デプスチャージ   作:外清内ダク

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Page 01 魚雷と幼娼とモグラの巣穴

000

 女はただ震えていた。暗い闇の中で、怯えて縮こまっていた。肩や脇腹に手を触れるたび、電流のような痛みが走った。怒りも悲しみもなく、悔しいとも思えず、ただ震えていた。光が欲しかった。自分を優しく包み、全ての痛みから解放してくれるような、暖かな光が。

「初めに言があった」

 やって来たのは闇だった。周りの暗がりよりももっと暗い。女はいっそう怯えて、奥歯をがちがちと鳴らした。靴音と一緒に近付いてくる闇に、女は後ずさった。怯えだけが拡大していく。闇は腕を伸ばして女の手に触れた。爪はないが赤いマニキュアはべったり塗られた手に。ひっと女は悲鳴をあげた。だがそれも一瞬だった。

 痛みはなかった。手のひらは、もっと大きな手のひらに優しく包まれていた。暖かかった。それは闇色をした光だったのだ。

「言は神と共にあった。言は神であった。

 この言は初めに神と共にあった。

 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。

 この言には命があった。そしてこの命は人の光であった」

 女は呆けて、ぱちくりと目をしばたかせた。闇は不敵に笑う。

「光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった」

 震えは消えていた。いつのまにか、怯えも消えていた。大小さまざまな傷口も、流れ出る血液も、なにもかもが麻痺していた。ただひとつ、指先の感覚を除いては。闇に触れる指先を除いては。

「あんた、だれ……」

 それは精一杯の問いだった。

「さて、そこのところがおれにもよく分からないのだが」

 闇は血塗られた床に躊躇無く片膝をつくと、女の頬を優しく撫でた。瞬間、女の頬に感覚が蘇った。日だまりのように柔らかな感覚が。女に感じられるものは、ただ闇だけだった。きっとその時、世界は全部闇だけだったに違いない。

「君はだれなんだい……」

 女は精一杯応えた。

「そこのところが、あたしにもよく分からないの」

 にっこり笑う。そして闇は女を抱き上げた。指先一つ動かす力のない、血まみれの女を。女は額を闇の胸板に押しつけ、固いが優しいその感触をひとしきり味わった。まるで、懐かしい我が家に帰ってきたかのような、そんな感覚さえもが。

「これで、当面の宿題ができた。おれたちはお互いの名前を考えなきゃいけない。今後一緒に暮らすにあたって」

 魚雷と幼娼は、こうして出会った。

 

 

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「この世には二種類の人間がいる。ひとつは時計だ」

 魚雷はいつもみたく知った風な口を利いた。彼の言い回しは回りくどくて、回りくどいことを目的としているくらいだった。周りの連中が、とりわけ隣の女が、眉をぴくぴくさせるのを楽しんでいた。魚雷にとって言葉は玩具に他ならない。遊べない玩具はただのがらくたなのだった。使い方次第では立派なレポートにも本にもなるというのに。

「いつも同じペースで針を刻む。そしてちくたく小うるさい。ときどき狂うけど、すぐに電池を入れ替えて元に戻る」

「もうひとつは?」

「水母。波間にゆらゆら震えてる。どこへ行くにも自由。でもどこへも行けない。波がさらってくれるのを、ただじっと待ってる」

 こんなとき肩をすくめるのも、いつも通りだった。女は人差し指で唇をなぞる。機嫌が悪くなったときの癖。

「結局、なんなの」

「おれは波間に揺れる時計になりたい。荒い海面にぽちゃんと落ちて、ちくたくうるさくしながら一直線に沈んでいって、やがて水圧で潰れたい。文字盤のかけらさえ残らないくらい、ぐちゃぐちゃにさ」

 女はいつもと同じ事を、いつもと同じようにのたまった。他にいい言葉が見つからなかったし、探そうと努力する気にもなれなかったからだ。

「あんたは、狂ってるのよ」

 

 

002

「あんた、はやく、脱ぎなさいよ」

 女は歯に衣着せるってことを知らない。逸って服を引っ剥がそうとするものだから、慌てて魚雷はズボンを押さえるのだった。可愛い女の子みたいに怯えた視線を、女の方に送るのだった。強く言ってやれば済む話なんだけども。小娘の指にいいように可愛がられてるのは気に入らないが、小娘相手にむきになるのはもっと気に入らない。

