソードを振り向き様に抜こうとし……。
そして、己を背後から襲った、"九尾の金髪の妖怪"と眼が合った。
双方固まる。
二人は見つめ合い、片方は驚いた顔から綺麗な、とても綺麗な……恐ろしさを感じるほどに綺麗な笑みを浮かべ。
片方は、最も会いたくなかった、とでもいうように顔を引き攣らせ。
「……お前を探す為にどれだけ私が苦労させられたと思っている、このろくでなしの脳足りんのくそったれ野郎!」
「賊めが、上手くやりおったな!
此処に居るんだろう、何が望み……だ?」
戸口が開き、頭に血が上った天狗が、一杯喰わされた賊に対して怒り心頭の面持ちで怒鳴りつける。
だが、その声音からは急速に怒りを帯びた熱が引き、それに反比例するように呆けたような色が差す。
後から天狗は、あの瞬間の態度は神としてはいささかなっていなかったのでは無いか、と思った事が有る。
だが次の瞬間に、流石にあれは仕方が無かった、とも思い直した出来事であった。
口煩くも冷静沈着なあの九尾が、多分に私意を含んだ怒声を上げて件の賊を殴り飛ばしていた、なんて風景を見れば。
どんな神だろうと、またあんな態度を取ってしまうだろう。
それに、私の仕事はあの狐に次代の博霊の巫女を引き渡すまでなのだ。
あの時九尾があそこにいた時点で、契約は終了している。
そう、だから私は悪くない。
あの時の瞬間を撮影し、それをネタにして外の菓子を強請る、なんて事をしていたって。
猿田彦では無い射命丸 文として居たのだから、私は別に悪くないのだ。
正座とは、日本古来の座法である。
古くは神を拝む時などに使われた姿勢であるが、時代が下るにつれ一般的な礼節を重んじる座法という様な認識が広がっていった。
故に、それは主に能動的にする姿勢である。
礼節とは、強いられてする物では無いのだから。
自ら礼儀を示すからこそ、そこには真摯さと誠意を感じるのである。
だが、物事には例外と言う物が存在する。
正座をしたところで、真摯さと誠意以外の物を感じる場合と言うのも、ままあるものだ。
今の騎士は、その一例である。
「……」
博霊神社、その母屋。
そこを、重々しいほどの沈黙が包み込んでいた。
騎士は、じっと見つめられていた。
その視線の数は一つである。
その場には二人の人物こそいるが、その内の片方……八雲藍は、もう一人の右後ろに正座し、目を伏せていた。
先ほどまで居た少女と天狗は、藍により母屋の奥の方の部屋へと追いやられている。
騎士は、目線と眼を合わせることが出来ずに目を伏せていた。
今更、どんな顔をして向き直れと言うのだ。
八雲紫。
あれほどまでに会いたく、しかし会ってはいけなかった彼女は、怒るでも無く、泣くでも無く。
ただただ、表情と言う色の抜け落ちたような無表情を湛え、騎士をじっと見つめていた。
畳の目を見つめながら、騎士は思う。
今、彼女は何を思っているのだろう。
何も、実感が無い。
飄々とした、しかし幻想郷への熱意は人一倍ある彼女については、己はよく知っている。
だが、娘、としての彼女については、己は何も知らない。
娘、娘。
思うのも、言葉にするのも簡単だが、いざ目の前にすれば実感が湧かない。
親と娘としては、何も積み上げた物が無いのだから。
胸に去来する戸惑いと共に、これまで抱いていた感情が妄想の亜種であった事を騎士は悟る。
いっそ、嫌われた方が良いのかもしれない。
騎士はふと思う。
己がこれから幻想郷でやろうとしている事は、嫌われていた方が、否、嫌ってくれていた方が良い事だ。
嫌っていてくれた方が、彼女の傷口は浅い。
「……藍」
「はい」
「席を、外してくれないかしら。
別室の彼女たちも含めて」
「……はい」
藍が立ち上がり、隙間を現してその中へと消えて行く。
人一人分の吐息が消え、場は更に静けさを増す。
故に、その布擦りの音は良く響いた。
見つめている畳の目に、白い布が眼に入る。
それが紫の衣服だ、と悟った瞬間には、騎士は紫に抱きしめられていた。
その力は、強くは無い。
ただ、そこに居る事を確認するように、そして抱き締めた拍子に消えてしまわないように。
そっと、抱きしめている。
「……ねぇ」
己は、嫌われなければいけない。
「……ちゃんと、此処に、居るのよね?」
だというのに。
「ちゃんと、生きているのよね?」
どうして、己は彼女を抱きしめ返しているのだろう。
「……良かった……っ」
体が言う事を利かない、その理由。
それは、彼女が流す、熱を帯びた涙のせいだろう。
その涙は、どんな霊薬や魔法よりも、騎士を癒し。
そして、痛めつけた。