崇永記   作:三寸法師

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▲8+

〜1〜

 

 

 内紛とは、何も外敵の居なくなった勝者のみの特権ではない。

 北朝において腹黒坊主の佐々木道誉(佐渡判官)が妙法院を焼いて比叡山と対立したり、驍将の桃井直常(播磨守)伊賀国(守護国)の悪党たちに政策面で妥協して東大寺の反発を招いたり、挙げ句の果てに将軍執事(高武蔵守師直)の讒言のために名将の塩冶高貞(判官)が滅んだりした一方、南朝でも内紛が勃発した。

 南朝は後村上天皇の御時で興国二年(西暦1341年)を迎えて、先帝(後醍醐天皇)の遺した不屈の闘志が色褪せ始めたのか、一部から南北講和論が唱えられるようになっていた。いや、一部というのも語弊があるかもしれない。

 

 

前関白(近衛経忠卿)は……何を戯けた事を考えておられるか!」

 

 

「どうか気をお鎮めください、親房卿!今は対策を考えねば!」

 

 

「対策……?和平路線はこの際、吉野で採用されなかったから何も言うまい。だが、春日。前関白(近衛経忠卿)はそれで腹いせに余らの東国征圧計画を妨害するだけで飽き足らず、『藤氏一揆』なる厄介なものを結成しようと……前関白(近衛経忠卿)自ら第三勢力を創る気だ!あの阿呆め!」

 

 

(村上源氏の余への当て付けのつもりか……?よもや藤氏長者が斯くも阿呆だったとは思いも寄らなかった!身の振り方を誤って南朝にも北朝にも相手にされなくなり、終いに自棄になったか!?)

 

 

 講和論は敢えなく棄却され、結果的に南朝公武の士気を低下させかねない主張を振り翳したため、南朝公卿・近衛経忠は関白の座を追われる事になった。しかし、いつの世においても()()()()は恐ろしいものである。近衛経忠は野望に取り憑かれ、自ら天下を握って板東は小山氏*1が管理するという奇想天外な構想を打ち出した。

 それこそが『藤氏一揆』である。近衛経忠(関白)の辣腕によって小山氏だけでなく、結城氏や小田氏*2といった藤原氏の力を公武の枠を超えて集め、覇権を目指そうというものだ。勿論、この構想は結局夢物語に終わったものの、東国における南朝軍成長プランに大きく影を落とす事になり、北畠親房(准大臣)たちにとって大迷惑な話であった。

 

 

「折角あの手この手で師冬軍を窮乏させておると申すに、前関白(近衛経忠卿)自ら南朝軍を混乱させるとは!思うに元の木阿弥では済むまいぞ」

 

 

「……被害が最低限に済むよう周辺武将の引き締め直しを。高師冬(三河守)ばかりか、同じ北朝関東執事の上杉憲顕(民部大輔)まで勢い付く可能性がございます。特に新田義興・義宗兄弟が危うくなるかもしれません」

 

 

「であれば、宗良親王殿下にもお声掛け申さねば。何はどうあれ、こんな風聞が立っては恥だ。決して相手にすべからずと伝える」

 

 

 しかし、仮にも藤原氏のリーダーと目され、後村上天皇の即位時に屋敷を用いさせた程の政界の大物・近衛経忠(前関白)の動きは、師冬(高三河守)との戦で釘付け状態の親房(北畠准大臣)顕国(春日中将)でどうにかするには限界があった。

 東国の南朝軍は混乱を免れず、越後国の新田軍残党は亡き主君の義貞(新田左中将)ばりに疑問符を浮かべながら、次々と城を失った。北朝で言うところの延元四年(西暦1341年)六月上旬、北朝関東執事の片割れの上杉憲顕(民部大輔)の顔は充実感で満ちていた。鎌倉へ送る朗報が用意できたのである。

 

 

「義詮様もお喜びになるだろう。この東国では既に御舎弟(直義様)派閥と()()派閥の争いが表面化し始めている。師冬(高三河守)殿は先月末に敵の重要拠点の一つを落としておきながら、未だ攻めあぐねて長期戦を続けているのに対し、我らはこうして越後国の新田軍の城を悉く陥した。どちらの軍功がより際立っているかは義詮様の目にも明らかだ」

 

 

