崇永記   作:三寸法師

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▲4

〜1〜

 

 

 明らかに難癖だ。幕府の想定より早く妙法院放火事件について聞きつけたらしく、遠征先の越前国から急遽引き揚げて南近江へ戻った六角家当主・氏頼からの申し入れに、直義たちは頭を抱えた。

 成る程、二年前(西暦1338年)の夏から秋に掛けて脇屋軍が比叡山と結託して畿内へ攻め込み、男山の春日軍を助けて京の制圧を目論んでいるという噂は確かな筋からも聞こえたものであった。さりとて、二年も前の話に過ぎない。今更それを蒸し返し、同族武将(京極道誉)の蛮行を有耶無耶にするために延暦寺を攻撃しようとは、卒倒ものの話であった。

 

 

「大体、延暦寺と脇屋軍が内通していた証拠の書状など十中八九、氏頼がその場で書いたでっちあげではないか。よしんば、本当にそんなものがあったとして、認めてしまっては身内可愛さに幕府ぐるみで不条理を行ったと世間に思われる。それでは兄上の書き初めの題目・天下の政道、私あるべからずにも反しよう。氏頼め、延暦寺憎しで何て事をしてくれた。一族の責任だけで済まなくなるぞ」

 

 

「直義様。これでは……延暦寺の求める京極父子の引き渡しはまず避けた方が良いかと。六角軍は臨戦態勢を維持し、江南に駐屯して比叡山ばかりか、この京にも睨みを効かせています。斯様な仕儀となった以上、六角軍や塩冶軍の引き揚げを認めた高経殿は暫く当てにできず、婆娑羅武将の高兄弟はまず佐々木氏に賛同しましょう」

 

 

 事ここに至り、事件は皇族の治める妙法院放火に伴う、朝廷の権威如何の次元ではなく、今後の延暦寺と幕府の関係性を占う話と化している。直義としては大名たちの増長を防ぐためにも氏頼の比叡山攻撃を認める訳にいかないが、延暦寺の要求に応じて京極親子の身柄を引き渡せば、六角軍はなりふり構わず攻撃を開始しよう。

 しかし、かと言って、臨戦態勢の六角軍を他の大名に討伐させるのは無理だ。延暦寺の南朝密通疑惑の証拠なるものを持ち出された以上は六角家は幕府の忠臣として動いているに過ぎず、偽りで世を乱す賊臣と認定しようと、それはそれで分家の道誉を庇うために知恵を働かせる健気な若い惣領を討伐させる非道な幕府という印象が残ってしまう。まして氏頼は二年前に道誉から近江国守護職を取り返した過去がある武将として名高く、健気さがより強調される。

 そもそも延暦寺の内通疑惑は元より濃厚で、提出された証拠の文書も偽物と断じるには無理のあるものであった。要はタイミング的に疑わしいだけで、文書そのものは真贋に迫っている。そんな寺社と守護大名で後者を討ちたがる武家は滅多にいない。平素では文書の妥当性において寺社が武家に長じる傾向にあるため、結果的に直義も寺社に味方する裁決を下しがちなのであって、尤もらしい文書が武家から提出されれば、そちらの肩を持つのが道理であった。

 つまり、直義は自身の信条を貫き難い状況に追い込まれていた。

 

 

「……伊豆守(上杉重能)。前に政権内で比叡山の処分について話し合った際、師直は玄恵法印を招き、末弟・師久の仇を水に流して比叡山存続に賛同していた。あの場ではむしろ婆娑羅派閥の対極のお前の方が、延暦寺処罰を強く主張していたな。だが、結果は見ての通りだ」

 

 

「あの時、高一族も上杉家も、建武三年の折に大覚寺統(後醍醐帝)に協力した延暦寺に恩を売り、将来万一足利家に大難あった際、協力して貰う事を期待し、延暦寺の肩を持つ法印殿の御意見に納得致しました。されど、この期に及んで延暦寺が脇屋軍(南朝方)と誼を通じていた証拠を突き付けられれば、喩えそれが偽物であれ、高一族は私ども上杉家の比でなく、顔に泥を塗られたと忿懣遣る方無く思っているかと」

