崇永記   作:三寸法師

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〜1〜

 

 

 延元三年(建武五年)六月を迎えて、男山における春日顕国(少将)の南朝軍と高師直の北朝軍の攻防戦は激しさを増していた。先月下旬に待ち望んでいた筈の本隊(北畠顕家軍)が壊滅し、いつ士気が乱れても可笑しくない状況だ。

 それでも北畠家執事の顕国(春日少将)は、主君(北畠顕家)の残党軍の一部が自陣へ合流する動きを受け入れ、陣容を再整備して捲土重来を期している。

 

 

「駿河四郎君、ご苦労。石津の疲労はもう心配ないようだね」

 

 

「はい!我ら北条党はまだまだ戦えます。どうか次の御指示を」

 

 

「大丈夫。次は徳寿丸君に行って貰おう。戦いたくてウズウズしているだろう?善法寺口に赴いて、敵軍と一合戦してくると良い」

 

 

「え!?良いの!?」

 

 

「うん。小早川軍が来ているようだからね。ただし、敵の援軍に注意するんだ。お付きの郎党の進言があったら素直に聞くんだよ?」

 

 

「はーい!ひゃっほう!やったぁ!」

 

 

 生前の顕家(規格外貴族)にもタメ口を使っていた徳寿丸が今更、北畠家執事の春日顕国(少将)に遠慮する筈がなかった。ペコペコ謝り倒すような新田家郎党の仕草に対し、ちょび髭執事の顕国(春日少将)は掌を示して制止した。

 その代わり、顕国(春日少将)は示した。改めて注意すべき北朝武将の名を。

 既に夜半に捕らえた敵兵の口より、警戒すべき驍将・桃井直常が若狭国守護に任じられ、包囲網から姿を消していたという情報を得ている。ただし、足利軍の最大の強みは生前の護良親王(大塔宮)義弟(北畠顕家)に教えた通り、厚い戦力層にある。赤松軍や仁木軍は包囲網に参加していないようだが、足利氏は他にも有力武将を山ほど抱えている。

 こうした武将を先日死んだ堀口貞満の長男で、徳寿丸の側付きでもある新田家郎党(堀口義満)に今一度共有し、有事の対策をしておくのだ

 

 

「高一族は今更言うまでもあるまい。師直、師泰、師冬……どれも敵の誇る良将だ。今の徳寿丸君では助けが無いと一蹴されかねないからね。ただ、武田信武(式部大夫)と細川顕氏(兵部少輔)。この両名も警戒が必要だ」

 

 

「!……存じております。武田信武(式部大夫)は二年前、この男山に籠って、後醍醐軍の三傑(義貞様、顕家卿、楠木殿)相手に時間を稼いだ諸侯。細川顕氏(兵部少輔)はついこの間の石津の戦で、御味方(名和軍)を大破させた勇将。成る程、確かに危ない」

 

 

「うん。勿論、徳寿丸君が御父君(義貞殿)のような天下に誇れる闘将になるつもりなら、武田信武(式部大夫)にしろ、細川顕氏(兵部少輔)にしろ、いずれ越えるべき壁だよ。既に徳寿丸君は石津で弧次郎君たちと協力して、師泰を負傷させたからね。挑ませて更に経験を積ませたいところだけれど、万一を防ぐためには、君たち新田家郎党たちの助力が不可欠だ」

 

 

「お言葉、感謝します。よもや南朝貴族の春日卿が我が若殿(徳寿丸様)の御成長に斯くも気を配ってくださるとは。我が殿(義貞様)もきっとお喜びに」

 

 

 明らかにその言葉の節から新田家の南朝に対する不信感が漏れ出ている。しかし、二年前の後醍醐天皇の挙動を鑑みればどうか。

 当時、堀口貞満が必死に止めていなければ、後醍醐の帝はそのまま新田義貞たちを見捨て、勝手に足利家と和睦していただろう。

 故に顕国(春日少将)も徒らに咎めない。未来のために逆をすべきと考えた。

 

 

