アルコールとタバコの匂い。
夜のバーは大人になってから嗅ぎ慣れてしまった匂いで充満している。
馴染みとしているカウンターの端席。絞めていたネクタイを軽く緩めてから長らく顔見知りとなったバーテンダーに差し出されたビールをひと呷りすると、体内に侵入したアルコールによって内々に溜めていた色々なモノが一気に溢れ出してきそうになる。
「っはぁぁぁぁ」
「ちょっと、
「ああ、すまん」
左隣の席でジンリッキーに口を付けていた長年の友人からの辟易した視線に気付き、確かにいきなりこの態度は良くなかったと反省する。
「最近マジで忙しかったんで、いろいろと溜まってたもんが出ちまった。悪いな」
見た目はパンク系ファッション全開のおっさん。だが、口を開けば中身の乙女な部分が垣間見えてくる
「安定して楽そうなイメージがあるけど、やっぱり公務員っていうのは結構忙しそうよね」
「無駄な役職やら決め事やらの所謂お役所仕事が無駄に多いんだよ。本当に。しかもこの時期は新人達に向けた研修やら教育やらもあるしな」
「そう言えば、世間様だとそんな時期ね。まだまだスーツに着られた子達が駅や街中を歩いているのを見ると時間が経つのは早いわ~って思うわ」
四月も中盤を過ぎ、少し前まで咲き誇っていた桜の花は既に散り、進学だったり就職だったりをした者達の新生活も徐々に落ち着きの気配を見せ始めた頃合い。
「ライブハウスだってそんな変わらんだろ? 今くらいの時期だと、新人のバイトとか従業員の入れ替わりとかがあった気がするんだが?」
「うちみたいな仕事は人の入れ替わりなんて日常茶飯事。定期的で安定的な人材確保体制なんてものは夢のまた夢よ。少しは世間様の影響を受けることはあっても、そもそもが朝から晩まで真面目にちゃんと働いているような人間ばかりじゃないし。世の中の当たり前に流されずに自由な生き方をするのがロックだ!――なんて考えている子達が当たり前な世界だから。それはそれで別に悪くはないんだけどね」
「笑って済ませられるレベルで済めば。だろ? 前に飲んだ時にもなんかキレていなかったか? 滅茶苦茶するバンドの子がいるとかなんとか。しょっちゅう機材とか設備を壊すんだったか? あれ、出禁にしたのか?」
「ああ、あの子ね」
何とも表現し難い表情を浮かべた銀次郎。その様子になんとなくだが状況を察する。
「なかなか面倒そうだな」
「実力もあるし、根は凄くいい子なんだけど。酒癖が悪すぎるのがちょっと……いや、かなり……だいぶ……結構……」
「おいおい。大丈夫なのか。それ?」
「まあ、バンドマンなんて多少の問題があるのは常だから。別に犯罪やらに走ったりする子じゃないし、ギリギリまでは大目に見てあげるようにはしてはいるけど」
「話を聞いてるだけで胃に穴が開きそうだな」
「言わないでちょうだい」
いろんなあれやそれを飲み込むように一気にグラスの残りを飲み干した銀次郎が今度はバラライカを注文したので、自身もビールの残りを飲み干すと少し強めのチョイスとしてオールド・ファッションドを頼む。
「――あら?」
他愛のない世間話(という名の単なる馬鹿話とか愚痴の言い合い)をアルコール摂取と共に進めていると、三杯目としてマティーニを注文した銀次郎があさっての方向を見ながら妙に顔を歪めたので自身もそちらへと視線を向ける。
「あれ~、銀ちゃん? どしたのー。こんなとこでー」
声を掛けてきたのは、薄手のキャミソールワンピースにスカジャンを羽織っただけの髪を三つ編みにした女。しかし、どうにも雰囲気からして既にかなり飲んでいる上にテンションも上がっている気配がする。なんというか、バーのカウンターで静かに酒を嗜むという空気にはあまり合わないような感じだった。
「……知り合いか?」
「ええ、残念なことにね」
「なにがー?」
「なんでもないわよ。それより
どうやら目の前の酔った女(廣井さんと言うらしい)に対して考えることは銀次郎も同じだったようで、明らかに怪訝な顔をしている。
「ちょっとレーベルの人とご飯を食べててさ。そのまま飲みに行こうってことで来たんだけどね。いやー、その子のおススメのってことでこの店に入ってみたら、こりゃ場違いだーってなってたとこー」
