崇永記 作:三寸法師
〜1〜
しかし、貞宗は礼法にも通じた人物だった。相応に自負するところがあっても、凡百と同じように
この先どれだけの年月を当世で過ごす事になろうと、この俺がそうした精神面で生前の小笠原貞宗に追いつける気はしなかった。
「
「……止してくれ、
「
まるで豆腐人間のような見た目の政長の言葉に、眉を顰める。
顔面こそ奇形そのものだが、技術は確かに
逆説的に二百年程が経った頃には信濃国で諏訪氏が復調していたようなものだと察しが付くからである。ただし、全面的に同意可能かというと話が別だ。何故か。諏訪頼継の経歴に理由があった。
「そんなに……大した人物なのか?諏訪頼継は?以前、既に英雄どころか
「……
「ははん……そういう事か。合点がいったぞ、
確かに今、諏訪頼継──そう言えば、ヤツは北朝帰順時に頼嗣と改名したと耳にした気がする──が信濃国の覇権奪還を狙うつもりであれば、武力に拠らないのも尤もな話だ。仮に再び南朝に降って幕府に反旗を翻しても、周辺諸国から討伐軍を招くのがオチだ。
七年前の北関東で北畠
然して、幕府に身を置き、徐々に顕在化しつつある師直派と直義派の内部争いを利用する手は有効だ。元敵将の汚名を拭うのは並大抵の苦労ではないが、それでも武力で幕府の大軍に抗うよりか幾分マシな筈だ。しかも、諏訪氏は元御内人だけあって、文官適性はそこらの田舎大名より高い。頼継にどれだけ統治能力が受け継がれているか知らないが、それ相応の後継者教育は受けているだろう。
つまり、政長より頼継の方が直義受けする公算は十分あり得る。
「眼中に無い故、気にしてなかったが……以前、頼継が直義派で褒められているのを聞いたような……?そう考えると厄介なのか」
「
「あいや、申し訳ない。あやふやな情報で……」
後頭部に片方の手を当て、俺はバツの悪さを身体の動きで表す。
空気が弛緩し、当代の佐々木惣領に信濃国への野心が無い証だと前向きに受け取ったのか、政長は気を取り直して言葉を選んだ。
「……いや、こんな状況でも我が父の顔を見に来て頂けただけでも有り難い。大抵の武将は今、小笠原貞宗の死どころではない故」
「!」
緊張の糸が張り詰める。たった一代で守護大名の基盤を成した偉大な父親を持った身としての政長のやり切れない思いが窺える。
名将が死んだにしては、京の小笠原邸を訪れる文武百官の数は妙に少ない。理由は明白だ。政長も理性で呑み込もうとしている。
「ご覧の通り……大名たちは殆ど皆、間近に迫る
「ああ……道理で」
日が暮れて、俺も政長も既に状況は把握している。どうにも渋川頼子が産気付いたらしく、吉良満義邸に身柄が移されたらしい。
わざわざ身柄を移すのは謂わゆる穢れを避けるためだ。直義邸は幕府の政庁機能を兼備していると言って良い。不気味なまでに実直な直義は本意でなかったかもしれないが、幕府で働く文官武将の心象を考え、妊婦を
「副将軍は……結局お越しになりませなんだな」
「左様。父上の死に関して幕府から沙汰は特にない。副将軍は御苦労にも
「それは……功績多数の名将より、妻が大事ですか。副将軍は」
何はともあれ、これで皆の関心は小笠原邸でなく、
小笠原邸では、弔問客をもてなすために用意された飲食物が寂しく大部屋の小脇に置かれていた。政長は忿懣遣る方無い様子だ。
「八つ当たりしても詮無い事は分かっている……分かっているが、どうにも納得できん。父上は偉大で天下に武名を馳せ、その死を幕府の武将の誰もが惜しむと思っていた。だが、折悪く副将軍の正室の出産と時期が被り……俺を含めて後顧を憂いざるを得んとは」
「……心中、お察し致す。
建武政権の途中までならまだしも、室町幕府の草創期の幾多の合戦を経て、貞宗の武名は完全に前
父親の偉大さという点で、俺は眼前の
幾許かの静寂が流れた後、政長が吹っ切れたように顔を上げる。
「父上は近年、好みの酒も控えなければならない程、身体が弱っておられた。もっと早くから
「
「そう。それこそ第一にすべき供養なり」
実のところ、
気付けば
〜2〜
まず一つ目は、直義が腫れ物を患った。これを聞いた時、俺は郎党たちの前で思わず、鼻で笑ってしまった。しかし、愉快さも続く報せのため、即座に吹っ飛んだ。直義の子が遂に産まれたのだ。
「それで、男か?女か?……どうした、早く答えよ!」
「……男にございまする」
「……あーあ!」
六角党たちは顔を見合わせ、俺はこめかみに手を当てて盛大な溜め息を吐く。これにて直義の政治生命は終わったも同然である。
自ら政治権力を手放さない限り、直義は副将軍の莫大な権限を実子に継承させる腹ではないかという讒言を招くだろう。尊氏様は義詮以降の将軍について考えねばならず、二頭政治の解消に踏み切らざるを得なくなる。ここに来て、擾乱のあらましが見えてきた。
