デプスチャージ   作:外清内ダク

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Page 04 銃と悪党と百貨店

030

「はやくしないか。店じまいだぞ」

「うっるさいなあ、急かさないでよ」

 魚雷は肩をすくめた。百貨店のBGMはしっとりとしたバラードに変わり、あちこちで店員たちが商品の片づけを始めた。今はまだファウンデーションのファウンデーションをあれこれ手に取り色を見比べる「よくない類のお客」を追い出す気配はない。しかしそれも時間の問題だろうことは、想像に難くない。化粧品の酸っぱい様な匂いがつんと鼻をついて、魚雷は鼻の頭にしわを寄せた。幼娼は手の甲をにゅっと突きだして、

「ねえ、これと、これと、どっちがいい」

「そういうものは、自分の美的感覚に従って直感的に決めるのがいいんだ」

「あんたの好み聞いてんのよ。どっちのがもえる?」

「どれ」

 魚雷はまじまじと彼女の手を見るが、

「うん」

 言葉に詰まった。色の違いがわからなかった。

「どっちよ? 時間ないんだから……」

 と、幼娼がいいかけた時だった。後ろの方で女の悲鳴がした。そしてパラパラという情けない銃声もが。振り返れば、そこには数人の武装した覆面たちと、両手を上げて震え上がる店員嬢の姿があった。

 よくみれば覆面したのは悪漢ども(と、幼娼は決めつけた。魚雷の立場から言えば「塵ども」であった)のうち半数程度であり、残りは簡単なマスクだけで素顔を晒していた。素顔の者はみな若い子供だった。なにがしの組織の下っ端中の下っ端らしく見えた。そのうちの一人が端正な顔つきの白人少年で、幼娼は魚雷の背中に隠れながら、へえ、と嬉しそうにこぼした。

「静かに! 騒げば撃つぞ」

 怒鳴りながら覆面の中の指導者らしき者が化粧品売り場を練り歩いた。店員や残った客に出会うと、ぎろりぎろりと睨みを効かせた。もちろん魚雷と幼娼の前も、一睨みしながら過ぎた。

「我々は腐ったコープスどもを食い尽くす、正義のグールズだ。諸君等には正義正道のため、しばらく辛抱していただきたい」

 ぐーるず。魚雷の頭の中ではその言葉が大文字で去来した。

 あまりのことに、魚雷はきょとんとして成り行きを見守る以外為す術を持たなかった。

 

 

031

「われわれは!」

 安物のアンプは音割れしながら男の濁声を吐き出した。指導者らしきアフロがヘマをやらかしたものだから、アンプは思いっきりハウリングを起こし、きぃんと甲高い音が幼娼と魚雷とその他大勢の耳をつっついた。誰もが思わず耳を塞いだ。自称グールズの面々やら指導者らしきアフロやらも例外ではない。

「ねえねえ、あのアフロさ」

 と幼娼は覆面からごっそりはみ出したアフロを指さして、

「なんかやらしくない? キモいよ」

「人を指さすもんじゃない」

「グゥゥルズ! である!」

 魚雷の小声はアンプの大音声に掻き消された。

「いま! この! レイヤードは腐りきっている! 企業連合協議会による闇カルテル寡占独占強制労働市場操作に圧力賄賂軍国主義化と不当な搾取! そう! 我々は! 搾取! されている!」

 幼娼は退屈げにあくびを垂れたが、魚雷は実に楽しそうだった。床にどっかりとあぐらを掻き、にやにや口許を緩めながら、頬杖を付いて口上に聞き入っている。その目はまるで無邪気な子供を見るかのようで、幼娼は微かに嫉妬心を抱いた。

「なぜだ!」

 力を込めてアフロは拳を振り下ろした。幼娼がふと上を見上げると、さっきの端正な少年が目に涙を浮かべていた。感動の涙を。

「全ては企業の根本原理である資本主義が原因なのだ。資本主義経済に基く歪んだ社会は必ず貧富の差を生み、貧富の差がさらに社会を歪める! われわれはこのレイヤードを正さなければならない! 一切の貧富の差を埋める共産主義の導入によって! これは革命だ!」

