崇永記   作:三寸法師

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〜1〜

 

 

 古典『太平記』によれば、後醍醐天皇の崩御後、多くの南朝貴族たちが、天下は「魔魅」の掌握するところに堕ちたと気力を失い、遁世するために姿を消したという。最期まで病床で不屈の闘志を漲らせた後醍醐天皇の遺言虚しく、吉野朝廷は終焉を迎えたのか。

 否、決してそうはならなかった。延元元年(西暦1336年)軍神(楠木正成)に続く延元三年(西暦1338年)の新田義貞と北畠顕家という両英雄の戦死後も、各地に南朝の希望の星が散らばっており、南朝首脳陣は挽回を諦めていなかった。

 現に直ぐ様、先帝崩御後の吉野朝廷に希望の星が現れた。軍神(楠木正成)の息子の正行(まさつら)である。正行は一族郎党を率いて宮中護衛に参じた。

 

 

正行(まさつら)よ!よくぞ河内国から駆け付けてくれた!先帝崩御の報せが北朝に漏れた途端、逆賊・尊氏は吉野に通ずる関所を桃井軍に掌握させた。だが、汝はこうして護りに現れた!何と心強い事か!」

 

 

「帝、ご安心を。当面の間、この楠木正行(帯刀)が一族・和田正氏(和泉守)たちと共に守りを固めて(足利)軍を慄かせます。二千騎もの楠木兵が吉野に集結しているとなれば、敵も恐れを成して安易に攻めはしませぬ」

 

 

「!……虎の子に犬の子無しとは、誠の格言だ。先帝の御慧眼は確かであった。正行、汝に渡したいものがある。受け取ってくれ」

 

 

 南朝の新帝・後村上天皇が手を翳して合図するや否や、侍従が現れて正行(まさつら)に近付き、盆の上の読み物を見せる。命令通りにそれを受け取った正行の顔は、驚きに満ちていた。桜井宿(摂津国)における(正成)との今生の別れから早くも三年が経っている。その父の著書であった。

 一方、吉野以外の地方でも南朝軍は奮い立っていた。先帝(後醍醐天皇)の遺言や新帝(後村上天皇)の綸旨が出回り、南朝諸侯が気を引き締め直して反撃を続けたのである。とりわけ臥薪嘗胆の志であった南朝の要人と言えば、北畠親房だろう。後醍醐崩御の前年、子の顕家を失って人知れず嘆いた親房は、風にも雨にも負けず海路で関東へ辿り着いていた。

 あれから一年が経ち、親房は執事の顕国(春日中将)たちと共に、北朝方の佐竹氏の領国であった常陸国で、高らかに南朝の志を叫んでいた。

 九月上旬、そんな親房の元に敵の動向に関する新報が齎された。

 

 

「親房卿!去る八日、足利軍がこの常陸国を攻めるべく、鎌倉より北進し、武蔵国の村岡に到着したる由!敵の総大将は高師冬!」

 

 

「高師冬……遂に来たか。結城親朝(現白河結城氏当主)に文を出す。月末にも国境へ兵を出動させるよう命じるのだ。また、伊達行朝(宮内大輔)とも協議せねば」

 

 

(三年前から急に轟き始めた名だが、昨年の顕家との戦で幾度と無く戦功を立てたと聞く武将だ。宗良親王殿下の井伊谷攻略を高師泰や仁木義長が引き受け、師冬が単身関東へ参って余や顕国(春日中将)と戦うとなれば、相当な期待株と見える。もしや軍才は上杉憲顕以上か)

 

 

 当代の南朝の元帥らしく、北畠親房は亡き息子(顕家)にも劣らぬ卓越した戦略眼で今後を見据え、関東や奥州からの逆襲を狙っていた。

 この先、数年に亘って親房軍は常陸国で高師冬と対峙し続ける。

 親房は将来の展望に思いを馳せ、傘下の将たちの掌握に努めた。

 

 

「春日。今後暫くは師冬軍の常陸国侵入を阻み、同時に南朝の地盤を更に拡充し続ける事が課題となる。汝は男山で高兄弟や桃井直常だけでなく、師冬とも戦った経験があろう?その経験が頼りだ」

 

 

