崇永記 作:三寸法師
〜1〜
黒血川で顕家軍が撤退して以来、鬼神に喩えられた
ここ暫く、佐々木六角邸ではなく、生母の実家の
「先鋒は桃井殿、総大将は高師直殿。副将に師泰殿や師冬殿という布陣らしく。尊氏様が敵の奈良入りを知って驚かれたため、大軍勢を派遣するみたいですが……佐々木一族に大将のお鉢は回らず」
「そう気落ちされるな、千寿丸殿。近江国で敵方の活動が大なり小なり見られるとあらば、軽々にお声を掛けられないのでしょう」
ここ最近、夕食を我が外戚にして
今に限らず、
「聞くところでは、
「京極家は
「ええ。その辺はこちらで抜かりなく」
俺は二月六日の夕刻を思い返す。ここぞとばかりに近江国の覇権を奪いに来た道誉はあの後、まんまと陥れられた格好の俺に対して再三に亘り、あくまで一時的な緊急措置に過ぎないのだ等と弁解を申し入れて来たが、それをまともに信じられる程、能天気になった覚えはない。俺はこの雌伏の時を経て、必ず奪還する気でいる。
何を隠そう、文官たちへの武力的な後ろ盾になる選択肢も視野に入れた接近は、近江国の覇権奪還を見据えた施策の一つである。
栄えある足利幕府も、文官たち無くして成立し得ない。婆娑羅武将の師直に当主実弟の直義と対立する気があるなら、経験豊富な文官たちからの支持まで失って、独力で政権運営する見込みが実務的な問題で立たなくなるような致命的事態は避けておきたい筈だ。
幾ら高一族が代々足利家に仕えた文官の一族であろうと、天下というスケールで仕事し始めてまだ年月が浅い。必ず無理が出る。
「しかし、
「千寿丸殿。まずは蓋を開けてみましょう。宇都宮勢を先鋒に奈良を得た顕家軍に対し、桃井殿と高兄弟の連合軍が如何に戦うか」
後に聞いたところによれば、一時は吉野への撤退も考えたらしい顕家だったが、結城宗広の進言により、北進を決意したという。
建武五年二月二十八日、桃井直常を先鋒に高兄弟が中核を成した足利軍が、般若坂において顕家軍と戦い、見事に打ち破った。
〜2〜
高兄弟は中旬に南伊勢の櫛田川や雲津川において顕家軍を仕留め切れていなかっただけに感慨もひとしおだっただろう。とりわけ充実していたのは、軍功を挙げて堂々と京へ凱旋した師冬だった。
一時的に六角邸に戻り、俺は配下たちへの気まずさを程々に師冬を歓待する。師冬は今や
「
「さぁ?追って詳細を調べる事になるでしょうが、雫……時行殿の元に居た巫女がそういう存在のようです。当たり判定がどうのという理屈で、斬撃を無効化していました。おまけに東大寺の瓦を風で吹き飛ばし、奇襲した高軍に被害を。対策が必要かもしれません」
ここ暫く、
だが、話題を掻っ攫ったのは逃若党の肉食執事の雫であった。
どうやら
しかし、そうなると不思議なのは京における魅摩との双六勝負で雫が繰り出したディープキスだ。魅摩の集中力を阻害するまでもなく勝てたのではないかという疑惑が持ち上がる。さては単に時行と破廉恥な行為に及びたい一心だったのではないか。俺は訝しんだ。
「ふーむ。そいつはスッキリしないなぁ」
「黒血川ほどではありませんがね。そうだ、亜也子の消息について聞かれたので、正直に最近会っていないと答えておきましたよ」
「!……本当にそれだけか?」
「勘がよろしいようで。しっかり亜也子は貴方の妾になる気になっていると教え、加えて更に有る事無い事言って差し上げました」
「……だと思った」
この期に及び、師冬は我が六角家に
それだけなら悪い気はしないが、俺の品位について敵方からあらぬ誤解をされているのは釈然としない。幾ら相手が尊氏様に仇なす不躾で道理知らずの
