デプスチャージ   作:外清内ダク

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Page 03 しじまとつぼみと短命の男

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 一日目は事態に気付くことと奇妙な夢によって過ごした。

 幼娼はいつもの様に昼過ぎになってから目を覚ました。隣に魚雷がいないことに気付いたのは一瞬の後だったが、家中のどこにもいないということに気付くには数十分を要した。ん、と呻いてから面倒くさそうに上体を起こした。シーツが胸元からこぼれ落ちて、象牙の素肌と色づいた花弁が姿を見せたのだが、それを見て喜んでくれる男は見あたらなかった。人目を憚らず大きなあくびを垂れると、嫌々ながら幼娼はベッドを降りた。

 冷たいプラスティックの床から伸びた幼娼の肢体は、さながら石英の彫像のようであった。小柄ながら均整の取れた肉体は、触れた指が滑り落ちそうなほどに滑らかで、陽光のように優しく輝いてさえいるようだった。腰の曲線は天を仰ぎ見る野花の茎のごとくしなやか、その瞳は磨きぬいた黒曜石のよう、足取りの軽やかさは黒揚羽さながらであった。

 気持ちが悪い口の中をうがいで洗い流し、水を一口飲み下す。いささか多すぎる鉄分が舌の上をちくちく刺激していく。もう一度大あくび垂れると、幼娼はシーツの上にどさりと体を投げた。

 よじれた白いシーツの上で、滑らかな白い腕が艶めいた。

 二度寝の最中、幼娼は奇妙な夢を見た。夢の中ではいつも通り魚雷がいて、幼娼に訳の分からない持論を展開しているのだった。

「人を愛するとはなんと難しい事なのだろうな。おれは、もはや何人をも本当に愛する事はできまい。わかるか」

 幼娼は安らかな寝息を立てた。

「愛する女が一人いて、無論おまえだ、それが他の男に寝取られたとして、そのときの自分を想像してみる。不思議な事に、それでもいいかと思っているおれがいる。その男がおれより魅力的だったのだから、しかたがないか、と諦めているおれがいる。おれにはそれが許せない。許してしまう自分が許せない。これはおれの定義する所の愛とは相反する例だから、おそらくおれはおまえを本当に愛してはいないのだろう。

 おれはきっとおまえのことを、必要に迫られて愛しているに違いない。そう思う」

 わけわかんないこと言ってんじゃないわよ。と幼娼は思った。

 それが一日目の全てだった。

 

 

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 二日目はテレビを見ること自慰に耽ることで過ごした。

 蠍心電視台は毒にも薬にもならないVLFを今日もファイバーごしにばらまいていたが、その中でも昼前にはじまる通販が幼娼はとびきりお気に入りだった。というよりも、出演者である筋骨隆々たる若者の、殊に横腹のあたりがお気に入りなのだった。大方の怠惰な一日と変わらず、今日もその番組は起き抜けにハイテンションを押しつけてくる。いつもならばこのあたりで背中がむずがゆくなってきて、何はなくともとりあえず魚雷に襲いかかるのだったが。

 どこをほっつき歩いているんだか知らないが、あの男のことを思い出すだけで腹が立ってきて、当て付けがましく幼娼は自慰をはじめた。多感な肌に手練れの指先が触れるのを感じた。だが手練れは怒りゆえにか殊の外荒々しく、押し寄せる歓びの波は嵐のようであった。あまりの激しさに、幼娼は力ずくで犯されているかのように感じた。目を閉じて嬌声を吐き捨てた。嘘のように静かな倦怠感の中で、粘つく不快な指もそのままに、幼娼は荒く息を吐いた。陵辱したのだ。自分が自分を、自分の為に。

 落ち着きを取り戻すと、まだ続いていた通販番組がやけに耳に障りだした。若者は痛快な色合いの洗剤を使ってみせていた。妙に腹が立って、苛ついてきて、仕方がないので幼娼は

「ちぇっ」

 と舌打ちすると、テレビの横腹を蹴っ飛ばした。

 それが二日目の全てだった。

 

 