「勿体無い御信頼です。親房卿、その師冬についてですが──」

 

 

(去年一昨年のあの旅路は決して無駄ではなかった。時行君の話してくれた情報が、こうして師冬対策の役に立つ。時行君。君は今、どこで何をしているのかな?音沙汰がない。宗良親王(四宮殿下)と一緒に遠江国に漂着したと聞いたが、井伊谷から君の活躍は聞こえないまま。分家(普恩寺家)の友時君は半年前に伊豆国で捕まって処刑されてしまったよ)

 

 

 各地で南朝軍は徐々に活発さを取り戻していったが、惜しくもその抵抗は散発的としか言えず、連携面がお粗末極まりなかった。

 例えば、殺人鬼(シリアルキラー)・宗広の後継者の結城親朝だ。当初は新たな南朝軍の盟主の北畠親房と綿密に書状を交わし、この年(西暦1339年)の九月二十八日に師冬軍迎撃のため国境へ出兵するなど、南朝方として精力的に働いていたが、数年も経つと次第に摩擦が生じた。両者の温度差は京の室町幕府も察知するところとなり、結城親朝は遂に尊氏の誘いに応じて北朝に転向した。忠臣の父(結城宗広)の遺志を踏み躙ったのである。

 まさか忠臣の宗広(上野入道)や三木一草の一人の親光(結城判官)を輩出した結城氏が、足利方に寝返るとは誰が予期したであろうか。特に宗広の性質を唯一継いだ子の三十郎にとって寝耳に水の話であったに違いない。

 こうした未来を知らず、亡き宗広の末子・三十郎は、興国元年(西暦1340年)*1六月以降の大徳王城の北条・諏訪の乱にひっそり参加していた。

 

 

 

 

 

〜2〜

 

 

 

 

 

 興国元年(西暦1340年)六月二十四日、かつての英雄・北条時行が盟友の諏訪頼継の援助を受け、信濃国大徳王城で挙兵した。この情報は各地に拡散される。しかし、北朝の反応は如何程のものだっただろうか。

 この頃、信濃国の近くに居た足利武将と言えば、主に上野国や越後国で新田軍残党狩りに従事していた憲顕(上杉民部大輔)景忠(長尾弾正忠)の他、相変わらず遠江国で攻城戦に励んでいた師泰(高越後守)義長(仁木右馬権助)が挙げられるだろう。

 

 

「チッ。師泰殿、信濃国で時行が挙兵したんだと。()()()を潰されて再興の可能性が無に帰したってのに、悪足掻きをよくするぜ」

 

 

「目論見が外れたな。井伊谷の宗良を餌に時行を釣り出し、一思いに捕えて尊氏様に献上する計画が台無しだ。井伊谷を近隣地域に至るまで全壊させず、無為にチマチマ攻める必要が無くなったな」

 

 

(時行の首を俺たち足利家郎党が献上すれば、将軍の義理の子を称して調子に乗っているらしい外様の氏頼(近江三郎)に優位を作れる。そのために態々こんな井伊谷攻略に時間を掛けた。だが、時行が宗良救援に現れんばかりか、信濃国で挙兵だと?まるで意味が無くなった)

 

 

 この時期、足利軍の遠州討伐は完遂していなかった。既に昨年秋陥落の鴨江城や今年正月末陥落の三獄城という成果こそあったが、まだ遠江国における南朝軍の拠点は東部の大平城を残していた。

 宗良親王自身による歌集『李花集』には同年(西暦1340年)八月十五日の井伊谷で本人が詠んだ歌が収録されている。三河国の味方(足助重春)の元へ落ち延びる事も叶わず、風流心豊かな宗良親王は十五夜を偲んだのだ。

 しかし、高師泰のような婆娑羅武将にとって宗良親王の風流心はどうでも良い話である。自分たちの利益こそ何より大事なのだ。

 

 

「どうするよ?井伊氏ごとき本気を出せば、いつでも潰せるだろ」

 

 

「考えどころだな。俺たち足利の大軍が東海道の要所で周辺に睨みを効かせる意味をどう捉えるか。兄者に書簡で相談してみるか」

 

 

