崇永記 作:三寸法師
〜1〜
一月下旬の夜、美濃国各地でそれぞれの部隊が連戦連勝を収めた顕家軍が、激戦を経て疲労困憊の配下たちの慰撫のため、祝勝の宴を催していた。本来交わる筈のない公家や奥州武士たちが和気藹々と楽しむその様子は、良くも悪くも尋常ならざる光景と言えた。
先月より南朝軍に参加している時行たちも、鎌倉や東海道における友軍の放火や略奪といった行動に反発こそすれ、顕家の計らいのお陰か、墨俣川での軍功のお陰か、何とか馴染もうとしていた。
「時行。今回の戦では良くぞ敵の第二陣、高重茂の軍を撃退した。鎌倉で桃井たちと戦って負った大打撃はもう心配ないようだな」
「顕家卿」
古典『太平記』によれば、顕家軍の諸将たちがそれぞれの持ち場で敵軍と争う間、時行は墨俣川で重茂軍三千騎と交戦に及んだ。
この時の北条時行軍の数は五千騎であるとも、二千騎であるとも言われる。いずれにせよ、この合戦で時行は勝利を収め、
「だが、この程度で満足して貰っては困るぞ。重茂の軍才は
「満足など……尊氏討伐が叶うまで、出来そうにありません」
「ふ。その意気だ。かつて
「!」
顕家の言葉を聞き、時行の表情が引き締まる。この時、顕家は数日の休息後、越前国の新田義貞軍と連携し、近江国へ入って京の尊氏を狙い、天下分け目の決戦に入るという青写真を描いていた。
そうなれば、佐々木惣領らしく近江国守護職を担う千寿丸と再び交戦する可能性は存分に有り得る。中先代の乱の最終日にその手に堕ちて、今はどのような状態かも不明な亜也子も戦場に姿を現すかもしれない。勿論、天候を自在に操る
「顕家卿は以前、
(三年前から千寿丸は猛将の域に手を掛けていた。軍勢にしても精鋭揃い。なのに、顕家卿は前の上洛戦で彼らを完膚なきまでに)
「ん?……そう言えば、汝と
「……はい」
「ふむ……良かろう。松姫、地図を持て。西国一帯の地図だ」
陣中で数多くの酔っ払いが出来上がる一方、顕家と時行は同じ地図を睨み、近江国における佐々木軍との交戦を皮切りに、最初の奥州軍上洛戦に関して認識を共有していく。それはもう詳らかに。
潜伏生活が続いていた弊害から、ただ漠然と顕家軍の戦績を認識していた時行にとって、青天の霹靂とも言える話の連続だった。
しかし、顕家の自慢話と取れなくもない語りが延々と続いた後で豊島河原合戦に話が及んだ時、時行の表情は驚きで一変した。
「あ、亜也子が護った!?顕家卿の矢から千寿丸を!?」
「そう。望月亜也子には
「ッ……」
改めて「六角党の便女」という今の亜也子に対する呼称を聞き時行はズキリと胸が痛むのを感じる。元々、箱根竹下合戦を前に六角軍の陣中に忍び込んだ玄蕃や、先月に鎌倉で交戦した敵将の桃井直常の口から、亜也子が
時行は思い出す。三年前の冬に生存を知った際、安堵すると同時に潜伏中の逃若党に戻らず、このまま千寿丸の元で巴御前の再来を目指すという亜也子の言葉を玄蕃から伝えられた時もそうだった。
もし当時、後醍醐政権と呉越同舟する
「どうした?隠し立てする由もあるまいに」
「顕家卿……望月亜也子は今でこそ六角佐々木家で働いているようですが、私の元配下です。弧次郎と並ぶ
「千寿丸に奪われたのか?汝の便女が」
「……はい」
中世で武装した女性戦闘員が敵に囚われれば、どのような末路が待っているか、知らない顕家や時行ではない。かつて木曽義仲が敗戦間際、巴御前を逃したのもそうした懸念があったからである。
