崇永記   作:三寸法師

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〜1〜

 

 

 康永四年(西暦1345年)八月三十日、前日の幕府武将たちによる後醍醐供養に続く形で、光厳上皇が天龍寺への御幸を実施した。また、夢窓疎石の説法では大覚寺統の故・後醍醐天皇の冥福や元弘年間以来の戦没者たちの鎮魂を祈りつつ、天龍寺創設の経緯や地縁が語られ、先に執拗にもクレームを申し入れの比叡山延暦寺への反駁が行われた。

 以上より、比叡山延暦寺からの非難を躱すため、幕府の供養と上皇臨幸は日を分けて実施されたものの、これらは内容的にワンセットのものと位置付けられていたという。古典『太平記』では一連の措置が、さも北朝が比叡山の強訴が大事になってはマズいと脅しに屈してものであるかのように記されているが、実際には高度な政治判断が下されていた。上辺の対応で延暦寺を(あし)らったのである。

 

 

「副将軍……直冬様がお戻りです」

 

 

「……義父上。只今、戻りました」

 

 

「直冬……さぞ疲れただろう。風呂の用意をしてやれ」

 

 

「は」

 

 

(直冬には……悪い事をした。重要行事で兄上の変顔を衆目に晒せなかったとはいえ……京から遠ざけるような命を出してしまった。六角軍の目付け役の任務も氏頼(大夫判官)が無断で京へ向かって台無しに)

 

 

 室町幕府の真面目な副将軍・足利直義は、残念そうに目を瞑る。

 この天龍寺供養に関して古典『太平記』の他、『園太暦』など複数の史料が参列者らの名前を記しているが、直冬の名前は無い。

 

 

直義様(副将軍)。昨年六月七日に遅ればせながら正式な学問始などの儀式を済ませて以来、直冬様は文武で抜群の才覚の片鱗が見られます。ですが、将軍は言わずもがな、多くの幕臣たちが直冬様を警戒している様子。恐れながら、皆が直冬様の心根を疑っているのです」

 

 

「南朝の名将である春日が関東で師冬(高播磨守)に敗れ、その首が六条河原で晒された頃に突然現れた将軍庶長子……天下が完全に静まった時機を見計らい、権力を狙っての上洛と思われていると?皆、天下の魔力に心奪われたか?何故、直冬の純心が分からぬ?太刀筋から一人の武士として名を上げんとする若者の心意気は明らかだろうに」

 

 

 直義の目から見ても諸将の直冬への警戒心は明々白々である。

 歯痒い思いでいっぱいになり、直義は腹心の重能(上杉伊豆守)の前で嘆いた。

 

 

「如何でしょう?直義様(副将軍)。この際、本当の御子息を用意されては?そうすれば、直冬様に野心があるのではないかという皆の心は収まりましょうぞ。加えて、今の政治機構を変動させずに済みます」

 

 

「何……?重能(伊豆守)。まず、前提として、今の将軍と副将軍が並立する政治体制を次の世代でも続けるべきか……これは鎌倉の義詮殿の心意気が兄上と比べてどうかを鑑みて、決めなければならん。さもなければ、幕府を揺るがす内乱となろう……確かに兄上の実子の直冬ではなく、私の実子が副将軍なら皆の警戒心も和らごうが……」

 

 

 この時、直義は甘く考えていた。真面目さ故か、ある意味で鈍感な直義と違い、殆どの足利武将が権力闘争に敏感になっている。

 実子が産まれれば、自分の潔白すら疑われかねない……こうした発想が副将軍の直義に欠けていた。重能(上杉伊豆守)の黒い瞳が鈍く光った。

 

 

直義様(副将軍)。奥方様の御身体に障るのであれば、側室という手も」

 

 

「有り得ん……私は十二年前、亡き渋川に約束した。生涯、頼子ただ一人を大切にすると。金輪際、側室の話を私にしてはならん」

 

 

「は……」

 

 

「直冬の処遇についてはまた考える。鎌倉の義詮殿がどう思われているかが最も心配だ……それに佐々木氏頼(大夫判官)。あれが未来を見通すと云う話も塩冶の件があって疑わしい限りだが、ああも極端にとなると何かあるのかと勘繰ってしまう。今回はよくも()()()()()()

 

 