 

 

「この際、私も道誉の処罰反対派に回るしかないか。必ず厳罰をと思っていたが、このままでは延暦寺と北朝軍の戦になる。もし師直か氏頼が総攻撃の許可を兄上から得た場合、主導権を丸ごと掌握されてしまう。だが、あえて私が処罰反対派に回れば、彼らの溜飲も下がり、京近くの戦になる可能性含め、危険を避けられる筈だ」

 

 

(婆娑羅の要らぬ世……理想の実現には程遠い。直義派(我が派閥)の主力になる筈の高経(斯波尾張守)殿が鬼丸・鬼切の件で兄上と対立し、その結果、私と師直の主導権争いにも身が入らぬようだ。高経(斯波尾張守)殿は元々婆娑羅と相容れない気性であるのに、兄上が名刀欲しさで名門の斯波家を一族末流と軽率に罵倒したせいで、亡き家長(孫二郎)の労が半分以上水の泡だ)

 

 

 現在、尊氏は二年前に「鬼丸」と「鬼切」の両名刀の所有権のために対立した分家の名将・足利(斯波)高経(尾張守)が北陸で脇屋軍に苦節の末に勝利を収めた事はおろか、友人の道誉(京極判官)の放火事件にも烏帽子子の氏頼(六角三郎)の強硬姿勢にも特に気を悪くしていない様子で、遊び呆けている。

 忿懣遣る方無いのは師直ではなく、ならず者同然の武士たちの監督代行をするために自説を曲げなければならない自分の方だという言葉を呑み込み、直義は佐々木一族出身の夢窓疎石を訪問した。

 

 

「使者……にございますか?」

 

 

「左様。恐らく私が処罰に躊躇する姿勢を見せれば、新時代になっても延暦寺と事を構えるだけで刑死ものなのではないかという近江国の人々の怯えも消え、氏頼に賛同する意義が薄れる。国師殿に諭されれば、氏頼も矛を収めよう。どうか頼まれてくれないか?」

 

 

「……直義殿。恐らくこの夢窓では宗家(氏頼殿)を宥めるに荷が重い」

 

 

 何と夢窓疎石は尻込みしているらしい。直義は疑問に思った。

 よもや夢窓疎石ほどの高僧が齢十五の若者を同族の惣領だからと言って、畏怖する事があるだろうか。まず当の氏頼本人が仏道において禅に傾倒し、特に夢窓疎石を篤く信頼している様子なのだ。

 

 

「国師殿。確かに古来より延暦寺が強訴で京を騒がせ、山法師が民を困らせていたため、排除すべきという論は足利政権にもあった通りだ。延暦寺存続のため異なる宗派の国師殿に動いて貰うのも本来なら筋違いであるとも。だが、兄上が動かぬ以上、国師殿しか」

 

 

(京極家は跡取りの秀綱が若宮を惨殺したという話もある。それで氏頼が過敏になっているところもあろうが、どちらにせよ暴挙の直後に延暦寺を除く事はできぬ。道誉や秀綱の死罪を免ずるだけで万歩も億歩も譲っているのだ。どこぞへの流刑にしなければ、天下に政道を示せぬ。かと言って、ここまで事を大きくした氏頼を納得させるためには、一族出身の国師の言葉で引き下がったという筋書きを用意する必要がある。あれでも氏頼は兄上の烏帽子子なのだ)

 

 

「直義殿、お聞きくだされ。氏頼殿の慕う御方は天下広しと言えどお一人のみ。さりながらそのお一人の言葉さえ、御自分の信じる道理に違うと判断すれば、固執して聞き入れないのが氏頼殿です」

 

 

(何……?)

