どこか幻想的な雲の中、似つかわしく無い重々しい音を響かせながらその景色にハッとする。またこの景色だ、計器たちがは小刻みにあの時の踊りをなぞっていく、もうすぐ雲が切れこの後起こることに心臓は警鐘として跳ね続ける。
『たとえ舞台に上がれても…』
『さぁまもなく第1レースが今…』
夏、ジメジメした炎天下を窓の外に感じながら日向にさらされている背中がそろそろ痛くなってきたなぁと感じながらリンゴを剥いているとごそっと布が擦れる音が耳に入る。剥いていたリンゴを皿に戻し電動の寝台を操作する。ゆっくりと目を開けてくれたその人物は少しばかり心拍に乱れがあったようだ。棚にかかっている布で汗を拭いてやると酷いため息をもらした。
「また魘されていたぞ爺ちゃん、りんご食えるか?」
「…はぁ、貰うぞ」
シャク…
「家の片付けは進んだか?」
思わず顔を逸らしてしまった。露骨な挙動に何かを察したのか眉間に皺を寄せていく爺ちゃんは今にもりんごの一切れを握りつぶしそうだ。むしろそんなに元気があるなら体調を回復して欲しいと思ってしまったが、あぁ見事に心拍が上昇し始めた、また医者の先生から色々言われるかもしれないと思いながら何とか宥める話題を考え探し始める。
「いいか!あの家は…」
「わかってる!わかってるさ!爺ちゃんが苦労して手に入れたのは本当によくわかってる!けどかつての設備を持ってかれて詰め込まれたのがあんなに沢山のガラクタなのは…」
「ガラクタだとぉ!?」
「事実サビの管理だけでも大変じゃんか!!」
「磨けばいいじゃねぇか!!」
「あの量を1人でか!?」
ナースステーションがザワザワし始めるのが廊下の向こうで聞こえる。こうなるとそろそろ先生が呼び出される頃だろうか…、カッカッカッとスリッパの音が近付いてくる。
「西さん体に触りますよ。ほら落ち着いて」
「落ち着くだぁ!?先生もコイツに…」
「またですか…」
「またですかってなんですか!?先生も家の倉庫見たでしょ!?」
「えーと、私を間に挟むのやめてもらっても…?ほら西さん、深呼吸して、呼吸音ついでに聞きますね。…うん、服下ろしてもいいですよ」
大きなため息をつきながら廊下へとジェスチャーを目線で送ってきた。自分も頭を冷やすため大きなため息をしながら廊下へ出る事にする。その間に点滴なり色々身の回りの確認をする先生にありがとうございますと一言爺ちゃんが言うといえいえと手を振りながら先生は部屋から出てきた。
「いいですか?
「えぇ、わかってます…」
「家の倉庫何とかなりそうですか?」
「いえ、あっちこっちにツテを探しているんですが…」
「まぁ、確かにいろいろ難しいと思いますが…」
ふーむとお互いに腕を組んで思案顔になってしまった。とにかく明るい話題で負担を減らして欲しいとお願いされてしまった。何かいい話題あっただろうか…、そう考えていると携帯電話が鳴り出した。
「爺ちゃん姐さんたちお見舞い来るってよ」
「何?今か?」
「もうすぐ着くってさ」
何を楽しくてこんな年寄りをからかいに等と爺ちゃんはグチグチ言ってるが、なんだかんだしかめっ面しながらもちゃんと相手に対応してあげて姐さんたちの事をしっかり覚えているのはやはり嬉しいからだろうか、体調もいい方向へ向かってくれると嬉しい。
やがてしばらくすればエレベーターのベルと同時に廊下が少しだけ騒がしくなる。パタパタと足音が複数、ナースステーションで部屋を訪ねている。少し遅めの病院の朝食の容器が下げられたのと同じタイミングで部屋の前に姐さん達が現れた。
「お久しぶりです西さん!」
「へぇ本当だ、あの西さんが入院してる…」
「おう、みんなそこら辺にある椅子で気軽にしてくれ」
『まもなく第3レース、メイクデビュー戦を新潟より中継です。』
しかめっ面した爺ちゃんにバシッと肩を掴まれた。畳まれたパイプ椅子を3つベッドのそばで広げる。やっぱり病院の匂いは慣れないねーなんて''頭頂部にある一対の耳''を下へへにゃりと曲げながら雑談が始まれば爺ちゃんはそれをただ頷きながら聞いていた。