廣井さんと言う女は食事だけをしていたように語っているが、その様子は傍から見ても明らかに酔っている。本当に食事だけだったのかと疑ってしまうレベルだ。
「ちょっと、大丈夫なの? 廣井。あんた……」
「大丈夫だよー。そんなに高いお酒は飲まないようにするから」
話を聞いて心配した表情で問い掛ける銀次郎に廣井さん(おそらく確定)はケラケラと軽い表情で応じているが、その様子からしておそらくは心配されている理由を勘違いしている。
「そう言うことじゃなくて……」
「んでさ。銀ちゃんと一緒に飲んでるのは――」
「すみません。廣井さんのお知り合いですか?」
空気を読んでいたのだろう。だが、流石に痺れを切らしたのか、少し前から距離を取ってタイミングを見計らうように待っていたスーツ姿の若い女性が話に割り込んでくる。
「あら、ごめんなさいね。吉田です。ライブハウス新宿FOLTの店長をしてます。レーベルの人かしら?」
「新宿FOLTの。これは失礼しました。私は――」
スーツ姿の女性は見た感じから二十代の半ばくらいの年齢に見える為、もしかしたらまだまだ業界歴が短いのかもしれない。年嵩の初対面の同業者に会ったということで挨拶と名刺を慌てて差し出しているが、プライベートな時間である銀次郎の方は名刺を受け取って定例的な挨拶と自己紹介を簡単に返すだけに留まっている。
オールド・ファッションドの甘くも苦い味わいを楽しみながらその様子を静かに眺めていると、ふと自分に向けられる視線が気になった。
「銀ちゃんの友達?」
「ああ、高校の同級生でな。――草摩だ。よろしく」
「へ~。高校かー。うわー、高校生の銀ちゃんとか想像できねー」
「そっちは銀じ……吉田の店で演奏をしているバンドマンか? 廣井さんでよかったかな?」
「そうでーす。SICK HACKの天才ベーシスト廣井 きくりで~す」
酔っ払い女改め廣井さん(確定)が酔いで赤らんだ顔でヘラヘラと笑いながら自己紹介してきたので、こちらも妙齢の女性がセクハラと感じない程度の笑みを浮かべて応じておく。
「廣井さん。少しよろしいですか?」
「な~に~?」
「これからですが……」
「あ~、そだねー。折角だし、銀ちゃん達と一緒に飲む? 銀ちゃんは優しいからきっと奢ってくれるよ~」
「ちょっと廣井。バカなこと言うようだと前に壊した店の壁の修繕費を割り増し請求するわよ」
「うぇぇっ、ちょ、銀ちゃん。じょ、じょ~だんだよ。じょ~だん」
「まあ、一緒に飲むのはかまわないけどね。そっちの子は何を飲むのかしら? ここはカクテルの種類も豊富よ」
「い、いえ。折角お誘いいただいたのに大変申し訳ないのですが、今回はお暇させていただいてもよろしいでしょうか? ……すみません」
酔っ払い特有の無茶苦茶な言動をする廣井さんに恐縮した様子で断りを入れるスーツ姿の女性だが、どこか不機嫌で不満気に見える。まあ、同年代の同性だけの飲みの予定だったのがほぼ初見のおっさん連中も一緒の飲みに変わったとなれば不満を感じるのは当然かもしれないが。
「んん? いいけど。あれ? どうかした?」
「廣井さん。よろしければ後日また改めてこちらから誘わせてください」
「いいよ。楽しみにしてる~」
「次に誘う時はまた別のお店を探しておきます」
「そんな気を遣わなくてもいいよ。それこそ手軽な居酒屋とかでもいいからね」
「いえ、廣井さんと折角ご一緒する以上は、二人でゆっくり静かに飲める素敵なお店を探しておきますので」
廣井さんが終始軽い調子で受け答えしているのに対して、スーツ姿の女性の方は妙に真剣な眼差しを廣井さんに向けている。双方の温度や湿度の差になんとなく眉を寄せる。
「それと、大丈夫だとは思いますが。気を付けてください」
不意に向けられた視線に警戒の色が含まれていたのは気のせいだはないだろう。酔って前後不覚になった女性をどうこうする人間なんて世の中に山ほどいる。危機感や警戒心を持って異性に接すること自体は何一つ間違いではない。
とは言え。
(……おい、どういうことだ? 別に無理に一緒に飲もうとしなくてもいいだろ?)