顕家は無闇に時行を揶揄う真似をしなかった。自軍の松姫然り、元逃若党と云う亜也子然り、そうした危険と隣り合わせとなる従軍時の護衛の役目を請け負う存在に敬意を払っていたためである。
ただ、その一方である種の巡り合わせのようなものを顕家は感じていた。顕家の矢を防げる武者は天下でも極一握りだ。千寿丸や時行と同世代でそんな離れ技を成してしまった六角党の便女が元を辿れば、今は自軍に参加中の北条党の一員だったというのである。
「しかし、そうか……あの女弁慶、元は汝の配下であったか」
「お、女弁慶?」
「ああ。六角党の望月亜也子の噂は広がっている。巷でそのように呼ばれているそうだ。審美眼でも古今無双の余ですら、望月亜也子の齢を見誤った程の体躯の良さよ。川を挟んで言われて、なお疑ったわ。
「そうでしたか……良かった」
「ほう。良かったと申すか?汝の元に居た娘が敵の元で活躍して」
「はい。亜也子は昔からそれはもうよく食べ、大人より力持ちの娘だったんです。女弁慶と言われる程、肥えていたなら、六角党で彼女が慰み物扱いされず、満足できる量の食事が用意されて……あ」
(逆に言えば……亜也子はそれだけの量の神力を)
夢中になって元郎党の自慢話をし、異様な程の優しさを見せようとしていた時行は思い出した。鎌倉で自軍の軍師がした報告を。
神力を体内に蓄積させ続け、亜也子の心身は無事なのか。現在も千寿丸の元で便女の勤めをしているのだろうか。近江国入りがいよいよ現実味を帯びた今、改めて無性に気になった時行であった。
〜2〜
旗の紋から足利兵の加勢こそあれ、大半が近江国に根付く佐々木兵で構成されているだろう。直ぐ様、
「主力は近江国の武士たち……顕家卿。となれば」
「抵抗は凄まじかろうな。持てる力の半分も出さなかった土岐一族と異なり、佐々木一族は二年前の合戦の因縁がある。惣領の千寿丸は雪辱を晴らすため、あれだけの軍勢を集めたのだ。家長の謀略で各地に広がる余の軍の悪評への反発に加え、幼子のそうした心意気に応えんとする江州武士の気概があれば、容易には勝てるまい」
ここに来て、自害して果てた敵将の斯波家長の残した布石が身を結ぼうとしているのだと顕家は悟った。家長は自ら顕家の本隊を引き付けたまま、敢えて奥州軍の別働隊を鎌倉に通し、無体を働く暇を与えた。また、鎌倉の兵糧を焼き払い、顕家軍が征西中に現地補給せざるを得なくした。従軍者にとって最も大切なのは穀物だ。
鎌倉で兵たちに競って肉や魚を獲らせたのも焼石に水で、東海道で奥州武士たちは結城宗広も含め、凶行を働いている。既に噂は顕家軍の進行速度よりも早く伝わり、西国で反感が渦巻いていた。
「しかし、気になるのはあの布陣よ。背水の陣か?」
「されど、顕家卿。一部の僅かな隊だけ突出して効果があるとは」
「結城。汝も千寿丸の手癖は知っていよう。前の余との戦で佐々木荘を狩り場に火攻めを敢行した兵書読みよ。韓信にでも倣う腹か?あれ程の軍勢なれば、分家の知将・
「嚢沙背水の陣……韓信の奇策を此処で用いるとは」
「春日。あの千寿丸は半日足らずでこの軍を殲滅する気だろうか」
「恐らくは。敵は約五万騎なりと言えど、数では此方が有利に見えますが、消耗具合が雲泥の差。新手の向こうに対し、此方は土岐たちとの戦で、実質的な兵力は半分以下に。このまま戦えば……」
「分が悪い、か。まして敵には高師泰らが加勢しておるようだ」
顕家は平素より自信を漲らせる一方、心の内では自分が決して無敵の将という訳ではない事を承知している。以前の豊島河原合戦では先手の役割を果たせず、義貞ら他の武将たちに勝敗を委ねた。
