マフィンとアプリコットジャムのおまじない 作:すかすかのタキ
その姿はもう遥か遠すぎて、砂粒ほどにも見えなかったけれど。
それでもわたしは、ずっと憧れていたティアット先輩を追いかけたかった。
その背中を。その剣を振るう輝かしい勇姿を見てみたかった。
何でもいいから横に並んで、みんなの役に立つ事がしたかった。
出来ることなら、先輩みたいに──
どんな時でも努力を欠かさず、目的に向かって一直線に進んでいく、かっこいい大人になりたかった。
そんな機会は訪れる筈がないと、当然のように諦めていたのに。
今更になって、突然降ったようにそのチャンスが湧いて出た。
護翼軍のメッセンジャーである──わたしは小さかったからよく覚えてないけれど、かつてこの妖精倉庫で、ほんの短い間だけ一緒に暮らしていた──ヴィレムさんはこう主張した。
『人員は募るが、《最後の獣》に挑む戦力はティアット、パニバル、コロンの三人で十分すぎると俺は考えてる。ここから誰も出さないっていうんなら、喜んで手ぶらで帰らせてもらうさ』
一方で彼と一緒にやって来た、何故か昔と全く容姿が変わっていないネフレン先輩は全く逆の主張をした。
『2番島が今どういう状況になっているかは突入してみなければ分からない。単純な戦闘能力以外の何かが必要になる事態はきっとある』
だからわたし達も、先輩達と一緒に2番島へ行くべきだと。
二つの異なる意見を聞いて、わたしは散々葛藤した。
戦うのが怖い。誰の役にも立てないのが怖い。わたしなんかが何者にもなれる筈がないという現実を、今更決定的に突きつけられるのが怖い。
そして何より──
先輩達はわたし達を戦わせない為に戦って、命懸けでその権利を勝ち取った。
だというのに。
よりにもよって守りたいと思われていたわたし達が。必要とされるかどうかすら分からないのに、自分の意志で戦場に足を踏み入れたがるという事は。
先輩達の背負ってきた歴史や想い、その全てを愚弄して汚してしまう、子供じみた我がままにしかならないのではないかと。
同じ場所をぐるぐるぐるぐる、我ながらちょっと生真面目すぎはしないかと自己嫌悪するくらいに迷い抜いて、ユーディアの脅迫じみためちゃくちゃな言い分に背中を押されて。
ようやくわたしも、自分の本心に従って──
先輩達とそこに並び立つんだという、覚悟を決めることができた。
なのに直前になって──
明日、とうとうわたしはティアット先輩の隣に並び立つんだと考えた瞬間、突然それが揺らいでしまった。
折り合いをつけたと思っていた物は、ただ見ない振りをしていただけだったんだろうか。誰かが捨て忘れたまま放置した生ゴミのよう。恐怖と不安が増殖した虫みたいに溢れ出し、覚悟は見るも無惨に崩れ落ちてしまった。
ああもう、どうしてわたしはこうも情けないんだろう。
いい加減に静まってよ、わたしの心臓。いつまで暗く沈んでいるの?開き直っちゃおうよ、わたしの心。ユーディアがまた考えなしに適当に動き回って、先輩達に迷惑かけ通しになっちゃってもいいの?わたしは本当はすごいって事、ユーディアだってここぞという時は意外にしっかりしてて意外にかっこいいって事を、先輩達に見せつけちゃわなくてもいいの?
ああまた無意識にやっちゃってた!ざくざくなでなでぷちんぷちんはもういいから!お花!雑草はよくてもお花は傷つけちゃったりしてないよね!?
…………いけない、テンションが不安定すぎる。このままじゃ本当に駄目になる。どうにかして気持ちをリセットしなきゃ。
最低限これ以上心が沈み込んでいかないよう、俯いていた顔を思いきって夜空に向けて上げてみる。するとそこには、
「─────あ」
終わった。
あれだけ不安に猛っていた心臓が、死んだように静まり返った。
遮る物のない月光に彩られた、薄紫の幻想的なロングヘア。
気付けば隣に佇んでいるのに、存在を認めた瞬間掻き消えてしまうような、薄霧みたいに掴みどころがない不思議な人。
そんな神出鬼没を絵に描いたようなパニバル先輩が、今まさにここにいて。
花壇に蹲ったままのわたしを、言いようのない不吉な微笑で見下ろしていた───