「ねえ、怖いの……おっかない名前してるくせにさ」

「怖かないさ。でもおれだって男だし、思うところはある。十四、五の女の子に、下手だ下手だと言われたら、やっぱりショックなんだ」

 十四、五の女の子は呆れはてて肩をすくめた。象牙みたいにクリーム色の長い両脚を組んで、ブラウンの瞳で魚雷を射抜く。魚雷をだ。女の視線は迎撃砲みたいなもんだ。突っ込む男に弾幕くらわせて、どかんと男を爆発させる。

「下手には下手なりの楽しみ方があんの。下手の相手なら下手の相手なりの楽しみ方もね。あたし、プロよ……」

「そうだな、幼娼。あんたはなんだってプロだ」

「わかったら、さっさと脱ぐ。気持ちいいんだから。手取り足取り教えたげる」

 言われてまだもじもじしてる魚雷を、女はぺちんと平手で叩いた。もちろんそっと、優しく、軽く。それから、水着の腰に手を当てて、焦れた声でこう言うのだった。

「一分一秒無駄に出来ない。海水浴なんて滅多にできないんだからね」

 

 

003

 女はぎゅっと抱きしめた。その力はとても細っこい女の腕とは思えなくて、魚雷の胸をぎゅうぎゅう締め付けるのだった。息苦しさが魚雷を淡い微睡みから引っこ抜く。やんわりしたあくびの後で横を見ると、思った通りに震えている。女が。小さく震えながら、両腕で魚雷を抱きしめているのだった。

 左腕で女を抱き寄せる。震えは真っ白な肌を通じて直接伝わった。こころもまた。それが何の慰めにもならないことは知っていたけど、魚雷は丸まったシーツをたぐり寄せ、女の剥き出しの肩を覆った。震えは一向に止まる気配を見せず、女はただ、魚雷の胸板におでこを押しつけて、ときどき小さく嗚咽を漏らした。

「夢を見てたのか……」

 魚雷が問うと、女はわずかに頷いた。

「無限が、来るの。ベルトコンベア、永久、長さ、固く、鎧われて、触れられない。永遠。暗い。あたし、世界の、世界の秘密を、流して、二度と、ああ!」

 時々身をよじらせ、うめき声を上げながら、女は独白を続けた。えんえん描写されるのは彼女の夢の光景だった。魚雷は何度も聞いている。月に一度くらい彼女を襲う夢。

 無限の広さを持つ白一色の世界。永久の長さを持つベルトコンベア。一度コンベアに流したモノは二度と戻ってこない。なぜならコンベアは永遠に朽ちることのない囲いに包まれているから。女はそのコンベアに世界で最も大切な秘密を流す。それによって世界は滅びる。全ての命が未来永劫失われる。女のせいで。女は責任に押し潰されて、世界の秘密を取り戻すため、コンベアの唯一の入口に自ら入り込む。そこは真っ暗な世界。女は狭い囲いの中を、這うようにして世界の秘密を追っていく。でも決して世界の秘密には追いつけない。女はいつまでもいつまでも苦しみ続ける。

 それが女の夢。

 やがて落ち着いたのを見計らって、魚雷は低くて優しい声をかけた。

「水か、それともアルコール……」

「水をちょうだい」

 涙を手の甲でぬぐいながら、女はぼそぼそと応えた。

「それからでいい、あんたが欲しいわ」

 

 

004

 つうと小母さんは煙草をくゆらせた。白くてか細い煙の塔が、半端な剥き出しの電球を撫でて消える。染みだらけのコンクリートは今にも朽ちそうなほど風化していて、部屋全体を淡く包むどんよりとした闇だけが、べたつく漆喰のようにそれを支えていた。今また闇は、男の侵入を拒む。白い煙も。小母さんも。

「あの娘はナニを洗ったんだよ」

「なんだって……」

 聞き慣れない言い回しに、男は不審げな顔をした。

「辞めたのさ。もう客は取ってない。あたしらの言い回し」

「関係ない。どこにいると聞いているんだ」

 吐いた白い糸は、ため息なのか、煙草の煙なのか、それすらも定かではなかった。ただ小母さんは男の鼻先に香ばしい白を吐きかけて、まだ長い紙巻きを灰皿に擦りつけた。本当に吐きたかったのは息だか煙だかではない。つばだ。