 少年の目からついに涙がこぼれた。幼娼は頬を赤らめた。体が軽くうずいていることを、もし魚雷が知ったら怒るだろうか。

「しかし、革命を起こす為には先立つものが必要不可欠。わが同志の諸君、今日もおしごとがんばるぞっ!」

 巻き起こる歓声の中、魚雷は体を二つ折りにして、必死に笑いを堪えていた。

 

 

032

「ごめんね」

 と、白人少年は幼娼を気遣った。

「用事が済んだらすぐに出られるから」

 演技は幼娼のもっとも得意とする技術である。殊に男の望む姿を演じてみせることは。幼娼は白人少年の目の輝き、指先の動き、あらゆる細かな挙動から、彼の好みや性癖を瞬時に見抜いた。少年は自分の社会的肉体的な弱さをよく知っており(言い換えるならそれだけの賢明さを持っている)、それゆえ強い力に憧れている。今彼が身を寄せている力とはもちろんあのアフロのことで、彼はアフロを盲信している。しかし力への憧れは女と相対する時反転する。支配欲が現れる。彼は自分よりもさらに弱い女を好み、その女を護ること或いは支配独占することで自分の力を誇示し確認しようとする。

 思いこみが激しく、それなりに賢く、一度信じ込むと盲目になり、自分と意見を異にする者を見下し、女を支配したがる。典型的なオタク型。

「ほんと……でも、あたし」

 幼娼はうつむき、目に涙を溜めて見せた。彼女が演技に入ったことは魚雷にもすぐにわかった。目の前で他の男を口説きにかかるとは、太い奴だ。記憶を消してやるぞ、と魚雷は少しだけ思った。

「ママぁ……」

 ママ? ママとは誰の事だ? しゃくりあげる幼娼を冷ややかに見つめながら、魚雷は床にあぐらをかいて、頬杖をついた。眉毛の横の筋肉がぴくりとした。あろうことか白人少年は、もともと白い顔をますます青白くして、きょろきょろと落ちつきなく辺りを見回し、精一杯凛々しい顔を作って、幼娼の肩を抱いた。幼娼はここぞとばかりに大きくしゃっくりした。

「大丈夫、大丈夫だって、ほんとに……なにもしないから。すぐに終わるから」

 女を自宅に誘い込む男のような、怖がる女を押し倒す男のような、よくわからない台詞を白人少年は吐いた。

「チャズ! おいチャズ!」

 そのときアフロが不意に大きな声を張り上げ、白人少年はますます青ざめて顔を上げた。眉をひそめて困り顔を作り、魚雷の方を向くと、

「あの、あなたはこの子の」

「愛じ……」

「お兄ちゃん」

 幼娼が魚雷の正直な答えを無理矢理遮った。魚雷は思わず大口をぽっかり開けたまま、呆然と幼娼を見つめてしまった。

「お兄さん、この子、お願いします」

 幼娼の肩を魚雷に押しつけ、白人少年はぺこりと頭を下げて駆けていった。あとにはまだ口をぱくぱくさせている魚雷と、ふくれっ面で少年の背中を見送る幼娼が残るのみ。彼女が残念そうに、ちぇー、と言っているのが魚雷の耳に届いた。

「かわいい妹ができて幸せだな、おれは」

 正気を取り戻した魚雷がとげのある声で言うと、

「たまには若い子が欲しくなるのよ」

 思わず魚雷は幼娼にヘッドロックをかけた。

 

 

033

 ミラージュとの交渉は難航しているらしかった。自称グールズの面々に焦りが見え始め、時折人質の中からざわめきが立つ様になるころには、魚雷の頭には実行可能な対策がいくつも練り上げられていた。

「来る」

「なに?」

 カービンを携えて歩き回るテロリストの目を盗み、魚雷と幼娼はぽつりと言葉を交わした。それはまるで布の編み目をくぐり抜ける細糸のような会話ではあったが。

「鴉だ。もう三十分か一時間か、いずれにせよそう時間はかかるまい」

「なにそれ、あたしらはどうなんの?」

「運が良ければ生き残る」

 げえ、と幼娼は汚らしく呻いた。その声を聞きつけたテロリストがちらりとこちらに目を遣り、幼娼が掌で口を押さえて息を潜めているのを見ると、興味を失ってまたあてのない彷徨をはじめる。見れば誰も彼もが、あの白人少年もが、うろうろと無目的に歩き回っていた。別室で上との交渉にあたっているアフロ以下数名と、人質数十人以外は。

