崇永記   作:三寸法師

142 / 202
▲8

〜1〜

 

 

 もはやこれまで。顔世(奥方)を守るという今回の命題は果たせまい。

 藁屋において塩冶家郎党たちは追い込まれた。斯くなる上は武士の道理に基づき、顔世やその子たちを殺して自分たちも死のう。

 古典『太平記』には塩冶高貞と別行動をとって山陰道沿いに逃走していた顔世御前たちの惨劇の情景が生々しく描写されている。

 当初、早田宮真覚の娘の顔世御前は、抜き差しならぬ塩冶家郎党たちの剣幕に怯えたものの、遂に最期を悟ったという。武家の奥方らしく自害の意思を示し、その胸に刃を貫かせて息絶えたのだ。

 

 

「母様……?」

 

 

「母上、如何なされた!?母上、起きてくだされ!今日からどんな仰せも聞きます!だから、だから母上!一緒に帰りましょう!」

 

 

(こうするしか無かった。殿の御望みは結局のところ、自分に恥を掻かせるなという点に尽きる。奥方様の生死は関係ない。ただただ殿の名誉のため。この宗村たちが殿の面目をお守りしましょうぞ)

 

 

 遺児たちが母・顔世御前の死骸にしがみ付く間、山城守宗村らの塩冶家郎党は茫然自失としたまま、自分たちの運命を呪った。

 だが、いつまでもこうしては居られなかった。最期の刻がやってきたのであれば、たとえ七つの子であっても、潔く自らの命を断たねばならないものと、塩冶家郎党は顔世の遺児の一人に説いた。

 この場を支配していたのは、武士の論理に他ならない。死んだ母の供をしよう。僅か七歳の遺児が決心の末に短刀で腹を刺した。

 

 

「ご立派です。それでこそ弓矢の家に生まれた者が辿るべき道にございます。追手の武士たちも感心しましょう。拙者もお供仕る」

 

 

(ああ、嘆かわしや。若君が御成人された暁には山陰の武士たちが傅いたに違いない。思いも寄らぬ事で草葉の露と消え、名が後世に残らぬとは、どんなに悲しい事であるか。奥方も心苦しかろう)

 

 

「八幡六郎、後を頼んだ」

 

 

「……宗村殿。承知した。宗家への取次含め、お任せを」

 

 

 そのまま山城守宗村は刀を持ち直し、自分ごと七歳の若君を刺し貫く形で殉職した。七歳の若君はここで再び童心に取り憑かれたのだろう。泣き出してしまった。そうして暫く、両人とも死んだ。

 まだ齢三つの弟君が居る。八幡六郎は悩み抜く。幼心のまま母の遺骸の胸にしがみ付き、血塗れで涙する弟君をどうしたものか。

 一方、その頃、藁屋の外では鬨の声が鳴り響いていた。桃井直常(播磨守)の率いる追手たちによるものだ。播磨守(桃井直常)の隣では徐々に苛立ちを現している武将が居た。密かに同行している佐々木惣領の氏頼(近江三郎)だ。

 

 

「桃井殿……時間稼ぎしている間に脱出用の抜け穴を掘って逃げてしまおう、なんて事は……いえ、まず無いと分かっていますが」

 

 

「あ?そりゃそうだろ。何より時間が足りねぇ」

 

 

「ですよね……ただ、誰かに催促させに行った方が」

 

 

「……御自分で行ったらどうなんだ?六角サンよ」

 

 

「では、そうしますか」

 

 

(まさか顔世の身柄を引き渡さず、己らの手で始末したか?塩冶家の郎党は。俺がいる以上、師直に引き渡す事は万一にもあり得ないと知っておろうに。何やら仄かな血の匂いがする。身体が疼いてたまらないが、そうも言っていられん。顔世は南朝に縁深いとはいえ、スケープゴートに出来るのは高貞自らその手で斬った場合のみだ)

 

 

 焦燥感を募らせ、氏頼(近江三郎)が藁屋に向かって近付くと、折が良いのやら悪いのやら、丁度そこから出てきた塩冶家郎党の八幡六郎とバッタリ鉢合わせた。その直後、氏頼(近江三郎)は大きく目を見開いて驚いた。

