崇永記   作:三寸法師

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〜1〜

 

 

 白河関を突破して関東入りした頃には三万余騎を数えていた顕家軍は建武四年(延元二年)十二月中旬、十万騎近くにまで膨れ上がっていた。

 奥州から続々と精強な武士たちが合流しただけでなく、小山城を陥落させて更なる南下の用意を整えた顕家軍の状態は上々だ。

 勿論、北関東には未だ下野国の芳賀禅可軍(宇都宮家の北朝方)や常陸国の佐竹軍が残存していたが、とても圧倒的な兵力差を覆せる程ではなかった。

 

 

「今戻った!春日、兵たちの損耗具合は?」

 

 

「軽微です。この後、関東足利党およそ八万騎との決戦が控えておりますので、多少の休息が必要にせよ、数日も休めば十分かと」

 

 

「結構。ならば十三日に進軍を再開しよう」

 

 

「は……して顕家卿、伊豆の北条は如何でしたか?」

 

 

 この年、南朝は春に金ヶ崎城(新田義顕軍)を失い、頼みの綱の顕家軍が北関東で中々波に乗れないという状況で、一つの大きな決断を下した。

 すなわち、伊豆国に潜伏していた北条時行(中先代)の年齢の割に巧み過ぎる降伏申し入れを受諾し、一族の逆賊認定を解除したのである。

 勿論、猜疑心の強い後醍醐天皇の事だ。受け入れるのが適切だという臣下からの勧めを聞き入れ、大乱によって自身の政権崩壊の一因となった時行の帰順を認めるにあたり、一つの条件を示した。

 大軍を率いる顕家が一時戦線離脱し、伊豆国に潜入して北条時行が真に南朝武将足り得るか、直接確かめるよう求めたのである。

 

 

「ふ。春日、余の顔を見て分かっているだろう?合格だ。帝の無茶振りに御応え申し上げた甲斐があったというものよ。時行の為人(ひととなり)もよく分かった。度胸を備え、強き信念を宿した少年であったぞ」

 

 

「安心しました。顕家卿御自ら見極めたとなれば、参陣している諸将たちも過去の(わだかま)りを捨てて、北条党の帰順を歓迎する筈です」

 

 

「うむ。先程、近くまで連れて来た彼らに利根川の地形を憶えさせて帰らせた。斯波家長は南関東の武士たちが全て北朝方だと思い込んでおる。だが、それは北条残党(時行たち)を除けばの話……裏を掻くぞ」

 

 

「御意」

 

 

 十二月十三日、足利軍八万騎と顕家軍十万騎の両軍が利根川で対峙する。迎え撃つ足利勢に地の利がある一方、攻め込む顕家勢は兵の数こそ有利だが、やっと下野国を突破したばかりの遠征軍だ。

 両軍が互いに自分たちの勝利を信じて戦う。しかし、顕家が利根川合戦で自分たちが勝つと思う心は確信の域にまで至っている。

 北から自分たちが渡河した上で、迎撃に専念する南岸の足利軍の後方より、北条軍が突如奇襲を仕掛ければ勝てると踏んだのだ。

 

 

「何故だ!?何故時行たちは現れん!?」

 

 

「落ち着いてください、顕家卿!兵たちに聞こえます!」

 

 

「伊達、これが落ち着いて居られるか!」

 

 

(手柄を立てさせ、皆に北条歓迎の心を植え付ける筈が……たとえ到着に手間取っているにせよ、これでは不信感が醸成されるぞ)

 

 

 目論見通りに合戦が運ばず、顕家は陣中に戻って立腹していた。

 古典『太平記』によれば、利根川の戦いでは奥州軍の部井十郎と高木三郎が先陣を切った後、それを見て焦って上流の浅瀬へと駆けた斎藤別当と豊後次郎という兄弟の勇士たちが落命している。

 ここで顕家の執事にして軍師の役割を担う春日顕国が提言した。

 

 

「顕家卿。物見曰く、敵の足利軍八万余騎の総指揮は細川和氏(細川氏現当主)*1が担当しており、斯波家長の姿は見えないそうです。ここは根本から策を見直さねば、また先々の如く手痛い目に遭わされましょう」

 

 

「……仕方ない。新田軍をして入間川方面から威圧させよう」

 

 

