崇永記   作:三寸法師

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第拾伍章 壮烈たる小楠公
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〜1〜

 

 

 基本的に足利直義という人物は、贈品に良い顔をしない。副将軍という幕府の大権を握る身として賄賂を決して受け取らないように努めているからだ。たとえ返しそびれ床に転がる一粒の菓子でも、横領(摘み食い)すれば罪悪感で三日も寝込む姿を派閥メンバーが見る程に。

 しかし、待望の実子・如意丸が産まれた日……貞和三年(西暦1347年)六月八日は違った。古典『太平記』によれば、皇族や公家・幕臣たちは直義の元へ、先を争うように引き出物を贈り、賓客はひっきり無しで、世俗の別を問わず、道に人々が野次馬となって充満したという。

 

 

「凄ぇな。こりゃ、侍所の連中にも警備させねェと危ないぜ」

 

 

「桃井殿。流石にここまでは想定外なのでは……」

 

 

「返す言葉もありやせん……ですが、直冬様。あの進物のどデカい山や人々の大群……公正な副将軍にして稀代の名君・直義公への信頼の現れでしょう。それはきっと同時に御子への期待です。如意丸様は大果報の御方……あ。あんた様にも皆、期待してますぜ?」

 

 

「……いえ、桃井殿。良いのです。如意丸殿が産まれて、肩の荷が降りた気分です。やはりオレに直義様の子は……荷が重かった」

 

 

 上洛より幾年も経ち、直冬は実父・尊氏の変顔や師直派の嘲笑に晒されてきた。見かねた直義の養子に迎えられても、それはそれで却って非直義派の偏見に拍車を掛け、肝心の直義派からも武力の象徴と見做されるようになり、居住まいが悪くなるばかりだった。

 如意丸が産まれても依然、直冬が義父(足利直義)の派閥の武力的拠り所である事に変わりないが、それでも将来の権力を握る立場でなくなったお陰で、様々な意味でのプレッシャーから解放されるに至った。

 

 

「お互い、如意丸殿の御誕生を喜びましょう。桃井殿……次代将軍は義詮様で、副将軍は御成長された如意丸殿。オレは遠く地方で敵なり賊なりを討伐できれば満足です。元々、一人の武士として名を上げたい一心で上洛した身故……これぞ我が本意です。桃井殿」

 

 

「直冬様……その心意気、感服しやした。俺は九年程前から直義様を御守りすべく京におります。ですが、いずれは直義様の御子たちを守り抜くため、力を奮わむ……これが男・桃井の誓いですぜ」

 

 

 この二人は、まもなく始まる室町幕府軍と南朝最強武将・楠木(まさ)(つら)との合戦においては特に何も働いた形跡がないものの、いずれは足利尊氏にとって最大級の強敵として、京へ攻め入る事になる。

 勿論、かつての諏訪頼重のような未来視でもない限り、当時を生きる人々にそんな宿命を知る由はない。とはいえ、誰もが後の災禍に思い至らず、嘴を揃えて如意丸を「大果報の人」と呼んだとする古典『太平記』の皮肉は、どこまで信じられるべきものなのか。

 閑話休題。翌々月になり、桃井直常も足利直冬も驚いた。内々に楠木正行(まさつら)たちの不穏な動きを聞き、張り切り始めていただけに。

 

 

「さ、佐々木氏頼……あの狂将を討伐軍に加えるのですか!?」

 

 

「そうだ、直冬。あれと正行(まさつら)は幼馴染だ。それに、細川軍がずっと前に正行(まさつら)抜きの楠木党と戦い、苦渋を舐めた。今回、いよいよ若き当主の正行(まさつら)が出て参るとなれば……北朝は若手最強武将を以て軍の力を増強し、南朝最後の希望を打ち砕く。氏頼(大夫判官)は早速、西近江の分家の朽木氏に、二十日にも出兵できるよう準備をと命じている」

 

 

「いや、しかし……」

 

 

「直義様。お忘れですかい?六角は幾月か前、将軍執事の命令で、湖上輸送の違乱を取り締まって師直派再転向の姿勢を明確にしたばかりでございやす。起用は……慎重になった方がよろしいかと」

 

 

 もし前線へ送り込んで手柄を立てさせれば、師直派の勢いを助長するのではないか。今となっては九年前の般若坂合戦の後、高兄弟に軍功を認められず、恨み骨髄ともされる直常(桃井播磨守)が懸念を示した。

 勿論、頭脳明晰な直義は、驍将ではあれど知恵が今一つな直常(桃井播磨守)の抱く考え程度、既に理解済みだ。諭すような口調で二人に告げる。

 

