〜1〜
嫌いではなかった。信濃国守護の小笠原貞宗は六角壬生にて隣国武将が処刑されたという噂を聞き、素直にそう思った。ここ数日、生前の頼遠の鮮烈な言動を想起しては万感の思いに浸っている。
瘴奸然り、清原信濃守然り、貞宗が嫌いでないと思った人物はいつも不器用に生きた挙句、早死する。今回に至っては極限の武の持ち主であった筈の土岐頼遠ですら、老将の貞宗より先に逝った。
「おや。これはこれは貞宗殿。よもや此度の儀に御出席とは思いも寄らなんだ。師冬殿の指揮下に入り、常陸国の南朝軍討伐に従事していたと聞いておりましたが……途中で切り上げられましたか」
「……道誉殿。御主も伊勢国征伐を切り上げて参られたと見える」
(何と白々しい事よ。佐々木道誉ともあろう政治家が知らぬ訳でもあるまいに……此奴は土岐と違って、心底気に食わん。六年前は近江の戦いで千寿丸を出汁に、儂に恥を掻かせおった。それにしても惣領の千寿丸……否、今は氏頼か。氏頼が元服して早四年が経つと申すに、まだ道誉が一族の顔役として行事に参加しておるとは)
既に貞宗は常陸国遠征を切り上げて上洛した身だ。時は康永元年十二月五日、天龍寺の綱引及び禄引の儀に参加している。しかし、貞宗は集いし大名たちの顔色を見て異変を察していた。直義派武将と師直派武将の間に明確な亀裂が走っている様子なのだ。関東でも上杉憲顕と高師冬の間で、どことなく抜き差しならない気配が感じられたが、いよいよ京でも派閥争いが白熱し始めていくらしい。
内心、貞宗はしまったと思っていた。京がこんな状況になっているのであれば、今も師冬の傍らで常陸国平定に励むべきだったかもしれない。乱世では筋よりも実益を重視すべきという信条の貞宗としては、心情的にどちらかと言えば直義よりも師直に近かった。
勿論、有利であれば直義に付くも厭わぬが、土岐頼遠のような功労者への扱いを鑑みるに、合理主義者の師直の方が小笠原家が厚遇される可能性は高い。幸い、貞宗には先の塩冶高貞と違い、師直に狙われるような美しい妻は居ない。嫡男の政長の顔を見ても明らかだろう。天地がひっくり返っても師直の守備範囲にはあるまい。
(高師冬……どう見ても時行の元部下としか思われんヤツの下で戦うのは心外だからと言うて、軽々に匙を投げるべきではなかった。いや、再び膠着状態となっては、いつ迄も北関東に兵を置き続ける訳に参らぬのも確かだったが……もう少し粘るべきであったか)
「どうやら拙僧が居らずとも、義長殿や師秋殿だけで伊勢国の南朝軍は対処できるようですからなァ。それより土岐軍の不穏分子の監視のため、軍事に専念せざるを得ない宗家に代わり、斯様な公務を行う事こそ、拙僧の務め。武力ではとうの昔に宗家に追い抜かされておりますが、まだまだ文化で劣るつもりはございませぬ故」
「……それで氏頼殿の姿が見えぬのか。そなた含め六名もの佐々木氏が出席しておるに、惣領殿が不在とは妙だと思っておったが」
当時の記録によれば、足利兄弟や高師直の他、佐々木道誉や小笠原貞宗、更に三日前の頼遠処刑における責任者の侍所頭人・細川顕氏らの諸大名が、天龍寺の綱引及び禄引の儀に参加していた一方、加冠済みの佐々木惣領にして近江国守護の氏頼の名は見えない。
貞宗は納得したような言葉を吐きつつ、視線に疑念を滲ませた。
惣領の氏頼は飾りに過ぎず、実権は分家当主の道誉の手にある状態なのではないかと。しかし、道誉からすれば心外も甚だしい。
(この道誉がどれだけ宗家を立てていると……魅摩は今もなお本家の城に閉じ込められている。我が郎党たちは魅摩を顔世御前の二の舞にさせてはならじという宗家のお心遣いだと信じ込んでいるが、とんでもない。宗家は元より男女の情愛を捨てられる御方なのだ)
「宗家と言えば……貞宗殿は最近、宗家に会いましたかな?」
「?……いや、前に成長痛が酷いと言伝があって会えなんだ」
「ほう……貞宗殿はその言葉を鵜呑みにしたので?」
「そんな訳なかろう。あまり大きな声では言えまいが……亡き前出雲国守護の内通やその死に恥じてか、氏頼殿が職務以外で他人を避けがちという噂は耳にしておる。何かしら口実を付けて誘わねば、この儂でも屋敷から連れ出せまい。それは御主も同じだろう?」