「ふふ。徳寿丸君は新田家だけでなく、南朝の宝でもある。その成長は帝も望んでおいでの筈。何より徳寿丸君は定期的に前線に出しておかないと、防衛戦にきっと息を詰まらせてしまうだろう?」

 

 

(本当のところ、徳寿丸君が奥でジッとしてくれた方が総指揮官としては助かるんだが……顕家卿亡き今、必勝と育成の両立は重要な課題だ。幸い、徳寿丸君は既に猛将の風格を備えながらまだ素材。育て甲斐がある。経験を積めば、父親(新田義貞)超えも有るかもしれない)

 

 

「ははッ。仰せの通り……春日卿は何もかも見通しておられる」

 

 

「……近くにいる味方の心も分からないようでは、遠くにいる味方や敵の心はもっと読めないのが道理だからね。軍師の嗜みだよ」

 

 

 恐縮しきりの新田家郎党に対し、顕国(春日少将)はちょび髭に手を触れながら解説する。命懸けで仕えた若き主君(北畠顕家)だけでなく、少し前まで後進の執事と目を掛けていた逃若党の雫もまた、敵軍の魔の手に掛かっていた。だが、言いようのない寂寥感に浸っている場合に非ず。

 当初の予定ではかつての軍神(楠木正成)の如く、春日軍の寡兵のみで敵の大軍を引き付け、主君・北畠顕家の本隊立て直しを何年要そうとも待つ気でいた。そこに本隊(顕家軍)惨敗が知らされ、加えて数千騎もの一部敗残兵の合流である。年内に援軍が来なければ、餓死を免れない。

 つまり、顕国(春日少将)ら南朝方の運命は北陸における義貞勢(新田軍本隊)次第なのだ。

 春日軍は納豆顔負けの粘りで、熾烈な防御戦を展開し続ける。

 

 

(雫君、君の遺した策。この春日顕国が実現させるよ)

 

 

「春日卿!弧次郎からの報せを持ってきた!」

 

 

「ッ!……夏君、首尾はどうだったかな?」

 

 

「上々だ。ただ、一応条件があるらしい。詳しくはこの書状に」

 

 

 男山に入った軍勢の内には、石津の戦いで胴体を貫かれる重傷を負った時行(中先代の)友時(仲時遺児)を除き、北条党が少なからず居た。勿論、弧次郎や夏などの逃若党の面々も含まれる。ただ、顕国(春日少将)は非源氏の少年少女を直接防衛戦に用いるのでなく、別の任務を言い付けていた。

 顕国(春日少将)は一通り書状に目を通す。癖につき、髭に手が伸びていた。

 

 

 

 

 

〜2〜

 

 

 

 

 

 闘将・新田義貞は未だ越前国である。今日も今日とて、頭上に例のマーク(戦場のクエスチョン)を浮かべていた。昨年の嫡男(義顕)皇太子(恒良親王)たちを失う大敗を乗り越え、今春(二月中旬)の鯖江合戦で名将・足利(斯波)高経(尾張守)に勝利してから早くも百日が経とうとしている。しかし、以後の戦果はゼロに等しい。

 仮にも奥州(北畠)軍の西国侵入という絶好機を活かせる環境は整っているのだ。現に周辺の南朝勢力は瞬く間に回復し、兵力差は逆転。

 本格的な上洛を視野に入れるべく、義貞(新田左中将)たちが越前国を空けるや否やの足利(斯波)高経(尾張守)──足利の麒麟児(故・斯波家長)の父親というだけあって、並の軍師より遥かに頭がキレる──による再度の勢力挽回及び後方襲撃というシナリオの芽を完全に潰すため、同国における足利(北朝)勢力の完全な殲滅を目指していた。しかし、これこそが落とし穴であった。

 

 

「三連敗だと?何故だ?兵力不足の不安は既に消えた筈なのに」

 

 

「殿……流石に敵を小勢と侮り過ぎたかと。幾ら軍を率いるのが当代の英傑と言えども、血気に逸っては足元を掬われる危険が大きくなりますぞ。とりわけ敵将・尾張守(斯波高経)は知略に頼る類の武将。小勢の方が逆に使える戦術も多彩で、警戒を要します。後漢の光武帝も申しました。戦では大敵を侮り、小敵を恐れるのが道理であると」

 

 

「後漢?光武帝?俺は日の本の武将だぞ。何の関係がある?」

 

 

「……」

 

 

(バカ殿〜!こんな調子では奥州軍との連携は土台無理だ!)