 

 

「氏頼はただの兄上の狂信者かと思っていたが……すまぬ、今のはお忘れ頂きたい。だが、代案は何かお持ちであらぬか?国師殿」

 

 

「……無い事もございません。ちょっとした発想の転換です」

 

 

「ほう」

 

 

 南近江で六角軍が今にも琵琶湖を渡って比叡山を攻撃しようかという構えであるのに対し、延暦寺は神輿を根本中堂に移した上で、全ての行事を中止して遍く門戸を閉じている。まさに一触即発の状態であり、近江国に留まらぬ国家全体の一大事であると言えた。

 こうした時、副将軍の直義は状況を打開するための光明を得た。

 

 

 

 

 

〜2〜

 

 

 

 

 

 暦応三年(西暦1340年)十月二十二日、京周辺において佐々木氏と比叡山延暦寺の間で緊張が走っていた一方、信濃国で一つの乱が平定された。

 北条時行と諏訪頼継の籠っていた大徳王城が陥落したのである。

 

 

「貞宗殿w四ヶ月に亘る戦い、御苦労にござったwwww」

 

 

「は、はぁ。左京大夫(吉良満義)殿のお越しで敵の忍びの蠢動を封じ、時行並び頼継めに勝つ事が叶い申した。篤く御礼申したい……じゃが」

 

 

「じゃが?ww逃げた敵将たちを草の根分けて捕らえよとww隣の美濃国に脇屋義助が入って間もなき今、無理は禁物にござるぞw」

 

 

「……いや、何でもござらぬ」

 

 

(これが名門・吉良家の……いつ儂は突っ込めば良い!?何故このように雑草を食べている!?食べっぷりと言い、忍びの如き戦い振りと言い、とても令息に見えんぞ!これで足利の名門だと!?)

 

 

 東山道では八月に北信濃で新田義宗が守護代・吉良時衡*1らに撃退されたり、この十月下旬に小笠原貞宗が南朝方の大徳王城を陥したりと反乱が続々平定され、美濃国根尾城においても脇屋義助が土岐軍の猛攻撃を凌ぐ事で精一杯になるなど北朝方の勢いが目覚ましかった。しかし、佐々木一族の治める近江国はどうであったか。

 大徳王城陥落の翌日(暦応三年十月二十三日)、渦中の近江国では一つの動きがあった。

 佐々木惣領の氏頼(近江三郎)の元に将軍直筆の書状が届けられたのである。

 

 

師泰(越後守)殿の御子息であったか。今、内容を確認しよう」

 

 

(師泰の息子にしては武威を感じられん。あまり大した事はなさそうだな。同じ歳の頃で比較しても俺の方が十倍は強い……それより尊氏様の書状だ。使者が高一族なら内容は当然色良しだろうが)

 

 

「は。何卒よろしくお願い致す」

 

 

「うむ……ん?」

 

 

 既に軍船は整えられ、いつでも六角軍は比叡山総攻撃に移れる手筈になっている。時信の代で六波羅探題の命で攻め込んだ際には失敗したが、より強い次代の氏頼が神威を示して攻めれば、必ず勝てるに違いない。後は将軍・尊氏のお墨付きを得るだけであった。

 謁見の間に居合わせる六角家重臣たちは固唾を飲んで、主君の氏頼の様子を見守っている。氏頼は書状を側仕えの馬廻衆の一人に広げさせ、文面を改める。だが、その目は少しずつ輝きを失った。

 

 

「やーめた」

 

 

フッ

 

 

「と、殿……?」

 

 

()()()()とは如何なる意味で?」

 

 

「だから、中止するの。比叡山討伐……それよりさ、尊氏様がウチの兵糧米に祇園社(八坂神社)の取り分使うのダメって仰せだから、その通りに手配して。俺はもう寝る。何かダルくなってきた。遠征の疲れが出たに違いない。あと望月に魅摩をとっ捕まえて城の牢に放り込んで監視するよう言っておいて。半年は閉じ込めるつもりで宜しく」

 

 

「「「!?」」」

 

 

 唖然とする重臣たちを置き去りにして、突然やる気を無くした(近江)(三郎)は奥の寝室へ小姓を連れて消えていった。重臣たちは目配せして頷き合った。どうやら許可が降りず、氏頼(近江三郎)は不貞腐れたらしい。