「……ええ、残念ながら。然りとて佐々木氏としても、いつ迄も塩冶殿の事を引き摺ってはおられますまい。早く先へと進まねば」
この時、貞宗は見た。腹黒な顔の影に差す瞳の光の剣呑さを。
翌年八月二十日、腹黒策士の有言実行というべきか、京極家当主の道誉が足利一族の有力武将・山名時氏のものとなっていた出雲国支配権を将軍に認められ、再び守護大名として天下に躍り出た。
ここに道誉の勢力が再拡大し始める。一方、嫡流の六角家は当主の氏頼が積極性を欠いたためか、中々幕政に関与できずにいた。
〜2〜
西国で道誉が出雲国守護に任じられた頃、東国で大きな動きが生じていた。結城宗広の後継者・親朝が北朝方に転じたのである。
興国四年八月十九日のこの衝撃的転向により、関東における南朝軍と北朝軍の勢力バランスは大いに崩れる事となった。ただでさえ北畠親房及び春日顕国の両名が常陸国の関・大宝城に各々追い詰められ、必死の抵抗を続けていたところで足元を掬われたのだ。
もはや兵法の専門家と呼ばるるに足る顕国の知見も万策尽きてしまったのだろうか。案の定、両城は十一月に落城の日を迎えた。
「春日……無事であったか?」
「は……親房卿、これからどのように?」
「……藤氏一揆のせいで関東事業は滅茶苦茶だ。せっかくお迎えした興良親王の身柄も藤原氏に押さえられている。この上、近隣の伊達行朝の城まで陥落したとあっては巻き返しの術はなかろう」
これまで一時の押せ押せムードはあっても、その度に長期戦へ持ち込まれていた北朝の関東執事・高師冬であったが、今度ばかりは問屋が卸さなかった。北畠親房の関城、春日顕国の大宝城、そして伊達行朝の伊佐城にまで電光石火の攻撃を仕掛け、立て続けに陥したたのである。ここに高師冬の武名は天下有数のものとなった。
何せ子の顕家と違って奥の元帥役が関の山の親房はいざ知らず、男山で高師直や桃井直常らの錚々たる面々を数ヶ月もの間、一手に引き受けた春日顕国、更に青野原では北朝軍先鋒の小笠原貞宗と芳賀禅可の連合部隊を退けし伊達行朝を連続撃破したのだから。
「それでは親房卿、何卒吉野にお戻りください。政権の中枢で藤氏一揆の蠢動を抑えておかねば、関東平定は夢のまた夢でしょう」
「春日。その口振り、もしや……汝は残るつもりか?」
「はい……不屈の闘志で師冬軍に挑みます!」
失意のまま関東を去った親房に対し、執事の顕国は依然抵抗を続ける構えであった。顕国は以後数ヶ月間、常陸国に潜み続ける。
そして、親房は大業の関東平定を執事に託す形で吉野に戻った。
「親房……一体何があった?四月には下総結城氏当主や佐竹一族たちを数多討ち取っていたと聞くぞ。北朝軍の穴を掘る攻撃も落盤事故で失敗したという。やはり親朝らの離反が大き過ぎたか?」
「帝、あの短気の者どもはまこと許し難く存じます。ただ、真に憎むべきは武家の離反者より、和平を唱えた挙句に藤氏一揆を結成して南朝の利を損なった前関白・近衛経忠卿です。金輪際、信用してはなりませぬ。また、吉野朝廷は高一族の厄介さも知るべきかと。師直猶子の師冬すら今まで苦戦し続けたように見えて、その実は沼地に杭を打つなどの妙手で、此方の掎角の勢を封じた知将です」
関・大宝城の攻略戦で高師冬は様々な工夫を凝らしたとされる。
坑道戦術こそ穴を掘る者たちが圧死したために不首尾に終わったというが、乱杭による両城の連携妨害は沼地頼みの両城の弱点を巧みに突く事となり、情報面でも糧秣面でも上々の成果を挙げた。
南朝の後村上天皇の顔が引き締まる。敵の強さは己が即位前の征西時の比ではないのかもしれないと。北朝では塩冶高貞や土岐頼遠が逝ったが、活きの良い若手が更なる台頭の兆しを見せている。
「なれば、足利家執事・高師直はより別格の……顕家もあの色欲魔を倒す事は終ぞ敵わなかった。今や高師直が天下最強の武将か」
「は。足利氏を倒さんと欲すれば、まず高一族を除かねば」
高兄弟や師冬を討ち倒さない限り、吉野朝廷の返り咲きは望むべくもない。焦り混じりに出されたこの結論が、南朝にとって吉であるのか、凶であるのか。この時点では誰にも分からぬ事である。
間違い無いのは南朝に後ろ風が吹き続けているという事だろう。