斯波家長は既にこの世に無く、その父親の高経は北陸で新田義貞と交戦中だ。しかし、北朝にはまだまだ良将たちが控えている。
佐々木城での戦いと違い、六角軍は先代当主を除く全勢力を結集させている上、分家の京極軍、そして足利軍から師泰軍や細川軍が加勢している様子だ。顕家は悟った。数日前の青野原合戦で敵の各軍と戦い、疲れが取り切れていない今、彼らと戦えば負けると。
(だが、越前国の新田軍が南下すれば江州勢の多い
「顕家卿、敵軍から早馬が」
「何……?」
「御免!我が殿、佐々木千寿丸様よりの遣いで参った!これより始まるは天下分け目の大戦!なればこそ、開戦前に顕家卿とお茶をしたいと申されておる!語り尽くしてから戦端をと!……顕家卿におかれては是非とも千寿丸様の雅致を尊ぶ心にお応え願いたい!」
「「「!?」」」
この異様な申し入れのため、顕家軍は上から下に至るまで、誰もが驚いた。ただ、前方に目を遣ると、千寿丸の姿が確認できる。
護衛は二人のみだ。片方は仮面を付けた二刀の武者で、もう片方は婆娑羅の趣が感じられる長髪と装束で身を包んだ便女である。
前方で千寿丸が気ままに茶会の用意をする一方、顕家の傍らに馬を進めた時行の身体は震えている。顕家は事の次第を悟った。
「時行、行って来るが良い」
「……しかし」
「余はこれから斥候を放ち、敵の布陣に隠された真意を見極めなければならぬ。その時間を稼げ。余の代理をせよ。千寿丸と余では何もかもが釣り合わぬが、あくせくした小者の汝なら十分だろう」
「ッ……感謝します」
(二人とも……せめて話がしたい。北朝で上手くやれているのか。身体は大丈夫なのか。今、どんな気持ちなのか。そして、千寿丸。私は君と共に在りたかった。初めて会った時から……君は
軍師の雫が敵方に居る二人の様子に呆然として止める間もなく、時行は前へ前へと馬を進める。目を合わせた弧次郎と秕が主君の護衛をするべく、他の郎党たちを制止して、後ろに続いて行った。
北条時行と佐々木六角千寿丸。およそ二年半ぶりの再会である。
〜3〜
弧次郎はゴクリと唾を飲む。手に持っているのは唐物の器だ。
しかし、慄いていたのは器の高価の程度にではない。淹れられている茶の安全性に疑問を持っていたのだ。汗が額を伝っていく。
「どうした、祢津殿?俺の淹れた茶は飲めぬか」
「ああ、いや……千寿丸、茶葉はどうやって育てたんだ?」
「さぁ?一応、
「特産?栽培法?……いや、分かった。これを飲んだら、秕に渡せば良いんだよな?で、秕が飲んだら、次に若が……って寸法か」
「そう。それが茶会の流儀。ちょっとまだ早いかもだけど」
「何を!……チッ。心を落ち着けて飲めば良いんだろ!飲めば」
「そそ。グイッと行っちゃってよ。グイッと」
(いちいち腹の立つ野郎だな……刀も言葉も)
かつて主筋の諏訪頼重から「同世代随一の刀の使い手」とお墨付きを貰っていた弧次郎は意識している。自分が武力で超えて然るべき千寿丸の存在をだ。三年前、弧次郎は千寿丸を討ち損じている。
伊豆国の潜伏中に鍛錬する際、常に千寿丸が頭にあった。どうして昔与えられた
「千寿丸。君には聞きたい事が山ほどある」
「ああ、俺もだ。時行……例えば、伊達に両目が有るのかとか」
「「は?」」
「ほら、伊達行朝だよ。この間の戦で、小笠原軍と芳賀軍の連合部隊を撃退したっていうさ。貞宗殿と芳賀殿の連携の問題かとも思ったんだが、それでも
「じ、実力者で、正直少し影が薄いが……両目は揃ってる」
「……ああ、そう」
((なぜ露骨にガッカリする……?))
