崇永記   作:三寸法師

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〜1〜

 

 

 美濃国守護・土岐頼遠(弾正少弼)は、古典『太平記』において挙兵できず、やむなく密かに上洛したとされる一方、遥かに史料価値の高い当時の貴族(中院通冬)の日記『中院一品記』によれば、十一月末に軍勢と共に京入りしたという。いずれにせよ、頼遠(弾正少弼)は本拠地・美濃国から中間地点の近江国を経て、京の高僧・夢窓疎石の元へ向かったのである。

 当然、この動きは将軍執事(高武蔵守師直)の知るところとなる。師直(将軍執事)は同じ婆娑羅武将として、大功労者として頼遠(弾正少弼)を助命させるつもりでいた。

 

 

「先に下野判官(二階堂行春)*1が逃亡先から帰って死罪を免じられ、(ほとぼ)りが冷めるまでの間、讃岐国に流された前例がございます。将軍、大した軍功なき下野判官(二階堂行春)ですら、族滅どころか命を長らえました。まして土岐は青野原をはじめ、殊勲ある名将です。これに罪ありと斬って族滅すれば、鎌倉の悪習の二の舞に。諸将は京で身の置き所を失いましょう。また、北朝など所詮、我らの武力の傘失くば、天下に居場所なき飾りに過ぎませぬ。どちらを尊重すべきかは明白です」

 

 

「う〜ん、任せる。師直、我は体調が優れぬのだ」

 

 

「は。では、将軍。明日も公務を見合わせられますか?副将軍と御一緒に、天龍寺の綱引並びに禄引の儀に出席の御予定でしたが」

 

 

「ダルい……幾日か延期してくれ。万事よろしく頼んだ」

 

 

「……は」

 

 

 当時の記録(『天龍寺造営記録』)によれば、室町幕府の肝入りで創建の天龍寺において十二月二日に行われる筈であった儀式が、数日延期されている。

 理由は主に二つだ。康永元年(西暦1342年)のこの時期、京は指名手配犯の土岐頼遠(弾正少弼)への対応でそれどころで無くなっていた他、随一の要人の尊氏(征夷大将軍)が疾病していたという。因みに、同年(康永元年)で尊氏は数え三十八歳だ。

 確かにそろそろ体調の乱れが起こり始めても可笑しくないという歳だが、尊氏は征夷大将軍で武力に卓越し、常人とは格が違う。

 一時帰宅の師直(高武蔵守)に対し、弟の師泰(高越後守)が事情を聞いて疑義を呈した。

 

 

「あの尊氏様が病……?兄者、もしやそれは」

 

 

「言うな、師泰。忘れたか?俺とて時に発病するのだ」

 

 

 結論から言えば、天龍寺における綱引・禄引の儀は数日も経つと無事に行われ、尊氏は()()()とした顔で(直義)たちと共に出席する。

 何はともあれ、尊氏はこの件で公家や民たちからも、諸将からも反発されずに済んだ。どう采配しても誰かの反感を買う事が分かりきっているため、矢面に立たないという尊氏(初代将軍)の処身の妙である。

 

 

「将軍を押し出す訳にいかねェってのは分かったぜ?だが、兄者。そうなると土岐はどうやって助け出す?(土岐)が南朝と通じたなんて噂が立ってるらしいじゃねぇか。一歩間違えりゃ、俺たちも──」

 

 

「案ずるな。土岐は嵐山近くの臨川寺にいる。あそこは国師(夢窓疎石)の治める寺だ。弟殿も滅多に手を出せまい。しかもその夢窓が今、弟殿に直談判しているそうだ。あの国師(夢窓疎石)は土岐家に借りがあるからな」

 

 

 この時となっては三十年近くも前の事であるが、夢窓疎石には数年間を美濃国長瀬山で過ごしていたバックグラウンドがあった。

 同地は亡き前土岐惣領の頼貞(伯耆入道)の治めていた場所だ。その頃は不惑に至ろうかという歳であった夢窓疎石は、土岐氏の世話になっていたのである。これは今や将軍執事の師直以外も知る話であった。