「あんたね、正直嫌われてるんだよ。あの娘にも他の娘にも、あたしにもさ。何度もしつこく欲しがるくせに、追加の払いは出し渋る」

「おい、ウェブスピナ、俺が銃を出さないうちに答えるんだな」

 蜘蛛小母は頼もしく出っ張ったお腹にぽんと拳を当てて、レイヴンの脅しを鼻であしらった。レイヤードの女はしたたかに生きる。したたかでなければ、生きていない。まして百戦錬磨の蜘蛛小母ともなれば。全ての女は蜘蛛小母を母と慕い、綿密なネットワークを構築する。まるで本物のウェブスピナのように。

「おとといきやがれ。あんた、あたしに少しでも傷つけてごらん。レイヤード中の娼婦があんたとは仕事しなくなるよ。一生独りで擦ってたいかい。それとも男がお好みかい……」

 レイヴンは肩をすくめると、懐の銃を取り出した。グリップに右手をよく馴染ませて、徐に持ち上げる。真横。立ち聞きしていた若い娘。銃爪。銃身。銃口。銃声。銃弾。銃創。ひぎゃあ、と可愛くない悲鳴を上げて、汚れた床に伏せる娘。蜘蛛小母の両目がかっと開く。目の前のレイヴンをぎらりと睨む。こいつ、脳の奥底までいかれてやがる。

「あと何人がお好みだ。二人か。三人か」

 蜘蛛小母は奥歯を噛みしめながら、ひねり出すように吐き捨てた。

「セリオン通りの339。ブルーのアパート」

「ありがとさん」

 銃を閉まって立ち去るレイヴン。扉をくぐるその忌まわしい背に、蜘蛛小母は最後の悪態を吐いた。

「殺されるがいい。あの娘は守られてるんだよ、最高のレイヴンにさ」

 ひたりとその場に立ち止まり、レイヴンはにやにや笑いを浮かべた。愚かな話。殺されるだと。この俺が? 所詮は女。蜘蛛小母といえども。彼女らは知らないのだ。男の世界、レイヴンの世界の規律と慣習というものを。全ての戦いは、初めから勝敗が決まっているのだ。

「この俺は『つらぬき丸』。何者も俺を阻めないのだ」

 

 

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「オーヴァグランド、って知ってるか」

「知んない。思う存分語りなさいよ」

 魚雷が得意げに切り出すと、いつものように幼娼はばっさり切り捨てた。彼は天性のサディストで、彼女は筋金入りのマゾヒストだったのだ。会話はいつも切り合いにならず、一方的に魚雷が切り付けるだけで終わる。幼娼にとってもその小うるさい説教は天井のファンみたいなもので、なければないで寂しくなるのだ。

「人類は昔、オーヴァグランドに住んでいた。レイヤードよりずっと上の方にある場所だ。そこは全部の層を足したのよりも何十倍も大きくて、なにより天井がなかった」

「あんた、いかれてるんじゃない」

「ひどく、まとも。そしてそのころ、人間は自分が住んでる場所をただグランドと呼んで、おれたちが今住んでるここをアンダグランドと呼ばわってたんだ」

「へんなの」

「昔の人から見りゃおれたちが変なのさ。それから、いいか、オーヴァグランドのもっと上には宇宙があった」

 幼娼はきょとんと目玉を回した。

「なにって」

「スペース。ユニヴァス。コスモス。呼び方はいろいろだ。とにかく宇宙はオーヴァグランドの何兆倍も何京倍も大きくて、真っ暗で、上も下もなくて、おまけに血が沸騰する」

「やっぱいかれてるわ。変なもの、食べた……」

「お前と同じオートミールだけさ。どうだい、勉強になっただろ」

「まあね。オカルト・キノと同じくらいには」

「もっと色んな話を聞きたくないか」

「ぜんぜん」

 身も蓋もない答えを聞いて、魚雷はにやりと笑いを浮かべた。欲しかったのはこの答えなのだ。唇を寄せて軽く幼娼にキスすると、そのまま口を耳元に持っていった。囁くみたいにぼそぼそと、魚雷は岩の擦れるみたいな音をたてた。

「それなら、おれはなにがなんでもお前を守る。そしてもっと話を聞かせてやらなきゃいけない。お前が興味を持ってくれるまでな。さて、だから落ち着けよ」

「何の話……」

 言いかけた幼娼の口を、大きな節くれ立った手のひらが押さえ込んだ。

「恐怖を真っ正面から見据えろ。暖かい闇はその向こうでお前を待っていてくれる」

 

 

006

 がちゃりと音がした。背中の方から聞こえた音に、魚雷はゆっくり立ち上がった。幼娼の口を押さえていた手のひらもそっと放して。ノック一つしない無礼な客人を背中にびりびりと感じた。悪意とも歓喜ともつかぬ異様な感情が、破裂した水道管のような心からほとばしっていた。もし《人のような顔をしたもの》がここにいれば、周囲を喰らいながら増長していく感情のオーバーフローに怯えていただろう。手当たり次第に貫いていく感情の刃に。