(だが、細川和氏とて歴戦の名将。中先代の乱でも駿河国で軍功があったと聞く。少壮気鋭の斯波家長とは別の意味で厄介になるぞ)

 

 

 問題は他にもある。あまり悠長に時間を掛ければ、北関東における芳賀や佐竹といった北朝武将の脅威が再燃する恐れがあった。

 やむを得ず、顕家は次善策を採った。しかし、これが顕家本人の想像以上に功を奏した。足利軍が突如として崩壊したのである。

 

 

「顕家卿!敵は挟み撃ちされると恐れ慄き、逃走者が続出!総崩れを起こしております!追撃の御命を!この勢いに乗じ、一気に鎌倉を攻め落としましょう!あわよくば足利義詮(尊氏の一人息子)を捕縛できます!」

 

 

「……待て。何か可笑しい。恐慌状態に陥るのが早過ぎる」

 

 

 遮蔽物のない平地の戦で兵たちの恐慌度合いが一定ラインまで達すると脆く崩れ去るという理屈は天下の名将の北畠顕家も当然理解していたが、その到達スピードが不可解であった。まして敵将が経験豊富な細川和氏であれば、幾らか士気の立て直しが効く筈だ。

 敵が挟撃を受け即崩壊というシナリオは顕家からしても想定せざるところだったのだ。和氏本人か、その背後に居るであろう家長かは定かではないが、誘引による逆転狙いの計略を警戒すべきか。

 これ以上、顕家には敗戦も苦戦も許されない。一定期間内に確実な勝利を目指さなければ、後醍醐帝の要望に到底応えられまい。

 顕家は決断した。来年正月初めまでに()()()()()()()()十分と。

 

 

「深追い無用だ。これより武蔵国府に入り、盤石な態勢を整えてから鎌倉を攻める。一旦、相模国以西の様子も探り直さなければ」

 

 

「顕家卿、怪しき者を捕らえました!処分の御判断を仰ぎたく!」

 

 

「怪しき者?投降した敵兵ではなくか?」

 

 

「は!狐面を被った少年にございます!」

 

 

「!……ここへ連れて参るのだ」

 

 

(時行の隠れ家にそんな者が居たな。やっと接触を図りに来たか)

 

 

 (わざ)と捕縛されたにしては冷や汗を掻いている様子の風間玄蕃という名の忍びが高貴な顕家の前に引っ立てられて連れて来られる。

 放すよう配下らに告げる事も視野に入るシチュエーションだが、北条軍の遅参の戒めを示すため、顕家はそのまま話をし始めた。

 

 

「玄蕃とやら。時行はもう挙兵したのか?」

 

 

「……ああ、既に箱根で兵を挙げている」

 

 

「下賎な奴が!敬語を知らぬか!この御方をどなたと心得る!?」

 

 

「口を挟むな……で、何故に時行は姿を現さぬ?さては伊豆国から利根川南岸まで密かに兵たちを連れて参るのに難儀したか?」

 

 

「その通りだ。示し合わせた通りに試みたんだが……この数日の間に敵の南への警戒心が強くなっていた。あれじゃ相模国を横断して潜伏するのは無理だ。詳しくは俺の懐にある時行()からの書状に」

 

 

「ふむ……」

 

 

 顕家自ら玄蕃の懐から探り当てて取り出した書状にはまず時行の誠意溢れる謝罪の言葉があった。大体、顕家の予想通りである。

 ただ、読み進めていく内に顕家は目を見張った。本日の戦で抱えた謎が腑に落ちたのである。また、時行たちの機転に感心した。

 

 

「成る程、そういう事か。妙に敵の士気が容易く崩壊したと思っていたが、風間玄蕃(時行の忍)よ。汝が時行(主君)の命を受け、尾を引いていたか」

 

 

「ああ。敵兵に化けて奇襲があると吹聴した。ま、敵兵たちも開戦前から挟み撃ちにされたら絶対ヤベェとビビっていたが、入間川から別働隊を送り込む次善の策とやらと上手く相乗したみたいだ」

 

 

「……ただの偶然か?それとも汝の」

 

 

ウチ(北条軍)の執事が凄く有能でよ。旦那(顕家)の次善策を読み切っていた」

 

 

「「「!?」」」

 

 