(義詮様に恩を感じさせる事は今後に有利……京では尊氏様の新たな御子が次々産まれているようだが、次期将軍が義詮様である事に変わりはない。副将軍・直義様が生き残るために、義詮様の心象は必要不可欠。我らがその心を掴んで、直義様をお支えしますぞ)

 

 

「上杉様。関東の北朝武士たちは師冬(高三河守)の強引な出陣要請に戸惑い、武州や相州の主力の無断離脱、守護の命令無視が今も相次いでいるそうです。師冬軍は近く敵総拠点の小田城攻略に入るようですが、我らはこれより如何しますか?何でも宗良親王が想定と違って信濃国ではなく、越中国に逃げたとか。追撃する余力はまだ十分に」

 

 

「……長尾。お前も知っての通り、家長(斯波陸奥守)殿の遺書には先々に備えて関東武士たちの心を掴めとある。今貪欲に南朝の宗良親王を討ったところで、新たに得られる旨味は(たか)が知れているが、逆に関東武士たちへの報恩は後のずっと大きな勝利に繋がる。直義様のためを考えれば、関東に広く上杉家の恩恵威光を知らしめるのが先決だ」

 

 

「は。では、新田義興・義宗兄弟の首狩りも同じく」

 

 

「義興は若くとも三年前にあわや高師泰(越後守)を討ち取りかけた剛の者。恐らく弟の義宗にも同等の素質があると見るべきだ。並の落武者狩りでは死に絶えまい……程々で十分だ。最重要課題は別にある」

 

 

 内紛に備え、関東で早々に憲顕(上杉民部大輔)が派閥結成の準備をしている。

 元関東庇番二番組副頭の憲顕(上杉民部大輔)は、生前の家長(斯波陸奥守)が抜群の頭脳で見通した通り、関東の王者の資質を備えた人物であった。その活躍が以後数百年に掛けて続く室町時代の関東管領の礎になっていく。

 

 

 

 

 

〜2〜

 

 

 

 

 

 ところで、前時代の関東の王者・北条氏の生き残りである時行(相模次郎)はこの頃、何をしていたのだろうか。盟友・諏訪頼継との協力作戦も不首尾に終わって大徳王城が陥落して以来、時行(相模次郎)は表舞台に姿を現していなかった。信濃国で僅かな郎党たちと山奥暮らしである。

 とはいえ、忍びを複数人抱え、諏訪氏然り保科党然り決して外界との交流を断っている訳ではなく、情報は多少入ってきていた。

 

 

「若。師冬の関東統治が上手くいっていないって噂、マジっスか?逃若党に居た頃の文武両道ぶりからしたら考えられねぇっスよ」

 

 

「……野心が悪い方に出たんだ。吹雪は素面(しらふ)なら大陸の歴代の名将たちにも(まさ)る実力があるのに、あんな野心満々な顔じゃ、武家政権の中枢でやっていけない。足利家執事の猶子が関東執事の職名を振り翳し、坂東武者に家財を売り払ってでも出陣しろ、軍規を犯したら即所領没収、なんて横暴が過ぎる。きっと今に解任されるぞ」

 

 

「……師冬の野郎が悪政を敷いているってんなら、若。討ちに行きますか?丁度、皆も去年(大徳王城)の合戦の傷が癒えてきた頃合いですぜ」

 

 

 逃若党副将の祢津弧次郎は息巻くも、時行(相模次郎)は首を横に振った。

 確かに時行含め北条軍の戦傷は回復しつつあるが、広大な関東における戦で運用するためには幾ら何でも数が少な過ぎる上、越後国でもう一人の関東執事の上杉憲顕(民部大輔)の手が空いたばかりで、常陸国の前線へ赴くのは危険が過ぎる。また、藤氏長者にして無茶な構想を抱く近衛経忠(前関白)が厄介だ。胡散臭いとはいえ、予断は許されない。

 

 

「藤氏一揆のせいで、南朝内部は混乱している。そんな状況では()()()()()一枚を頼みに残り少ない郎党を連れて行けない。それに玄蕃たちが集めてきた情報によれば、元々南北の講和を願う立場だったらしい前関白(近衛経忠卿)にとって、中先代の私は目障りで仕方がない筈だ。藤氏長者の前関白(近衛経忠卿)は我が北条家どころか、あの北畠家ですら家格で抗するに心許ない。前関白(近衛経忠卿)の圧に屈して、私を……なんて話に吉野でなったら、身の置き所が無くなる。今は()()を刺激できない」