 だが、今し方の将軍の書状で兵糧米について記されているにも関わらず、氏頼(近江三郎)が不許可と読み取ったのはどういう了見だろうか。

 郎党たちの知る氏頼(近江三郎)であれば、遠回しに許可されているのだと決め付け、これ幸いにと比叡山討伐へ早速出陣しているところだ。

 氏頼(近江三郎)が有無を言わさず席を外してしまった以上、ここは使者に確認してみるしかない。郎党筆頭の馬淵義綱が口を開こうとした。

 

 

「一つお尋ねしたいのだが──」

 

 

「延暦寺攻めで八幡大菩薩の名に縋ろうとする故、こうなった」

 

 

「「「ッ」」」

 

 

「今のは戯言。お気にされるな、郎党方よ。拙者はこれにて失礼」

 

 

 六角家重臣たちの視線に一歩も引かない師泰息──後の足利幕府二代執事・高師世──は言い残すだけ言い残し、即座に去った。

 まるで蚊帳の外であった六角党たちは戸惑った。主君(氏頼)使者(師世)の間に一体どのような無言のやり取りがあったのだろうか。本当に兵糧米の事のみという書状だけで、氏頼(近江三郎)が闘志を失うとは妙な話だ。

 

 

「恐らく……去り際の使者の言葉が答えだ」

 

 

「馬淵殿、どういう事だ?」

 

 

「殿は先日、今は京の塩冶殿を通じて八幡大菩薩の御旗供与を将軍に諮っただろう?それが裏目に出て、執事の反感を買ったのだ」

 

 

「執事……高師直!それで甥が使者に来たのか!」

 

 

「てっきり将軍の同意の証と思っていたが!」

 

 

 今は重臣たちのみが集っている謁見の間に、響めきが起こった。

 成る程、比叡山延暦寺討伐というより、八幡大菩薩の御旗の供出願いに対する使者が、前に男山の岩清水八幡宮を燃やした師直の甥であると考えれば、不同意であると取れる。実際、御旗に関する話は何一つとしてない。あるのは米押領に関する停止命令だけだ。

 

 

「左様。兵糧米の話のみ書状にあるという事は……延暦寺絡みで六角家に責任を負わせぬという将軍の意思だ。だが、祇園社の兵糧米の話は牽制でもある……そう殿は考えられた。どの道、殿がお決めになったのであれば、従うまで。止めると仰せなら止めるまで」

 

 

「では、臨戦体制も同様に……?」

 

 

「山法師の襲撃の恐れがある故、完全にとは参らぬがな。殿も攻撃を止めるだけで防備を止めと仰った訳ではない。軍船手配から順々に解除し、様子を見よう。折を見て、また殿に具申すれば良い」

 

 

(殿は尊氏様が気まぐれな御方と仰るが、殿こそ誰より謎めいて、心中を読み難い。あれでこそ神。仕え甲斐があるというもの)

 

 

 近江国守護(佐々木惣領)・六角氏頼(近江三郎)の元に兵糧米に関する尊氏(征夷大将軍)の命令が届いて三日後の十月二十六日、比叡山延暦寺は後に表立って争う事になる氏頼(近江三郎)の脅威はないとばかりに、京極父子の狼藉について訴えた。

 当時の公家・中院通冬の記録『中院一品記』によれば、幕府は即日道誉と秀綱の父子の流罪を決めたという。その行き先は十二月中旬にそれぞれ出羽国と陸奥国と決定され、父子揃って配流前に官位を召し上げられた。しかし、一方で史書『後鑑』などには翌年(暦応四年)四月二十五日に道誉たちが上総国山辺郡に流されたとあり、本当に父子二人が流刑地に赴いたのかという事まで含めて、定かではない。

 

 

 

 

 

〜3〜

 

 

 

 

 

 暦応三年(西暦1340年)十二月初旬、高師泰(越後守)は既に東海地方を離れ、摂津国に滞在している。息子(師世)に荘園の様態を実地で学ばせようというのだ。

 次の足利政権の担い手として師泰は息子(師世)に大いに期待していた。

 

 