 場に居る者たちの殆ど全員が玄蕃の言葉に驚き、疑念を抱いた。

 直義や家長など名門出身の鬼才たちならいざ知らず、未だ時行(北条家)に仕えている郎党にそれ程頭抜けた頭脳の持ち主が居るものなのか。

 しかし、顕家は興味を持ったようだ。挑発染みているとも取れる玄蕃の言葉が余程その琴線に触れたらしく、口角を上げている。

 

 

「面白い……ただ、開戦前に報せがなかったのは汝の怠慢だな?」

 

 

「潜入工作で手一杯になっちまってな……それに、極寒の川の寒さは俺にはキツ過ぎる。一応、無理すりゃ渡れなくも無かったが」

 

 

「ふ。余の軍では時行の忍びと言えど、無理をして貰うぞ。嫌なら逃げ出す事だ。だが、そうでないなら、余の言葉を伝えに走れ」

 

 

 奥州勢を主力とする南朝軍は三方から鎌倉目掛け攻め込んだ。

 東から名越切通、朝夷奈切通、巨福呂坂の三つの入り口に各部隊を送り込むのである。十二月下旬、顕家本隊は敵の総大将・斯波家長の入った()()()近くの朝夷奈切通に向けて、進軍を開始した。

 

 

 

 

 

〜2〜

 

 

 

 

 

 利根川合戦で大多数の逃走者が出た結果、鎌倉を拠点とする関東足利党は一万騎足らずまで大きく兵力を減らしていた。対策を話し合う軍議の席で、実質的な総責任者の家長の一時退却論ではなく、名目上の首領の義詮による迎撃優先論が優先され、現在に至る。

 詰まるところ、多勢に無勢。開戦前、一当てする事に拘った義詮の身柄を細川和氏(阿波守)に託して脱出させたは良いものの、駒不足の皺寄せが杉本寺もとい即席要塞・杉本城の総大将(斯波家長)を窮地に立たせた。

 

 

「هذه الأحجار لن تعمل!」

 

 

「ハハ。こりゃダメだ。東に上杉殿と長尾、西に重茂(高大和守)と桃井を配置したのが裏目に出た。南部に対抗できる猛者は此処には居ない」

 

 

(ま、本当はちゃんと想定通りなんだけど)

 

 

 東西の守り口の激戦で敵兵たちは目に見えて数を減らしていると報告があったものの、北の守りを自ら司り、顕家や春日、南部の相手を一手に引き受けた家長は防戦二日目にして敗戦目前だった。

 一方、顕家の顔色は晴れない。敗色濃厚の家長と違って、自身は有利な状況にも関わらずである。ただし、理由は明白であろう。

 

 

「家長め。少ない手数でよく此処まで粘っているものよ。大抵の武将なら半日足らず……いや、一瞬で音を上げているところだぞ」

 

 

「顕家卿、他の寄せ手は二軍共に苦戦中だと。西の伊達・北条連合軍は敵将・桃井の激烈な抵抗に遭い、兵力が半数以上も減っているようです。東の新田・宇都宮・結城連合軍も成果は芳しくなく」

 

 

「頑強だな。関東足利党は……特に桃井とやら。もし不本意にもこれから世の乱れが続けば、その名は天下に轟こう。二年以上不戦を続けた北条は兎も角、伊達は歴とした余の軍の戦闘指揮官だぞ」

 

 

 一週間以上前の利根川合戦で、目論見外れて北条時行軍の強さを自分の目で見る事が叶わず、顕家はかねてより考えていた軍の配置を再考した上で、今回の鎌倉攻めに臨まざるを得なくなっていた。

 負けの許されない一戦で、顕家自身や執事の春日の居る本隊の露払い役を現時点では実力の知れない外様武将でしかない北条時行に任せる訳には行かず、猛将の南部師行に委ねる事にしたのである。

 これに伴い、鎌倉の地形に詳しい筈の北条軍に西口からの寄せ手の先手を任せ、信頼に値する伊達に軍監がてら二万騎を預けて大将の任を与えた。また、残る新田、宇都宮、結城は武力と知力の纏まりの良さから東の寄せ手を担わせた。しかし、成果は今一つだ。

 よもや敵将の家長はこうした奥州軍の人事まで見通していたというのだろうか。実際、家長は報告を耳にし、満足に笑っている。

 

