崇永記   作:三寸法師

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▲5

〜1〜

 

 

 北朝の天龍寺供養を巡る延暦寺らの旧仏教勢力の過激な動きは以前より兆候があったものの、七月四日に先鋭化し、以後数十日間にも及んだ。これに最も慌てたのは幕府の武将たちではなく、藤原氏らの公家である。何せこの時、興福寺も同調する動きがあった。

 興福寺と言えば、藤原氏の氏寺である。古来、興福寺の起源を損なった藤原氏は、朝廷への出仕を見合わせざるを得ないという慣例があり、旧仏教勢力の姿勢を巡り、公家の意見は錯綜していた。

 

 

「帝。延暦寺からの奏上……皆、読み終わりましてござります」

 

 

「うむ……経顕*1よ。意見があるようだな」

 

 

「は。帝、では申し上げます。延暦寺は此度、大陸で宋が蒙古に滅ぼされたり、この日の本で北条氏が滅亡したりといった和漢の古例を挙げ、禅宗を推すとその政権は必ず滅びると申しておりますが、これは大変な見当違いと存じます。その理由と致しましては──」

 

 

 この時代の藤原氏にも気骨のある人物は少なくない。勧修寺経顕もその一人であった。経顕(勧修寺大納言)は延暦寺の主張をバッサリ否定した。

 そもそも大陸では禅宗が好まれ始めて唐や宋の時代が長く続き、日本国で北条氏は幾代も栄えた。また、宋国の滅亡や北条政権大破の原因は禅宗でなく、政治の乱れや驕りの極みにあり、延暦寺の主張は恣意的なものに過ぎず、耳を貸すに及ばないとまで言った。

 

 

「帝。延暦寺の要求は到底、聞き入れざるものです。いえ、重罪とすら申せましょう。すぐに門跡の方々に命じて、首謀者を引っ立てさせるが宜しいかと。その山法師を死罪・流罪に処すべきです」

 

 

「……いや、その理屈はおかしかろう」

 

 

「……資明*2卿。何を申される?」

 

 

「帝。憚りながら、この延暦寺の申し入れ……一見したところでは強訴に似るも、一理あると思われます。古来、比叡山が国の乱れを諌めた例は数多ございます。例えばまず、後宇多院の御時──」

 

 

 当然、同じ旧勢力同士で馬が合うのか、延暦寺に同調する公家も少なからずあった。古典『太平記』では資明(日野大納言)がその代表である。

 念仏弾圧や平家の福原遷都への抗議をはじめ、平安時代以降の山法師たちの動向歴は、京の住人たちに重く受け止められていた。

 

 

「良いですか。古来、仏法と王法は共存関係にありました。延暦寺から訴えあらば、咎めるのではなく自省すべきなのです。そもそも禅僧という輩は恥知らずにも、若輩でも父兄より偉いと誤認しております。また、聞いたところでは、彼らは荒れ果てた内裏に目もくれずに贅沢を……我ら公卿が粗末な食べ物と衣で我慢しておると申しますに、禅僧は華やかな衣を着て、山海の珍味三昧だとか!」

 

 

「待たれい。それは資明卿の僻みでは……?」

 

 

「異なぁ!」

 

 

「まぁまぁ……帝。これでは議論の纏まりは得られますまいかと」

 

 

「……太政大臣*3の申す通りぞ。何か良き案はあらぬか?」

 

 

 古典『太平記』には二転三転する朝廷の討論模様が細々(こまごま)と記されている。日中印の先例にある宗論という形式で、公に禅宗と天台宗で論争させようという案こそ出たものの、結局は幕府に判断を委ねる事になった。()()()()()()()()()()は鎌倉時代と同様である。

 しかし、足利兄弟に動揺は見られなかった。精々、一連の延暦寺の横槍を怪訝に思った程度で、もし実際に強訴となれば、無断的措置を惜しまず、比叡山の支配下の土倉を差し押さえるという方針を示した。この幕府(足利政権)の毅然とした姿勢を受け、朝廷は延暦寺からの使者たちの目の前で、奏上の隷状を内裏の庭に破り捨てたという。

 

 

 

 

 

〜2〜

 

 

 

 

 

 室町幕府(足利幕府)の内情は各地の大名に漏れ伝わる。どこの武将も大概が一族の誰かを幕府に出仕させているためだ。五年前は南朝武将として守護(小笠原軍)と戦った諏訪大祝の頼継も例に漏れず、情報を得ていた。

 諏訪氏分家(京都諏訪氏)の小坂円忠が天龍寺造営奉行になっていたのである。

 

 