「哀れなものだ。これが彼等の運命か」

 幼娼が不思議そうな顔をしたので、

「彼等は彷徨えるユダヤの民だ。彷徨を運命づけられている」

「どういうことよ」

「彼等の背後にはクレストがいたに違いあるまい。ここも含めた数カ所で同時に騒ぎを起こし、ミラージュを混乱させたうえで本隊がクラークの主要施設を制圧する。まあそんな計画だろうが」

 床にどっしりとあぐらを掻き、魚雷は膝に頬杖を突いた。

「直前でミラージュに行動を察知され、急遽計画を中止、すでに動き始めていた雇われテロリストであるところの彼等は見捨てられた。後顧の憂いがなくなったミラージュは、低質なレイヴンを安値で雇ってこちらの処理をすませる。哀れな彷徨の運命だよ」

 がちゃん、とけたたましい音が響いた。事務室の扉が乱暴に蹴り開けられ、顔面を真っ青にした汗だくのアフロがよろめくようにして歩み出る。近くの部下からカービンライフルをもぎ取り、ストックをショーウィンドウに叩き付ける。飛び散る欠片。プラスティックの残滓。

 魚雷は自分の内に沸き上がる奇妙な衝動に戸惑っていた。それは幼娼が目を付けたあの少年に対するものであったかもしれないし、あまりに愚かな舞を舞った彼等にせグールズどもへのものだったかもしれない。ともかくその衝動は魚雷の深く澱んだ心に心地よく染み渡り、彼の血肉を激しく踊らせた。これも愚かな舞か。魚雷は思う。彼等と何ら変わりのない。

「マギィ」

 下から覗き込む様にして幼娼は彼を見上げた。

「おれはおかしくなったのかな。彼等を助けてやりたいと、そう思うんだよ」

 

 

034

 戦力は少ない。クレストのC-501アサルトライフルが五挺、拳銃――CPK92は八人全員が所持。あとは店の前のエピオルニス二機。ひょっとしたら、地下駐車場に停めているであろう彼等のワゴン車にはもう少し武器があるのかもしれない。

「どうしたものかな」

 魚雷はぽつりと呟いた。夜も更け、疲れた幼娼が彼にもたれかかり、安らかな寝息を立てている。そのつややかな髪を優しく撫でながら、魚雷は思う。なぜおれはこんな苦労をして頭を捻っているのだろう。自分と幼娼だけがここからぬけだすのなら、今すぐにでも簡単になし遂げられることではないか。

 責任。それが単純明快な答えだった。気まぐれの責任。水辺で溺れようとしている虫けらを、気まぐれに救おうと手を伸ばした。伸ばした以上、救う責任があるのだ。

 あるいはそれは、彼の善性が成したことなのか。

「笑えん冗談だ」

 魚雷はため息混じりに言う。

「人は善にはなりえぬ」

 幼娼を床に寝かしつけ、魚雷はすっくと立ち上がった。周りの数人が、唐突な出来事に驚き、カービンの銃口を突きつける。ただ一人あの白人少年だけがあわてて魚雷に……いや、幼娼に駆け寄り、ひそひそとまくしたてる。

「なにやってんだよ、いまレオンの機嫌が悪いんだ……座って、さあはやく」

 ぐいぐいと袖を引く少年の手を払いのけ、魚雷は高らかに歌った。化粧品売り場の閑散とした中に、その声は夜の波打ち際のごとく不気味に強かにかつ美しく響き渡った。

「諸君、生き残りたくはないか」

 テロリストがざわめき、互いに顔を見合わせる。

「知恵ある者はおれの言葉を聞くがよい。まずロープと、塗料のスプレー。いくらでも在庫が転がっているだろう。それから、エピオルニスを一機だけ、搬入リフトで屋上へ運ぶのだ」

「やめろよ、殺されるぞ! 座っ……」

 やかましい少年を一睨みする。その冷たく底の見えない瞳に貫かれて、少年はびくりと縮み上がる。畏れ。少年は力に憧れる力なき者。それゆえに、大きな力を感じることに関しては他の誰よりも敏感。

「あらかじめ言っておく」

 魚雷は少年の胸に人差し指をつきつけた。

「おれはお前が嫌いだ」

 

 