 結局、佐々木軍が同族の夢窓疎石の危機を救わんと延暦寺に攻め込む事は無かった。しかし、副将軍の直義は薄々分かっていた。

 佐々木惣領(六角家当主)氏頼(大夫判官)は、副将軍養子の直冬を敵視し、実質的な幕府最高権力者にも等しい直義にも既に心理的な距離をとっている。

 どこぞで乱が起これば、氏頼(大夫判官)に鎮圧のための総大将の役目を任せる事はできないだろう。せめて実績ある大将の元、副将として従軍させるのでなければ、とても危なくて使えない。現状で考えられる大将候補は誰であろうか。亡き麒麟児(斯波家長)の父で従四位下の高経(修理大夫)か。

 

 

(高経(修理大夫)は名将。その従兄妹は氏頼(大夫判官)の母らしいが……問題がある)

 

 

重能(伊豆守)……高経(修理大夫)について、どう思う?率直に申せ」

 

 

「は……お言葉ながら、亡き家長(陸奥守)殿に比べて気位が高過ぎます」

 

 

「……そうだな。先日の警固任務の手抜きは目に余るものだった」

 

 

(確かに斯波(尾張足利)家当主に任せるにしては、些か役不足の感があったのは否めないが……あれは無い。直垂姿で宮門警固に参上するなど)

 

 

 名将ながら()の強過ぎる高経(修理大夫)の起用は当面の間、慎重にならざるを得ないだろう。かと言って足利兄弟や高兄弟の出陣が必要な敵は今の日本国に居るまい。もし居るとするなら楠木正成や北畠顕家、新田義貞や義顕(越後守)の親子に匹敵する程の強者だろう。だが、新田兄弟(義興&義宗)も脇屋義治も基盤が弱まり、諏訪頼継(現諏訪大祝)は一地方の主以下の存在に過ぎない。北条時行(かつての英雄)に至っては今や考慮の対象にすら成り得まい。

 こうした時、さる一対の味方と敵将の姿が直義の脳裏を過った。

 

 

「!……重能(伊豆守)。供養の行事は終わったが、天龍寺で引き続き国師(夢窓疎石)の威光を示させておきたい。朝廷と連携して和歌会など催すのだ」

 

 

「は。では、早速調整を──」

 

 

「待て。その合間を見計らい、ある武将を従四位下に推挙するつもりでいる。その者は建武の乱の最中、新田義貞を討ち取ったのだと皆に喧伝したが、後に全くの勘違いだったと知り、顔を赤らめつつも粘り強く戦った。その二年後には北畠顕家の軍勢と摂河泉一帯で繰り返し戦闘を重ね、遂に石津・阿倍野の大勝利を引き寄せた」

 

 

「まさか……直義様(副将軍)!」

 

 

「そうだ。家格こそ仁木と同程度の末流の生まれなるも……細川(兵部)(少輔)は従四位下にも足る名将なり。来年の春までには昇進させる」

 

 

 副将軍・直義は有言実行した。康永四年(西暦1345年)十月に天変地異や疫病流行への危惧からの改元で貞和となり、慌ただしく翌年(貞和二年)正月を迎えたものの、満を持して足利一門の誇る名将に栄誉の場を用意した。

 貞和二年(西暦1346年)正月五日、豚カツもとい細川顕氏(兵部少輔)が従四位下の位階を授かった。幕府の大名たちの上に十分立てる誉れを得たのである。

 

 

 

 

 

〜2〜

 

 

 

 

 

 貞和二年(西暦1346年)三月一日、派閥間の()()()()()は一旦置き、直義や師直が説法を聴講しに天龍寺へ赴いた。また、十七日になると花見目的で光厳上皇が天龍寺に足を運び、夢窓疎石の講釈に耳を傾けた。

 この翌月、丹波国で北朝軍と南朝軍の合戦があった。北朝軍の有力大名・山名時氏の猛攻により、四月二十七日に高山寺城が陥ち、元仁木党(守護代)の萩野朝忠が反乱を諦めて降伏せざるを得なくなった。

 

 

「山名時氏……十年前もある程度の地力はありましたが、当時に比べて明らかに強くなっているようですなァ。これは早めに出雲国の守護職を佐々木一族の手に取り戻しておいて良かったようです」

 

 

「……確かに。道誉殿の申される通りだ。今の山名軍はかつての塩冶軍に劣らぬ強さ。もし今も出雲国が山名氏の掌中にあったなら、私が将軍(烏帽子親)におねだり申す以外、奪還方法は無かったに相違なく」

 

 

「「……」」

 

 

 この頃、六角氏と京極家という佐々木一族両家の間柄は如何ばかりであっただろうか。方や将軍の烏帽子子である事を誇りとする本家当主、方や幕府政治に入り込んで謀略盛んな分家当主である。