「千寿丸殿。話はここからですよ。それを聞いてから、雫の神力が著しく翳りを見せたんです。やってみるものですね。北条党二千騎に続き、顕家軍も総崩れを引き起こし、散り散りになりました」
「……やっぱりアイツら二千騎だったんだ。いや、墨俣川で師久殿と戦った時の北条軍の兵力が、伊豆国で挙兵したばかりの頃と変わらない五千騎だって話があったもんだから、首を傾げてたのよ」
「その伊豆国で五千騎だというのも妙な話ですけどね。かつて天下を席巻した
「お。師冬殿、中先代って禁句だからな?尊氏様の前では」
「存じてますよ。
「やはり?内々に聞いた話、尊氏様に援助を受けていた公家が口を滑らせ、手討ちにされたらしい。師直殿らが隠蔽したらしいが」
「よくそれを言いますね?情報網の示唆じゃないですか」
「今更だろ?師冬殿には……しかし、分からん。尊氏様がどうして
顕家は市井で恐るるに足らずと侮られ始めていたものの、討伐を買って出る武将が
しかし、時行はどうか。諏訪頼重や北条泰時に担がれ、幾万の軍勢を動かしたのも今は昔である。とても尊氏様と比較になるとは思えない。強いて言うなら差し詰め、シリウスと豆電球であろう。
黒血川で俺が真っ先に潰して見せたように、乱戦であれば十分に警戒すべき不確定要素になり得るが、現在は顕家軍の一部将に過ぎない
「思いますに……"中先代"という呼称に手掛かりがあるかと」
「ッ……曲がりなりにもアイツは時代の狭間の主役であったと認めてしまう事になるのか。その呼び方を使うと。それで尊氏様は」
「ええ。今の時代の尊氏様と時代の狭間の北条時行で、あたかも同等に並べられてしまうのは屈辱なのでしょう。いえ、もしかするともっと酷な話やも。
「あったな、そんなの……時行なァ。どう処すべきか」
単なる北条の残党だからという問題ではあるまい。何せ尊氏様は未だに
だが、いずれにせよ時行は死ななければならない。尊氏様の勘気を被ってしまったからだ。とはいえ、無理に殺しに掛かるべきかというと、案外そうとも言い切れない。吉野朝廷が過去を蒸し返し、勝手に粛清してくれるのではないかという淡い期待があるのだ。
「敵の軍が吉野に逃げたと噂で聞いたが……時行も同様だろうか」
「どうでしょうね。顕家たちは現在、消息不明。天狗衆が探りを入れている筈ですが、続報は私も聞いていません。ただ、顕家の本軍までもが吉野に逃れている可能性は存外高くないかと。足利政権に吉野総攻撃の契機を与える危険を顕家が知らぬ筈がありません」
「ふむ……となると我が南近江を狙うか、それとも……」
何かしらの起死回生の一手が顕家にあるのではないかという警戒を胸に秘め、俺は相変わらず京で悶々とした日々を送っていた。
そうして迎えた三月九日。雨中の京に激震が走った。
敗残兵たちが雨に紛れて帰京する。軍の将は
「あ、顕氏殿。な、何だかんだ実力者の貴方が斯くもこっ酷く」
「ブ、ブヒヒヒヒ……豚パイぞ。六角殿」
「えぇ……」
豚パイって何だよと思いながら、俺は敗軍の将と化した顕氏の姿に憐憫の情を持った。細川顕氏は確かに足利一門の武将であるが、庶流も庶流だ。実力を認められなければ、手にした河内国や和泉国の守護職もあっさり剥奪されるに違いない。ましてこの間、顕氏は楠木軍の残党に苦戦したばかりだ。代わる守護は一体誰なのか。
しかし、こうした考えは取り越し苦労に過ぎなかった。黒血川における些事で俺が失権していた一方で、顕氏の地位は据え置きだったのだ。当然、俺は納得いかない。急遽直義の肝煎りで設けられた東寺の軍営に顔を出しつつ、俺は表情を取り繕い切れずに居た。
