崇永記 作:三寸法師
〜1〜
北朝の天龍寺供養を巡る延暦寺らの旧仏教勢力の過激な動きは以前より兆候があったものの、七月四日に先鋭化し、以後数十日間にも及んだ。これに最も慌てたのは幕府の武将たちではなく、藤原氏らの公家である。何せこの時、興福寺も同調する動きがあった。
興福寺と言えば、藤原氏の氏寺である。古来、興福寺の起源を損なった藤原氏は、朝廷への出仕を見合わせざるを得ないという慣例があり、旧仏教勢力の姿勢を巡り、公家の意見は錯綜していた。
「帝。延暦寺からの奏上……皆、読み終わりましてござります」
「うむ……経顕*1よ。意見があるようだな」
「は。帝、では申し上げます。延暦寺は此度、大陸で宋が蒙古に滅ぼされたり、この日の本で北条氏が滅亡したりといった和漢の古例を挙げ、禅宗を推すとその政権は必ず滅びると申しておりますが、これは大変な見当違いと存じます。その理由と致しましては──」
この時代の藤原氏にも気骨のある人物は少なくない。勧修寺経顕もその一人であった。
そもそも大陸では禅宗が好まれ始めて唐や宋の時代が長く続き、日本国で北条氏は幾代も栄えた。また、宋国の滅亡や北条政権大破の原因は禅宗でなく、政治の乱れや驕りの極みにあり、延暦寺の主張は恣意的なものに過ぎず、耳を貸すに及ばないとまで言った。
「帝。延暦寺の要求は到底、聞き入れざるものです。いえ、重罪とすら申せましょう。すぐに門跡の方々に命じて、首謀者を引っ立てさせるが宜しいかと。その山法師を死罪・流罪に処すべきです」
「……いや、その理屈はおかしかろう」
「……資明*2卿。何を申される?」
「帝。憚りながら、この延暦寺の申し入れ……一見したところでは強訴に似るも、一理あると思われます。古来、比叡山が国の乱れを諌めた例は数多ございます。例えばまず、後宇多院の御時──」
当然、同じ旧勢力同士で馬が合うのか、延暦寺に同調する公家も少なからずあった。古典『太平記』では
念仏弾圧や平家の福原遷都への抗議をはじめ、平安時代以降の山法師たちの動向歴は、京の住人たちに重く受け止められていた。
「良いですか。古来、仏法と王法は共存関係にありました。延暦寺から訴えあらば、咎めるのではなく自省すべきなのです。そもそも禅僧という輩は恥知らずにも、若輩でも父兄より偉いと誤認しております。また、聞いたところでは、彼らは荒れ果てた内裏に目もくれずに贅沢を……我ら公卿が粗末な食べ物と衣で我慢しておると申しますに、禅僧は華やかな衣を着て、山海の珍味三昧だとか!」
「待たれい。それは資明卿の僻みでは……?」
「異なぁ!」
「まぁまぁ……帝。これでは議論の纏まりは得られますまいかと」
「……太政大臣*3の申す通りぞ。何か良き案はあらぬか?」
古典『太平記』には二転三転する朝廷の討論模様が
しかし、足利兄弟に動揺は見られなかった。精々、一連の延暦寺の横槍を怪訝に思った程度で、もし実際に強訴となれば、無断的措置を惜しまず、比叡山の支配下の土倉を差し押さえるという方針を示した。この
〜2〜
「京周辺は混乱しているらしいです。足利幕府は意外と落ち着いているようですが……時行。大河原の宗良親王殿下のお考えは?」
「……南朝は暫く動かない。いや、動けないらしい。二年前に親房卿が吉野へ戻り、和平派は抑えられたが、今度は……北朝が後醍醐帝の菩提を弔うのを我々が邪魔したら
「……はぁ」
(宗良親王……十五年程前に天台座主だった頃の延暦寺との気脈は今や無く、延暦寺は天龍寺供養への抗議で南朝と絶縁したも同じ。北朝に抗議する事は、持明院統こそが
密かに盟友・北条時行を呼び出したが、元々期待は然程していなかった。ただ、それでも溜め息は出る。暗殺計画失敗の脇屋義治や児島高徳を信濃国に匿い始めて百日近くが経ったが、大鹿村近くの駿木城を与えても、南朝の難局打開に繋がる兆しは欠片もない。
京の
中先代の乱が終わって以来、諏訪氏は
何よりの懸念は方々における南朝勢力の弱体化だった。大徳王城の戦いがあった頃と異なり、足利幕府は
(脇屋義治でも、北条時行でも、政長の相続祝いのため、信濃国在住の著名な南朝武将を狙って盛大に討伐軍を送る……こんな話にでもなれば、三大将が健在でも対抗は困難。北から上杉軍、東から小山氏や結城氏を率いる高重茂軍、南から仁木・今川連合軍、そして西から
「それにしても足利はいつ鎌倉に政権を戻すのか。京に居るから、延暦寺の罵声を直に浴びる事になる。式目ではいずれ鎌倉に機構を移す事になっていた筈だが、十年近くが経っても履行されない」
「時行」
「え?」
現大祝・諏訪頼継の真剣な眼差しに、
ただならない雰囲気だ。重責の頼継はゆっくり、慎重に告げる。
「児島某は所詮豪族なので兎も角……脇屋義助の遺息・義治はもう信濃国に置いておけないのです。