 一族内の序列では明らかに氏頼(大夫判官)に有利だったが、世代で言えば(佐渡)(判官)の方が上で、年長者の風格がある。親子ほどの歳の差の両者の間にはどこかライバル関係のような火花の視線が飛び交っていた。

 

 

「宗家。情け無き事を申されますな。宗家の武勇は外様最強を自負される程のものになっておられるとか。その前には副将軍の養子の直冬殿はおろか、時氏(山名伊豆守)殿やその子弟すら屈服する筈でしょう?」

 

 

「それは勿論。我が武勇は佐々木一族の諸将を含め、外様武将でも最強を誇る……幾ら山名氏の武力が進化しようが、負ける気は更々無し。時間が経てば、武功を立てる機会もまた得られよう。十一ヶ国は手に余ろうが……ああ、いや……ゴホン。何でもござらぬ」

 

 

(しまった。口が滑った……山名氏がいずれ全国六分の一の守護国を得ると道誉が悟れば、何を思うか……いや、道誉は武勇で直義にも見劣りする。どうにもなるまい。それより南朝だ。九州の懐良は活発だが、それ以外の動きは皆無も同然。五年も経てば直義を受け入れるのも道理か……そう言えば、南朝の元号はまだ興国なのか)

 

 

 七月四日、南朝(大覚寺統)もまた吉野で改元の時を迎えた。それまでの興国が改まり、正平年間が始まったのである。一世一元の制も定まっていない時代、果たして当の南朝の要人たちは、この年号がかれこれ二十年以上にも亘って用いられ続けると想像していただろうか。

 もし想像していた者がいたとすれば呑気が過ぎると言わざるを得ないだろう。この時期、南朝軍の勢いは基本的に下り坂である。

 否が応でも危機感を覚えるべき状況だ。南朝の主戦論者筆頭の北畠親房は特に焦燥感をヒシヒシと感じていた。八年前に嫡子の顕家を失い、一昨年の夏には執事の顕時(春日中将)*1を失った。残った二人の息子たちはそれぞれ奥州と伊勢国にいるが、それだけでは心許ない。

 そこで、不屈の親房は目を付けた。身近に投入できる戦力がいるではないかと。建武の乱より十年が経ち、頃合いも十分だろう。

 

 

「汝の父はまさしく軍神。顕家は生前、汝にこう申したそうだな」

 

 

「……は」

 

 

「桜井宿で汝が正成と別れて既に十年が経った。この間、憎き尊氏は京を我が物顔で治め、天下人の地位を盤石なものにしつつある。極めて遺憾なり。正行よ、既に汝は齢二十を過ぎた。心身ともに健やかで、敵と戦い忠を尽くすに何ら支障なし。そうであるな?」

 

 

 天下の趨勢が今、再び揺らごうとしている。軍神・楠木正成が湊川で弟の正季と刺し違えて十年目。遺児の正行は立派な大人だ。

 成人するまで敵と戦う勿れという遺言が、正行たちを守れる時期はとっくの昔に過ぎていたのである。正行は己が思うままに人生を歩む事ができる年齢である。亡き父の遺思とは関わりなしに──

 

 

 

 

 

〜3〜

 

 

 

 

 

 正行(楠木家当主)の弟の一人の正時は、落ち着かず兄の帰りを待っていた。

 南朝の総帥も同然の親房の気難しさは知られている。嫡男の顕家が戦場で討たれて以来、拍車が掛かっているようと評判だった。

 

 

「兄上!親房卿は何と?」

 

 

「再来年には顕家が死んで十年目になる。その年には汝の父の十三回忌となろう。それまで尊氏の思うがままにしてはなるまいと」

 

 

 すぐ下の弟の正時からの問い掛けに、正行はありのまま答えた。

 この二人の気性は一致している。揃って母・久子の血気盛んを受け継いでいるのだ。この点で二人は三男坊の正儀と違っていた。

 

 

「ッ!……では!」

 

 

「北朝による後醍醐先帝供養の(まやか)しは効果切れだ。南朝軍が再び動く時は近い。親房卿は更なる準備期間を一年与えられた。その間、父の如き勝利を収めるべく、敵軍の弱点を改めて見定めよう!」

 

 

「敵軍……兄上。足利幕府の戦力が潤沢な事、頼朝や義経の源氏軍を上回ると先の供養で評判でした。供養に参列しなかった武将も外様大名を中心に少なくない。豊富な手数で弱点を補い合えます」

 

 