 

「桃井に対北条の秘密兵器を預けた甲斐があったな。北条軍を二千余騎にまで減らし、その勢いで後ろの伊達軍にも大損害を与えた。上杉殿も敵の名将たちに対し、得意の実験で素晴らしい戦果だ」

 

 

「はい。しかし、名越切通に硫黄の匂いがキツく残りませぬか?」

 

 

「今更そんな心配か?平次。ここから我らが実行する奸計に比べれば些末な話だ……もう十分だ。狼煙を上げてくれ。これ以上の継戦は却って我らに不利となり、今後に差し障る。仕上げに移ろう」

 

 

「……はい」

 

 

(直義様、御期待に添えず申し訳ありません。ですが、私にとって何より大事なのは貴方様なのです。その為なら、期待して頂いた私の将来、義詮様の健やかなる御成長、そして楽しかった鎌倉の土地や人民……全てを生け贄に捧げてでも、直義様の活路を開きます)

 

 

 かつて上杉憲顕は言った。直義は計算で尊氏と同じ事象を引き起こすと。それは今川範満(庇番衆寄騎)然り、人を魔道に堕とす上でも同様だ。

 雪がパラつく。しかし、家長にとっては天候すら予測可能な事象に過ぎず、目を瞑り感慨に浸ったのも在りし日を思っての事だ。

 麓から家長の様子を遠目に見て、顕家は不審に思った。そこへ報告が舞い込んだ。東の寄せ手が敵軍の防御の緩みを突き、一気に鎌倉へ乱入したものの、街中で騒ぎを起こし始めているようだと。

 

 

「な……結城にあれ程言い付けておいたにも関わらず、鎌倉で惨事を引き起こす気か!?老練な忠臣唯一の悪癖が斯くもあっさり」

 

 

「いえ、結城殿は止めに入っている側です。問題は……新田軍が」

 

 

「あの下郎ども……」

 

 

 古典『太平記』によれば、顕家軍は鎌倉の至る所で放火した。

 四年半前の幕府滅亡時の惨劇が官軍を自負する南朝勢によって再現されようとしている。当時の実行犯の数多くいる新田軍は言わずもがな、宗広(殺人鬼)を除く奥州兵たちも獣性を発揮する場に直面すれば、顕家(総大将)の高潔な志を一時放念し、欲望の限りを尽くしかねない。

 杉本城に掛かり切りの今、顕家に惨劇を止める手段は無かった。

 一方、山城の頂の家長はざわつく麓の様子を見てほくそ笑んだ。

 

 

「おやおや、顕家軍は思った通り、蛮族の集まりか」

 

 

「家長……何だ、その余裕は。まさか」

 

 

「何の事だか。顕家よ、お前たちを官軍と見做す民は今日限りで居なくなるだろう。民家を襲い、神社仏閣を焼失させて通った道には草木一本残らぬ悪魔の軍勢よ。汚名は百年経っても消えるまい」

 

 

「ッ……この下衆が!」

 

 

「顕家、下衆は貴様だ。蛮族と共に過ごして、穢れ切ったお前はたとえこの先、西進しようとも朝廷への参内すら許されまい。足利政権の戦力層の前にすり潰されるか、あの大塔宮(護良親王)よりも酷い形で粛清されるか。どちらにせよ、悲惨な末路がお前を待っていよう!」

 

 

「どこまでも無遠慮な……」

 

 

「さらばだ、顕家。あの世からお前の斜陽を楽しみに見ているぞ」

 

 

 上から火だるまになった岩が転がり落ちる。ぱらつく雪など諸共せずに赤々と燃えていた。顕家も南部も回避に専念する他ない。

 建武四年十二月下旬、斯波家長は杉本城で自害する。前線から姿を消して、家長が採った自害方法は後世メジャーになる切腹だ。

 

 

(いつか千寿丸が言っていたな。腹を召して首を斬らせるのが最も潔い散り方だろうと。全く、アイツの贈った進物のせいで、味方は異様な程、挟撃に敏感になった。だが、顕家のトドメは任せたぞ)

 

 

「家長様……本当によろしかったのですか」

 

 