 

 

 結局、義貞(新田左中将)は地盤の足固めを上洛より優先した結果、足踏みし続けたまま、五月二十二日という石津・阿倍野合戦による顕家(規格外貴族)敗死のXデーを迎え、気付けば打倒足利の絶好機を逸する形となった。

 果たして新田義貞(左中将)は名将と言えるのか。鎌倉幕府(北条政権)滅亡の殊勲や建武の乱での足利軍との度重なる戦闘と輝かしい面も多かった反面、赤松円心らに見事防衛されたり足利(斯波)高経(尾張守)に手こずらされたりで度々時機を逸した事を根拠に、凡将と見做す意見も確かに存在した。

 

 

「畑殿、この先我らはどうなってしまうのだろうな。確かに殿は獅子と呼ぶに足る強さをお持ちだ。だが、あの教養すらも疑われるバカ殿振りでは、天下を取っても公家たちから侮られ、義仲公の二の舞になってしまう。先日亡くなられた顕家卿も生前、無茶な北陸行きを勧めるバカ殿の書状に憤慨しておられたらしいではないか」

 

 

「額田殿。たとえ顕家卿との合流が叶わなくなろうと、吉野朝廷は当国(越前国)での大殿の奮戦を無視できまい。こう考えられよ。大殿がこの地に居るからこそ、高経(斯波尾張守)の如き名将が手一杯になり、足利軍の戦力は半減。それでも顕家卿が草の露となられたのは、聖運が尽きた所為に他ならん。だが、禍福は糾える縄の如し。いずれ好転する」

 

 

「だと良いが……顕家卿戦死で足利(敵方)は人事を見直す筈だ。禍福は糾える縄の如し。この格言は我らだけでなく、敵にも当て嵌ろう」

 

 

(顕家卿が亡くなられた今、額田殿に限らず、軍中では厭戦気分が漂い始めている。現新田家執事の長門守(船田経政)殿も斯波(尾張)軍に敗れ、大殿を除いて引き締め直せるのは弟君の右衛門佐(脇屋義助)様を置いて他に居るまい。敵の増援の可能性も含め、早めに御相談しておきたいところだ)

 

 

 チャンスを逃し続ければ、逆にピンチの足音が聞こえてくるのは勝負事の常識だ。特に新田軍ともなれば、敵のマークも厳しい。

 この五月に外様筆頭武将の土岐頼貞(頼遠の父)、それまで男山(春日軍)攻略に励み続けた驍将・桃井直常が続々と北陸に派遣された人事を踏まえれば、新田義貞(左中将)は依然として足利氏から警戒されるに足る存在だった。

 丁度、渦中の越前国の隣にある若狭国では、新守護の桃井直常と前任者で系図上は家長(斯波陸奥守)の叔父の家兼(斯波伊予守)による会談が行われている。

 

 

伊予守(斯波家兼)殿、悪く思わねェでくだせぇ。俺は甥御の家長サマに目を掛けて頂いて今があるって重々承知してやす。尾張足利家の利権を奪おうだなんてバカな事は思っちゃいませんぜ。今回の人事は男山(春日軍戦)で更なる軍功を狙う執事殿(高師直)の横槍に直義サマが押し切られ、尊氏サマがあっさり呑まれちまったという次第。信じて頂けやすか?」

 

 

「……桃井殿は任侠者と我が甥(家長殿)より聞いた覚えがある。信じよう。それに、執事(師直)の考えは明々白々だ。単に桃井殿を体よく地方の戦に従事させ、男山奪還の手柄を独占せむというのみではなかろう」