「そうとも限るまいぞ、正時。間諜曰く、土岐頼遠の暴行事件が起こってからというもの、幕府(足利政権)では派閥争いが顕著らしい。師直らの革新派と直義らの保守派。この対立はきっと合戦でも尾を引く」

 

 

 気性こそ母親に似たものの、正行は武勇以外に頭脳面でも優秀であった。軍神と謳われた正成の才は、確実に次代へ継承されていたのである。尤も、正成が冥土で何を思っているかは別問題だが。

 閑話休題。正行は極めて正確に足利軍の内情を掴みつつあった。

 

 

「紀伊国の畠山国清の撃破は必須条件だ。そう簡単にいくと思っていないが、是が非でも成し遂げる。問題は三ヶ国守護の細川だ」

 

 

「細川……庶流の顕氏(陸奥守)か。八年前の北畠軍の教訓がある。北畠軍は天王寺奇襲で一度破ったまでは良かったが、それ以降……顕氏(陸奥守)に苦戦を強いられ、春日卿の八幡占領虚しく、高兄弟襲来を招いた」

 

 

 過去の戦争の反省は、次の勝利のために欠かせないものである。

 正行にしろ、正時にしろ、顕家軍が再征西を目論んだ際、直接参戦しないながらに合戦の行く末を、固唾を呑んで見守っていた。

 その貴重な経験が今、二十代の正行及び正時の力になっている。

 

 

「ああ。恐らく幕府は我ら楠木軍をより簡単に対処したい筈だ」

 

 

「より簡単に……高兄弟に頼らず、細川顕氏(陸奥守)を以て決着を!」

 

 

「それだ。正月に細川顕氏(陸奥守)は従四位下に任じられている。きっと幕府は早晩、我ら楠木軍が再起すると睨み、先手を打って官位という形で対策を講じた。ブタと呼び声高い顕氏(陸奥守)が、幕府の大名たちを問題なく統率できるように計らったんだ。直義の考えに違いない」

 

 

 鎌倉時代に比べれば門戸が開かれているとはいえ、北朝が誕生して十年目である。従四位下の幕府武将は依然として数が少ない。

 必然的に、従四位下は方面軍司令官として最高の箔付けとなる。

 何ら引け目無しに正五位や従五位相当の有力大名たちを率いられるのである。また、西国で思い当たる有力者も同様に限定的だ。

 

 

顕氏(陸奥守)が総大将。となれば、従う敵将は──」

 

 

「かなり高確率で南近江の六角軍が来る。顕氏(陸奥守)は夢窓疎石の薫陶を受けた代表的な足利武将で、佐々木氏と縁がある。五年前、大和国で三輪大社の神主が蜂起した際、顕氏(陸奥守)は六角軍と連合を組んで鎮圧に勤しんだ。まぁ、氏頼ではなく、先代の時信が副将だったが」

 

 

「兄上、六角時信が隠居してもう十年以上が経ちました……流石に次は考え難い。兄上と氏頼は建武政権の頃、定期的に顔を合わせて仲も悪くなかった……幼馴染として白黒付けたい、なんて事も」

 

 

「幼馴染……確かにそう言えるかもしれない。だが……!」

 

 

(千寿丸……氏頼の顔を思い起こす度に、ヤツが慕う尊氏の憎き面が蘇る!今でも腹立たしい!尊氏は父上が死んで直ぐうどんを啜りに家を訪れた!あの無神経男のどこが良いやら全く意味不明だ!)

 

 

 拳を握り締め、正行は心中で吐き捨てた。正行は比類ない才覚に恵まれながら、父親(正成)と違って激情で動くタイプの武将であった。

 しかし、後の時代において正行の人気はすこぶる上々であった。

 何を隠そう、第二次大戦以前……当時の人々が盛んに南北朝時代に関わるコンテンツを享受していた頃、正行は()()()として抜群の評価を得ていた。それこそ新田義貞や北畠顕家すらも凌ぐ程に。

 実のところ、楠木正行の活動期間はかなり短い。それでいて吉野政権開闢後の南朝武将として最高峰の評価を勝ち得た訳は、誉れ高い戦績にあった……としか言いようがない。この翌貞和三年(西暦1347年)八月より始まる合戦は、そうした小楠公の伝説を裏付けるものなのだ。

*1
春日顕国は興国二年(西暦1341年)八月、諱名を「顕時」に改めていたという。しかし、史料『師守記』の梟首記事では依然「顕国」とあり、北朝において改名が認識されていたかは疑わしい。

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