「言うな、平次。これでやっと皆の待っている冥土に行けるんだ。齢十七で庇番の皆と再会できる。満足という他ない。渋川殿に鎌倉を犠牲にした事で怒られてしまうかもしれないが……岩松殿が取り成してくれるだろう。平次、貞泰、平内。他の皆も今まで苦労」

 

 

「「「は」」」

 

 

(渋川殿、岩松殿、石塔殿、今川殿、一色殿……僕も今参ります。上杉殿と吉良殿は策の通り、人事を尽くして直義様を御守りしてから来て頂くとして……西国武士の千寿丸には怨みあるのみだな)

 

 

 古典『太平記』によれば、杉本城で斯波家長に殉じた兵は三百騎に過ぎない。たったそれだけの兵で、家長は強敵(北畠顕家)に抗ったのだ。

 名門の尾張足利家嫡流筋に生まれ、足利の麒麟児と謳われた俊傑は鎌倉の王の器を認められながら、齢十七という若さで散った。

 確かに斯波家長という武将には父親の高経や後に生まれる弟の義将のような中央における目立った活躍は無かった。しかし、東国という広域で、北畠顕家という南朝最強格の武将と渡り合った年月こそが室町幕府の礎となった。それだけは間違いない話であろう。

 

 

 

 

〜3〜

 

 

 

 

 

 斯波家長と六角千寿丸は再従兄弟同士である。家長が死んだ頃、千寿丸は自軍の本拠地の佐々木城で仕上げに入った改修工事の監督をするべく、本来は戦時にのみ入る筈の城に身を置いていた。

 その世話をするのは便女の亜也子である。二年以上前の北条軍に身を置いていた当時と違い、如何にも京女といった佇まいだ。

 

 

「殿様……夜中、一人で碁を打って寝落ちしたの?」

 

 

「ん?ああ……顕家軍が鎌倉を陥したそうだ」

 

 

「へ?もう?昨日、利根川敗戦の報があったばかりじゃ」

 

 

 二年以上前、直義が出撃策を採って一石を投じたものの、未だに鎌倉が鉄壁の要塞であると見る向きは人々に根強く残っている。

 鎌倉北条氏でさえ、新田義貞たちの軍勢に迫られ、鎌倉に籠り始めて数日は保ったのだ。まして足利の麒麟児との呼び声高い斯波家長が籠城戦を開始すれば、一週間は保つと予測して然るべきだ。

 

 

「別口でな……亜也子」

 

 

「ん?」

 

 

「改めて聞く。心積りは出来ているな?」

 

 

「勿論。私は殿様の従順な使徒……どんな命令でもお受けするよ」

 

 

「そうか……なら雉が食べたい。伝えて来てくれまいか?お前も今の内に肉をたらふく食べておけ。暫く食べられなくなるからな」

 

 

(二十一世紀みたいなクリスマスチキンは無いが……雉を食べられるのなら言う事なしだ。そもそも今の世には古今東西で最も高貴な御方が降臨しておられる。毎日が尊氏様祭りのようなものだ)

 

 

 どこか千寿丸が気の抜けたまま構えていた一方、ずっと東の鎌倉では久々の鶴岡八幡宮から時行が憮然としたまま立ち竦んでいた。

 鎌倉炎上をはじめショッキングな出来事が多過ぎたのである。

 今なお逃若党に属する弧次郎も雫も耐えかねている様子だった。

 

 

「何で、何で鎌倉がまた」

 

 

「若……もう手を切りましょう。南朝軍に居続けたら、若の心身が保たない。顕家たちがまだマシな方って普通に終わってますよ」

 

 

(鎌倉だけじゃない。生きていた泰家様を人質にする策で、伊豆北条党の被害は甚大。泰家様も去り際の桃井に始末されて、兄様の気力は残り少ない。このままじゃ、兄様の精神が燃え尽きちゃう)

 

 

 南朝に降伏文書を送った際の溌剌とした顔が今や見る影もない。

 弧次郎が換言せずに居られなくなるのも無理ないことだった。

 元々、顕家の東国人を見下す言動に腹を立てていたのだ。このまま元々の敵であった南朝軍と手を組み続け、時行(主君)の気を病む事態がまた起こる位なら、以前までの潜伏生活の方がマシだと思えた。

 

 