 八幡六郎(塩冶家郎党)が傅いて何かを差し出すような形で両手を突き出したのである。その手に乗っていたのは、血塗れの姿の顔世の次男だ。

 

 

「八幡六郎……如何なるつもりだ?」

 

 

「宗家!宗家にお願いしたき儀がござる!」

 

 

「お願いだと!?貴様、断りなく殺しておいて、この俺に向かって良くも言えたものだ!子まで殺せと誰が命じた!?俺は族滅上等の鎌倉北条氏ではないぞ!その子は佐々木一族の生まれ、つまり惣領たる我が財産(所有物)に他ならん!生かしてやるつもりだったのに!大体、顔世だって高貞(塩冶判官)の手で殺すのでなければ、背信の道を断たせる使い道が無くなるではないか!あの宗村(山城守)め!涙で俺を惑わしたか!」

 

 

 周囲の鬨の声が氏頼(近江三郎)ただ一人の怒号で掻き消された。遠くからその武将の実力を目の当たりにし、桃井直常(播磨守)が驚きを露わにした。

 対して八幡六郎はその怒号で逆に安心して柔らかく声を発した。

 

 

「どうか落ち着かれませ……宗家。この御子は生きておられます」

 

 

「何……?」

 

 

「この八幡六郎は貴方様を聖人と思い、お願いしておりまする」

 

 

 塩冶家郎党の八幡六郎は、この場の生き残り二十余名を代表して陳情した。主君に奥方を斬らせるのは恥を掻かせる事だという宗村の考えによって顔世御前と七つの子は死んだが、数え三つの子はまだ生きている。幸い、それ程に幼いなら今日までの事も成長と共に忘れるに違いない。つまり、育て方次第で無事従順な臣になる。

 どうかこの齢三つの遺児の助命を。八幡六郎は惣領(六角氏頼)に請い願う。

 

 

「……この御子は塩冶家の忠臣・八幡六郎の手で通りすがりの僧に預けられたものとする。仮に才覚あらば、この佐々木六角氏頼が呼び寄せて召し抱え、一族のために働かせよう。これでどうだ?」

 

 

「感謝します。それでは、御受け取りください」

 

 

「ああ、確かに……ありゃ、大声に驚いたか。気絶してるな」

 

 

(とりあえず忍びに渡すか。密かに民家の裏に潜んでメモらせた塩冶家郎党の会話録と引き換えに。別口で北の方にでも行かせよう)

 

 

……御受け取り次第、御下がりを。我らにも意地がござる

 

 

「は?」

 

 

 唐突な小声で氏頼(近江三郎)が呆気に取られるや否や、生き残っている塩冶家郎党たちがその横を通り過ぎて外へ外へと駆け出して行った。

 古典『太平記』によれば、八幡六郎たち塩冶家郎党は三歳の遺児や持ち物を「遊行の聖」なる者に預けた後、たった二十数名の戦力のみで、桃井直常らの山陰道追撃部隊との交戦を始めたという。

 

 

 

 

 

〜2〜

 

 

 

 

 

 燃える藁屋を、幕府の山陰道追撃部隊が遠巻きに見守っている。

 少数で思い思いに大暴れした塩冶家郎党たちが満足して戻って自害する際、火を放ったのである。程なくして藁屋は燃え尽きた。

 

 

「うげ、これが顔世の遺体か。胎児が腹から半分出てやがる」

 

 

「桃井殿……この惨状。百年先まで語り継がれましょうな」

 

 

「……お前さんに不利にならないよう情報操作するんだろ?」

 

 

「勿論……こんな事、俺が関わったとはとても」

 

 

 古典『太平記』の顔世御前に関わる悲劇において、佐々木惣領の六角氏頼の名は、生き残った息子に関する後日談にのみ現れる。

 遺児の才能を氏頼(近江三郎)が聞き、出仕させたとするエピソードである。

 

 

「所詮、歴史は生き残った者の手によって紡がれるものに過ぎないとよく分かりました。何故なら、俺がこの件を闇に葬りたくて仕方ないのですから。俺は此度の事……断じて関わってはおらん!」

 

 