 結局、足利軍は八月二十四日になってやっと残る遠江国大平城を陥落させて、周辺の南朝軍を一掃した。正月末の三獄城陥落より半年以上の時間を要したのである。これを足利軍が敢えて手を抜いた故と見るか、親王のため井伊氏が力を出し尽くした故と見るか。

 何はともあれ、この年(西暦1340年)の秋までに宗良親王は辛くも脱出して駿河国へ逃れた。東海道の難所である宇津山に立ち寄り、腰を落ち着けたのだ。この後の越後国への北上に備え、息を整え直していた。

 

 

(同じ元天台座主でも、軍才において余は大塔宮(護良親王)殿下に及ばぬな。前佐々木惣領(六角判官時信)らの軍勢を退けた兄宮なら、高や仁木にも自分で抗戦できたに違いない。一方で余は地方武士の庇護に縋るしかない)

 

 

「宇津山……『伊勢物語』にある歌枕の地。こんな時でも風流心に浸ってしまう余の気質は乱世に向かぬのだろうな。だが、乱世で泣き言を言ってはおられぬ。して、狩野よ。用向きとは何かな?」

 

 

「は、殿下……落ち着いて聞いてくだされ」

 

 

「ふふ。狩野、余は滅多な事では狼狽えぬ。遠慮せず申せ」

 

 

「恐縮の至りなり。ですが、これは残念な御報せにございます」

 

 

「……また敗報か。良い、今度は誰が足利軍に負けたのだ?」

 

 

 去る八月二十日、新田義貞の遺児の一人の義宗が挙兵し、信濃国方面へ南下して吉良軍と交戦したように、南朝軍の勢いは決して無風ではなかったものの、足利氏ら北朝軍の有利は明らかだった。

 ここまで来れば、南朝軍には開き直りの精神が不可欠だ。それすらなければ、本当に気力が尽きて命運も途絶えてしまうだろう。

 

 

「脇屋義助軍が……高、土岐、佐々木の連合軍に押し返されていると報せがございました。越前国は再び北朝軍の優勢の様子です」

 

 

「であれば……越後国から京を攻める案は実現困難か」

 

 

「殿下。如何しますか?東海道遮断計画が潰え、打てる手は限られているかと存じます。大徳王城の北条殿も再三に亘り、敵を退けておられますが、小笠原たちを破って出征する程の余力はとても」

 

 

「それでも……余は越後国に参らねば」

 

 

 この駿河国で宗良親王は亡き兄・護良親王の遺息の興良親王と共に富士の絵を楽しんだと言われるが、断じて東海地方で再起を望める情勢ではなく、新田義宗との合流を目指して北陸へ向かった。

 越後国さえ掌握できれば、南東へ攻め込んで常陸国の北畠親房たちと協力し、鎌倉ひいては東国を制圧する事も、脇屋軍の再反撃を待って越前国で合流し、一気に京を狙う事も可能となるからだ。

 しかし、脇屋義助の再反撃は期待すべくもない。七月下旬以降の北朝連合軍(高・土岐・佐々木一族)による四方からの攻撃は、亡き兄(新田義貞)に劣らぬ名将・脇屋義助を以てしても、あまりに対抗するに困難な苛烈さだったのだ。

 

 

 

 

 

〜3〜

 

 

 

 

 

 古典『太平記』において第二十二巻は欠落している。より正確に言えば、時代が下ってから制作された伝本ではナンバリングを弄って何とか穴を埋めているものの、古態本では堂々と欠巻扱いしているのである。果たして元の第二十二巻に何が記されていたのか。

 それこそ越前国で再起を図りし脇屋義助と押し返すため幕府の手配した討伐軍の間に起こった合戦模様だろうと推測されている。

 北朝の越前国守護・足利高経の領国放棄から丁度一ヶ月が経った暦応三年(西暦1340年)八月十七日、再び北朝軍の優勢となった。四方より押し寄せた増援が効き、今度は南朝軍が黒丸城で包囲されたのである。

 

 

「脇屋義助よ!出て来い!」

 

 

「「「脇屋義助よ!出て来い!」」」

 

 

「貴様は首を縮こめた亀か!竹下の合戦では敵ながら実に見事な勢いであったと申すに、その有り様は何ぞ!?情け無い!誰より誉れ高き尊氏様の義理の子、この佐々木近江三郎氏頼と勝負しろ!」