彼女たちはそう呼ばれる存在、人よりも遥かに強い生き物でありながら全く人と似ている。そして彼女たちは、走るために生まれた。
『さぁスタートしました!一番人気のシンボリルドルフは4番手へ…』
ここにいる人たちは爺ちゃんの会社に勤めていた縁でよく見舞いに来てくれた。本人たち曰くウチらは脚遅かったとの事、しかし働いてる姿を知ってる身としては車とも遜色ない速度でものを配達していたあの光景は一つ別の世界を見せられていたような気分だった。
「…あの一番人気の子速いな。」
「爺ちゃん悪い癖出てるぞ」
「そうよ西さん彼女たちはトィンクル選手よ」
「いいわねぇ〜、みんな爽やかで!」
「ウチの娘もいつかねぇ〜」
いいか速いってのはいい事だ〜といつも通り爺ちゃんの説教が始まった。この話はもう既に何度も聞いたので聞き流しながらテレビの画面に目を向ける。最初の直線からコーナーへ入っていくシーンだ。姐さんたちはウマ娘特有の感覚で喋っている、あの子は強いだのあの子良さげだのちょっと自分ではテレビ画面越しには流石にわからないような話をしている。現地で見れたらなぁ〜と小言を言えば聞き逃さないばかりに姐さんたちにやれ素人だのと突っ込まれた。
カーブを抜ける。
『最終直線です!!シンボリルドルフがグッと内に!!』
「今の見た!?」
「すごいじゃない!」
『内から抜けた抜けた!シンボリルドルフ内から抜けてゴールインッ!見事期待に応えて見せました!!』
おー!と姐さんや爺ちゃんはテレビの前で拍手する。そういえばまだ爺ちゃんに言ってなかった事があったかなと考えていたがようやく思い出せた。いい話題だろうし話してもいいだろう。
「そういえば、トレセンで記念受験したな…」
「…お前が?」
ものすごい怪訝な顔をして爺ちゃんは振り返ってきた。カバンの底の方に押し込まれていた未開封の封筒を引っ張り出す。
「失礼だな!ほらこの印見てよ」
「すごいURAのマークじゃない!」
「どこのお土産ショップで買ったのよ!」
「お土産ショップでもねぇって!!」
本物なんだぞと何度も念押しして、サッと定規で封を切る。
嗚呼どうしよう、記念受験のはずなのに胸が高まる、普段やっている免許や資格の試験以上だ。
やはり自分も、どこかあのテレビ画面の向こうの景色に憧れを覚えていたのかもしれない。
三つ折りに畳まれたその紙に触ると確かな感触がその中にあった。
呼吸が止まりそうになった。みんなに目線を合わせると既に息遣いから察したのか姐さんたちは黄色い声を挙げていた。
もういっそだ!バサッと一気に扇子のように紙を広げるとその中央に貼り付けられた特別なカードを見せ付ける。
「爺ちゃん!見たか!!」
「…」
広げられた紙をゆっくり握らせる。しみじみと自分の顔とカードを交互に見る爺ちゃんの手は震えていた。
「…驚いた、あの倍率を突破したのか」
「しかもこれ中央じゃない…?」
そうだ本当に運がいい、あの倍率を突破出来たのだ。まだ筆記試験だけではあるが、この免許を持っているだけでもとんでもないステータスだ。
「よしじゃあ姐さんたち爺ちゃんを頼みます。自分はこの後シフトがあるんで」
「ウソ!?もう中央に務めてるの!?」
「…え?バイトのシフトだけど?」
「出ていけ!!!出ていけと言っ…!!!」
「お願いします二さん今は病室に居ないでください!!」
姐さんたちに引っ張り出される形で怒鳴りながら医者から処置を受ける爺ちゃんを見る事しか出来なかった。
「二さんあなたの気持ちもわかるけど、私達も西さんと同じ気持ちよ…!」
「折角のチャンスなんだよ!?もう1回考え直して!」
「落ち着いたら西さんとちゃんと話し合って?ね?」
ただ、喜ばそうとしただけだった。まるで何かに殴られたようにフラフラとした頭のまま病院を出る、たぶん今ひどい顔をしている。それはもう至極当然な結果だったかもしれない、この状態でシフトに入っても身の入った仕事なんて出来ずミスを多発、しまいには店長から体調不良を疑われ早めに帰るように言われてしまった。いつもなら夜に乗るはずの電車も夕方の閑散とした空気が余計に追い打ちをかけて来るように感じてしまう。
