「最近のスーパーのパンコーナーって、力が入っている店も多いわよね。専門店並みに本気で美味しい店も多いし。今日買ってきたこれだってほぼ焼き立てよ」
「厨房を併設して自前でパンを焼いている店も増えたよな。この店もそうだし。朝のあの時間帯くらいに焼き立てが並ぶみたいだから、タイミング良く買えてラッキーだったな」
ソファーの端に座ってもそもそとクロワッサンに口を付けながら、それぞれコーヒーを片手に好きなパンを食べながら話している銀ちゃんと草摩さんの二人を眺める。
普段の刹那的な生活の中ではなかなかに縁遠い穏やかな朝の光景。
(なんか……不思議な光景だ~)
ほぼ初対面の人様の家。
着ている服から微かに香る嗅ぎ慣れない異性の匂い。
普段と比べてまともな朝食。
極めつけは、望んでもアルコールの摂取ができないこと。
完全に素面モードとなっていることもあり、今は殆ど借りてきた猫な状態だった。
(……パン。美味しい。でも……)
ズズズッとカップに入ったしじみの味噌汁を飲む。
バターの甘味と一枚一枚が薄く見事に焼かれたパン生地のさっくりふわっとした食感が素晴らしいクロワッサンと濃厚なしじみエキス入りの味噌汁が口の中で混じり合い、あるひとつの感想を訴えかける。
「廣井さん。本当に味噌汁で良かったか? なんならコーンポタージュとかもあるから、パンに合わなさそうならそっちを飲んでくれてもかまわないんだが」
「あ~、あっあはははっ……だっ大丈夫……です」
抱いた感想と感情が顔に出ていたのだろうか。気を遣ってくれた草摩さんのことを微妙に視界から外して見ながら曖昧な笑顔を浮かべて誤魔化す。
「ならいいけど」
若干困惑した表情を浮かべている草摩さん。その理由は大体想像がつく。
「……なあ、銀次郎。廣井さんだけど……」
「ああ、大丈夫よ。草摩。今のその子はお酒が切れて素面状態になってるから、それでちょっとテンションが下がっているだけよ」
銀ちゃんから草摩さんへの説明が全てを物語っている。
はい、そうです。素面だからダメなんです。元々の陰キャな自分が出てきているんです。この状態を打破する唯一の方法は幸せスパイラルをキメるしかないんです。
「おにころの一パックでも飲めばすぐにまた無駄にハイテンションで鬱陶しい状態に戻るわよ。心配しなくてもいいわ」
「それは大丈夫じゃないだろ。アル中早死にコースまっしぐらな生き方じゃないのか?」
「そう思うわ。だから今ここでは飲ませないでちょうだい。それに、折角ゆっくり美味しいパンを食べているのに、それを台無しにするような酔っ払いの相手はしたくないわよ」
サラっと毒を吐く銀ちゃんから向けられた妙に清々しい笑顔がなかなかに怖かったので、顔を背けてリビングルームの窓から見える外の景色を眺めながらクロワッサンを齧る。
天気は快晴。普段はあんまり活動していない時間帯なこともあって、なんだか少し新鮮な気分。
(でも、やっぱりお酒が欲しい)
それでも常に漠然と存在する不安そのものは完全には消えてくれたりはしないのだから、本当に本当に嫌になる。
「廣井さん。コーヒーのおかわりは? なんならカフェオレとかもできるけど?」
「あっはい。じゃ、じゃあ、カフェオレでお願いします」
カフェオレなんて随分と久し振りに飲む気がした。
「了解。――銀次郎。この後だけど、どうする? 飯食ったら帰るよな? 必要なら車出すか? 俺は今日は休みで予定も特にないし、なんなら送ってやれるけど?」
「本当? 助かるわ」
「今日の夜はまた店で仕事か?」
「そうよ。毎週末が決まってお休みな公務員さんと違って、こっちの仕事は不定休だからね。今日も仕事。明日も仕事。雨の日も風の日も仕事仕事の毎日よ」
「別に公務員だからって毎週末が必ず休みとは決まってないけどな。でも、とりあえずご苦労さん」
「暇なら臨時のバイトで入ってくれてもいいわよ。真面目に働いてくれる人間はいつだって大歓迎だから」
「公務員は基本的に副業禁止なんでな。もし懲戒解雇でもされた時は是非ともお世話してくれ」
……なんだろう。銀ちゃんと草摩さんの会話を聞いていると、微妙に肩身が狭い気がするのは。理由は……考えないようにしておこう。
「廣井さん。良かったら廣井さんも家まで送るけど? 昨日は場所が分からなかったからな」
「あ、そうよ。そう言えば廣井。あんた先月くらいに引っ越ししたとか言ってたでしょ。引っ越し先の住所が分からなくて、昨日の夜はタクシーで送ることもできなかったのよ」
「あっ……」
そう言えば、銀ちゃんに引っ越し先の新しいアパートの住所を教えていなかった。むしろ、バンドのメンバーとかにもまだ教えてなかったりする。
「と言うより、本当に引っ越ししたんでしょうね? あのおんぼろ激安アパートよりも安い部屋なんてそうそうない気がするから、もしかして家賃滞納で追い出された挙句にどっかその辺の漫喫とか路上とか高架下とかで寝起きするような生活とか送ってないわよね?」
草摩さんに聞かれないように気を遣ったのか、近くに寄ってきた銀ちゃんが多少声を潜めて聞いてきた。……全体的に言っていることが酷くないですかね?