 

 

「……ま、親房卿たちからしちゃあ、信州から土地勘すらない小勢が加わるより、無駄に権威ある前関白に大人しくして貰う方が勝利への近道っスからね。ですが、若。(軍師)が消えて慎重を期しているのは分かりますけど、悠長にしてたら好機が逃げちまいますよ?」

 

 

「……堪えてくれ、弧次郎。常陸国の親房卿のところには春日卿がいるんだ。吹雪と上杉が足並み揃えて討てるとは思えない。今はこの地より見守り申し上げよう。それより私たちは数年以内に宗良親王殿下をお迎えする準備を。越中国がそう長い間保つ筈が無い」

 

 

「お迎え準備といえば、前に香坂が愚痴ってたって件はどうなったんスか?確か邸宅の間取りやら家具やらが分からないっていう」

 

 

「大丈夫。夏を伊豆国に遣わして大母上にお尋ねした。北条家は親王将軍をお迎え申し上げた歴史がある。その歴史が今は頼りだ」

 

 

(この雌伏の時はきっと尊氏征伐の未来に繋がっている。玄蕃だって千寿丸の忍び集団に痛い目に遭わされた教訓から、組織化の道を模索してるんだ。足利氏が乱れたその時、喉笛に喰らい付くぞ)

 

 

 かつての英雄の潜伏生活はまだまだ続く。諏訪大祝の諏訪頼継すら遠征できないのに、自ら開墾しなければならない程に地盤が脆弱な中先代(北条時行)が郎党を率いて軽々しく国外に行ける道理は無かった。

 だが、この時期において信濃国より出征した武将が居ない訳では無かった。むしろ守護の小笠原貞宗(治部大輔)に至っては関東執事の師冬(高三河守)に協力して常陸国の(南朝)軍討伐に赴いた大名の代表格であると言えた。

 

 

 

 

 

〜3〜

 

 

 

 

 

 暦応五年(西暦1342年)二月、師冬(高三河守)が周辺国で評判になる程、大々的に諸大名を招いた。勿論、この情報は程なくして京の師直(高武蔵守)の耳にも入った。

 昨年夏以来、将軍執事(高武蔵守師直)の猶子・高師冬(三河守)は同じ関東の責任者である上杉憲顕(民部大輔)の軍功に触発されてか、常陸国の南朝軍を長期戦で巧みに圧迫し続け、敵方の主力武将・小田治久を降伏させて、北畠親房を大宝城、春日顕国を関城に追い詰めるという戦果を挙げていた。

 

 

「ほう。師冬は信濃国守護・小笠原貞宗も招くか。その嫡子の政長は父親に劣らず優秀と聞いている。政長が留守を預かれば、諏訪軍などの反攻の心配は無い。そこまで読んで師冬は遠征させたか」

 

 

「これで勝ち確だな。それにしても……クク、兄者。元時行党の()()が前に大徳王城で北条軍に勝った貞宗を呼び付けるとは、とんだお笑い草だぜ。どうせ貞宗も分かってんだろ?師冬の正体をよ」

 

 

「あの銀髪だからな。分かるヤツには分かるだろうさ。とはいえ、それで今更どうにかなるものでもない。ただし、春日顕国は依然油断がならん。大宝城・関城周辺の地図に目を通してみたが、南朝軍の両城は掎角の勢を成すに絶好の距離にあって、しかも沼地が巧妙に活かされた立地になっている。守るに易く、攻めるに難いとはこの事よ。師冬や貞宗は、海路遮断は勿論、相当上手く戦わねば」

 

 

「て事は……攻略にまだまだ時間が掛かりそうか?」

 

 

 婆娑羅武将の師泰(高越後守)は眉を顰めた。今や幕府の副将軍の直義に子が居ない以上、高一族は将来的に斯波(尾張足利)家や上杉家などとの主導権争いを行う事になるだろう……というのが当時あり得た見方である。