 

「直冬、桃井。勢力争いとは、流動的な者を如何に取り込めたかで勝負が決まるものだ。どれだけヤツが二転三転しようとも、諦めた時点で決定的に、師直の後塵を拝してしまう。佐々木一族の嫡流筋の氏頼(大夫判官)は代々の近江国守護で、兄上の烏帽子子……九年前は飛び抜けて謀略巧みな京極(佐々木)道誉(佐渡判官)から短期間で守護職を奪い返した傑物だ。心得ておけ、氏頼(大夫判官)を味方にした者が本当の意味で京を制すると」

 

 

「何と……義父上がそこまであいつを買っておられたとは」

 

 

 実際、内政では断固毅然とした態度の直義だったが、氏頼(大夫判官)に関しては不正や暴行があっても、それだけ軍政面で味方にしたいと思わせるものがあったのだろうか、()()()()()……対応が甘かった。

 尤も、氏頼(大夫判官)の人物像について後世でも見解が別れるが、直義の勧誘もあって、繊細な氏頼(大夫判官)が苦しんだと見る向きもあるにはある。

 だが、ここに居るのは須く当事者である事を忘れてはいけない。

 皆が未知の時代を手探りで生きている。聡明な直義も然りだ。

 

 

「それにな、直冬。確かに佐々木氏頼は……私やお前、それに赤子の如意丸にまで厳しい目を向けているようだ。だが、その根底にあるのはひとえに兄上への狂信とも呼ぶべき忠誠……いや、崇拝だ。今になって師直派に属しているのも、兄上や義詮殿を思っているからこそだろう。我が派閥の者たちの手前、あまり大きな声で言える事では決してないが、氏頼(大夫判官)の姿勢を責めるつもりは毛頭ないぞ」

 

 

「……氏頼(大夫判官)は、高兄弟たちと違って野心がないと」

 

 

「崇拝……塩冶の事件でオレが見た六角の異常性はそのせいで……」

 

 

「そもそも……私は遠からず必要となる楠木正行(まさつら)鎮圧部隊に師直派を相当数組み込むつもりだ。こんな事で派閥争いの形跡を敵に晒す訳には参らぬからな。師直軍からも猛将を参陣させる気でいる」

 

 

「「!?」」

 

 

 古典『太平記』には正行(まさつら)討伐軍の陣容が事細かに記されている。

 正行の敵は決して直義派だけではなかった。佐々木六角氏頼の党以外にも、名将(赤松円心)の子の赤松兄弟(範資&貞範)将軍執事(高武蔵守師直)直属部隊最強の安保直実といった者たちが総大将に従い、河内国へ赴く見込みとなった。

 その総大将とは、従四位下・細川顕氏である。昔年の顕家軍撃滅に多大な貢献をした名将として、今や幕府(足利政権)でも指折りの存在だ。

 貞和三年(西暦1347年)七月、室町幕府は南方における楠木氏の動静を察知し、討伐軍を編成して着々と正行(まさつら)鎮圧の準備を進めようとしていた。

 

 

 

 

 

〜2〜

 

 

 

 

 

 一方その頃、東北地方でも南北両朝の趨勢に変化が見られた。

 既に昨年(貞和二年)末に亡き南部師行の弟*1が投降していたが、ここに来て幕府武将の複数*2が出陣し、南朝方の城に波状攻撃を仕掛けた。

 

 

「な、あの妖艶な女性画の旗……石塔軍か!」

 

 

「如何にも。京の将軍の命を受け、この元北朝奥州総大将の石塔義房が南朝の権中納言・北畠顕信を討ちに参った!当家の女神である満子ちゃんの御前ぞ!即刻成敗してくれん!皆の者、掛かれ!」

 

 

 七月下旬、霊山城をはじめとする南朝諸城が相次いで陥落した。

 規格外貴族の顕家の猛威からおよそ十年が経ち、東北地方における北畠氏の威光は風化の一途を辿っている。白河結城氏や南部家の生き残りは続々と北朝へ降り、伊達家からも離反者が続出した。

 無論、全員が全員ではなかったものの、尊氏による土地の利権をチラつかせた調略は実に巧みで、遠方の武将にも効果的だった。

 

 

『伊達、結城。そこの南部も……今夜一晩、共をせよ。言葉責めの引き出しを増やしたい……夜通し正座で、余の罵倒を拝聴せよ』

 

 

「……顕家卿」

 

 

『慣れる。獣と同じ餌に慣れねば、獣の気持ちは分からんからな』

 

 