 

 

「夢窓か……兄者。もし弟殿がそれでも強情だった場合は?」

 

 

「何。直義は所詮、副将軍だ。尊氏様が今は病で公に動かれないとしても、密命あらば結局逆らえぬもの。俺は今日から将軍邸に泊まり込みで看病するつもりだ。俺の看病で御病気は(たちま)ち良くなる」

 

 

 幕府の主戦力を守るべく将軍執事(高武蔵守師直)が動き出した一方、大半の権限を握る副将軍・直義は黙って夢窓疎石の言葉に耳を傾けていた。

 こんこんと語る夢窓疎石のすぐ斜め後ろには佐々木惣領の氏頼(近江三郎)の姿がある。完全武装の氏頼(近江三郎)は同族の国師(夢窓疎石)の護衛であると言い張っていたが、その態度が今回の件における暗躍を如実に、そして言外に物語っていた。氏頼(近江三郎)は忘れているのだろうか。六波羅探題が滅んだ際の氏頼(近江三郎)──当時の千寿丸──の動きを直義も知っている事を。

 

 

(氏頼め……道誉の時といい、澄ました顔で何と直情的な。我が目の黒い内は、近江国統治を認めても決して政権中枢には入れんぞ)

 

 

「──ですから、直義殿。ここはどうか愚僧の顔を立てると思って土岐殿を御容赦くださらぬか。このままでは天龍寺造営にも支障が出ましょう。必要あらば、朝廷への口利きも愚僧が致します故」

 

 

「……いえ、夢窓殿。お話は分かりました」

 

 

(土岐頼遠の蜂起を防ぐため、その甥の頼康(刑部少輔)ら有力な同族武将たちに将軍御教書を以て忠義心を呼び掛けた手前、無理な族滅断行は道義に反する。また、御教書の権威にも障るか……致し方あるまい)

 

 

 古典『太平記』によれば、天下の教導者として朝廷や幕府から格別な崇敬を勝ち得ていた夢窓疎石の要請により、直義は決めた。

 光厳院への無体という本来なら族滅ものの所業に対し、寛大な処置を計らう事にしたのである。具体的に言えば、土岐氏の美濃国における権益を認め続ける事にしたのである。ここに名門・土岐一族の存続が決まった。しかし、苦渋の決断の直義にも意地がある。

 

 

「ただし!土岐頼遠の処刑!これだけは(たと)え夢窓殿のお言葉があろうと譲れませぬ!ヤツは流刑の二階堂行春(下野判官)と違い、その手で不遜にも上皇陛下御一行に危害を加えた!これに何の処罰も行わぬとあっては正道が示せませぬ!ここは当人だけでも死罪に処さねば!」

 

 

「直義殿……あれは今、愚僧の臨川寺におります。愚僧が執り成しても処罰を免れぬと知れば、何を致すものか。最悪、この京が」

 

 

国師(夢窓疎石)殿、十分でしょう。副将軍はでき得る限りまで譲歩された」

 

 

「「!」」

 

 

 やっと氏頼(近江三郎)が口を開いた。何食わぬ顔で夢窓疎石を嗜めている。

 遥か昔の土岐氏からの恩を返すというより、若き佐々木惣領の(近江)(三郎)からの圧力のため、本来は機を見るに敏な性質の夢窓疎石が嘆願しに来たのだろうと踏んでいただけに、直義は意外な顔をした。

 ここまで事が運んだからには土岐氏の一族郎党だけでなく渦中の頼遠の助命をも求め、断固強硬するのではないかと危惧していたのである。しかし、見たところ、氏頼(近江三郎)は然程の拘りはない様子だ。

 

 

「副将軍は()()()()()()と申された。これ即ち、頼遠(弾正少弼)の親類縁者を悉く助け、子孫の本領安堵を認めるという意味……ですよね?」

 

 

「……そうだ」

 

 