035

「起きろ。起きるんだ、マギィ」

 頬をざらざらした手のひらが撫でるので、幼娼はゆっくりと目を開いた。目の前には見慣れた魚雷の顔面があり、その目はいつも通りくろぐろととぐろを巻いており、その頬はいつも通り不健康に青ざめていた。幼娼は拳で目元を擦り、もう片方の腕を高々と掲げて背伸びをし、きょときょとと周囲に目を配る。忙しく動き回るテロリストたち。その中には、あの少年の姿も、そしてまたあのアフロの姿も。

「目を覚ませ。ここから逃げるぞ」

「えあ? なに?」

「逃げるんだ」

 魚雷は立ち上がる。あの白人少年が駆け寄ってきて、なんだかよくわからないことを報告する。報告? 幼娼は違和感を感じて少年の瞳をじっと見つめた。さっきとは違う色の輝き。迷いの色。あのアフロに向いていたはずの憧憬は、今や向かうべき方向を定められずただ彷徨っている。

 魚雷は小さく頷くと、

「全員、配置に付け。じきに始まる」

 少年は命令を伝達するため走っていく。命令? 伝達? 幼娼は立ち上がり、魚雷の背をまじまじと見る。肩幅の広い彼の背は、じっと静かにそびえ立つ巨大な壁、誰にも越えられない線のように見えた。

「どういうこと……」

「説得したんだ。彼等をな」

「どうやって」

 魚雷は振り返り、幼娼の頭を撫でる。

「世の中には不可解な事が多いものさ」

 

 

036

 レイヴン石切は、輸送トラックに積まれた愛機花崗岩とともに、作戦地点に向けてぐらぐらと揺られていた。なんでも、デパートにテロリストが立てこもったという。人質は三十人以上、テロリストは戦闘用のMTまで所持している。レイヴンとACにとってはなんということのない敵ではあった。

「こちらストーンカッター。目標はまだか」

「もうすぐだ。それよりレイヴン、その……」

 オペレーターの男が言葉に詰まる。石切は不思議そうになんだ、と返した。

「あー、そのば……奇抜な色は一体なんだい」

「花崗岩迷彩だが」

「……なんで」

「花崗岩のある所では迷彩効果が高いじゃないか」

「だからなんで」

「だから花崗岩の」

「……もういいよ」

 通信はぷっつり切れた。石切は憤慨してモニタをコツコツ叩き、腕組みしてどっしりシートに背中を預けた。頭に浮かぶのは、家で待っている恋人の事で、彼女は来週誕生日を迎える。今日の依頼はそのために受けたイレギュラーなものである。安い仕事だが、とびっきりのプレゼントを買うには十分な報酬と言える。

 石切は機体の調子を確認し、いつも通り完璧に性能が発揮できる事がわかると、満足して誰にともなく頷いた。

 

 

037

 あたしだって泣きたい。

 屋上で、幼娼は魚雷の背中を見ている。嬉々として準備を進める魚雷の顔は、いまだかつて見た事がない、懐かしい物に身を浸しているかのような、そんな表情をしていた。エピオルニスが不器用な逆関節型の脚をばたつかせ、指示を出す魚雷のすぐわきを踏みつける。あぶなっかしいったらない。

「このへんでいいの」

 と、コックピットから問うのはあの白人少年であった。魚雷がそれでいい、と答えると、少年は指示通りジェネレータをダウンさせ、ワイヤー伝いにコックピットから降りてくる。光を失ったエピオルニスのセンサアイを見ていると、かわいい小鳥が眠っているような、猫が布団の上で丸まっているような、そんな印象を受けた。魚雷の何倍も大きい子猫ないし小鳥だった。少年は不器用な順関節型の脚で床に降りた。

 ロープ。フック。そして少量の火薬と、携帯電話。電話には紐が結わえられ、紐はフックに結わえられ、フックにはロープと岩がからまり、岩はワイヤーに結わえられ、ワイヤーはMTをぐるぐる巻きにし、先端がフックでとめられて、最後に電話は二つのブロックの隙間に引っかけられる。魚雷は少年に、紐を握っているように言うと、自分の電話をパンチする。仕掛けの携帯がぶるぶる震える。ブロックの隙間から落ちる。