 

 

「「「氏頼(近江三郎)様と勝負しろ!」」」

 

 

 佐々木惣領(六角家当主)氏頼(近江三郎)とその分家の塩冶高貞(判官)、加えて新たな土岐惣領の頼遠(弾正少弼)、そして将軍執事(高武蔵守師直)の叔父の師春が、麒麟児(斯波家長)の父・足利(斯波)高経(尾張守)を支えて越前国再平定を目指した。対して脇屋軍の動きはどうか。

 脇屋義助は城郭で拳を握り締めた。隣には副将の畑時能も居る。

 二人は揃って悟っていた。世代交代の波が来つつあるのだと。

 

 

足利(斯波)高経や塩冶高貞ら経験豊富な将も居るが……明らかに敵軍の主力は土岐頼遠や佐々木氏頼という若惣領たちだ。両人とも桁外れの武勇を有する。つくづく兄上や義顕殿が健在だったなら……」

 

 

「義助様。そう嘆かれますな。見たところ、あの二人は水と油でそう容易く連携できる筈がござらぬ。越前国という盤面を我らが広く使えば、必ず隙が生じましょう。此方にも四天王最強の篠塚が」

 

 

「……篠塚。あの猛き守護大名の二将を突破できるか?」

 

 

「は。我が先祖・畠山重忠公の名に賭けて必ずや」

 

 

「流石だ。事ここに至り、お前こそ最も頼りだ。一月以内に必ず起こる再戦に備え、余力を残しつつ窮地を脱するぞ。南の要害の杣山城を六角軍(佐々木)に押さえられているが、挽回の好機は必ず来る筈だ」

 

 

(四日もすれば、再びこの城に高経めが入ろうな。だが、今更城一つに拘泥するまい。土岐頼遠、佐々木氏頼……竹下では単なる尊氏の前座に過ぎなかった敵将が、今や北朝軍の代表格に化けおった)

 

 

 これより二十日余り経った九月中旬以降、両軍の戦場は越前国の国府周辺に移った。復活の高経(斯波尾張守)軍との競り合い虚しく、脇屋軍は拠点を日に日に失い続け、ジリジリと南へ追い詰められていった。

 だが、国の南端近くの杣山城を六角軍に占領されていては覆す術がない。下旬に至るまで脇屋軍と高経(斯波尾張守)軍が鎬を削る間に、近江国守護の氏頼(佐々木惣領)が自ら大軍で南の守りを固めれば、越前国の趨勢もまた同様に固まってしまう。結局、脇屋義助に出来る事があるとすれば、敵軍で最も傲慢な頼遠(土岐惣領)の隙を突き、他国へ脱出する程度だった。

 こうした戦勝報告は立て続けに幕府へ齎された。当然、友人として将軍(尊氏)の側に付き纏っている腹黒坊主も耳聡く情報を得ていた。

 

 

「脇屋義助は四天王の畑時能を殿(しんがり)に残して美濃国へ逃げ、根尾城に入ったようだ……土岐頼遠(弾正少弼)殿は美濃国の同族、頼康(刑部大夫)殿と協力して之を攻めるらしい。秀綱、宗家はこの後どうすると思うかい?」

 

 

「宗家の事なれば、義助を美濃国まで追わぬでしょう。父上、宗家は殊の外、畑時能を意識しておられました。同じ馬術を得手とする猛将としてどちらが格上か、天下に示そうとなさるに違いなく」

 

 

「そうだ。距離があっても宗家の御心を見通してこそ、分家の我々の生きる道は在り続ける。もう二度と加冠の儀のような事があってはならぬ。魅摩は気付けば妾にされていたのだ。ああ、可哀想に。思い出しただけで涙が出てくる。今や佐々木荘で人質も同然だ」

 

 

「父上……武力で遥か遠く及ばずとも、策謀において我らは宗家を凌いでおります。宗家は実際のところ限りなく望み薄な将軍(尊氏様)の御息女を待ち、歳を重ね続ける。いずれ必ずや好機が。今は気晴らしに鷹狩でも致しましょう。何やら長岡の辺りが良い狩場であると」

 

 

