崇永記 作:三寸法師
〜1〜
ある時は
「義治様。拙者は譜代の郎党ではございませぬが、亡きお父上の奮闘に胸を打たれました。必ずや新田一族を再び源氏棟梁の座に」
「ああ。真に将軍になるべきは我が従兄弟の義宗殿。関東は義興殿が抑えて、俺は西国を……父上たちの遺志は俺たちが受け継ぐ」
京の足利政権だけでなく、南朝武将にも確実に世代交代の波が来ている。新田一族では当主の義貞やその弟・脇屋義助が亡くなり、新当主の義宗を庶兄・義興と脇屋義治が支える構図に変わった。
一方、信濃国では宗良親王が姿を現していた。それまでの越後国や越中国での振興活動に限界を感じ、身の危険もひしひしと迫っていたため、中部地方各地の南朝武将と連携を取り易く、更に峻険な山々による天然の要害が魅力の幽境・大河原に移ったのである。
「殿下。お待ちしておりました」
「時行……関東の親房卿の大望は破れてしまったが、まだ信州から天下を動揺させた中先代の力がある。早速だが、これからの方略を話し合いたい。余は先帝の悲願実現を何一つ、諦めておらんぞ」
宗良親王が大河原へ移った時期は、本人の歌集『李花集』から察するに、
今になって宗良親王が信濃国に現れたところで大勢に支障なしという認識は、
何しろ貞宗はこの時、京暮らしである。その後継者の政長もまた在京であったようだ。
「時行……この大河原は大軍の侵入を許さず、防御は万全。盆地は肥沃で、悠に千騎近くを養えると申すが……そもそも人がいなくては詮方ない。東海、北陸、そして東山も、在地の義士には既に余の声を掛け尽くし、今から新たに加わる者は誰一人としておらぬ」
「どうか今暫く御辛抱ください……殿下、以前より伊豆国で隠遁の我が祖母・覚海円成と誼を結び、敵の情報が僅かですが、耳に入ってきております。北朝では
「だと良いが……覚海円成。鎌倉幕府の時代、その威名は京にも聞こえていた。今なお健在だったとは。生活の方はどのように?」
時には戦場で刀を振るう宗良親王は、特に優れた和歌にも現れているように、本来なら乱世と縁遠い優雅な心の持ち主であった。
同じ父母を持つ亡き長兄・尊良親王と似ていたのかもしれない。
「御心配ありがとうございます。尊氏の正室が北……赤橋家の出である事から、直義が気を利かせて援助してくれているようです」
「そ、そうか……それは何よりだ。うん、何よりだ」
「?」
噛み締めるような宗良親王の口振りに、時行は小首を傾げた。
このような日々がいつまで続くのだろうか。老齢の覚海円成の余命は残り一、二年も無いだろう。こうしたところに思わぬ知らせが舞い込んできた。南朝で言う
〜2〜
北朝の
将軍の座こそ尊氏の掌中だが、謂わゆる
「義父上……まことでしょうか。京周辺に数百騎ずつ敵兵が潜伏しているというのは。潜伏期間中の食糧、方々の関所の通過、他にも様々な問題があるかと。正直言って、敵が何を考えているやら」
「そうだな。無謀にしては今し方お前の言った諸問題を解決し過ぎている。だが、直冬。よく覚えておくのだ。今回の敵は背水への焦りが大きいかもしれないが、世の中にはそうした武将も存在する。知恵があっても、有り余る蛮勇のために無謀を働くような輩だ」
「……そんな者が」
「ああ。そうした類の輩は、得てして自分が文武両道の良将であると信じて疑わぬ。あの近江国守護の佐々木六角
「!」
京に来て暫く、直冬は悟っていた。諸将の自分への
実父・尊氏に受け入れられない事を不憫に思った直義の采配で、副将軍の後継に据えられたが、大名たちはこれを快く思っていないらしい。直冬の素質への見込みを差し引いても、直義が私情で大事を決定したと考えられているのだ。そして、それはあながち間違っていなかった。副将軍として考え直さざるを得ない状況である。
特に近江国守護の
「義父上。あの
「腹に一物ある事は確かだろうな……六角は西国武士の代表格で陰謀もできるだろうが、それでも分家の京極道誉には及ばぬ。特に激情を抱えているのであれば、お前への視線にも確かに現れよう」
「は……申し訳ありませぬ。この火急の折にオレの事で煩わせて」
「良い。お前は兄上の実子、私の義息だ。もっと堂々と振る舞え。そうすれば、六角も自ずと従うようになる。それは次代の義詮殿のためにもなろう。お前こそ将来の足利一門の、幕府の大黒柱だ」
数年前の婆娑羅武将らの暴虐を機に、直義は外様大名でも高一族でもなく、足利一族がもっと強い力を持つべきだと感じていた。
鎌倉幕府の源氏将軍が三代で滅んだ理由に思いを馳せる。簡単な話である。
「直冬。未来の幕府の大黒柱のお前に聞きたい。此度の不埒者はどうすべきだと思う?是が非でも捕まえるべきか、逃がすべきか」
「……捕まえるに越した事はなくとも、無理をする由もないかと」
「ほう。建武の新政の時代の暗殺未遂事件について知ってなおか。あの時は京から北条泰家が逃げ延び、直後に大乱が起こったぞ」
「さりながら、当時とは状況が違います。足利幕府の政治は大名たちのやり過ぎこそあれ、新政のように不満を持たれている訳ではありません。しかも、