「であれば、国師(夢窓疎石)殿。もう言う事無しではありませぬか。臨川寺であれば、佐々木惣領の俺だけでなく、(トン)……ゴホン。兵部少輔(細川顕氏)殿が立ち入っても、然程不審には思われますまい。副将軍、兵部少輔(細川顕氏)殿の監視の元、私が隣国の守護殿を説得致しましょう。如何です?」

 

 

「ふむ……細川顕氏(兵部少輔)はかてねより夢窓殿に崇敬を寄せ、兄上や私に紹介した者としても有名だ。当代の侍所頭人としても幕府軍の討ち手を動かせる。良かろう。土岐めの亡骸を三条大宮に晒すのだ」

 

 

「は!」

 

 

 あくまで頼遠(弾正少弼)断罪路線は曲げぬという直義の判断は、民たちの賞賛を受ける事になったという。なお、古典『太平記』の数ある伝本のうち、頼遠(弾正少弼)助命が完遂できず、執り成しが不首尾に終わった国師(夢窓疎石)を揶揄する落首が見られたとするものが一部あるのは別の話だ。

 時は康永元年(西暦1342年)十二月一日の夜、北畠顕家(規格外貴族)との一戦の如き軍功で誉れ高い一騎当万の剛将・土岐頼遠(弾正少弼)の命運が尽きようとしていた。

 

 

 

 

 

〜2〜

 

 

 

 

 

 翌夜明け前、佐々木惣領の氏頼(近江三郎)は急いで馬を東へ走らせていた。

 焦燥感を募らせ、額に汗が滲ませる。このままではマズいと。

 深夜での出来事を思い返し、氏頼(近江三郎)は馬綱を握る力をつい強めた。

 

 

『な……何の毒だ?これは』

 

 

『毒とは失敬な。御神酒なり。ずっと前に頂いた御涎と超高級品の近江米を使い、何年も掛けて醸造した特上品だ。最期の晩餐としてこれ以上、相応しきものはござるまい。ささ、頼遠(弾正少弼)殿。そこの刀は貴殿のものだ。温情ぞ。それを使って……首を断ち切り、ご自害召されよ

 

 

『おのれ……負けん!』

 

 

 強い光を幻視してか、頼遠は確かに刀に手を掛け、否応無しに自らの手で首を断とうとしていた筈であった。だが、頼遠(弾正少弼)が両目を光らせた途端、風向きが変わった。臨川寺で暴れ始めたのである。

 お陰で氏頼(近江三郎)は同族の夢窓疎石の護りで手一杯にならざるを得ず、監視役の豚カツ(細川顕氏)は失神して伸びる始末となってしまった。おまけに頼遠(弾正少弼)は掌を返して襲い掛かる軍勢の隙を見て、境内から逃げ出し、大胆不敵にも洛中へ入った。よもや師直(将軍執事)邸に逃げ込むつもりか。

 何も頼遠(弾正少弼)は臨川寺で逆鱗の為すままに暴れ回った訳ではないようだった。隠された馬たちを発見するや否やの逃走劇なのだから。

 

 

(我が護衛たちは遅れているか。やむを得ん。夢窓疎石の防御さえ完璧なら……山内定詮(俺の次弟)たちで盤石となす。にしても頼遠め、我が馬術に容易く勝てると思うなよ!間も無く追いついてやるからな!)

 

 

「ッ!?」

 

 

「チッ。腐っても佐々木の長。不意討ちは効かぬか」

 

 

「頼遠ォ!」

 

 

 考え込みながら全速力で馬を飛ばしていたところに、死角から突然襲い掛かられれば、並の武将なら避けられない。まして土岐頼遠(弾正少弼)の攻撃なら尚更だ。しかし、氏頼(近江三郎)は現にこうして避けて見せた。

 未来は若い自分のものである。氏頼(近江三郎)は確信していた。二年前は(脇屋)(義助)討伐で肩を並べた身なのだ。既に征夷大将軍の加冠を受けし佐々木惣領として、死にゆく土岐惣領に劣る道理は何処にも無いと。

 

 

「今に示さん!最強は二人も要らぬと!」

 

 