「六角サン。何か全て終わったみたいな言い草だけどよ……まだ終わってないらしいぜ?ほら、見てみろよ。塩冶サンの御通りだ」

 

 

「え……?」

 

 

 渦中の人がこの期に及んで現れた。山陰道追撃部隊の幕府武士たちは先程、僅か二十数名の顔世御前の護衛たちにかけ破られたばかりであるためか。震えて武器を構えたまま、手が出せずにいる。

 塩冶高貞が信じられぬという面持ちで残骸に馬を近付けたのだ。

 

 

(数日前に桃井をして実行して貰った、噂をばら撒いて山陰道に高貞を誘き寄せる策が、今更効果を発揮したと……本当に今更だな)

 

 

「宗家、これは……顔世たちの」

 

 

 見るも無惨な燃え滓の溜まり場に高貞(塩冶判官)の顔から血の気が引く。

 桃井直常が得物を片手に警戒する間、氏頼(近江三郎)は淡々と話し始めた。

 

 

「貴殿の弟・貞泰殿があらぬ証言を。誰かが犠牲にならなければ、幕府は引くに引けない。高貞殿……妻子の仇討ちは十年間、預からせてくれ。十年もすれば、必ず打倒高一族の機会が巡って参る」

 

 

「十年も……生き恥を晒せませぬ。それに恨むべきは──」

 

 

 古典『太平記』は塩冶高貞の末路について本国の出雲国へ逃れた末に現地武士ばかりか、幕府に帰順し続ける同族たちに目の敵にされていたところ、奥方(顔世)の末路を聞いて割腹自害したものとする。

 しかし、より信憑性の高い史料『師守記』*1は、播磨国景山において自害したものとしている。丁度古典『太平記』で顔世御前の妻が果てた場所である。この食い違いが意味しているものは何か。

 

 

「己にござる。宗家、我が自責の念を目にお焼き付けて」

 

 

「ちょ!?高貞、待て!」

 

 

(顔世はガチどうでも良い!だが、高貞(塩冶判官)は本当に洒落にならん!)

 

 

 惣領の氏頼(近江三郎)の狼狽虚しく、分家の守護大名は鮮やかに自らの命を絶った。その手際こそ、高貞(塩冶判官)の秘めていた比類ない武力の証だ。

 佐々木一族の名将・塩冶高貞、死す。近江国に根を張る六角家や京極家すら、実力の上では凌ぎ得る出雲国の名将が逝ったのだ。

 南北朝時代はまだまだ初期の段階である。守護大名たちの食うか食われるかの争いは終わるどころか、始まったばかりであった。

 

 

 

 

 

〜3〜

 

 

 

 

 

 暦応四年(西暦1341年)の夏が過ぎると、腹黒坊主(佐々木京極道誉)が半年以上前の妙法院放火事件を乗り越え、表舞台に復帰する。副将軍の直義が思うところを呑み込んでか、高師秋*2と共同での伊勢国平定を命じたのである。

 出陣前、道誉は京の氏頼を訪ねた。このタイミングなら面会謝絶と言われる事もあるまい。道誉は六角邸の廊下をしずしず歩む。

 

 

「道誉殿。宗家はこの幾月もの間、気が立っておられる。くれぐれも御注意を。貴殿でも言葉誤れば、どうなるか全く分からぬ故」

 

 

「御忠告痛み入る、馬淵殿。つくつぐ苦労しておられる様子だ」

 

 

「何を言われる。殿を盛り立ててこそ繁栄あり。その事を忘れた(塩冶)(判官)殿と違って、我ら近江国の者は今後も末長くお仕えし続ける」

 

 

「……然り。宗家を立てねば、身の破滅ですからなァ」

 

 

 果たして氏頼(近江三郎)の顔は憔悴しきっていた。裏切り疑惑を伴う塩冶高貞の自害が、余程ショックだったのだろうか。密かに道誉は死んだのが自分であったなら、恐らくこうはなっていないと毒付いた。

 だが、道誉(京極判官)は腹黒坊主だ。顔をドス黒く染め、本心を隠す事に一日の長がある。幾らか会話を重ねた後、本命の話を切り出した。

 

 