「実に単純明快」

 魚雷は満足そうににやりと笑った。少年もにやりと笑った。

「殊にアーティスティック」

 少年は慎重に、もとの位置に携帯を置く。彼のその手つきには、魚雷の作ったアーティスティックなしかけに対するフェティシズムが溢れていた。

「男の子ってバッカよね」

 と、あくびと一緒に流れた涙を拳でこすり取ると、

「賢い男なんて、気持ち悪くておれは好きになれないね」

 魚雷は上機嫌に言うのだった。

 

 

038

 僅か30秒だった。

 レイヴン石切の愛機《花崗岩》がデパート前で仁王立ちするエピオルニスを視界に捉え、FCSが軽快な電子音とともにその機影をロックオンし、旋回もままならず花崗岩に砲口を向ける事さえできないMTに一撃を叩き込み、花崗岩がその残骸に警戒しながら歩み寄り、周囲に人影がないことを訝しがり、いちおう契約にある投降勧告を外部スピーカでがなりたてておき、念入りに索敵、上からきた情報ではもう一機MTがいるはずだがと思い、花崗岩の頭部と同じ高さの階、その窓の向こうに一人佇んでいる男がいることに気づき、そいつは手に持っていたハンマーのようなもので窓をたたき割り、そして

 視界断絶。

 そこまでが20秒。

 石切は慌ててコンソールをいじくりまわし、カメラを頭部からコア内蔵に切り替え、視野の狭くなった新たな画面も赤く汚れていることに気付き、窓の向こうの男がインク入りのボールを投げたのだと思い当たり、こちらの視界を閉ざしたからには攻撃があるに違いないと思い、逆関節型の得意分野であるジャンプでとりあえず離脱しようと考え、ペダルを踏み、予想だにしない衝撃にコントロールを失い、正面から機体は地面に落ち、うつぶせになってもう立ち上がる事も出来ず、しまったと思った時には石切は死んでいた。

 これで30秒。

 デパートの天井にあったエピオルニスは、いまや花崗岩の背中の上でぺったんこに潰れており、花崗岩の脚には単なる日曜大工用のワイヤーが巻かれており、潰れた花崗岩の周囲にはテロリストたち、あの少年とアフロの姿もあり、そして魚雷の手には携帯電話が握られていた。

 30秒間、幼娼はじっと見ていた。目を閉じるのは冒涜だと思ったのだ。

 

 

039

「くっさいなァ」

 鼻声で幼娼は言う。右手は鼻っ柱をつまみっぱなしで、左手は忙しく振り回され、口でははあはあと荒く喘いでいる。走りにくいヒールの底が、ときどきぺちゃんと水を跳ね上げるが、そのたびに幼娼は足元を確かめる。何か変なのを踏んだんじゃないかと。

「ああん、もう、しんじらんない。くそッ」

「もう少しの辛抱だ。鼻をつまむのをやめろ、転ぶと悲惨だぞ」

 うええ、と喉から漏らして、幼娼は恐る恐る右手を放す。あまりの臭気に意識が遠のきかける。魚雷はみたところなんともないように思える。下水道の中でも平然と振る舞う彼の姿は神々しくすらあった。神々しい顔がちらりとこちらに見えて、

「使うといい」

 鼻に詰め物。

「だっさー」

「機能美という素晴らしい言葉がある」

「ああそう、それって無骨な連中の逃げ口上よね」

 と言いながらも機能美の結晶を鼻に詰め込む。

 前の魚雷がひたと立ち止まった。そのさらに向こうでは、アフロと白人少年が並んでこちらを振り向いている。こちらじゃない。魚雷を見ている。魚雷の目を見る事が出来ず、やむを得ず二人は首の辺りを見ている。直視できない。なぜなら彼は、

「行くがいい」

 ぽつりと魚雷は言う。

「逃げるがいい。時間をかければミラージュがここを見つけるだろう」

「あの」

 白人少年の言葉を無視して魚雷は歩く。少年の横を通り過ぎ、テロリストどもの往くべき道とは別の進路を取る。暗い地下水路のわきを、ぺたりと音を立てて踏みしめる。

「あのっ!」

 大声は上下に下水管の中を跳ね回り、やがて減衰して消えていく。魚雷は静かに立ち止まる。それは強烈なエコー。消えていた。少年の目から、あの溢れんばかりの憧れの色が。いまその瞳に映るのは、

「あなたは、一体」

 音もなく佇む、まるで海の底の小さく黒い魚雷のような、

「デプスチャージ」

 鼻の詰め物。

 

 

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