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 三日目は旧友を訪れることと真実に肉薄することで過ごした。

「ハァイ、小母ちゃん」

 ピンクの唇の隙間から覗く白い歯は、エッジのシャープな黒いグラスに似つかわしくなかった。赤いストリートスタイルのジャケットで膨らみのない胸を隠そうとしているのが目に見えて、蜘蛛小母はくつくつ笑いを漏らした。近年まれに見る可愛らしい雌餓鬼だった。近ごろのは如才ないったらありゃしない。

「なに、それ、懐かしいお客様への対応なわけ……」

「いやいや、悪かった。久しぶりだねマギィ、随分大人っぽくなった」

「ちぇっ。はっきり子供だって言えよう」

「おっと。いや、そういう意味じゃない、もう一人前の女さね。それで、なんだい、突然に」

「みんな、いる……。ニッキィとか、エヴァとか」

 蜘蛛小母は少し哀しそうな顔をして、煙草を灰皿に押しつけた。その間に幼娼は椅子を引き寄せて、我が物顔に腰を下ろした。久しく掃除してないらしく、白い埃が舞い上がった。しかめっ面で咳き込んで、幼娼は慌てて立ち上がった。革パンツのお尻を力一杯はたいたが、時すでに遅く、白い模様がしっかりこびり付いていた。

「ああん、もう、ちっくしょう」

「二人ともいないよ。他の娘もね。最近やけに景気よくてさ。男どもがまるで盛りのついた犬みたいだって、愚痴ってるんだよ。このままじゃ種まきすぎてレイヤードから人があふれちまうって、もっぱらの噂さ」

「そうお。残念」

 いつの世もそうだった。世界を裏から操っているのは女であった。今もまた。彼女は、いや蜘蛛小母配下の彼女らは、世界で最初に世界の異変を感じ取ったのだった。女はいつの世も徹底したリアリストなのだ。女の噂はいつも真実の紙一重にある。

 そんなことに気付いてもいない彼女らは、世界の真実に迫りながら変わらぬ日常を続けるのだった。数百年に渡って数百万人が繰り返してきた日常を。

 そして蜘蛛小母は見てきた。男と喧嘩してふてくされてる女なんて、何千人と。自分だってその一人だったこともある。

「何かあったね、若奥さん。旦那はどうしたんだい」

「知るかあ。ほっとけあんな馬鹿」

「ああそうかい。それじゃ、ナニが暇してるんだろ。稼いでく……」

「冗談ッ」

 腰に手を当てて、幼娼はぺろりと舌を出した。蜘蛛小母には何もかもお見通しってのが、鬱陶しくもあり、頼もしくもあり、懐かしくもあり、驚くべきことに暖かくすらもあった。グラスかけっぱなしでよかった、と幼娼は思った。眼の奥がちょっとだけ痛かった。

「あたしの体はあいつのもんよ。他の誰にもやるもんか」

 それが三日目の全てだった。

 

 

023

 四日目は混乱のさなかに過ごした。

 発端は微かな床の振動であった。これが世にも珍しい地震と言うものかと、幼娼は身をこわばらせ、手近なベッドの手すりにしがみついた。揺れはパルス的にレイヤード中を駆けめぐり、恐怖の波を緩やかに伝播させていった。

 それは恐怖であった。

 訪れたのは、あまりにも唐突な漆黒の世界であった。家の中からも、家の外からも、ありとあらゆる灯火が一瞬にして吹き消された。やかましく怒鳴っていたテレビが沈黙した。時計とともに時間が静止した。集塵機がレイヤード住民の生命維持を放棄した。冷房は地熱に押し負けた。冷蔵庫の食糧はゆっくりと腐敗を始めた。

 誰もが当たり前にあると信じ切っていたもの、存在を知ってこそいれども実際に踏み込んだ者はほとんどいない第四層、まことに魔術的な力の根元、つまり、電力が。

 途切れた。

 人々は最初、事態を理解できていないようだった。幼娼には結局最後まで理解できなかった。しかし一部の聡明な者は、電力無しにしてこのレイヤードが成り立たないこと、それどころかレイヤードに住まう自分たちの命すら続かないこと、絶望と形容される最終的な結論を、不運にも導き出したのだった。噂は聡明な者の一人が漏らし、聡明でない者たちはそれを一瞬にしてレイヤード中に広め、やがて混乱が訪れた。