「ところで……魅摩は今、どちらに?姿がないようですが」

 

 

「……み、マ?」

 

 

「はい。我が娘の魅摩にございます。久しく会っておりませぬが」

 

 

「……ああ、ミマな!此処には居らぬ!京は色々と危ない故な!」

 

 

(これは……忘れておられたか)

 

 

 日に日に氏頼(近江三郎)は烏帽子親の尊氏に気質が近付いているらしい。

 側に控える馬廻衆とやらの姿を見れば一目瞭然だ。どんな手品を使ったのか、髪を銀色に染めて二つ結びにしている者ばかりだ。

 出家済みの望月に変わる存在とでも言うのか。道誉はあれこれ推察した後、顔に笑みを湛えた。まさに()()()()した笑みである。

 

 

「魅摩をそれ程心配して頂けるとは。これで拙僧も安心して伊勢国に出征できまする。宗家は我が愛娘を大事に大事に飼われませ」

 

 

「あ、ああ……もうあんな大騒ぎは御免です、本当に」

 

 

(愛娘……愛娘?ま、良いや。面倒事にさえならなければ)

 

 

 だが、この氏頼(近江三郎)の願いは翌春、思わぬ形で破られる事になった。

 塩冶家とはまた異なる佐々木氏庶流の武将が厄介事を背負い込んだのである。古典『太平記』に記される高一族と佐々木氏の美女を巡る諍いは何も高師直(武蔵守)と塩冶高貞に限った話ではなく、もう一件存在する。当該時期は下向している筈の伊勢国守護の高師秋(土佐守)と四国出身の武将の飽浦信胤の間で痴話騒動が発生した末、暦応五年(西暦1342年)の三月下旬になって、佐々木一族庶流の飽浦が南朝に降ったのである。

 

 

道誉(京極)が遠征する間、こうした騒ぎがまたも起こるとはな」

 

 

「は……副将軍、この度は大変ご迷惑を。惣領として謝罪します」

 

 

(くそッ!惣領の俺の面目が丸潰れだ。それに、系図の上で師冬(高三河守)の兄の師秋(高土佐守)は、高一族でありながら直義派という至極面倒な立場ぞ)

 

 

 不幸中の幸いだったのは、飽浦信胤が四国で南朝に協力しようとした矢先に、吉野経由で結果的に美濃国根尾城から伊予国に移動していた名将・脇屋義助が病に罹って死んだ事だろうか。この幕府にとっての幸運がなければ、四国は細川一族の支配から脱して脇屋義助の支配する南朝の一大拠点となっていた可能性も考えられた。

 だが、実際は脇屋義助(新田義貞の実弟)の死をこれ幸いと考え、後世の偉人(管領・細川頼之)の父の細川頼春による南軍掃討作戦が四国で実行される結果となった。

 とはいえ、亡き高貞(塩冶判官)に続くかのような名のある同族武将の南朝降伏の動きは、佐々木惣領(六角家当主)の氏頼にとって冷や汗ものの話だった。

 

 

「女のために南朝へ降るなど、まさに論外。今後は男女の情に拘って幕府への忠誠を捨てぬよう一族への注意喚起を徹底して──」

 

 

「いや、それには及ばぬ。恐らく逆効果だ。絶対に止めておけ」

 

 

「……は」

 

 

 正月に室町幕府の両輪の師直と直義の思わぬ連続発病を受けて、人々が後醍醐天皇の怨霊のせいではないかと噂する事態となっていた暦応五年(西暦1342年)も四月下旬の改元*3により、元号は「康永」となる。

 そして康永元年(西暦1342年)六月七日、当代の美濃国守護の土岐頼遠(弾正少弼)が兵を率いて京に入る。この時、誰が想像し得ただろう。三ヶ月後に土岐頼遠が前代未聞の大狼藉を働くと。常人よりも具体的に先を予見する氏頼(近江三郎)でさえ、土岐氏史上最大の危機がまさか擾乱まで十年近く猶予があるタイミングでやって来るとは、夢にも思っていなかった。

*1
北朝の文官による記録。南北朝時代を代表する重要史料。

*2
畠山高国の後任の伊勢国守護。

*3
法勝寺焼失による判断。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。