「潮時?頼継殿、それはどういう──」
薄々、
直視したくない。だが、直視しなければならない。頼継は生前の
「はっきり言いますです。諏訪大社は近く、持明院統の北朝に帰順します。延暦寺が南朝と絶縁する以上、この諏訪大社も再び政局が乱れぬ限り、宗教勢力として歩調を合わせざるを得ないのです」
「ッ!?頼継殿、貴方は!」
「……分かってくださいです。前にも宣言したように父祖の忠節が忘れ難いのは確かです。ですが……今は勢力復活が最優先です」
衝撃の
ただし、若くして諏訪頼継は老獪だった。頼嗣として「継」の字を捨ててでも、北朝の信任を勝ち取り、
この間、盟友の筈の
見捨てられたと思ったか、あるいは後の内紛のための下準備と割り切ったか。後世を生きる我々に正確なところを知る術はない。
〜3〜
牒状交換による延暦寺と興福寺の提携が噂となり、一時は息巻いた朝廷も顕密諸宗総出の抗議に恐れを成して、対岸の火事を決め込みたくなったのか、全ての責任を幕府に帰して対応を委任した。
そして、八月十三日。住人たちは固唾を呑んで宮門を見守った。
「おお!あれは従四位下・
「艱難辛苦の末、あの新田義貞を撃ち破った名将……戦の腕は足利屈指だとか。宮門警固役が
「ああ。今、鴨の河原の方にも幕府の兵たちが数多く集結しているらしいぞ。今日、神輿が洛中に押し入ると噂があったが、これでもう大事ない!山徒どもは幕府正規軍の鎧兜に必ず恐れをなす!」
(都人ども、好き勝手ほざきよるわ。死んだ
「決めた。息子たちよ。鎧は無しだ。今日は直垂で過ごす」
「「え?」」
「どうせ今日の
史料『園太暦』によれば、足利一門の重鎮の
挙句、彼らは日暮れ頃にそそくさと帰宅し、幕府役人・安富行長の見た夢のお陰で延暦寺の強訴が無いことが分かっていたというどこか言い訳染みた言説が、後になって流布される始末であった。
勿論、北朝公卿たちはこれに拍子抜けし、戸惑ったに違いない。
「ば、幕府軍はどういうつもりだ?ああも闘争心を欠くとは」
「比叡山には強訴を致さば、門跡の交代や土倉差し押さえ、神輿の作り直しに、私財没収と最大限に脅しを掛けているのだろう?」
「その筈だが……そうだ。近江国の佐々木六角はやる気らしい」
「大夫判官の氏頼か。武勇は若手随一という評判であるな。あの若き守護大名が後ろから刃を突き立てておれば、山法師も軽々しく動けないと幕府が考えても可笑しくはない……という事だろうか」
「隆蔭*5卿。検非違使別当の汝は何かご存知では?よく屋敷に
「いやいや、
比叡山延暦寺が騒がしいとなれば、必然的に対抗馬の佐々木六角軍の動向に注目が集まった。だが、特にこれといった事はない。
見たところ、
「兄様!何をしておられるのです!?討ちに参られるのではなかったのですか!延暦寺は以前の要求に加え、言語道断にも洛中洛外の禅寺の無差別破壊を主張!興福寺との提携締結により、勢い付いておるのです!寵童か何か知りませぬが、戯れている場合では!」
「……あんな軍監がいたのでは、兵を動かす気が起きん」
「軍監……懸念事項は足利直冬ですか」
「そうだ……只の使者なら良かったものを。全く。目付け役を兼ねていたのなら最初から言って欲しかったわ。糠喜びさせおって」
幼い小姓に膝枕させつつ、
「あーあ。軍監が師冬殿だったら良かったのになァ」
「……高一族の銀髪仮面ですか。今も仲が良いそうですね。兄様」
「まぁな……口外はするなよ、定詮。今後に関わるからな」
「は……高師冬と言えば、お聞き及びですか?近日の天龍寺供養における諸将の役回りを。
「当然さ……供養などしたくないが、漫然と待機も何だかなァ」
頭の体重を元服前の馬廻に預けたまま、
曲がりなりにも後醍醐帝供養への遺憾とそれ以外の感情で板挟みになっており、苦しいのだ……とでも言いたげな口振りである。
「ですから、何ぞ理由を付けて先に東坂本へ攻め込んでみてはと」
「だ、か、ら……それは直冬が軍監で居るから無理だ」
「……分かりました。延暦寺ではなく直冬が目下、最大の敵と」
意地の張り合いとなっては、次弟の
まして
「言っておくが、直義健在の間は慎重にな。無論、いつか殺すが」
「!」
「俺とて歯痒いのだ。分かってくれ、定詮」
「は……勿論にございます。兄様」
「……うん」
(くそォ……直義め。
策に絡め取られ、どうしようもない事を自覚する。
尤も、思うように事態が運ばぬと悟った途端、小姓と共に部屋に籠るその姿は、烏帽子親の尊氏を彷彿とさせるものであったが。
「あ、そうだ」
「兄様?」
「京に行ってくる。定詮、引き続き直冬を上手く誤魔化しといて」
「え……ええ!?」
唐突な
その頃、京では藤原氏が揃って勇気を忘れ、先の