「顕家卿……申し訳、申し訳ございません……ッッ!」

 

 

 齢五十過ぎの老将が摂河泉の方面……十年近く前の北畠顕家戦没地の方角を向き、額を床に擦り付け、書状を握り締めて涙する。

 名将・伊達行朝(宮内大輔)この翌年(西暦1348年)に死んだとされているが、最期まで南朝方であったとも、北朝へ帰順していたとも言われている。どちらにせよ、伊達行朝(宮内大輔)の目立った軍事活動は、既に期待できないものとなっており、亡き主君(北畠顕家)の悲願を成就できない状況にさぞ疲弊し切っていただろう。名将だからこそ、悲嘆は大きかったに違いない。

 劣勢において、衰えた自分への絶望はどれ程のものであったか。

 さて、奥州の戦況はやがて遠く離れた吉野朝廷へと伝わった。

 

 

「親房。汝の次男・顕信が霊山城より命からがら落ち延びたるは、不幸中の幸いだった。朕も安心したぞ。それにしても、石塔義房に斯くも力があったとは。その嫡子・頼房も幕府でたいそう有望視されていると聞いた。足利政権にはどれだけの人材が居るのやら」

 

 

「……帝。南朝の人材も尽きてはおりません。既にご存知の通り、近く楠木氏が蜂起する手筈にございます。奥州の南朝軍の呼応は難しくなってしまいましたが、逆に九州の情勢は悪くありません」

 

 

「懐良か。征西大将軍としてよくやってくれている。だが、あまり急かして仕損じさせたくない。金ヶ崎の二の舞だけは避けねば」

 

 

 後村上天皇は、親王時代に耳にした長兄(尊良親王)の最期を思い出した。

 金ヶ崎城陥落の間際、敵兵が迫る前に新田家嫡男の義顕(越後守)と共に率先して自害した……という話が()()()()()()に流布されている。

 

 

「は……親王殿下があのような悲惨な最期を遂げられる事、二度とあってはなりません。ですが、帝。九州で征西大将軍の軍威が高まれば高まるほど、北朝は動揺し、楠木軍の挙兵がより効果的に」

 

 

「……そうだな。親房、汝こそ南朝の総帥だ。顕家の悲願はその実の父である汝の手に掛かっておる。正行(まさつら)には以前、先帝の御手元にあった楠木流兵法書を託した。あれから八年、さぞ読み込んで体得してくれた筈だ。当代の軍神としての活躍を期待したいものだ」

 

 

 南朝首脳陣の楠木正行(まさつら)に対する期待は途方もなく大きかった。

 この時、後村上天皇は失念していた。君主による大き過ぎる期待は時に罪深く、残酷に臣下を追い詰めてしまうものである事を。

 今にも始まろうとしている小楠公伝説は、そうした罪深さであったり残酷であったりを元にして、形成されていったものである。

 

 

 

 

 

〜3〜

 

 

 

 

 

 どうやら勘付かれているらしい。正行(まさつら)はそう弟たちに告げた。

 軍神(楠木正成)の次男の正時も、特段若い三男の正儀(まさのり)もゴクリと息を呑む。

 

 

「京周辺から天王寺に掛けての物資の流れが不自然と思って探らせてみたところ、アタリだった。敵の軍が遠征の準備をしている」

 

 

「敵……兄者。その数は?討伐軍の構成武将は予想通り──」

 

 

「ああ。細川顕氏が総大将、これに近江国守護の佐々木六角氏頼、百戦錬磨の赤松範資・貞則らが加わり、三千騎以上の見込みだ」

 

 

「……さ、三千?」

 

 

「思ったより少なくござるな。正行(まさつら)兄者」

 

 

 正時にしろ正儀(まさのり)にしろ拍子抜けという言葉が似合う困惑振りだ。

 現当主の正行(まさつら)を含め、彼らの父親である軍神・楠木正成の全盛期とのギャップに直面したのだ。五万騎または十万騎と言わずとも、二万騎から三万騎規模の討伐軍の襲来を見込んでいたのである。

 足利幕府は若い自分たちを舐めているのではないか。そう正時は憤慨してみせる。しかし、意外にも末弟の正儀(まさのり)がこれを嗜めた。

 

 

「敵将たち……とりわけ直義は弱将との評判あれど、幕府の誰よりも頭脳に秀でています。きっとこの約十年、本人なりに楠木流兵法を研究していたに相違ござらぬ。三千余騎の軍がその証拠です」

 

 

「つまり……正儀。小回りが効かなくなる事なく、さりとて我ら楠木軍を数で圧倒できる。そう思っての敵軍三千余騎であると?」

 