 暴徒は意味もなく武器を手に取り、人々を襲い、奪い、犯し、殺した。生き残らねばならない。その恐ろしく力強い強迫観念が、人々を突き動かしていた。それは命の衝動であった。死という光によって、命という影が黒々と形を成した。

 そして、命が醜く対流するレイヤードの奥底で、ただ一人安穏と世界を見つめている女がいた。

 幼娼。

「どうして……」

 ただ漠然と、問いかけは口を吐いて出た。

 幼娼だけは。幼娼と魚雷の住むこの家だけは。誰にも襲われず、誰にも奪われず、誰にも犯されず、誰にも殺されなかったのだ。そう、この家だけは誰にも見つけられなかったのだ。

 まるで誰もがこの家の存在を忘れてしまったかのように。

 それが四日目の全てだった。

 

 

024

 五日目は沈静し疑惑することで過ごした。

 ICPOの行動は迅速だった。クラークの大混乱を見るや否や、SMGで武装した警官隊が警察署という警察署から滝のように溢れ出た。電力供給を絶たれていたのは彼等も同様であった。しかし、ICPO各署は他の部署と一切連絡を取れない状況にもかかわらず、普段通りに、あるいは普段以上に、よく治安を維持した。暴徒はこの上なく率直で明快な罰則、すなわち飛来する鉛玉を前にしては、水を打った様に静まりかえる以外為す術を持たなかった。

 そもそもが出資主である企業の圧力下で騙し騙し治安維持にあたっていたICPOである。どの企業からも一切の圧力がかかってこないこの状況は、むしろ彼等にとってのベストコンディションとさえ言えたかもしれない。

 「忘れられた家」の中で、幼娼は目を覚ました。目を覚ました時には昨日の出来事が全て夢のように消え去っていた。外は明るい昼の照明で照らされ、時計はちゃんと時を刻んでおり、スイッチを入れればニュース番組を見る事ができた。今まで誰もが、レイヤード中の誰もが、電力の存在を当然と信じて疑わなかった。それどころか当たり前すぎて気に掛ける事すらなかった。それが今やどうだ。きっと今ごろ、レイヤード中の誰もが電力の存在に歓喜し、感謝しているはずだ。

「……きほど発表された企業連合協議会の共通見解では、停電の原因はテログループによる第四層発電施設への破壊活動であるとされています」

 テレビのニュースは今日に限って、幼娼の意識を深く捕らえた。普段ならBGM以上の存在感を持つことなどない、お堅い社会ニュースが。幼娼はテレビの音量をあげ、ベッドに腰掛けて画面に見入った。

「これに対してテログループ『グールズ』から犯行声明が出されており、ICPOではグールズを停電事件に深く関与しているものと断定し、現在捜査に当たっています。グールズは、99年末まで活発に活動していたコミュニスト系過激派武装集団ですが、同年の企業連合協議会による『対テロ戦争』によって中核メンバーが死亡し、自然消滅したとされていました。しかし今回の犯行声明は三年前に死亡したとされる最高指導者のミュート・サイレントラインの名前で書かれており、ICPOはミュート・サイレントラインが生存し、水面下で活動を続けていた可能性もあるとの公式見解を発表しています」

 ため息を吐いて、幼娼はベッドの上に身を投げた。リモコンでテレビも消した。一切の音を排除して、ただ静寂の中にうずくまっていたかった。

「デプス」

 その声からは、普段の様な愛への確信が失われていたのだった。

「どこにいるの、デプス」

 それが五日目の全てだった。

 

 

025

 六日目は買い物に出ることと不審尋問を受けること、そして懐かしい顔に出会うことで過ごした。

 この日になってようやく、幼娼は魚雷がいない事によるの非精神的な弊害を見いだした。それまではといえば、寂しさや、やり場のない性欲などはあっても、実際的に被害を受ける事など皆無であったのだ。先日の事件でレイヤード住民は電気の有り難みを知ったかもしれないが、今日の幼娼はさらにもう一つの「あたりまえ」の有り難みを知った。