こんな状態では仕方ない、幸いフリーターだから稼ぎと時間の自由には困っていなかった。家に帰宅すればまだ片付かない一階の倉庫がひどく恨めしく見えた。まだ夕方だ、まずは大きいものから片付けよう。例えばそう、この廃車みたいな山、どんな例えをしても廃車としか言いようがない、サビが酷く塗装も剥がれている。だが、ただこれをスクラップに持っていくのはやはり爺ちゃんに育ててもらった身としてはNGだ。どうにかシフトで入った関係先から何か良いツテが見つからないか今日も連絡先やその雑誌を調べ…
「ああ!待ってください!ちょうど良かった西二さんですね!」
「は、はい…、え、すみませんどちら様でしょうか…」
「し、失礼しました。自分はこういった者でして」
ああ、知ってるぞこれ近くにある小さな博物館じゃないか、小さい頃に連れていってもらった記憶があるぞ。展示は確か歴史や生活関係だったかな…?なんだろうと考え怪訝な顔をしながらその丸メガネとスーツの男を凝視する。
「…あのー、酷い顔色ですが本当に大丈夫でしょうか?」
「あー、いえ、話は聞きますので汚い家ですがよろしいですか…?」
「ぜひ!」
2階の客間へ案内するとヤカンでお茶を入れお互いに水分補給しながらあの博物館の話を花を咲かせていた。雑談みたいな内容なので酷い事に何も特に記憶してなかったが驚いたのはその人物が自分が処分しようとしているガラクタを引き取ると言い出したところだろうか?
「ひ、引き取りたい!?」
「そうです、1階に詰め込まれた車両を引き取りたいです」
「…」
「いえ、あの、本当に詐欺とかでは無くて…」
「いやそこは疑ってないんですが…、下の車を管理維持出来る者に引き渡すのがこちらとしての最低条件でしたのでこちらとしてはありがたいのですが…」
「もうそれは全然!なんならピカピカに!」
「は、はぁ…」
困った、実に困った事に自分は下にある車の価値が分からない、何しろ1つとして同じ車じゃないからだ。ツギハギだったり、サビだらけだったり、挙句にエンジンやタイヤが足りない物だってあったはずだ。
「…あの、よろしければ下の物がどう言ったものなのか知っていましたら教えて頂けることって…?」
「全然大丈夫ですよ!!最初からでいいですか!?いいですね!まずは左にある車が…
頭がガンガンする。そう別の意味で、だ。気分が良くなって例の学芸員?と瓶ビールを煽った所までは覚えている。朝目が覚めてお互いに謝り倒したものだ。だが奥に仕舞ってあるサイドカーはどんなに酒を煽ってもダメだ、あれは爺ちゃんの思い出だから。
「…」
「…爺ちゃん話があるんだ」
「聞きたくない!はぁ…、そもそもフリーターって職は…!」
「家の倉庫、なんとかなるかもしれないよ」
「なんだ!?腹いせに全部スクラップにしたのか!!?」
「いや、近所にある小さい博物館覚えてる?」
「…覚えてる」
「あそこの人が昨日来たんだ、引き取ってピカピカにして展示したいとさ」
あ、今露骨に安心した顔している。が、一瞬で顔をまたしかめた。その話は良しとして別の話があるだろうと言わんばかりだ。自分の中でまだあの話は決着がついてない、自分は一体なんで記念受験をしたのか…
「はぁ…」
「爺ちゃん…?」
腕を叩かれて催促される、鍵付きの引き出しを開けて欲しいようだ。いつもなら自分で開けるのにだ。なんだろうかと思い鍵を受け取る。引き出しを開けてみればボロボロの革のアタッシュケースが一つ。
「え!?爺ちゃんこれ!!家から持ってきちゃったの!?」
「なんだ?お前さんこれ欲しかったのか?」
「いやいやそうじゃなくて!」
「そうだな今はそんな話じゃないな、開けてみろ」
「はぁ!?」