「京周辺は混乱しているらしいです。足利幕府は意外と落ち着いているようですが……時行。大河原の宗良親王殿下のお考えは?」

 

 

「……南朝は暫く動かない。いや、動けないらしい。二年前に親房卿が吉野へ戻り、和平派は抑えられたが、今度は……北朝が後醍醐帝の菩提を弔うのを我々が邪魔したら南朝陛下(此方の帝)の徳を損なうと」

 

 

「……はぁ」

 

 

(宗良親王……十五年程前に天台座主だった頃の延暦寺との気脈は今や無く、延暦寺は天龍寺供養への抗議で南朝と絶縁したも同じ。北朝に抗議する事は、持明院統こそが正統(今の朝廷)と認めるという意味だ)

 

 

 密かに盟友・北条時行を呼び出したが、元々期待は然程していなかった。ただ、それでも溜め息は出る。暗殺計画失敗の脇屋義治や児島高徳を信濃国に匿い始めて百日近くが経ったが、大鹿村近くの駿木城を与えても、南朝の難局打開に繋がる兆しは欠片もない。

 京の諏訪(小坂)円忠より、先代(頼重)以来のライバル武将・小笠原貞宗(治部大輔)の寿命が明らかに近付いている事は伝わってきている。嫡男の政長の代になれば、信濃国事情は好転するだろうか。しかし、政長にもかなりの武力があるという話だ。本当に全盛期の貞宗(治部大輔)並みなら厄介だ。

 中先代の乱が終わって以来、諏訪氏は一部の例外(大徳王城の戦い)を除いて力を貯め続けてきたが、それでも小笠原氏に遅れをとったままだ。小笠原氏が新たに政長という若き当主を得て、総出で信濃国統一を志すとなれば、対抗可能だろうか。時期尚早という言葉が頭に過ぎる。

 何よりの懸念は方々における南朝勢力の弱体化だった。大徳王城の戦いがあった頃と異なり、足利幕府は行事(天龍寺供養)が終わり次第、いつでも信濃国を狙い撃ちにして出し惜しむ事なく、十万騎以上の軍勢を動員できる環境にある。師直派も直義派も手柄で遅れを取るまいと揃って出兵するかもしれない。現状維持は地獄への片道切符だ。

 

 

(脇屋義治でも、北条時行でも、政長の相続祝いのため、信濃国在住の著名な南朝武将を狙って盛大に討伐軍を送る……こんな話にでもなれば、三大将が健在でも対抗は困難。北から上杉軍、東から小山氏や結城氏を率いる高重茂軍、南から仁木・今川連合軍、そして西から頼康(土岐刑部少輔)が先鋒、氏頼(六角大夫判官)が次鋒、師直が主力の本隊が……冗談抜きでこの諏訪大社が焼け落ちかねない。それだけは防がないと)

 

 

「それにしても足利はいつ鎌倉に政権を戻すのか。京に居るから、延暦寺の罵声を直に浴びる事になる。式目ではいずれ鎌倉に機構を移す事になっていた筈だが、十年近くが経っても履行されない」

 

 

「時行」

 

 

「え?」

 

 

 現大祝・諏訪頼継の真剣な眼差しに、かつての英雄(中先代・時行)は戸惑う。

 ただならない雰囲気だ。重責の頼継はゆっくり、慎重に告げる。

 

 

「児島某は所詮豪族なので兎も角……脇屋義助の遺息・義治はもう信濃国に置いておけないのです。新田家(現当主・義宗)の介入を受ける事になりかねないですし、それに……時行。もう潮時かもしれないのです」

 

 

「潮時?頼継殿、それはどういう──」

 

 

 薄々、時行(相模次郎)は旧知の頼継の言わんとする事を察しているようだ。

 直視したくない。だが、直視しなければならない。頼継は生前の頼重(祖父)時継()の姿を思い返しながら、時行(相模次郎)の顔を目に焼き付けた。

 

 

「はっきり言いますです。諏訪大社は近く、持明院統の北朝に帰順します。延暦寺が南朝と絶縁する以上、この諏訪大社も再び政局が乱れぬ限り、宗教勢力として歩調を合わせざるを得ないのです」

 

 

「ッ!?頼継殿、貴方は!」

 

 

「……分かってくださいです。前にも宣言したように父祖の忠節が忘れ難いのは確かです。ですが……今は勢力復活が最優先です」

 

 

 衝撃の時行(相模次郎)は言葉を失った。が、現実は無情である。諏訪頼継は通告通り、三年後(貞和三年)*4までに幕府(足利政権)の影響下の北朝傘下に収まった。

 ただし、若くして諏訪頼継は老獪だった。頼嗣として「継」の字を捨ててでも、北朝の信任を勝ち取り、()()()()を得て間も無く、正規の国司の職「信濃守」となり、小笠原氏に対抗していった。