(……ものの考え方は兄上と同じか)
尊氏本人は頑なに否定するだろうが、直冬とは姿形も気性もそっくりで親子関係を疑う余地はない。直義の琴線に触れる要素だ。
微かに直義の表情が綻んだ。直冬の判断は尊氏と同じだろう。
「では、侍所の細川たちに全て委ねるべきか?直冬」
「はい。捕まえられれば良し、捕まえられずとも正体ぐらいは突き止めてくれましょう。どうせ犯人は南朝武将の誰かでしょうが」
無理押しに拘らない事は、名将の条件の一つである。直義が予見した通り、将軍実子の直冬は父・尊氏に劣らぬ名将に成長する。
しかし、それが本当に幕府のためになったかどうか。こればかりは真の意味で将来を予見せざる直義の想定外だったに違いない。
〜3〜
しかし、幾ら近江国守護とはいえ、その国の全てに力が行き届くという訳ではない。特にこの東坂本は比叡山の支配地域だった。
「今更、守護不入どうこう言われる筋合いはない……だが、守護が大名に成長してなお、大犯三箇条は基本の業務だ!まして東坂本に敵将が潜入の疑いあり……これで捜査しない訳には参らぬぞ!」
「何てヤツだ!足利の時代になって守護はあちこちで調子に乗りまくりる!近江国の民は何故こんな二重規範の輩を神よ龍よと!」
「このッ……!山法師、よもや
「何だと!?聞き捨てならんぞ!佐々木氏頼!」
「なら、敵将を早く差し出せ!居らぬと申すなら証を立てよ!」
「チ……暫時!暫時、待たれよ!」
近江国最強の佐々木氏と比叡山延暦寺には積年の怨恨がある。
分家の有力大名の
古典『太平記』によれば、
「足利兄弟に高・上杉も標的だった!?何という無茶を……他はともかく、尊氏に暗殺は無理だと私の先例が……脇屋殿、児島殿」
「お前があの中先代……七年前、義興殿がたいそう懐いておられたと聞いている。撤退に手を貸してくれたことだけは礼を言おう」
「義治様。お話は程々に。東坂本から水路でここまで逃げる事が叶いましたが、まだ足利方の所領です。信濃国までまだ道のりが」
(東坂本では今頃、山法師が佐々木氏と揉めている筈。この間に北近江を抜け、美濃国、更に信濃国へ……義治様の西国制覇の夢は幻に消えてしまうが、背水の身としてやれる事はやったつもりだ)
「して、時行殿。この後は?」
「ああ。弧次郎」
「……それなんですが、若。何か熱田大宮司のとこから密使が」
「熱田……?尾張国の?予定にないぞ」
東坂本から信濃国まではかなりの距離があり、近江国の佐々木氏や美濃国の土岐氏の目を掻い潜って逃げるためには周到な事前準備が必要だろう。しかし、新田氏も児島氏もこれらの国に地盤を欠いている。となれば、ノウハウのある誰かが手を貸していた筈だ。
人材不足の南朝でそんなノウハウを持つ武将はかなり限定的だ。
将軍邸の寝殿から退がり、道誉と師直の二人は徐に口を開いた。
「あの未遂事件から間もなく十年……でございますか」
「ああ。十年してまた暗殺未遂事件だ」
「……思い出されるでしょうなァ。将軍は」
尊氏だけではない。二人の婆娑羅武将たちも思い出していた。
残党らしく鎌倉の御代を取り返さんという北条氏による同時暗殺未遂事件の頃を。あの直後に中先代の乱が勃発した。足利尊氏が建武政権から離脱し、覇業を始めてから十年が経とうとしている。
「秋の天龍寺供養は盛大に執り行わねばなりますまいなァ」
「全くだ……後醍醐の供養で過去を完全に払拭し、足利新時代を官民揃って祝賀する。道誉殿、当日の重要任務を貴殿の御嫡男に」
「ほう……宗家はよろしいので?」
「……良い。いずれ
秋に予定の天龍寺供養で尊氏の気持ちは再び晴れやかなものになるに違いない。道誉も師直も新たなステージに目を向けていた。
一方、尊氏は寝室で憤怒の表情だ。秋まで待てないとばかりに。
「うぐ……ぐ……ふ」
「む〜」
(壬生から一人だけ脱出したという敵が使った手口、余人は地蔵菩薩が助けたのだろうと申すが……確か北条時行の一味に化け狐が)
古典『太平記』に不可思議な話が収められるのは今に始まった事でもないが、脇屋義治たちによる暗殺未遂事件でも同様だった。
曰く、香匂新左衛門という武蔵国出身者が地蔵菩薩になり変わっていたというのである。しかし、尊氏は視野狭窄に陥っていた。
取るに足らぬ事でも
「た、尊氏様……お許しを」
「がぶり」
「!?」
寵童の饗庭命鶴丸は身体を張って受け止めた。主君の怒りを。
一方、尊氏の狂信者・
惣領らしく我が物顔で佐々木城に押し入るや否やの出来事だ。
「おのれ……おのれ……延暦寺め、許さん……!」
「痛……三郎、苦しィ……」
「妾風情が俺を通称で呼ぶな!廷尉様だ!分からぬか!?」
大夫判官以外に、唐風の呼び方の廷尉は
体躯は昔と違って筋骨隆々。齢二十の勇将は一人の娘にとって脅威でしかない。魅摩は動揺のせいで神力にも縋れず、乞い願う。
「わ、分かったから……首、離してよ……」
「ぬ〜ん」
元幼馴染の怯えの顔も微かな声も
より自在に神力の使える魅摩を連れていれば。山法師相手に心の奥底でそう思った事が今の