訳の分からない千寿丸の言動に時行も弧次郎も困惑する。秕のみは五郎正宗の元、彼に師事していた佐々木一族出身の職人の存在を知っていた事もあってか、惑わされず淡々とお茶を飲んでいた。
秕から時行に器が渡る。時行は気を取り直し、本題に入った。
「千寿丸、後ろの二人なんだが」
「ああ。趣味悪いって?そりゃ変な仮面とエセ婆娑羅だもんな」
「そうじゃない……二人とも黙ったままだが。二人にも茶を飲ませても良いんじゃないか?折角、こうして揃っているんだし……」
「時行。腰越で刃を交えた縁で忠告してやる。お前がこの二人とまともに意思疎通できると思わぬ事だ。そんな状態と違うんだよ」
(ま、戦えはするんだがな)
「な……何故だ?吹雪の方は今や高一族の者らしいが、亜也子は君の元で働いていた筈。どうしてそこまで酷い状態になったんだ」
瞬間、千寿丸の目が僅かに細くなる。時行の言葉からその情報網の具合を精査したのだ。京で貴族らと共存する武士特有の性だ。
それと同時に、千寿丸は口元に手をやり、爪を舌に押し当てる。
「どうして、ねぇ。心配するのは良いと思うけど」
「まさかとは思うが、変なものを摂らせたんじゃないだろうな?」
「変なもの、変なものか……違うな。割とあるあるの筈」
「じゃあ、何だ!答えろ、千寿!我が郎党に何をした!」
「答えろ?まだ
「ッ!」
(やはり……やはり千寿は!)
靴を履かせるという言い回しから時行は察した。千寿丸が自分たちを名家出身でありながら老人に靴を履かせたとされる張良に準えているという事を。股潜りの韓信に例えない点がまた小賢しい。
すなわち、鎌倉幕府が健在だった頃から、千寿丸は源氏こそ真に高貴な存在だと認め、北条氏に対して背面服従をしていたという宣言に他ならない。つまり、端から尊氏たちの同類だったのだと。
「時行、少しは自省してみろ。元主君の挙兵で亜也子たちの立場が悪くならないと思ったか?そんな許可なんて与える訳ないだろ」
「……本当にそれだけか?千寿」
「そだねー……さ、呑みなよ。茶には鎮静作用があるから」
(千寿丸の意思は固い。親王を顕家卿が奉じている今、千寿丸の気持ち次第で
言われた通り、時行は茶を口にする。一度は千寿丸たちが口にしたものなのだから、毒入りの心配は無い筈である。
悲しさや虚しさを抱えながら、時行は茶の喉越しを味わった。
「亀寿。お前は本当に可愛いヤツだな」
「え?」
「は?」
「まぁ」
突然の千寿丸の宣告に、時行たちは三者三様の反応を見せる。
千寿丸は微笑んだ。立ち上がり、背中を見せた。お開きなのか。
すかさず弧次郎は対処に迷うが、時行は首を振って静止する。
「弧次郎、本当に二人の立場が悪くなっているなら、勝って此方に戻って来て貰えば良い。追って治療を。そもそも千寿の護衛で来ていて立場が悪いなんて、ある筈ない。見栄を張っているだけだ」
「若……」
(旦那様は私と弧次郎殿でお守りできる。ただ、六角様が吹雪殿と亜也子殿に茶を飲む許しを終ぞ与えず、私のような下女に与えたのは本当に正宗様や
時行と弧次郎が話す一方、秕は自らの考えが正しかったのだろうかと疑問を感じる。また、秕は思い出した。数年前、亜也子特有の武器「四方獣」の追加の注文が正宗のところへ入っていた事を。
果たして亜也子はどう千寿丸に遇されているのか。秕は同じ女性として、また敵方の武者に囚われた事のある身として気になった。
「ああ、そうだ。お三方」
千寿丸は不意に思い出したという感じで振り返らずに言う。
あまりにも自然な口振りで、時行たちは反応するのが遅れた。
「舌を噛み切れ。ご自害召されよ」
突如、千寿丸の姿が御仏のように三人の瞳に写る。否応無しに時行たちの口が動いていた。それを確認するべく顔を動かした千寿丸の口から少しだけ血が漏れている。だが、致死量とは言い難い。
千寿丸が片手を上げると同時に、近くの護衛二人が尋常ならざる速度で動き出す。その間際、時行たちは地面に膝を突いていた。
あまりガチ勢という訳ではないのですが、関西で最も好きなラーメンチェーンの本店が滋賀県の野洲にあると知った時の驚きときたら筆舌に尽くし難く、思わぬところで南近江との縁を感じました。