 この間、盟友の筈の時行(相模次郎)の心境は如何ばかりであっただろうか。

 見捨てられたと思ったか、あるいは後の内紛のための下準備と割り切ったか。後世を生きる我々に正確なところを知る術はない。

 

 

 

 

 

〜3〜

 

 

 

 

 

 康永四年(西暦1345年)八月上旬、延暦寺との緊張が高まる最中、義詮の弟で後の基氏の兄に当たる聖王丸が僅か八歳で亡くなり、政権機能が一時停止していた。しかし、これでも止まらない程、延暦寺は怒り狂っていた。興福寺に正式な牒状を送り、藤原氏を脅したのである。

 牒状交換による延暦寺と興福寺の提携が噂となり、一時は息巻いた朝廷も顕密諸宗総出の抗議に恐れを成して、対岸の火事を決め込みたくなったのか、全ての責任を幕府に帰して対応を委任した。

 そして、八月十三日。住人たちは固唾を呑んで宮門を見守った。

 

 

「おお!あれは従四位下・足利(斯波)高経(修理大夫)様!」

 

 

「艱難辛苦の末、あの新田義貞を撃ち破った名将……戦の腕は足利屈指だとか。宮門警固役が高経(修理大夫)様なら、宮様方も御安心だろう」

 

 

「ああ。今、鴨の河原の方にも幕府の兵たちが数多く集結しているらしいぞ。今日、神輿が洛中に押し入ると噂があったが、これでもう大事ない!山徒どもは幕府正規軍の鎧兜に必ず恐れをなす!」

 

 

(都人ども、好き勝手ほざきよるわ。死んだ家長(嫡男)は庇番寄騎の頃、鎌倉の女たちの嬌声を浴びておったそうだが、何を喜ぶ?そもそも不確かな噂のために、何故この高経(尾張足利家当主)が動員されねばならん!)

 

 

「決めた。息子たちよ。鎧は無しだ。今日は直垂で過ごす」

 

 

「「え?」」

 

 

「どうせ今日の強訴(神輿入洛)は無く、警護は人々を安心させるためのものに過ぎぬと副将軍が申しておられたではないか。鎧兜など無用だ」

 

 

 史料『園太暦』によれば、足利一門の重鎮の高経(修理大夫)が碌な武装をせずに宮門警固任務に当たった他、別の場所の守備でも遅刻の横行があるなど、幕府軍は目に見えてやる気を欠いていたのだという。

 挙句、彼らは日暮れ頃にそそくさと帰宅し、幕府役人・安富行長の見た夢のお陰で延暦寺の強訴が無いことが分かっていたというどこか言い訳染みた言説が、後になって流布される始末であった。

 勿論、北朝公卿たちはこれに拍子抜けし、戸惑ったに違いない。

 

 

「ば、幕府軍はどういうつもりだ?ああも闘争心を欠くとは」

 

 

「比叡山には強訴を致さば、門跡の交代や土倉差し押さえ、神輿の作り直しに、私財没収と最大限に脅しを掛けているのだろう?」

 

 

「その筈だが……そうだ。近江国の佐々木六角はやる気らしい」

 

 

「大夫判官の氏頼か。武勇は若手随一という評判であるな。あの若き守護大名が後ろから刃を突き立てておれば、山法師も軽々しく動けないと幕府が考えても可笑しくはない……という事だろうか」

 

 

「隆蔭*5卿。検非違使別当の汝は何かご存知では?よく屋敷に氏頼(大夫判官)が出入りしているらしいではないか。以前、氏頼(大夫判官)が院への拝謁後、将軍屋敷や執事邸、副将軍邸へ順々に挨拶回りする前に参ってくれたと自慢しておられた。それこそ検非違使別当冥利に尽きると」

 

 

「いやいや、氏頼(大夫判官)はここ何十日も近江国。音沙汰は無いぞ!」

 

 

 比叡山延暦寺が騒がしいとなれば、必然的に対抗馬の佐々木六角軍の動向に注目が集まった。だが、特にこれといった事はない。

 氏頼(大夫判官)は自室で寝転がっていた。次弟の定詮(山内五郎)はカリカリしている。

 見たところ、氏頼(大夫判官)はまたもやる気を失っているようであった。

 

 

「兄様!何をしておられるのです!?討ちに参られるのではなかったのですか!延暦寺は以前の要求に加え、言語道断にも洛中洛外の禅寺の無差別破壊を主張!興福寺との提携締結により、勢い付いておるのです!寵童か何か知りませぬが、戯れている場合では!」