 魚雷は幼娼の両目がかっと見開かれるのを見た。薄い涙の膜に覆われた瞳は、ゆらゆらと絶え間なく揺れていた。恐怖。

「見つけたぞ、マギィ」

 つらぬき丸はそう言った。違うな、欲望か。魚雷はようやく分析を終えた。悪意ではない。歓喜でもない。ただ純粋に幼娼を求める男の欲望。ああ、こんな風なのか、と魚雷は思った。おれもこんな風なのか。この子に欲情しているとき、こんなわけのわからない感情を飛ばしているのか。

「いやッ」

 幼娼はか細く声を漏らした。子羊のように怯えて、何度も何度も首を横に振った。魚雷が手を伸ばして彼女の頬に触れた。鉄のように冷たいその手に幼娼はすがりついた。見据えろ。もう一度、心の中で魚雷は繰り返す。恐怖を真正面から見据えろ。

 彼女が歯を食いしばるのを見てから、魚雷はゆっくり振り返った。真正面に恐怖を見据える。つらぬき丸を。灯りのついていない薄暗がりに立ち尽くし、血走った目でこっちを見ているレイヴンを。魚雷の顔を見るなり、やつの感情がぐらりと揺らいだ。そして変質した。やはり悪意、それから憎悪……いや。全部まとめて嫉妬だ。

「レイヴンだそうだな、お前は」

「いかにも」

 時代がかった言い回しで魚雷は応えた。

「なるほど、娼婦やちんぴらどもはそれで騙せるかもしれん。だが俺は無理だ。なにせ本職だからな。俺はあらゆるレイヴンの顔と名前と機体構成を把握しているが、お前など知らない」

 魚雷は笑った。豪快な声をあげ、腹に手を当て、身をよじって笑った。馬鹿みたいな大口はやがて閉じられ、声は小さな含み笑いに変わった。周りから伝わってくるのは戸惑いと怒りの感情。勝手に何でも思うがいい。魚雷はなんとか笑いを止めて、ぎっとつらぬき丸の目を睨み付けた。お前はもう手のひらの上に乗っている。

「おかしなことだ。お前は本当におれを知らないのか、スティング」

 ざわりとつらぬき丸の髪が揺れたような気がした。

「知ってるだの知らないだのは誰が決める。それは脳だ。脳の記憶が、お前に無知を押しつけている。魂の目で見ろ、スティング。お前は本当に知らないのか」

 つらぬき丸の顔面に、さっと怯えの色が浮かんだ。

 

 

007

 知っている。つらぬき丸の額に玉の汗が浮かんだ。俺はこいつを知っている。

 つらぬき丸の体は縛り付けられたかのように動かなくなった。動かそうという気が起こらなかった。ただ彼の心は黒くとぐろを巻く恐怖に縛られていた。思考が無限軌道の中をぐるぐると回り続けた。なぜ俺は忘れていたのか。こんなにも大きな、果てしなく大きな、押し潰されそうになるほどの影を。

 魚雷はベッドに腰を下ろした。そして歌うように唱える。

「来たれ」

 びくん!

 つらぬき丸が震えた。目を見開き、喉の奥からかすれた声をはき出し、首を押さえて膝から崩れ落ちる。床に毒虫のように這いつくばり、つらぬき丸は何度も痙攣した。肌は見る間に土気色に染まっていく。苦しみの中でも意識は損なわれず、狂気にも見放され、現実に縫いつけられた心が恐怖と苦痛に切り刻まれる。びくん! もう一度。

 じっと幼娼はそれを見つめていた。どこか非現実的な、夢のような光景を。体は動こうとはしなかった。脇腹や腕の傷跡がじくじくと痛んだ。こいつにつけられた傷。暗い牢獄の中で、つらぬき丸によって刻まれた憎しみの紋章が。苦しみ続けるつらぬき丸を見つめるうちに、幼娼の恐怖は波のように引いていった。記憶が曖昧になっていった。どこまで続いているのかわからない地下室、いつまで続くのかわからない陵辱、どこへ行くのかわからない死、あらゆる果てしないものへの恐れが嘘のように薄らいでいった。まるで誰かが消してくれたみたいに。

「あっ」

 わけもなく幼娼の口から声が出た。魚雷はそれを聞くと満足げににやりと笑い、そしてまたつらぬき丸に視線を戻した。

「なあ、スティング。おれは聖書から引用するのが好きなんだ。こんなのを知ってるか?