 

「正に。兵は多ければ多いほど良いというものでも無し。総大将の細川顕氏(陸奥守)が最も扱い易い数を与うべし。敵は中々考えてござる」

 

 

 正行(まさつら)や正時だけでなく、末弟の正儀(まさのり)も後の実績を鑑みても十分に切れ者だった。むしろ、見方によっては正儀こそ、軍神・楠木正成の才能を最も色濃く受け継いでいた武将と言えるかもしれない。

 三兄弟の次男の正時は、末弟(正儀)の聡明さに感服の溜め息を溢した。

 

 

「得心した……兄者、正儀はやはり知恵が効きます。次の戦でも従軍させれば、きっと有用です。まだ十代なのは承知の上で、顕家軍における時行殿の如き活躍が期待できます。考え直しては──」

 

 

「……いや、有用だからこそ後方支援に徹して貰いたい。正儀が後ろにいてくれれば、その分だけ我らが思い切り戦える。戦の相手は総大将の細川顕氏(陸奥守)以外にも、国を代表する勇猛の持ち主が少なくないんだ。後顧を憂いながら戦える相手ではない……特に氏頼(大夫判官)は」

 

 

 決して大軍ではないが幕府の精鋭揃いにつき、油断は禁物だ。

 その事を正行は重々承知している。細川顕氏対策は十年も前から配下の武将たちが対峙していただけあって、万全に近い。しかし、歴戦の赤松範資・貞範の兄弟は勿論、未だ底の知れない佐々木六角氏頼は、どれだけ準備を進めていても憂慮の対象になっている。

 

 

「細川顕氏、範資・貞範兄弟、佐々木六角氏頼。どの将も決して今まで無敗という訳ではなかった。しかし、彼らに土をつけた武将はいずれも天下の名将。また、顕氏(陸奥守)は強き粘り腰で連敗回避に優れ、氏頼(大夫判官)本拠地(佐々木城)での敗戦歴も元服前の事だから今や無いも同然だ」

 

 

「……逆に申せば、兄者。彼らを倒せば、兄者は新田義貞や北畠顕家卿にも匹敵する英雄級の将として、天下に名を馳せられます」

 

 

「……そうだ。まず緒戦できっちり、彼らを撃ち破ろう。何としてでも足利尊氏を倒す。緒戦の敵はそのための試金石であろうよ」

 

 

 楠木正行(まさつら)が英雄として名乗りを上げるための戦は目前である。

 その決意は固く、敵将と刺し違えようとしているのかという程の気迫に満ち溢れている。正行(まさつら)は白紙に包まれた漆黒の(やじり)を高々と上に掲げ、じっとこれを見つめる。正時や正儀(まさのり)も同様に凝視した。

 

 

「顕家卿、東国出身の将士諸兄、時行殿の娘軍師よ……貴方たちの犠牲を無駄にはしません。我ら楠木兄弟が必ずや仇を討ちます」

 

 

「最も狙うべきは……近江国守護・佐々木六角氏頼」

 

 

「正行兄者、正時兄者。御武運を。どんな策も軍神・楠木正成公の武名が肯定してくださいます。我ら兄弟こそ父上の子。北朝征夷大将軍の烏帽子子を討ち、証明するのです。軍神は今再び天下に再誕したと。北条に続き、足利の政権が軍神台頭を以て破綻します」

 

 

 南北朝時代が始まって十年余り。北畠顕家や新田義貞の両英雄の戦死以来、南朝の勢いは既に見る影もなくなっていたが、いつまでも黙ったままではいなかった。正行(まさつら)の活躍で波乱の幕は上がる。

 正平二年(西暦1347年)八月十日、楠木正行(まさつら)が挙兵して紀伊国隅田城を攻撃。

 楠木正行(まさつら)という新たなる軍神が天下を震撼させようとしている。

*1
南部政長。顕家遠征時は東北地方に残り、兄の留守を預かっていた。南朝の元号で言う正平元年(西暦1346年)に北朝転向を果たしたが、正平四年(西暦1349年)三月には南朝軍に復帰した。

*2
石塔義房以外に、吉良貞家や畠山国氏という武将が討伐に参加した。

貞家は、吉良満義の三従兄弟。建武三年(西暦1336年)春、佐々木六角千寿丸より前に東海地方で北畠顕家の上洛軍と交戦し、敗れていた。

畠山国氏は、元伊勢国守護・高国の息子。吉良貞家と共に奥州管領を務めた。国氏の息子は名を国詮と云い、二本松氏の祖となる。

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