爺ちゃんの鍵付きのアタッシュケースだ、自分も中身が見た事ない所かかつての親父すら見た事あるか怪しいまさに書斎に居る重鎮だ。それを開けろと言った。聞き間違いならどれほど良かったのだろうか。震える手で薄っぺらな鍵を鍵穴に差し込んでいく、カリッとした軽い音で蝶番が2つ跳ねる。今1度爺ちゃんの顔を見る、酷い顔をしているのだろうか爺ちゃんが食われるわけじゃねぇからと催促してくる。酷く似合わない病院の安っぽい棚机の上でその歴史は蓋を開いた。
「これ、全部日記…?」
「そうだな、昭和の20って手帳の最後のページを」
「…わかった」
ペラ、ペラ、紙音1つとして酷い緊張でめくっていく。その日記帳は8月で終わっていた。めくっていくと見覚えのある物が写った写真が挟まれていた。栞を挟んで写真を爺ちゃんに渡してやると愛おしそうな顔でその写真を眺めていた。
「爺ちゃん」
「今でも動くか?」
「ソイツだけはちゃんと調整はしてる」
満足そうに頷くとページをめくれと催促された。口の中が乾いていく、最後のページだ。
ワルツを躍らせてくれるとは限らない。
酷い字をしていた。それまで丁寧に書かれていたものとは違う、ページもシワが多く、何かに濡れたような印象がある。昨日のとはまた違う衝撃が頭を殴った。昭和の20なんて何があったかすぐにでも察しがつく。
「お前さんに言うのは初めてだが、親父のこともあったし言わない方がいいかと考えたがやめた。少しばかり年寄りとしてわがままを言う。
付き合いこそ短い間だったがそれは綺麗な飛行機で水冷式だった。本当に惚れたぞ母さんの次にな。ただガラスの心臓だったのさ、だから必死こいて勉強してエンジンを理解しようとした。何しろ外国産を無理やり作ったんだからな、おかげで本当に速かったんだぞ?信じてないだろ。付きの整備の奴と必死こいて勉強して調整に調整を重ねた。ただそんないい飛行機で舞台に立てても向こうが踊らせる気があるとは限らない。本当に酷かった、チャンスは一瞬、奴らは綺麗な飛行機雲の向こう側に消えていくんだ。無慈悲なカーテルコールだと思った。
だから今回のお前の記念受験はワシに取ってもチャンスだと思う。お前にワシの夢を託す、年寄りのわがままだ、絶対に受け取れ。」
慣れた手付きで爺ちゃんはページをめくる。
「『速度は何れを凌駕する。』いつかそれを見せろ。」
「…」
物音がした。扉の方を見てみれば姐さんたちが聴き耳を扉に立てて廊下に居た。爺ちゃんが声をかけて中に入らせる。
「西さん…」
「二さんお願いします!受け取ってあげてください!」
「お願いします!」
日記をケースに戻しながら、背中にそう言われてしまった。フッと体が暑くなったような気がした。
「わかったよ、頑張ってみようと思う」
「…はは、よう言った」
本当に久しぶりに明るそうに笑い、鍵を握らせてきた。
「…えぇ!?」
「これから使っていいぞ」
「免許が…」
「はぁぁ?自分で取ったって話してきたの覚えてるぞ…?」
「あ、そうだ…」
「はぁ…、今日はもう帰っていいぞ。どうせ数日休む予定だったんだろ、家で色々考えておけ。」
病室から出る、ふと振り返れば姐さんたちも居た。
「みなさんご迷惑おかけしました…。少しばかり色々考えようと思います。」
何か言いにくそうに、だけど最初から決めていたようにその口が開かれた。
「ねぇ、二さん。貴方の名前に私たちの夢も乗せられないかしら」
「そうね、私達もあの舞台で走りたかった思い、託すわ」
「ウマ娘はね、想いを背負って走るのよ、だからまずは貴方の背中に乗せておくわ」
これはおもい、だけど。
「やはり若い子の方がいいですか?」
「…なんですって!?」
「…今のはダメね」
「…ウチらに勝てるとでも??」
イタズラな顔をして聞き返してみれば向こうも好戦的な笑みを浮かべる。
だが、確かに背中は押された。熱は強くなっていく。
「いってきます。」
「いい顔ね、ちゃんとその顔覚えてなさいよ」
「お爺ちゃんは任せて!!」
「おお!ついに中央か!近所に自慢しとくわ!」
「家の片付けしてからですよ…?」
その日は自分にとっての早めの紅葉が咲き乱れた。