「まだほざくか……六年前は顕家に城を落とされた赤子風情がよくも俺を謀ってくれたな。だが、底が浅い。神酒を呑んで一時は眩まされたが、これでかつて無く絶好調だ。己の浅慮を地獄で恨め」

 

 

「残念でした!俺は死んでも地獄には行きません!」

 

 

「……その口、叩けなくしてやろう」

 

 

 完全武装の佐々木六角氏頼(近江三郎)と酷く軽装ながら絶好調を誇る土岐(弾正)(少弼)の一騎討ちが始まった。方や目まぐるしい馬の小回りで翻弄し、方や自慢の膂力で威力もスピードも当代随一の斬撃である。簡単には勝負が付きそうもない。勝負は激しさも増していく。伝説の趙子龍と万夫不当の呂奉先がもしも干戈を交えていれば、こんな具合であったろうか。後の者が見れば、そう考えたに違いない激戦だ。

 金属音が鳴り響く。若くして氏頼(近江三郎)の方が繊細な技術を持っているらしい。顔を引き攣らせながらも巧みに斬撃を受け流す。次世代最強武将を志す稀有な有望株にしかできない卓越した芸当である。

 

 

「小癪な……クソ、調子が良過ぎるのも考えものか」

 

 

「はン!そうかもな!単調で逆にやり易いわ!」

 

 

「ならば、工夫を施せば良いだけの事。これでどうだ?」

 

 

「ッ!?危な!?」

 

 

 紙一重で氏頼(近江三郎)が斬撃を躱した。()()()()近くの髪が何本かハラリと落ちる。氏頼(近江三郎)は気付いた。無防備でも騎乗の土岐頼遠(弾正少弼)は金ヶ崎城で飢餓状態の新田義顕(義興の兄)に比べ、遥かに手強いと。無論、決して舐めて掛かれる相手ではない。活路を求め、氏頼(近江三郎)は深く息を吸った。

 幸い、普段の土岐頼遠(弾正少弼)を守る盤石な鎧は無い。大得意な死中に活を求める攻撃で必ず討てる。馬の駆け引き勝負なら負けは無い。

 

 

(もう少しあれば、完全装備の頼遠(弾正少弼)でも正面から容易く斬って捨てる力を得られていただろうが……齢十七、良くも悪くも若武者か)

 

 

頼遠(弾正少弼)!最強の座は今決まる!()()なんて無粋な言葉は不要だ!」

 

 

「呆れたヤツよ。まだ俺に勝つ気でいるのか?」

 

 

「当たり前だ!いざ、決着を!」

 

 

「ここは()()()()か。お前の臨終の地には丁度……!?」

 

 

(何だ?また身体が勝手に)

 

 

 土岐頼遠(弾正少弼)は古典『太平記』でこそ侍所の細川顕氏(兵部少輔)の責任下で三条大宮において刑に処されたとされているが、前出の『中院一品記』によれば、六角壬生という地で執行を受けたという。どんなに栄華を誇りし一騎当万の剛将も、奢れば先の例に漏れず滅びるのだ。

 康永元年(西暦1342年)十二月二日未明、ここに賞罰が今再び明らかになった。

 三日後、副将軍・直義と将軍執事・師直は天龍寺の綱引・禄引の儀のために再び顔を合わせた。居合わせし幾名もの大名たちは皆一様に悟った。先の鎌倉のような権力争いの幕が早晩上がる事を。

 血を血で洗う内紛の本格始動まで、残り十年を既に切っていた。

 

 

 

 

 

〜3〜

 

 

 

 

 

 翌年(康永二年)八月、室町幕府で一つ注目すべき人事が行われた。京極家当主の道誉(腹黒坊主)が妙法院の熱さを忘れ、出雲国守護職を得たのである。

 これを以て、一時は足利氏の有力武将・山名時氏(伊豆守)の手に渡っていた以前の塩冶高貞(判官)の故郷を、別の佐々木一族支流の京極家が取り戻したという格好である。以降、出雲国は長い間、道誉やその子孫たちの治める国となり、換言すると京極氏が本格的に守護大名としてグレードアップした。惣領の氏頼(近江三郎)の推し進める郡奉行制で、北近江にも本家(六角氏)の侵食を許しつつあったとはいえ、別の広大な地域に手を伸ばす事ができたのである。道誉(腹黒坊主)は早速任国(出雲国)に守護代を置いた。