 トイレットペーパーの買い置きが尽きていた。

 あんなことがあった矢先で買い物に出るのは甚だ不安ではあったが、必要に迫られて、そう、いつぞやの夢で魚雷自身が宣っていたように必要に迫られて、幼娼は便所紙という愛を求めて旅立った。

 短い旅だった。近所のエイオンは徒歩五分のところにあったし、そこまでの道にも障害らしい障害は、路地の真ん中で寝ぼけてる鴉爺だけだったのだ。鴉爺が発酵しかけたゴミの上であんまり気持ちよさそうに寝ているので、幼娼は、

「どけよう、オールドレイヴン。まっくろ羽を踏んづけんぞォ」

 とからかって彼の上を飛び越えた。

「八ッ釜しゃあ、にゃろめい」

 しわがれた鴉爺の怒鳴り声を聞くと、わけもなく幼娼は楽しい気分になり、けらけら笑いながら軽やかに裏路地を駆けた。なァに言ってんの、わっかんね。駆けながらときどきそんな事を独りごちた。

 エイオン前の駐車場にはマスのハウンドどもがいつも通りたむろしていたが、今日はそれに混じって警官の姿がちらほら見えた。正直に言って、それを見たとき幼娼はほっと胸を撫で下ろした。レイヴンとして恐れられている魚雷が一緒ならともかく、女一人でハウンドの群を突っ切るのは、さすがにためらわれる。警官が目の前にいるなら、ハウンドどもだって無茶はやらない。

 安心してエイオンに入ろうとすると、警官の一人が、ちょっときみ、と呼び止めた。まだ制服の糊も溶けきってないような警官は、細面で幼娼好みの体つきではあったが、誠実で真面目で馬鹿正直で、幼娼好みの性格ではなさそうだった。ついでにロリコンでも。

「ハァイ。なぁに、お巡りさん」

「きみ、何処の子だい。こんな時に出歩くなんて。マスの子……」

 若い警官の口調ははじめから幼娼をハウンドと決めてかかっていて、彼女を見下していて、それが幼娼には腹立たしかった。いきなりつま先をヒールで踏んづけたい気分になったが、そんなことしても気晴らし以上の意味はないので、じっと我慢した。

「違うわよ。あんなセンス悪くないもん」

「そう違うようには見えないがなあ。シン出して」

「なにそれッ、零感かよ。ファッションが分かんないんじゃ、彼女も愛想尽かすでしょ」

 図星だったのか、さっきよりも険悪な表情で警官は続けた。

「ごちゃごちゃ煩いな。いいからシン出しなさい」

「やぁよ。なんで悪い事してないのにログ残されなきゃなんないの」

 そのとき、騒ぎを聞きつけて別の警官が駆け寄った。そちらは口ひげを生やした老練な男で、眼には理性の輝きがあり、そしてなにより幼娼の見知った顔だったのだ。

「なんだ、なに騒いでる……。おや、マギィ」

「あっ、小父ちゃん。おひさ」

「本当に。何してたんだい、最近……。ところでマイキー、なんだ」

 若い警官は老警官と幼娼が顔見知りと悟ると、とたんに小さくなって、しかられた犬みたいに青ざめた。現金なもんだ、と幼娼は思う。小者。どうあがいたって大成しないタイプ。

「いえ、そのう。その子は、班長のお知り合いですか」

「ウェブスピナんとこのホットスタフ。引退したがね」

「聞いてよ小父ちゃん、こいつあたしにログつけようとしたのよ」

 老警官がぎろりと睨むと、若い警官はすごすごと引き下がり、ハウンドの監視に戻った。幼娼は老警官と二三言葉を交わすと、意気揚々とエイオンに入り、トイレットペーパーを探した。いくつか割り算をしてみると、16ロール入りのパックが一番お得な事がわかったが、ふと、外の老警官と、ハウンドどもと、顔だけは好みの警官の姿が頭をよぎった。