「
「……は」
「俺の代わりに、現渋川家当主の
「これまた難しい御命を……承りました。こうした仕事は、直ぐ下の弟の我が役目と思っております。上手くやってのけましょう」
「うん。出来れば程度で構わぬからな?一先ずやってみてくれ」
公武の人々は皆が腹の内を隠し、直義の息子……如意丸の誕生に対して祝賀した。光厳上皇に至っては剣を与える有り様だった。
二十日近く経って、直義は漸く幕府の業務を再開する。この間、師直派の有力者たちは密会を催した。勿論、俺も参加していた。
「今のところ、母子ともに健康らしい。渋川頼子は四十二歳の初産で実に殊勝な事だ……
「本人が当日熱を出して
「そういう事だ、
直義夫婦の拠る吉良満義邸の様子に、誰もが関心を払っている。
この師直派の集まりにおいても幾らかの有力武将が盃を片手に、敵対派閥の浮き足立つ様子について、情報を
「それにしても
「おや。そう言えば、
「ええ、
赤松家の次男坊の
実際のところ、京極軍と吉良軍であれば、強さはそう大差ない筈である。にも拘らず、道誉はさも吉良軍が極めて弱く、そのために大敗を喫したのだと強調している。確かにあの戦で吉良軍が真っ先に損害のために退いたらしいが、道誉の言い草は腑に落ちない。
そもそも道誉の十八番は謀略であって、軍才は
「クク……弱将は、部下も同じように弱いって事だな。俺たちの足を引っ張るしか能がない。矢作川も続く合戦も吉良のせいで負けたようなもんだ……兄者。その気になれば、天狗たちをして吉良邸を全焼させられたんじゃねェか?まだ間に合うかもしれねェぜ?」
「酒が入り過ぎだ、師泰。忘れたか?吉良満義の好物を」
「好物……ああ、草だな。あれは武将ながらに草の者の真似事が好きな変人だ。そいつの屋敷に夜討ちは厳しいか。ひょっとして直義の野郎、俺たち将軍の忠臣の刺客を恐れて、奥方を吉良邸に入れたのかもな。雑兵上がりの桃井より世話は幾分出来るだろうしよ」
夜が深まり、師直派の酔狂な口振りは留まるところを知らない。
爆発するまで、それ程の時間は掛かるまい。直義の子の如意丸とやらが成長するにつれ、直義への敵意は一層増していくだろう。
斯く思う俺も、擾乱終了後の幕府の新体制を待ち侘びている。
足利直義も高師直も居なくなった後の幕政はどんなものになっているのだろう。きっと尊氏様御自らが軍政の采配をお執りになり、本物の幕臣たちが恩恵を享受している。早く今の日々が終わらないものかと思いつつ、俺は宴に身を置いて、唇に盃を押し当てた。
〜3〜
約二週間後の七月十一日、俺は要請に基づいて直義邸に赴いた。
「此度、呼んだのは他でもない。
「え゛え゛え゛え゛ん゛え゛え゛え゛え゛ん゛」
「ッ……」
突発的な耳への振動のため、俺は思わず憮然として顔を歪める。
今世の弟たちは例外だったが、基本的に赤子は得意ではない。
どうやらその事はすぐに直義に悟られたらしく、今となっては敵対派閥の武将である俺に対し、申し訳なさそうな顔をしている。
「済まないな。如意丸の泣き声は耳に障るか?」
「……いえ、お続けください」
「うむ……南近江の栗太郡に幕領の下笠郷という地があるのは知っておろう?あそこを本日、兄上の命という形で日吉大社に与える事にした。因幡国で先方に不都合な事があったため、その埋め合わせを行うためにな。他に加賀国の土地も複数与えるつもりでいる」
「……左様で」
日吉大社は知る人ぞ知る比叡山延暦寺の重要関係施設である。
というより、この時代では常識の一つだろう。何しろ山法師が強訴する際は日吉大社から神輿を持ち出すという事で有名なのだ。
「その事を……わざわざ私に伝えるために呼ばれたので?」
「ふ。お前は近江国守護で対延暦寺の第一人者だ。知らせておいた方が良いだろう?何ぞ土地関係で事を起こされては叶わぬしな」
「……それはそれは」
俺はじっと直義の方を見つめる。そうし始めて時間が経過する。
遠くの部屋にいるらしい如意丸が泣き止んだ頃、直義は観念したように首を横に振った。どうやら本当に別の用件があるらしい。
「
「!……敵将の名は?伊勢国の北畠顕能ですか?」
現在の伊勢国守護は勇将の仁木
しかし、直義はまたも首を横に振った。別の敵将が居るという。
「吉野方面の間諜から一報があった。楠木氏に挙兵の兆しありと」
「楠木……まさか
擾乱開始まで残り三年という最中、風雲急を告げる音がする。
思い出すのは、十年以上前。建武の新政が行われていた日々だ。
最後に会ったのは何時だろう。湊川合戦の後、尊氏様に連れられて河内国の楠木邸を訪れた時でなかったか。額に汗が滲み出す。
楠木