 

 

「秀綱殿。御父上はあの厳覚を守護代とされたとか。実に賢明だ」

 

 

「宗家にお褒め頂けるとは……父・道誉に代わり御礼申します」

 

 

「それはそれは。吉田厳覚は几帳面な男だ。かつて幼かった私には惜しくも弓矢の指導が肌に合わなんだが、それでも石津であの者の見どころを遅れて知った。道誉殿が重宝するのも今なら分かる」

 

 

「はぁ。それより宗家。いい加減、そろそろお話が──」

 

 

「待たれよ。秀綱殿、貴人たちの御一行のようだ」

 

 

(北野天満宮の縁日の日だからな……貴人たちも()()()()()()だ)

 

 

 佐々木惣領(六角家当主)の氏頼と京極氏後継の秀綱が、京の道で馬を歩ませながら同族同士で話をしていた矢先、揃って警戒心を露わにした。

 二人とも各々の郎党に日差し避けの傘を差させ、氏頼はその辺で拾った紅葉の枝を烏帽子親(足利尊氏)ばりに無邪気に扱い、秀綱は熱燗を持ち歩いていた。共通の対象を前に、両名は顔を見合わせた。亡き土岐頼遠(弾正少弼)の事件以来、武家たちはその二の舞となる事を恐れていた。

 

 

「何と気味の悪いヤツらだ。あの見窄らしい牛車、かなり困窮しているようだ。殿上人か、はたまた院か……尋常ではあるまいぞ」

 

 

「宗家。あの頼遠(弾正少弼)ですら異常者に会って無惨な目に遭いました」

 

 

「……確かにあれは酷かった。院に会いさえしなければ、今も生き長らえていただろうに。咎められては敵わないな。下馬しよう」

 

 

 若い武者たちが氏頼(近江三郎)の一声で装いを改めて、平身低頭し始める。

 これに怯えたのが今の京にありふれた牛車の殿上人であった。

 院すら散々に射る土岐一族の者かと誤解し、速やかに降りなければ殺られると判断したのか。しかし、慌てた者こそポカをしがちなのは今も昔も変わらない。その殿上人は鈍臭くも牛車から飛び降りた途端、まだ(ながえ)*2を外していなかった事が祟って、車にぶつかってしまった。烏帽子が落ち、大切な(もとどり)()()()()()()な状態だ。

 

 

「こ、これはこれは。お武家様。ご機嫌麗しゅう存じましゅる」

 

 

(((うわ、恥っず……)))

 

 

 片手で髪を押さえ、もう片方で(しゃく)を持って跪いて()()()()()()を吐く殿上人の態度は即刻、通行人を含めて人々の嘲笑を誘った。

 室町時代初期、京に政権ありと言えど、従来の礼儀作法は武士たちの更なる台頭で打ち破られていく。その原動力が婆娑羅という一時の流行にあった事は、最早言うまでもないだろう。だが、婆娑羅の仕掛け人の道誉(腹黒坊主)も、その惣領の氏頼(近江三郎)も否応無しに幕府の内紛に身を投じていく事になる。勝利者に安寧というものは望み得ないものなのか。何の憂いもなく笑っているのは天下に尊氏だけだった。

*1
土岐頼遠の事件における傍観者。一緒に笠懸に行ったところ、帰り道に頼遠が暴虐。頼遠と同じく、身の危険を察知して一時京から逃亡していた。

*2
牛に車を引かせるための二本の棒。




最後の箇所は『太平記』にある土岐頼遠の大逆事件の後日談を元にしています。本当はこの章のどこかで同巻の大森彦七事(伊予国註進)(楠木正成が美女なり鬼なりに化けて出るという与太話)も扱えれば良かったのですが……今後回想として触れられるかどうか。次章では天龍寺供養など楠木正行戦の前にやっておくべき事案を扱う予定です。
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