 幼娼は2ロール入りのと、それから適当なのを色々買って、巧妙にトイレットペーパーを袋の底に隠し込んだ。

 それが六日目の全てだった。

 

 

026

 七日目は情報屋と掛け合うことで過ごした。

「応えなさいよ、トニィ・ザ・ダイバーダウン」

 『沈降』は応じなかった。目の前のモニタは熱帯魚の泳ぐスクリーンセイバーを垂れ流すばかりで、セイフデポジットの中で眠るトニィの脳みそは一切の回答を与えようとしなかった。取る物だけ取りやがって。だんだん腹が立ってきた幼娼は、何度薄汚い端末を蹴っ飛ばしてやろうと思ったか知れない。だがこのちっぽけな黒い箱を蹴破ってしまったら、もちろん沈降の半死体には何の影響もないのだが、インフォメーションセラーが再び動き出すまで少なくとも数日を要する。幼娼には、あと僅か数日でさえ無事に待つ自信はなかった。

 魚雷なしでは。もはや片時も。

「トニィ!」

「騒がないでくれ。聞いているし、ぼくは情報屋の誇りにかけて、貰った金の分だけモノを売るつもりだ。たとえ半ば押しつけられた金であっても」

 ようやく沈降は重い口を開いた。

「だが、きみは不公平を感じるかも知れない。なぜならぼくはほとんど何もしゃべらないからだ」

「何でもいいのよ」

「きみはぼくの友達だ。顧客という枠を超えた――きみはぼくの好みのタイプだし、極めて不具なぼくに幾度も性的なファンタジーを堪能させてくれた。きみがぼく専用に作るセンシーは、他のどんなスターのものより――」

「話そらすなっ」

 沈降は再び沈黙した。しかしそれは以前と違って長いものではなかった。

「――ぼくがきみに言えるギリギリの領域は、『ヤバすぎる』ってとこまでだ。これはいち娼婦なんかが首をつっこめるほどライトな話題じゃない。ヴィップなんだ。きみのカレは。ああ、名前を出すことすら恐ろしい――」

「どういうこと、なに、それ……」

「さよなら、マギィ。次に会う時はこんなヘヴィな話題を持ち出さないことを望むよ――」

「トニィッ」

 幼娼の叫びも虚しく、沈降は帰っていった。銀行の奥底で眠る自分の肉体へと。あとには、沈降との接続を絶たれた端末と、電子の熱帯魚が残るのみ。

 一体。幼娼の中に残ったのはただ一つの疑問。あなたは何者なの、デプス……

 それが七日目の全てだった。

 

 

027

 八日目はただ涙のみで過ごした。

 それは宵の海の如き《寂》であったやも知れぬ。

 それは朝の露の如き《蕾》であったやも知れぬ。

 或いはそれは、幾重にも積み重なる永遠の琴線の如き《短命の男》であったやも知れぬ。

 幼娼は魂を以て感じていた。己はうねり沈み行く運命の内奥に有りながら、決してその芯に触れ得ぬのだと。運命の央龍は数多の糸の一つとなってぴんと張りつめ、最も遠き過去から最も遠き未来までを一直線に結ぶ。幼娼は央龍の糸に一歩一歩着実に近付きながら、その実ただの一歩すらも近付いてはいない。デスティニーホライゾン。運命の漸近線。

 万物がプラスティック。思い起こされるのはただその言葉。

 万物がユニーク。身を絡め取るのはただその言葉。

 今は唯一の望みに身を委ねる。何も要らない。どんな問いも、どんな答えも必要ない。それ自体が全ての問いであり全ての答えであるたった一人の男、唯一にして可塑性の男、幼娼にとってたった一人だけ必要な男。

 魚雷。

 涙は一滴すらも流れはしなかった。

 ただ、静寂の一粒一粒が涙であったのだ。

 それが八日目の全てであり、哀れな女の全てだった。

 

 