 

 

「と申されやすと?」

 

 

「分かっておられよう。若狭国守護を巡って、桃井殿と我ら尾張足利家を争わせ、直義様の派閥を乱そうという腹だ。何、(尾張守)には早い内に私の方から説明しておく。京極家が一時守護を得た時も相当御冠だったが、そもそも守護とは本来、時節を鑑みながら適任者を定期的に入れ替え続けるべきもの。必ず納得させると約束しよう」

 

 

「へい!ありがとうごぜいやす。俺は俺なりに若狭国以外に狙える任国が。年内には若狭国守護を返上するとお約束致しやしょう」

 

 

 この桃井直常の言葉通り、若狭国守護の担当者は同年九月になると再び変更される。ただし、後任は返上先の幕府の判断に委ねられるものであり、高一族の大高重成がその座に就いた。これを知った高経(斯波尾張守)の心情は如何ばかりであっただろうか。翌年春になると自らの(斯波家)に守護職を奪還するが、その三年後には再び大高重成が若狭国守護となる。このように、近江国のような古来特定氏族が継承していた場合の配慮はあったものの、国の守護は適宜入れ替えられた。

 閑話休題。桃井直常の若狭国守護就任に伴い、尾張足利家こと斯波氏は越前国の経営により一層注力する運びとなったのである。

 

 

「さ、桃井殿。呑もうではないか。目下の天下の情勢ばかり語るのではなく、甥の死に様について桃井殿の口から詳しく聞きたい」

 

 

「喜んで!」

 

 

 驍将・桃井直常は知らない。斯波氏とは今後、幾度も共闘する機会を得るのだが、時代が下ると、この先新たに生まれる元上司(斯波家長)の実弟にいずれ敗北し、息子が討ち取られる運命にあるという事を。

 ただし、今は新たな時代に進むためのまさに過渡期で、敵はあくまで外部の新田軍だ。これまで北条軍や足利軍と戦闘を繰り広げ、天下に武名を轟かせた存在である。転んでもタダでは転ばない。

 

 

「大変です!御両人!注進、急ぎの注進が参りました!」

 

 

「「!?」」

 

 

「え、越前国の敵に援軍!かなりの大軍勢が北方より参ると!」

 

 

 北陸における足利軍と新田軍の勢力のバランスが遂に崩れようとしている。顕家死後のこの局面で新田軍に北方……越後国から新たに援軍が加わると足利政権はどこまで想定できていただろうか。

 越中国・加賀国双方の守護勢に連勝し、加勢部隊は十数日間もの今湊宿での逗留を経て、越前国に入り、義貞(新田左中将)の本軍と合流した。

 

 

 

 

 

〜3〜

 

 

 

 

 

 祢津弧次郎の気は晴れない。東海道でも奥州(北畠顕家)軍に対して思った事だったが、南朝勢力が果たして主君(北条時行)と手を組むに値する存在なのだろうかと疑問を持ったのである。その原因は北陸道での新田軍の振る舞いにあった。古典『太平記』には新田軍増援部隊が立ち寄り先の今湊を兵糧調達のための拠点に据え、金剱宮や白山比咩神社をはじめとする神社仏閣に押し入り、物品を奪ったと記されている。

 諏訪神党の一員だった弧次郎にとって受け入れ難い結果だった。

 

 

「そう気に病むなよ、弧次郎。俺たちは無位無官。本来、新田家郎党の彼らを従えられる立場じゃねぇんだ。脇屋の旦那は気苦労を掛けた詫びだって、お前に修理亮、しかも俺に至っては、五年前の討幕運動の時みたく、大勢の武士たちを集めて増援軍(二万騎)結成(集結)させた夏の功労も併せ、信濃守に推薦すると言ってたじゃねぇか。先々を見据えたら、かなり良い話だと思うぜ?今のご時世、南朝の官位だけあっても無給同然だが、権威を笠に人を集められるようになる」

 

 