興国五年三月上旬、顕国はかつて奇襲で男山を制した自身の先例を頼みとしたのか、一挙に大宝城を奪い返した。しかし、顕国の活躍もここまでだった。幾日もせず南朝軍は再び敗れ、親房不在のために総大将となった春日顕国の命運は、ここに尽きたのである。
〜3〜
東海道沿いには様々な寺社がある。熱田神宮もその一つである。
室町時代初期、後に第六天魔王の覇業の始まりとなる地において巫女の叫びが境内の小さな堂から漏れ、辺りに響き渡っていた。
「はあああああああああ……顕国顕時顕国顕時顕国顕時顕国顕時顕国顕時顕国顕時顕国顕時顕国顕時……っ、まだ足りない!?」
「ま、またか!?いい加減にしてくれないか!?」
「……申し訳ありません、昌能様。でも苦情を防ぐには──」
「再三言っているだろう?父に向かって、その他人行儀な呼び方は止めてくれ。それと悪い知らせだ。春日卿が斬首されたそうだ」
「……斬首?そんな、春日卿が?」
南朝で言うところの興国五年、北朝で言うところの康永三年の三月九日、敵軍への抵抗虚しく捕虜の身となった春日顕国は、敢えなく首を斬られた。京出身の公家らしく、大失敗の坑道戦術を褒めたり師冬の仮面に言及したり、他にも三途の川で亡き主と曲水宴をやりたいと豪語したり、色々と言いたい放題で迎えた最期だった。
この一週間後、北朝で足利義詮が従五位下から正五位下となり、更に二日も経つと十一年前の直義の官位である左馬頭となった。
「師冬よ、嬉しい事は続くものだな!お前が春日顕国を討って東国の不安を取り除いた直後の吉報だ!我は順調に官位を進めることが出来た!篤く礼を言うぞ!師冬、我もお前に何か推挙したい!」
「は……身に余るお言葉にございます。義詮様」
(義詮様に恩を売れば、後々利になる……似たような事を氏頼殿が申しておられたが、誠であるか否か。この凡庸さでは、容易く誰かの傀儡になりそうなものだが、氏頼殿の評価は違うようだった)
現在、関東執事は二名いる。高師冬と上杉憲顕だ。後者の憲顕が前に越後国の新田氏の城を尽く陥したと確かに鎌倉へ報じたにも拘わらず、討ち漏らしが多かれ少なかれあったと後に発覚した一方、前者の師冬は着実に名将・春日顕国を討ったとして評価は鰻上りであった。現にこうして義詮の覚えは確実に目出たくなっている。
しかし、この体制も長くは保たなかった。幕府の決定で、師冬が義理の叔父の重茂と関東執事の職を代わる事になったのである。
五月十九日、重茂が鎌倉に着任した。前関東執事の師冬は出世の上で良いのやら悪いのやら、西国で仕事に励む事になった。さて、関東からの上洛の際には必ず近江国を通るものだ。となれば──
「師冬ぅ〜、五年振り?会いたかった〜!」
「弟思いの尊氏様じゃないんですから、抱きつかないでください。氏頼殿。皆、見てますよ。全く、噂は何だったのやら。塩冶の事件で不甲斐ない思いをしていると聞きましたが、違うようですね」
齢十九の佐々木惣領の抱擁に師冬は勘弁してくれと顔を顰めた。
勿論、仮面の裏で表情を変えたところで、鋭い目のままでは全く意味を為さないと知っていたが、今や佐々木六角氏頼は紛れもない猛者だ。信濃国の望月重信ではないが、その抱擁には熊や虎を殺しかねない威力がある。師冬は抱き潰されないよう身体を張った。
しかし、氏頼はそんな師冬の心も全く気に留めず、人払いを命じるばかりである。終いに訳の分からない事まで捲し立て始めた。
「もうそれどころじゃないんだよ!ああ、"冬"と言えば、高師冬!あんな妾腹のパチモンなんか、問題外だ!高師冬しか勝たん!」
「妾腹のパチモン……氏頼殿、誰の事でしょう?」
「聞いているだろう!?足利直冬!マジで何なんだ!?あいつは!急に湧いて出やがって!あんなの、義詮様の害にしかならん!」
地団駄を踏む氏頼の挙動に、師冬は仮面の裏で目を細くする。
当時の文官の日記『師守記』曰く、康永三年六月十七日に将軍の実子にして副将軍の子の足利直冬なる人物が、学問や乗馬・弓矢などを正式に修行し始めたという。この直冬は後の凶徒であっただけではない。将軍の烏帽子子である事を誇りとしていた佐々木惣領の氏頼にとって、まさに目の上のたんこぶのような存在であった。