「ちゃんと引っ越ししたし」
前に住んでいた部屋よりも更におんぼろ築五十二年風呂無し事故物件アパートにではあるけれど。……事故物件なんて最初は鼻で笑っていましたよ。でも、普通に夜な夜なお出になられるのはマジで勘弁して欲しいです。
「昨日の夜は結局あんたが潰れたせいで住所が聞き出せなくて、おかげでこうして草摩の家に泊まることになったのよ」
「俺の家が一番近かったからな」
「正直な話、どっかのホテルにでも放り込んで放置することも考えたんだけど……ホテルの人に迷惑が掛かりすぎるからやめたわ。タクシーの人にも迷惑を掛ける寸前だったしね」
「それはその……ご迷惑をおかけしまして」
どうやら昨日の夜はバーから出てから最初はバンド仲間の志麻かイライザの家にでも向かう予定でタクシーに乗ったものの、その途中で限界が来たことで急遽途中下車。盛大にダムの放流映像案件をして再度タクシーに乗るのも憚られる状態になったので、その地点から徒歩でギリギリ行ける距離にあった草摩さんの家に移動してそのまま泊まることになったと言うのが事の顛末らしい。
(……え? ちょっ、ちょっと待って。私はそんなアレな状態で他人のベッドで寝ていたと?)
寝ていたベッドの状態はどうなっていた?
起きた直後のことでよく憶えていない。もしかして、思いっきりアレやソレやで汚してしまっているのでは……。
想像して冷や汗が流れる。
他人の目を気にしないダメ人間な自覚はある方だが、それでもアウトだと思うラインはちゃんと存在する。
(か、確認を……。いや。でも……)
ベッドの状態を確認に行きたい。だが、確認したとしてもしアレな状態だったらどうするのか? クリーニングに出す? シーツとかはともかく、下のマットレスとかまで汚れていたらどうしたらいいのだろうか?
(あっ、そう言えば……)
「あっあの。私のスマホは……」
「スマホ? ああ、廣井さんのスマホなら寝室のスカジャンのポケットに入れておいたから……今は寝室だな。取ってこようか?」
「じ、自分で行くんで、大丈夫です!」
草摩さんからの予想通りの返答に食い気味に応じ、即座に立ち上がると一目散に寝室へと向かう。
「財布もスカジャンのポケットに入れっぱなしなんで」
寝室の扉を開ける直前に聞こえてきた補足の声に小さく頷き返してから、少し前に必死で脱出しようとしていた寝室へと舞い戻る。
入って視線を巡らせばすぐに壁に備え付けられたフックに吊るされていたハンガーにかかったスカジャンが目に入ったが、今の目的はそれじゃない。視線は一晩を過ごしたベッドへ。
「……よかった」
ベッドから転げ降りた際にぐしゃぐしゃに乱れてしまった掛布団。床に落ちてしまっている枕。白いシーツは皴だらけ。
でも、少なくとも目も当てられないような惨状にだけはなっていない。
いろんな意味で安堵すると、とりあえず床に落ちている枕くらいは拾っておこうと手を伸ばし、
「うへぇぁ。よだれの痕……エグいなぁ」
拾い上げた枕のカバーを見て、やっぱり今すぐにでも
*** *** ***
「ありがとうございます」
コンビニ定員のマニュアル通りの掛け声を背後に聞きながら、自動扉を出た瞬間一秒と待たずに買ったばかりのおにころのパックにストローを刺し込み、中身を一気に半分くらいまで飲む。
「ァブヒィェ~! いぎがえっだぁー!」
待ちに待った
周囲にいた他のお客さんや通行人の人達に奇異の視線を向かられるけれど全然気にしない! だっていつものことだし。それに自分のお金で買ったお酒を飲むことの何が悪い? 昼間からお酒を飲んで酔っ払うことの何が悪い? 世の中の人間は誰だって幸せになりたいはずだ。その方法として酔っ払うことを選択することの何が悪い?