「鷹狩か。今時分の流行りだね。そう言えば、宗家は幼い頃から鷹狩に関心をお持ちだった。軍事的な合理性ある婆娑羅の趣味だ」

 

 

「……どうでしょう?今、佐々木荘に居るのは間抜けな前惣領の(大和)(入道)と幼い千金丸(佐々木五郎)のみ。密かに魅摩を誘ってみては?魅摩もこの三ヶ月の間、宗家の留守で一人寂しく閉塞感に駆られている筈です」

 

 

「……然り。たとえ人質の意味を帯びていようと、時信(大和入道)たちの目を盗んで魅摩を遊びに誘う程度、訳ない事だ。秀綱、早速手配を」

 

 

「は」

 

 

 暦応三年(西暦1340年)十月六日、歴史に残る大事件が起ころうとしている。

 舞台となるのは十年以上前に大覚寺統の宗良親王が門跡として治めた妙法院。京極父子は洛外の鷹狩からの帰り道、妙法院の近くを通り掛かった。この時、主筋の道誉や秀綱以上に京極家郎党たちの気が立っていた。同じ佐々木軍の一員でも、嫡流の六角家や更なる庶流の塩冶家に仕える者たちは北陸の戦場で手柄を立てた。一方、自分たち京極党は戦働きの機会に恵まれず、虚しく鷹狩り帰り。

 鬱憤も溜まるというものだ。そこで目についたのが紅葉である。

 

 

「殿や若殿の武力は宗家や塩冶様のそれに遠く及ばん。戦場の血に濡れる事で差は歴然だ。嘆かわしい。挽回の機会は無いものか」

 

 

「戦場の血か……あんな色合いか。殿は戦働きより生花がお得意だそうだな。我らが手折って殿に献じ、生けて頂くか。そうすれば、殿は前線で血に濡れる事なく、宗家や塩冶様の軍功に並ぼうぞ」

 

 

「おお、そうだ。手折ろう。手折ろう」

 

 

「皆!寺の庭にある紅葉の枝を折り、敵の首の代わりとしよう!」

 

 

「「応!」」

 

 

 世の中には因果応報という言葉がある。折悪く、当代の妙法院門跡である亮性法親王が紅葉を鑑賞していた上、宿泊中の山法師たちが義憤に駆られた。古典『太平記』によれば、寺の庭に侵入して枝を折った京極党たちは、山法師らによって紅葉の枝を奪い返されたばかりでなく、ボコボコにされて寺の敷地外へと追い出された。

 結果的に、近江国に大勢力を築く佐々木一族の庶流と妙法院もとい関連する比叡山延暦寺の間の諍いに事態が発展した形である。

 勿論、これで黙って居られないのが婆娑羅大名の道誉だ。部外者による身内への危害は断固許さじ。道誉は惨状を聞くや否や他の家人たちを連れて妙法院に押し寄せ、火を放った。運が良いのやら悪いのやら、風が激しく吹いて火は建仁寺にも燃え移ったという。

 

 

「何だ!?何が起こっている!?門跡(亮性法親王)様は何処に!?」

 

 

「もう逃げちまった。若宮様よ。代わりにお前を弑してくれる!」

 

 

「ぶれ……ぐほっ!?」

 

 

「おら!おら!おら!くたばれよ!比叡山の犬が!」

 

 

 古典『太平記』の伝本は現代にも数多く残っているが、特に佐々木一族について詳述するもの曰く、道誉の嫡男の秀綱は更なる凶行に走った。妙法院で門跡(亮性法親王)の指導の元、仏道修行に励む無名の若い親王が右往左往するところへ走り寄り、滅多刺しにしたのである。

 果たしてこの世の道理は何処へ行ったのか。世の人々が山法師による強訴を予見し、実際に延暦寺が父子(道誉と秀綱)の斬首のため身柄の引き渡しを求め、朝廷も厳罰を望んだ一方、足利兄弟は道誉を贔屓したと古典『太平記』は記す。実際問題、この時の幕府は何を考えていたのだろうか。延暦寺は活動を停止し、天下万民が固唾を呑んだ。

*1
南朝はそれまでの「延元」に代わる新元号として「興国」の使用を開始。後村上天皇は即位翌年の四月二十八日になって初めて改元した。

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