「ありがとう弧次郎……確かに伊豆での生活は楽しかった。でも、前に大母上に申し上げた通り、このまま仇も取らず、安穏と暮らしていたら、私は死んだも同然なんだ。それに、亜也子や吹雪が気掛かりだ。雫の言う通り、神力に侵され続け、どうなっているか」

 

 

「近隣にある佐々木領の長尾郷に千寿丸のう、う「うんこ?」代弁ありがとう、玄蕃君「便だけに?」ごめん、黙って。千寿丸のそれが残されていました。調べたら案の定、悪しき神力が。あんな肥料(もの)で育てられた作物を食べ続けていたら、中毒症状が絶対に出る」

 

 

「でもよぉ、雫。そしたら譜代の六角党はどうなるんだ?」

 

 

「……望月家出身の巫女の亜也子ちゃんに近江三郎千寿丸の神力は相性が悪過ぎるの。確信できた。箱根竹下合戦の時には既に神力に侵され始めてた。今だともうかなり侵食されて、元の人格が残っているかも怪しい。もしかしたら清原信濃守より酷いかもしれない」

 

 

「あの悪徳国司か……懐かしい。だけど、それだとあの千寿丸も使い余してるんじゃ。千寿丸ってあれ絶対拘り強い類のガキだろ」

 

 

「分からない。西国に行って確かめてみない事には……」

 

 

 知力では玄蕃でも弧次郎でもなく雫こそが頼りだ。軍師だった吹雪に代わる知恵者として二年間、兵法の勉強に励んできた。勿論、諏訪大社に居た頃から培ってきた秘術使いとしても信頼が厚い。

 結局、時行は南朝軍に所属し続ける他にない。持明院統が足利家と接近した今、大覚寺統に縋ってこそ逆賊の汚名が消えるのだ。

 

 

「ここに居たか、時行。余に人探しさせるとは良い度胸だ」

 

 

「顕家卿……」

 

 

(流石は出しゃばり貴族、唐突に現れた)

 

 

「聞きたい事がある。汝は如何にして(吉野朝廷)に降伏文書を出した?」

 

 

 顕家の質問の含意が分からず、逃若党の面々は顔を見合わせた。

 しかし、調べ直せば一月で分かる筈の事だ。正直に言う他ない。

 

 

「伊豆に居られる大母上(覚海尼)がかねてより北朝と南朝の両方に伝手をお持ちの夢窓疎石様と親しい間柄なので、密書送付の仲介依頼を」

 

 

「やはりか……これで合点が行ったわ」

 

 

「え?」

 

 

「顕家の旦那、何に合点が行ったんだ?」

 

 

風間玄蕃(時行の忍)もまだこの話は知らぬか。捕縛者が証言するに開戦前、家長に不思議な進物が届けられておったらしい。両端を笹と山葵(ワサビ)漬けの紐で結われた袋に入った小豆だ。時行、意味が分かるか?」

 

 

 簡単な理屈である。時行は潜伏生活(伊豆国暮らし)で特産の山葵に親しんだ。

 その経験と信濃国で潜伏していた頃に養父(諏訪頼重)から仕込まれた教養センスを合わせれば、その進物の意図が手に取るように分かった。

 

 

「!……北畠勢と伊豆勢による挟み撃ち」

 

 

「その通りだ。最低限の見識はあるか……話を戻そう。進物の差出人は近江国守護、佐々木千寿丸。夢窓国師は奴の一族の出身だ」

 

 

「「「!?」」」

 

 

 鎌倉占拠後、顕家と時行たちは数日間の日々を当地で過ごした。

 彼らの再出発は翌建武五年(延元三年)一月二日。図らずも長期化した関東(斯波)()()()との戦で負ったダメージが癒えるのも程々に、これまでの遅れを取り戻すような強行軍が東海道各地の地頭たちを戦慄させた。

*1
細川頼之の伯父。この前年の西暦1336年、同族武将の顕氏と共に足利軍の四国平定に尽力。室町幕府では引付頭人や侍所頭人といった要職を歴任した。




以上、利根川の戦いから顕家軍の鎌倉占領までを原作と『太平記』などを考慮しながら自分なりに再構築して、一話に纏めました。
斯波家長は『逃げ若』の登場人物でも最上級に好きな武将なので、達成感がひとしおです。足利義詮の傀儡化を企んだように他の庇番構成員に負けず劣らず、狂気を持っているところが刺さります。
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