「あ~、やっぱこれだねー」
昨晩飲んだ高い洋酒やら気取ったカクテルもいいんだけれど、やはり自分の性に合っているのはたとえ安酒でも日本酒や焼酎・チューハイの方だ。
とりあえず一パック目をその場であっという間に飲み干すと、次のパックに刺したストローを口にしながら歩き出す。
住んでいるボロアパートまでは歩いて十分くらいの距離。カンッコンッと下駄の足がコンクリの地面を打つ硬質な音を響かせて、のんべんだらりと歩きながら帰ることにする。
朝食を食べ終えた後、銀ちゃんと一緒に草摩さんの車で送ってもらえることになり、家に着く手前のコンビニで買い物がしたいと言って降ろしてもらった。
告げた瞬間に銀ちゃんと草摩さんの両方から微妙な顔を向けられたので疑問に思うと、銀ちゃんからの「前をちゃんと上まで閉めて。見えちゃわないように注意しなさいよ」との言葉でその理由に気がつく。
今の格好は草摩さんに借りた男物の服を着ている状態。明らかにぶかぶかで、袖や裾を捲り上げなければ手や足は完全に隠れてしまうし、パーカーのチャックは一番上まで上げても首回りや胸元なんかは結構緩くなりがちでかなり見えている。見る位置によっては更に奥の部分なんかも見えてしまうかもしれないが。
「銀ちゃんも気にし過ぎなんだよな~」
普段着ているキャミワンピースの時の方が胸元なんかの露出度は大きい。それにアルコールも入ったので多少のことは今なら気にもならない。
むしろ気にすべきことがあるとすれば。
「お礼か~」
別れ際に銀ちゃんに言われた、「廣井。一応言っておくけど、今度ちゃんと草摩にお礼はしなさいよ。草摩は気にしなくていいとか言ってるけどね」なんて台詞。
考えだすと何かが重く圧し掛かってくる気がする。
「いや、わかってますけどねー」
ダメ人間ではあっても一応は大人でもあるので、本音と建前の区別くらいできるし、お世話になった以上はそれ相応のお礼をするくらいの礼儀は弁えているつもりだ。一応。
(でもな~)
お礼って何をすればいい? 何か買って渡すのか? 食事でもご馳走するのか? いっそのこと一晩くらい付き合うとか……これだったら昨日の夜の内に終わらせているか。いや、でも、昨日の夜は銀ちゃんもいたわけだからそもそもそんなことをするのは無理か。
(……ん?)
考えていて、何か違和感を覚えた。
(……まあ、いいや)
別の方向で考えよう。
自分はバンドマンである。そしてバンドマンがするお礼の定番と言えば何か? それは自身のバンドのライブのチケットを渡してライブに招待することではないだろうか? そう考えれば答えはひとつではあるのだけれども……
「合わなかったら意味ね~」
ロックバンドSICK HACKの音楽はサイケデリックロック。非常にニッチなジャンルであり、しかもメジャーではなくインディーズで活動するSICK HACKは自他ともに認める変態バンドなのだ。洗練されたファン以外の一般的な層への受けはお世辞にも良いとは言えない……解せぬ。
(銀ちゃんの友達だから音楽が嫌いとは思えないけど、それでも好き嫌いや合う合わないはあるだろうしな~)
「……あ~、もう考えるのめんどくさい」
何かもういろいろと面倒くさくなってくる。アルコール摂取による酩酊感と高揚感で誤魔化そうとしても、本質的には誤魔化しきれない。
音楽とお酒だけで生きていく上のあれこれが全て完結すれば楽なのに、どうしてこの世の中は無駄に頭を悩ませようとすることが多いのか。
「まあ、なるようになるか」
気付けばいつの間にか
「うひぃ~、すんごいキレられそーだなー」
特に銀ちゃんと志麻は結託してお説教してきそうな気もする。
思えば中学や高校生の頃は殆ど怒られた記憶がなかったのに、大学に入って音楽を始めて気がつけば社会人になってからはそれなりの頻度で怒られたりするのだから不思議と言うか何というか。
そういう生き方を選択したこと自体は後悔などしていないが……
「確か公務員をしてるとか言ってたけど。あの人とかはどんな感じで生きてきたのかな~」
自分とは真逆の生き方をしてきたであろう人のことを少しだけ考えてみたりした。
廣井さんは酔っていない時は比較的まとも。酔っている時でも時折まとも。
それはそれとして、個人的に銀ちゃんは非常に描きやすい。