 ヨハネの黙示録第九章第三節、煙の中からいなごが地上に出てきたが、地のさそりが持っているような力が彼らに与えられた。

 第五節、彼らは、人間を殺すことはしないで五ヶ月の間苦しめることだけが許された。彼らの与える苦痛は、人がさそりに刺される時のような苦痛であった。

 第六節、その時には、人々は死を求めても与えられず、死にたいと願っても、死は逃げていくのである。

 第十一節、彼らは、底知れぬ所の使いを王にいただいており、その名をヘブル語でアバドンと言い、ギリシヤ語ではアボルオンという」

 つらぬき丸はその意味を理解した。そして願った。殺してくれと。

 

 

008

「アァメン」

 歌うように魚雷は言った。

 声は出なかった。苦痛が体の中心をぐさりと貫いても、つらぬき丸は悲鳴の一つも上げることができなかった。妄想の中でつらぬき丸はのたうち回り、生皮を剥がされ、爪を折り取られ、腱や舌を切り裂かれ、全身を無数の細かな針に突き刺された。優しげな顔をした天使が舞い降りて、傷口をぺろりとなめた。激痛が走った。天使はゆっくりとつらぬき丸の全身を愛撫していき、その度に彼の体は痙攣を起こした。天使は身に纏った薄衣をはらりと脱ぎ捨て、得体の知れない空洞につらぬき丸の男をくわえ込んだ。瞬間それまでに受けた全ての痛みが再びいっぺんに訪れ、彼は気が狂ったかのように暴れ回った。

 否。もはや完全に。

 あっけにとられて幼娼はつらぬき丸を見つめていた。叫び声もあげず、レイヴンはただ床でのたうち回っている。顔面には血管という血管が浮き出て、汗が洪水のように流れてはいるけれども、それでも幼娼には一体何を痛がっているのか全くわからなかった。恐る恐る魚雷に目を遣ると、彼は視線に気付いてにっこりと微笑んだ。天使のように。

 天使はつらぬき丸をくわえたまま、ゆっくりと腰を引いた。つらぬき丸を象徴する物がぶちぶちと筋の裂ける音を立てながら引き抜かれた。その小さな棒を愛おしげに見つめ、天使は一気に羽ばたき天空へ舞い上がった。小さな棒に繋がっていた無数の糸、つらぬき丸の神経の一つ一つが体から引っ張り出された。風が吹き、神経の一本一本を優しく撫でた。激痛。

「アァメン」

 もう一度魚雷は唱えた。

 その瞬間、天使の顔がつらぬき丸の目に入った。それは幼娼だった。幼娼は妖艶な笑みを浮かべて、地に這いつくばる哀れな男を見下ろした。瞬きを一つ。天使の顔が入れ替わった。優しく微笑む男。魚雷!

「賛美、栄光、知恵、感謝、名誉、力、勢力が、世々限りなく、我等の神にあるように」

 闇がつらぬき丸を包み込む。

「アァメン」

 びくりと痙攣すると、彼はそれっきり動かなかった。

 

 

009

「何をしたの」

 幼娼の声は震えていた。つらぬき丸が、あの憎むべき化け物が、ついに息絶えたというのに。これっぽっちも晴れ晴れしい気持ちにはならなかった。それよりも目の前の男が、何度も身を重ね侵入を許した男が、まるで本物の獣のように見えたのだ。魚雷。

「毒。ドアノブに塗っておいたのさ。幻覚と痛みを引き起こし、ゆっくりと死に至る。魔法のように見えたかい……」

 魚雷は嗤った。いつもの通り優しげに。

「さあ、これでお前は恐怖から自由になった。ひとまずおれの役目は終わったわけだ」

 役目。そのちっぽけな単語が、幼娼の頭の中で竜巻のように渦巻いた。そのために魚雷はいたのか。彼女に代わって復讐をするために……

「選ぶがいい、マーガレット。お前には二つの道がある」

 幼娼は目をしばたいた。

「ここでおれと別れ、人として定められた時を生き、死ぬか」

 魚雷はじっと見つめた。

「それとも血にまみれた薄暗い世界の中で、おれと一緒に永遠の狂気を生きるか」

 迷いはなかった。

「デプス」

 静かに魚雷の名を呼び、

「デプスチャージ」

 爪先立って口づけをした。

 

 

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