「……玄蕃。お前も権力の魔に取り憑かれた口かよ。熊野で悪いものでも食ったのか?それとも、あれか?千寿丸の野郎の神力で」

 

 

「バカ言え、弧次郎。俺は正気だ。堺で千寿丸の手下に一杯食わされただけじゃねぇ。前々から思ってたのさ。何か大きな事をやろうと思ったら、その分だけ人手が要る。官位はそのための道具だ」

 

 

「あのなぁ……俺らが官位当てにしても仕方ねェだろ。脇屋たちは詫び代わりだと()()()()()()が、若に何の音沙汰もないままなら、意味が無いぜ?大体、本当に人が集まるのかねェ。公家でも武家でもない信濃守に。清原だって腐っても公家の端くれだったろ?」

 

 

(推薦つったってどうせ南朝が受け入れる訳がねェ。若は後醍醐の帝の不興を買って、結局相模守にはなれずに無位無官。友時のヤツにしたって、生殖機能喪失のお悔やみとやらで左馬助らしいのに。空手形を押し付ける暇があるなら早く出征して貰いたいもんだ)

 

 

 現在、元仲間との戦いで負傷した弧次郎や療養から復帰して北上した玄蕃は、越前国の新田軍に合流していた。春日顕国(男山軍総大将)の肝煎りで徳寿丸たちの代理として一旦、越後国まで行った上で、南朝復活や新田家中興のためだと人々(地元武士たち)を掻き集め、街道(北陸道)を上ったのである。

 古典『太平記』は、北陸からやって来た新田軍増援部隊の参加者の具体例に風間信濃守や祢津掃部亮といった名前を挙げている。

 何はともあれ、今や新田軍の兵力は三万騎に膨れ上がっていた。

 

 

「弧次郎!玄蕃!先に脇屋義助(新田家当主実弟)が出した出兵条件、予め徳寿丸を男山から安全地帯に脱出させる手筈は整えられた!その後は!?」

 

 

「城攻めは中止だ。ただ、何でも足利(斯波)高経(尾張守)、あの家長(斯波孫二郎)の親父が手強いらしい。顕家卿の時は出て来なかった土岐の老当主(伯耆入道頼貞)も今回は援軍に来てるから、全勢力での上洛は幾ら何でも危険過ぎて、到底無理だとさ。それで義貞は残って脇屋が二万騎で南下するんだとよ」

 

 

「義助の旦那、どう見ても後醍醐の帝に不信感を持っているみたいだったな。兄の義貞の方は能天気だったが、弟の義助が我が甥(徳寿丸)を人質に呼び付けるとは何事かって御立腹だ。まぁ、無理もねぇか」

 

 

「……仕方ないだろう、玄蕃。二年前、後醍醐の帝は新田家を見殺しにして、独断で(足利)と講和しようとした。詫びに貰った三種の神器は吉野遷幸後、偽物認定。ここまでの道具扱い、ある意味天狗衆より酷いかもしれない。金ヶ崎の敗戦で親王たちが犠牲になった借りを清算するため、仕方なく従っている者も少なからず居る筈だ」

 

 

「夏、その件は俺も新田家郎党が愚痴っているのを聞いた。だが、若は多分これから先もずっと南朝武将だ。南朝から切り捨てられない限りな。玄蕃もそうだが、軽々しく批判するなよ。綸旨を直接与えられたみたいだが、南朝での若の立場は決して安泰じゃねェ」

 

 

(中央に近いと……内紛を茶化せる東国の土壌が懐かしくなる)

 

 

 弧次郎は思う。新田家は官位も兵力も、その根源となる地盤もあるだけまだマシだ。今後も足利氏の対抗勢力筆頭として長きに亘って南朝に与し続けるだろう。源氏の嫡流筋の誇りを胸に秘めて。

 対して自らの主君・北条時行はどうか。小勢力として独立性の高い形での存続を許される綸旨を貰ったらしいが、如何せん新田家などに比べれば、相当ひ弱だ。元土豪の楠木家とどちらがマシか。