028

 そして九日目は。ああ、九日目は。

「デプス」

 と、幼娼は呼んだ。目の前に、九日前とほんのちょっとも違わない笑顔の男がひっそりと立っていた。幼娼はあまりのことに腰を抜かして、ベッドにちょこんと座っていることしかできなかった。でもそれがこれ以上どうしようもないくらい素直な恋心の表れなのだということは、鏡に映した様に鮮明に分かっていた。痛いくらいに。

「やあ」

 と、魚雷は家の鍵をポケットにしまい込んでドアを閉める。女臭い風が幼娼の鼻をくすぐる。この野郎ッ、と睨み付ける。

「おまえはおれの愛する娘、おれの心に適う者だ」

 言い訳なんて聞きたくもなかった。ひたひた近付いてきた魚雷をいきなり掻き抱いて、幼娼はその首筋に舌ッ先を這わせた。爪先立った靴の革が、えくぼみたいなしわを寄せた。

「ばっかやろうっ」

 気の利いた事を言ってやろうと心ばかり焦って、殺し文句にしちゃ少しばかり勢いに欠けたし、なによりこれでは少し長すぎた。

「抱いてよ」

 九日目はまだ全てではない。

 

 

029

 九日目は終わり、十日目が顔を覗かせる。夜は荒く激しく過ぎていった。

 魚雷はベッドに幼娼を押し倒しながら、その柔らかな唇に己のそれを重ねた。ほのかに赤らむ桜の花びらは、魚雷の紫がかった薄い唇と優しく触れ合い、僅かにその膨らみを歪められた。ただそれだけで、まるで神経の全てを撫で擽られたかの如く、痛烈に首筋を悪寒が走る。幼娼は身を弓なりに反らせ、小さく細かく身震いし、思わず喘ぎ声を漏らした。しかしその喘ぎすらもが魚雷の口に吸い取られた。

 さらに魚雷は深く潜り込んだ。蛇の様に強かなその舌は、花びらの扉をこじ開ける様にしてその表と裏とを舐め取った。ここでも悪寒は稲妻のように幼娼をつらぬき、目を固く閉じてびくびくと震えのパルスをほとばしらせた。しかしその震えはしっかりと掻き抱く魚雷の腕によって止められた。あまりのことに、魚雷を突き放そうと腕を動かすが、すかさず彼はその手首をベッドに押しつけた。どれほど力を込めようと、抵抗する事はできなかった。

 幼娼は僅かに口を開いた。舌はその一瞬の隙すら逃さず象牙の様な歯の壁をくぐり抜け、その内側を犯した。

 幼娼の舌も負けじと懸命の反撃に転じた、ふたつはうねり、絡み合い、互いを愛撫して寄り添った。ぞくり、ぞくり、と触れ合うたびに幼娼は歓びに打ち震えた。しかし相手の男は平然と舌の鞭を以て攻め立てた。まるで何も感じていないかのようだった。

 力つきた幼娼の舌が身を引くと、魚雷は舌先で上あごの裏をなぞった。今度こそ幼娼は甲高く悲鳴を上げた。一際大きく震え、両目を見開き、全身の力の全てを奪われてぐたりとベッドに身を埋めた。唾液と唾液が混ざり合い、口はしっとりと濡れていた。

「へんなの」

 幼娼が力無く呟いたのは、ようやく魚雷の唇に解放されてからだった。

「キスだけなのに」

 魚雷は優しく微笑み、彼女の髪を静かに撫で、その耳元に低く囁いた。

「時には、ほんとうの少女のように無垢なおまえもいい」

 本当に待ち望んだ事はこれから始まる。魚雷は幼娼の乳房に手を伸ばした。

 

 それは、次の様なものであった。

 

 神がこう仰せになる。終わりの時には、わたしの霊を全ての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人達は夢を見るであろう。

 その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。そして彼等も預言をするであろう。

 また、上では、天に奇跡を見せ、下では、地にしるしを、すなわち、血と火とたちこめる煙とを、見せるであろう。

 主の大いなる輝かしい日が来る前に、日はやみに、月は血に変わるであろう。

 そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう。

 

 ――使徒行伝、第二章、第十七から二十一節

 

 

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