微妙におかしな状況に疑問を感じ、何かを話している女性陣に聞こえないように銀次郎に耳打ちする。傍から見れば、銀次郎の一連の言動がまるで女性だけの飲みを邪魔しようとしているようにも見える。
(………勘なんだけどね。レーベルのあの子。ちょっとね。なんとなく廣井を見る目がヤバい感じがして)
予想外の返答。
停止した思考は一瞬後には再起動したが。同時にスーツ姿の女性に思わず視線を傾注しそうになったのを辛うじて自制する。
(……いろいろな人間を長年見てきたベテランライブハウス店長の勘か)
(乙女の勘よ♪)
何言ってんだか。と思いながらも、敢えてここは何も口に出さずに呆れ顔を浮かべるに留めておく。
「では、本日はこれにて失礼いたします」
そうこうしているうちに女性陣の話も終わったようで、スーツ姿の女性は居合わせたそれぞれに一礼をするとすぐに帰っていってしまう。
銀次郎が変なことを言ったせいだろうか。立ち去る最後に廣井さんに向けていた視線が妙に意味深なものに感じられたのは……あまり気にしないほうがよいのだろう。
「んじゃね~。――――じゃあ、さっそく飲もう! それで銀ちゃん。何を奢ってくれるの~? 高いやつ?」
「奢らないって言ったでしょ。廣井。あんた本当に図太いわね」
銀次郎の横に座った廣井さんだが、どうやら彼女は酔うとウザ絡みするタイプのようで、顔を合わせてから数分しか経っていないにもかかわらず既に面倒そうな雰囲気が感じ取れる。
「えー。ケチー」
廣井さんはまるで子供のようにブー垂れているが、パッと見た感じからして二十代の半ばから後半くらいの女性がする仕草としては少々どうなのかと思う。人によっては多少の需要もあるやもしれないが。
「ううぅ。年中金欠バンドマンに奢ってくれる甲斐性もないなんて、銀ちゃんは酷い店長だー」
「ウソ泣きしたって駄目よ。そもそも年中金欠なのは廣井自身の普段の行動が原因でしょ」
「う~。鬼がいる~」
銀次郎の言葉は結構辛辣なものだが、遣り取り自体はどこか漫才染みていると言うか慣れた感じがしていて、それなりの付き合いが見て取れた。
「おい、よし……もういいか。銀次郎。あんまり邪険にしてやるなよ。――廣井さん。一緒に飲むことになったのも何かの縁だし。良ければ一杯くらいは俺が奢ろう」
「え、いいのー。やったー。銀ちゃんの同級生さんは話が分かるねー。あんがとー」
「ちょっと、ちょっと。草摩。あんまり廣井を甘やかさないでよ」
「お前は廣井さんの母親か何かなのか?」
何か友人(心は乙女な三十七歳のおっさん)が奔放な娘に厳しく接する母親のように見えてきた。
「それで、何を頼む? なんでも好きなものを頼んでいい」
この店は女性や初心者向けのカクテルも豊富である。廣井さんは言動から見ても随分と酒飲みなようだが、普段この手の店を利用するタイプには見えない。もしも何を頼めばいいのか分からないようならばこちらで適当にセレクトしてもいい。
「ん~。じゃあ、『おにころ』をひとつ! ピッチャーで!」
「…………」
「廣井。あんた……」
三十数年の人生をそれなりに生きてきたが、どうやら世の中にはまだまだ理解の及ばないことは多いようだ。どこからともなく取り出した紙パックの『おにころ』を掲げながらの廣井さんの宣言に思わずドン引きしてしまう。……ただの冗談だよな?
それはそれとして、ワンピースの様な薄手の服装でリアクションの大きな動きを取られるとどうにも目に毒でしょうがない。いい歳をしてもそう簡単には無くなったりはしない野郎の性だと言ってしまえば仕方のないことなのだが。
「……バーテンダー。彼女にエル・ディアブロをひとつ」
営業スマイルを若干引き攣らせていたバーテンダーに申し訳なさの念を感じながら、素っ頓狂なことを言う酔っ払いの言葉は無視して注文することにする。
「かしこまりました」
「廣井にはピッタリね」
注文内容を聞いて僅かに苦笑を浮かべたバーテンダーと銀次郎にこちらも苦笑で返すと、若干気障とも取れる自身の行為の気恥ずかしさを飲み込むように残っていたオールド・ファッションドを飲み干す。
「???」
野郎共だけで秘かに通じ合っている理由が理解できなかったようで、廣井さんは疑問符を浮かべているが、敢えて理由を教えてあげる必要はないだろう。
バーテンダーの慣れた華麗な手並みがひとつのカクテルを作り上げる。
「――お待たせいたしました」
それは悪魔の名を関する鮮やかな赤のカクテル。
目の前に差し出されたエル・ディアブロをキョトンと見詰める廣井さんの横顔を横目に見て、もう一杯か二杯くらいは奢ってもいいかな? と、銀次郎が怒りそうなことを考えながら自身の次の一杯を注文することにした。
親切心と下心は紙一重。
廣井さんはもっといろいろと用心すべきだと思います。