「けっ。氏頼のヤツ、頭に水でもぶっ掛けられたような思いだっただろうな。延暦寺を攻めようとして頭に血が昇っていたところに、将軍直筆の書状で押領を責められたとあっちゃ、氏頼はビビって軽率に動けねェ。ま、氏頼としちゃ延暦寺や朝廷を武力で牽制して、寺社と揉めて死罪の例を新しく出さずに済んだだけで儲け物か」

 

 

「お言葉ですが、父上。氏頼は急に熱意を失う童の如し。あれは将軍の加冠を受けた身なれど、()()()()()()()()を十五歳になっても地でいく呆れたヤツです。武力が幾ら伸びようと、あれでは大人の武将として所詮凡才。もはや我々の足元にも及ばないでしょう」

 

 

「そうだ。幕府の次代を担う英雄の素質のあるお前と現状の近江国統治が精一杯の六角とではモノが違う。今はよく学べ。後の内乱に備えて武芸に励み、女たちを思う存分転がして、大器となれよ」

 

 

「大変です!師泰様!敵の奇襲が!軽装では防ぎ切れませぬ!」

 

 

「何ィ……楠木のガキか!?早くも前哨戦を!」

 

 

「父上。ここはお任せを。楠木なら腹ごなしに丁度良い。ここなら暴れ尽くしても、人目に付く事はない。後顧の憂いなく戦える」

 

 

 この年(暦応三年)の師走の八日、高師泰たちが摂津国住吉において楠木正行の軍に挑まれ、そのまま撃破されたという。軍神(楠木正成)の子の本格始動はまだまだ先の話であったが、その大才の片鱗は既に現れていた。

 また、翌暦応四年(西暦1341年)に掛けて今度は関東で高師冬が思わぬ苦難に見舞われていた。師冬は関東における地盤を欠き、兵力確保がままならなかったのである。これに付け込んだのが南朝の親房(北畠准大臣)たちだ。

 

 

「親房卿。北関東の支配拡大は順調です。この分ですと、機を見て新田義興軍に上野国から武蔵国を攻撃して貰う方策も可能かと」

 

 

「待て、春日。そう逸るな。師冬は京に新手の大将派遣を依頼しているという。これ以上の戦線拡大は当面、控えるべきだ。惜しむらくも顕家が南朝軍を率いていた時のような機動力は今の我々に欠けている。それで師直に来られれば、野戦での勝利は厳しかろう」

 

 

「……は。では、師直が参った場合に備え、暫し兵の調練を」

 

 

「任せる。余は奥州の南朝諸将への書状を(したた)めよう」

 

 

 この年(暦応四年)の春頃、北畠親房は書面において度々師直下向説を訴えて警戒心を露わにしている。しかし、将軍執事の師直が態々関東まで下向する事は金輪際なかった。理由の一つは親房が書状で師直下向延期の原因としているような山門や南都の不穏な情勢であろう。

 佐々木氏が原因でピリピリしていた延暦寺と別件で、東大寺が現伊賀国守護の桃井直常の政策面における悪党への妥協に憤って幕府に抗議していたのである。このような情勢下で、かつて顕家(北畠中納言)に勝利せし北朝最強武将の高師直が西国から離れられる筈がなかった。

 だが、師直はこの時期、病を患ったせいで仕事すらできない状態だったという見方もある。普段、馬車馬のように完璧執事をしていた師直が休みの間、暇を持て余して何をしていたかと言えば──

 

 

「さぁ、師直様。あちらにございます」

 

 

「ふ。これではまるでボロ蔵に隠れた昔男*2だ……おお!」

 

 

 覗きである。古典『太平記』によれば、高師直は人妻を得るためにその女官(侍従の局)を買収し、女装してまで風呂を覗こうとしたという。

 人妻の名は顔世御前という。かつて後醍醐天皇に仕え、その采配で佐々木一族の誇る名将・塩冶高貞(判官)に嫁いだ伝説の美女である。

*1
吉良満義の同族武将。村上信貞と同時期に信濃国に赴任したと見られている。

*2
『伊勢物語』の「芥川」において昔男が「あばらなる蔵」に身を潜めた。

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