 

 

「……あんな軍監がいたのでは、兵を動かす気が起きん」

 

 

「軍監……懸念事項は足利直冬ですか」

 

 

「そうだ……只の使者なら良かったものを。全く。目付け役を兼ねていたのなら最初から言って欲しかったわ。糠喜びさせおって」

 

 

 幼い小姓に膝枕させつつ、氏頼(大夫判官)は天井を見つめて恨み節を吐く。

 氏頼(大夫判官)は不貞腐れ、直冬に恨み骨髄だった。これでは延暦寺潰しの機会をまたも自ら捨てざるを得ない。誰が仮想敵・足利直冬の前で六角軍の動きを見せてやれるかと。擾乱の勝敗に直結し得ると。

 

 

「あーあ。軍監が師冬殿だったら良かったのになァ」

 

 

「……高一族の銀髪仮面ですか。今も仲が良いそうですね。兄様」

 

 

「まぁな……口外はするなよ、定詮。今後に関わるからな」

 

 

「は……高師冬と言えば、お聞き及びですか?近日の天龍寺供養における諸将の役回りを。師冬(高播磨守)は同族の武将・南宗継(遠江守)と共に御剣保持の御役目を務めると……いえ、兄様なら既にご存知でしょうね」

 

 

「当然さ……供養などしたくないが、漫然と待機も何だかなァ」

 

 

 頭の体重を元服前の馬廻に預けたまま、氏頼(大夫判官)次弟(山内定詮)にボヤく。

 曲がりなりにも後醍醐帝供養への遺憾とそれ以外の感情で板挟みになっており、苦しいのだ……とでも言いたげな口振りである。

 

 

「ですから、何ぞ理由を付けて先に東坂本へ攻め込んでみてはと」

 

 

「だ、か、ら……それは直冬が軍監で居るから無理だ」

 

 

「……分かりました。延暦寺ではなく直冬が目下、最大の敵と」

 

 

 意地の張り合いとなっては、次弟の定詮(山内五郎)が当主の氏頼(大夫判官)に勝てる筈がなかった。その意思が固まり切っている事を悟り、折れざるを得なかった。元より先見の明において氏頼(大夫判官)は他の追随を許さない。

 まして次弟(山内定詮)の不満を見越してなのか、念押しまでされるときた。

 

 

「言っておくが、直義健在の間は慎重にな。無論、いつか殺すが」

 

 

「!」

 

 

「俺とて歯痒いのだ。分かってくれ、定詮」

 

 

「は……勿論にございます。兄様」

 

 

「……うん」

 

 

(くそォ……直義め。義息(直冬)を見張り役につければ、俺が軽々しく動けないと踏んで、山法師の私財所帯の没収権という名の空手形を寄越しやがった。しかも、動くに動けない一方で、ここで無理に動かない事は、直冬への敵意の証明に。直義派の振りもここまでか)

 

 

 策に絡め取られ、どうしようもない事を自覚する。氏頼(大夫判官)は幕府期待の若手武将とはいえ、直義(副将軍)の前には政治家として何枚も劣る。

 尤も、思うように事態が運ばぬと悟った途端、小姓と共に部屋に籠るその姿は、烏帽子親の尊氏を彷彿とさせるものであったが。

 

 

「あ、そうだ」

 

 

「兄様?」

 

 

「京に行ってくる。定詮、引き続き直冬を上手く誤魔化しといて」

 

 

「え……ええ!?」

 

 

 唐突な氏頼(大夫判官)の思い付きに、次弟の定詮(山内五郎)は完全に意表を突かれた。

 康永四年(西暦1345年)八月中旬、天龍寺供養の日は確実に近付きつつある。

 その頃、京では藤原氏が揃って勇気を忘れ、先の資明(日野大納言)の如き主張を繰り返していた。その矢先、賢君・光厳上皇が名案を閃いた。

*1
勧修寺家初代当主で北朝の重鎮。妻が後の後光厳上皇の乳母となった。

*2
柳原家初代当主。資明本人は北朝貴族だが、兄の一人に、正中の変で後醍醐天皇に協力した疑いで佐渡国に流された日野資朝。

*3
洞院公賢。北朝の重鎮で、後の重要史料『園太暦』の著者。息子に南朝武将の洞院実世や北朝公卿の洞院実夏。

*4
康永四年(西暦1345年)十月二十一日、北朝は改元して「貞和」年間を迎えた。

*5
四条家の一員で油小路家の祖。光厳上皇の忠臣。

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