 だからこそ、この時の師直(高武蔵守)はそこまで直義に目くじらを立てていなかった。むしろ師直(高武蔵守)は副将軍の直義と今春立て続けに発病する程度に距離が近く、二月五日には堂々と直義の病が軽くなったと周知している。今は子無しの直義に良い気をさせて、軍功で他家に遅れを取らないようにだけ気を付けようという気楽なものだ。新田軍討伐任務で成果のあった斯波(尾張足利)・上杉両家の方が余程目障りだった。

 しかし、その肝心の軍功で猶子の師冬(高三河守)が存外、手間取っている。

 

 

「高師冬……頭が切れると思いきや、意外と役に立たないか?」

 

 

「さて、春日の強さを考えれば、長期化は考えられたが……何のために南朝の藤氏長者・近衛経忠の離間工作を行ったのか、少しは考えて貰いたいものだな。和平の話を餌に京の荒屋に誘い込んで尊氏様の涎をくれてやり、ヤツの平常心を奪う策が上手くいったため、藤氏一揆とかいう馬鹿げたお遊び集団結成の運びとなって小田氏が南朝で孤立し、遂に裏切って師冬の小田城攻略に貢献したのだ」

 

 

「つまり、師冬はそれなりに良くやっているが、支援工作の割に時間を掛け過ぎか……兄者は事と次第によって師冬を西国に帰らせる気だな。確かに師冬の更なる経験にはそれが良いかもしれねェ」

 

 

「そうだ。関東で恩賞が行き届いているかも気になる。親房や春日の討伐が完了し次第、重茂*3と関東執事の職を交代させての様子見も考えなければ。それに、だ。師冬の()()調()()をしておきたい」

 

 

 足利幕府による南朝軍討滅作戦は未だ続いている。暦応五年(西暦1342年)三月十三日、小笠原貞宗が信州武士を率いて北畠親房の拠る城の攻撃に参加し始め、翌月以降も続けて関東執事・師冬(高三河守)の作戦に従った。

 四月二十七日には北朝(持明院統)が改元を決断。この裏に法勝寺焼失という古典『太平記』で扱われる程の重大事件があったとされているが、何故か天狗らしき者の放火の目撃情報が載っているのは別の話。

 そして、元号が改まって康永元年(西暦1342年)も九月上旬、事件は起こった。

 

 

「何者だ?狼藉なり!降りられよ!」

 

 

「これは意外だ。この御時世、俺に下馬を命じるか?京に左様な馬鹿が居たとは……決めた。各々一人一人、鏑矢を受けるが良い」

 

 

「な、な、何たる田舎者か!?そこの文官を見習う事すらできぬと申すか!?御幸に出会せば、下馬して道を譲って畏まるのが世の倣いであるぞ!?これにおわすを光厳の院と知っておるのか!?」

 

 

「……院?院だと?それとも犬と言ったのか?犬なら射るまでよ」

 

 

 乾いた笑いと共に一騎当万・土岐頼遠(弾正少弼)は暴言を吐き、続けて酔ったまま、牛車や幾名もの随身たちを甚振り始めた。本気を出せば皆殺しにするのも容易いだろうに、あくまで戯れの延長線上とばかりに供回りの公卿たちを蹴散らし、光厳上皇の牛車を横転させた。

 古典『太平記』によれば、光厳上皇は中納言公重の袖を借りて、互いに泣きながら帰ったという。なお、その公重はかつての後醍醐天皇暗殺事件の首謀者・西園寺公宗の弟にして密告者であった。

 勿論、これが生来真面目な副将軍・足利直義の逆鱗に触れた事は言うまでもあるまい。しかし、直ぐの処罰は叶わなかった。土岐(弾正)(少弼)は脱兎の如く近江国を通過し、美濃国(本拠地)へ逃げ帰ったのである。

*1
下野国の大豪族。中先代の乱で当主の小山秀朝が建武政権側の足利直義軍に所属して戦死したが、次代の朝郷は『藤氏一揆』において板東管領という立場を得るものとされた。

*2
常陸国の有力豪族。鎌倉時代初期に十三人の合議制の一角を成した八田知家の子孫で、南北朝時代が始まると八代当主の治久が南朝公卿の北畠親房に味方して自らの居城に迎え入れた。新田義宗の母が小田氏の出身とされる。

*3
師直や師泰の弟。亡き末弟・師久の兄。

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