「師直。事態は以前の想定より遥かに深刻だ。淀川沿いで京攻めの足掛かりとなる天王寺を容易く
「弟殿、落ち着かれよ。遺憾にも方々で弱将だと噂されている弟殿が前線へ赴けば、皆が不安を覚え、逆効果です。井出沢の合戦をお忘れか?あの時のように敵へ寝返る
「責任か……責任で言うなら、師直。桃井軍への恩賞は今どうなっている?彼らが未だ恩賞手形を得られていないせいで、敵を討ちに参ろうと意気込む武将が一向に現れぬ。そうではないか?師直」
「……弟殿は
足利政権の柱の二人による口論に飽き、俺は密かに退室する。
このまま東寺の軍営に居ても仕方ないと思ったのだ。そこへ俺の様子に気づいた
「千寿丸殿、聞かずとも良いのか?巻き返しの好機やも」
「……今の私の手元に動かせる軍勢はありません。近江勢に征西させる訳にも参りませぬので。もう疲れました。京に次弟の千金丸を呼んで足利政権への
「石山寺?近江国の?……まさか、千寿丸殿」
「ご安心を。今が俗世を捨てる時機でない事は私もよく分かっております。石山寺は紫式部も参った場所。あそこなら賊滅祈願にピッタリでしょう。その祈願の功を以て、復権を狙おうと存じます」
よもや尊氏様が幕府を開闢させる年にこのような事になるとは誰が想像できただろう。本当は軍勢を率い、顕家軍を滅ぼしたい。
だが、師直も直義も頼りにならない。抜群の弓の腕を持つ顕家との戦で尊氏様に出馬を願える由もなく、
なるようになれ。俺は諦観の境地に至り、東寺から姿を消した。
〜3〜
何十日が経っても慣れない。「全金属製千寿丸」を見て、私は溜め息を吐いた。話が遠過ぎる。まず、どう世話しろと言うのか。
顕家軍再遠征の機に乗じ、あっさり惣領家の六角家に代わる近江国の主格に収まった
「魅摩ぁ〜。お願いだから機嫌を直してくれよぉ」
「知らないね。私の従軍が必要なら三郎に許可を貰ってよ」
案の定、精々が
ただ、それでは
「
「はン。どうだか。三郎を嵌めるようにして実権奪っておいてさ」
「魅摩。あれは近江国の支配権が
確かに以前、
どこまで信じて良いものか。安易に判断できない。だが、あまり強情に突っぱねるのも却って良くない。元来の
適当なところで切り上げ、近江国守護職は六角佐々木家が代々継承するという慣例を正式な新幕府の開闢前に崩せただけでも十分な収穫だと思っていても可笑しくない。ここが安牌な落とし所か。
「口約束じゃねぇ……せめて文書に残して貰わないとさ」
「ほら、ちゃんと用意もある。だから、魅摩。ね?」
「"ね?"じゃないんだわ」
渋々、私は
護衛には目賀田氏の将兵を選んだ。六角家にも京極家にも出仕者を出している佐々木氏被官の一族で、最も信用を置けるためだ。
四月、先々月にも
「道誉様、六角家重臣の馬淵隊が抜け駆けを!」
「……して戦況は?」
「そのまま南朝軍を押し破り、今にも城を陥落させる勢いです!」
「ほう。
「はい!父上!……参るぞ、魅摩殿」
「……はいよ」
結局、足利軍の腹黒策士と名高い筈の
どうあれ、私のやるべき仕事は変わらない。天賦の素質を持ちながら繊細な気性の三郎を補うだけだ。神力の粒に意識を傾ける。
この鮎河城再炎上を以て、ここ二ヶ月続いた近江国における南朝軍の反抗は一旦、落ち着いた。同じく畿内各地でも、足利家執事の高師直の東奔西走で、顕家軍の活動が下火になろうとしている。
力無く落ちる燃え滓が、決戦の日は遠くないと告げた気がした。
なお、斯波家兼は晩年に奥州探題に任命され、奥州斯波氏の祖となった。子の一人に最上氏初代当主の兼頼がいる。
これを言い換えると、斯波