 到底長続きするとは思えない。弧次郎や時行たちと言うより長崎駿河四郎ら伊豆北条党の中堅メンバーたちが現役の間に、大業を成就させなければならない。しかし、足利氏の勢力は拡充していくばかりだ。今後どう戦略を練るべきか、武将(逃若党副将)として焦りを覚えた。

 

 

「ああ、済まない。出過ぎた事を言った」

 

 

「北朝もダメ。南朝も……おっと言ってはいけないんだった」

 

 

「俺だって思うところはあるぜ、二人とも。あの日、顕家卿が討たれていなければ……何てな。後醍醐の帝は今も吉野で御壮健だ」

 

 

 七月一日、脇屋義助軍二万余騎が越前国府を発ち、隣国(若狭国)にある敦賀港へ向かった。既に桃井直常が北朝の若狭国守護に任じられて久しかったが、特に目ぼしい抵抗の兆しはない。敢えて通過させて京の軍勢と挟撃する腹かと不気味に思い、義助は進軍を躊躇した。

 だが、無為の駐屯は士気の低下を招こう。義助は口実を欲した。

 その意図を汲むのが現新田家執事・船田経政である。かつての竹下の合戦の教訓から、今回は将の枚数が大幅に増員されていた。

 

 

「夏と言ったか。一つ頼まれてくれぬか?」

 

 

「!……仰ってください」

 

 

「敵の動きが気になる。予め先行し、噂を広めて貰いたい。噂への反応から、敵の真意を炙り出す。ここに以前言った、南朝への官爵推薦の書状がある。これを預けよう。大事に持っておくと良い」

 

 

「っ……は!」

 

 

(中核部(逃若党)はまだまだ垢抜けない子供らの集まりらしいが、北条軍は腐っても得宗家の残党だ。覇業達成後、大覚寺統(後醍醐の帝)殿(義貞様)たちを排除するための駒となり得ようぞ。今の内にこうして郎党に楔を。報告によらば、中先代(北条時行)は今なお地下人。配下に官位の話あらば、必ずや序列が乱れる。何も時行まで推薦すると明言した覚えは更々ない)

 

 

 比叡山も男山も要害の地である。延暦寺、春日軍、そして新田軍の三つの連携で南朝が覇権を狙う話が広まっても、京に近い両要害が猛攻を受けたところで、急に落とされる事はよもやあるまい。

 それより、この大戦略を喧伝して京を揺るがし、足利政権の地盤を脆弱にさせた上で、周辺豪族たちの賛同を得て、更なる大軍を集めて京を攻める。この時、脇屋軍は敵将(師直)の決心を甘く見ていた。

 

 

「脇屋様。その話なら既に広まっているようです」

 

 

「何?……長門守(船田経政)、これをどう考える?」

 

 

「思うに比叡山は今や足利氏に利権を保証され、既に一枚岩では無くなっているのでしょう。以前、新田家から児島殿をして誘って間も無く、山徒の誰かが知人に流して話が広がったのかと。あまり気に病まれる事は。それより、これ以上の足踏みは戦略の上で──」

 

 

「厳禁か……だが、一連の桃井直常の動きはどうも策略臭いぞ」

 

 

 この脇屋軍の慎重な行軍が南朝にとって致命的な事態を招いた。

 七月の半ば頃、脇屋軍はこれ以上の進軍は無益と撤退せざるを得なくなった。既に春日軍の籠る男山(岩清水八幡宮)が陥落し、戦略が破綻したと知ったためである。如何にして足利軍はそれまで幾月も攻め落とせなかった男山を陥したか。その方法は三年前、竹下で尊氏の大軍と一時互角に渡り合った名将・脇屋義助の予見せざるものだった。




同じ出来事でも『太平記』の伝本同士や他の史料との異動がありがちなので、混乱しないように適宜整理しながら書いています。
特にこの時期の脇屋義助軍の移動や男山陥落は媒体によって一月も変わる場合があるので、話を編み込むのがかなり大変でした。
やり甲斐って怖いですね。あると平気で難事に当たれますから。
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